第34話 今行く
目覚ましより先に目が覚めた。主人公は枕元の紙を取り、昨日書いた住所をもう一度読む。
「行く」
立って時計を見る。まだ早い。座り直したが、数分でまた立った。待つくらいなら、先にできることをする。
宿泊室を出て受付で退室を告げ、そのまま行政窓口へ向かった。
「何時から行っていい?」
「おはようございます」
「昨日やった」
「挨拶は一日一回で消費するものではありません」
「おはよう。何時」
訪問に適した時間までは、あと四十分ほどだった。
「歩けばちょうど?」
「駅までなら」
「住所まで」
「数時間かかります」
「走れば」
「もっとやめてください」
主人公は考えた。
「じゃあ電車。乗り方教えて」
駅名、路線、乗換駅が新しい紙に書かれていく。線の色を指で追うと、地下の配管図に少し似ていた。
「これで姉ちゃんの近くまで?」
「はい」
「姉ちゃんも乗ったことあるかな」
「それは私には分かりません」
「本人に聞く」
「そうしてください」
その答えが、もう特別なものではなくなっていた。分からないことは勝手に決めず、本人に聞く。
窓口を離れようとすると、職員に呼び止められた。
「地下側への連絡はどうしますか?」
主人公の足が止まる。姉に会える時間は近づいている。それでも、地下では養父が自分の帰らない時間を数えているかもしれない。
「……今、俺が話す」
音声回線を借りた。雑音の向こうから、聞き慣れた声がする。
『もしもし』
「俺」
『分かってる』
「姉ちゃん、生きてた」
向こうが黙った。
「生きてた」
『……そうか』
「うん」
『そうか』
二度目は、少し違う声だった。
「今から会いに行く。住所も分かった」
『帰ってからじゃなくていいのか』
地下へ帰り、報告し、準備してからでも行ける。それでも主人公は紙を握った。
「今行く」
『そうか』
「怒らない?」
『何をだ』
「今日は帰らない」
『なら、今日は帰らないんだろ』
「……うん」
『飯は食え。金は』
「少しある。足りなかったら支援使う」
口にして、自分でも少し驚いた。支援を使うことは今も好きではない。それでも、嫌だから使えないとはもう思わない。
『姉さんに会ったら、まず顔を見ろ。話はその後でいい』
「分かった」
『本当に?』
「たぶん」
『分かってないな』
「切る。行くから」
少し間があった。
『……行ってこい』
回線が切れた。
窓口へ戻る。
「経路、持ちました?」
「ある」
「住所は」
「ある」
「身分確認書類」
「ある」
「迷ったら?」
「駅で聞く」
職員が笑った。
「成長しましたね」
「前も聞いてた」
「怒りながら」
「今も怒ってる」
「そうですね」
主人公は扉へ向かった。ここで姉を見つけた。嫌いな制度も、長い待ち時間も、紙も番号も、その全部を通って、記憶の中にしかいなかった姉へ道が繋がった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「もう来ない」
「手続きが残っています」
「最悪」
外へ出る。
地下へ帰る道も残っている。養父も寝床も、自分の場所もなくなってはいない。帰ろうと思えば帰れる。
主人公は一度そちらを見てから、姉の住所を開いた。
「今行く」
地下へは戻らなかった。
駅は想像より大きく、人の流れがいくつも交差していた。主人公は案内板の前で止まり、経路の紙と見比べる。
「分かんない」
以前なら適当な方向へ歩いたかもしれない。今日は近くの駅員を探した。
「これ、どこ」
紙を見せると、ホームと乗換駅を教えてくれた。
「間違えたら?」
「降りて戻れます。分からなければ、また聞いてください」
「戻れる?」
「はい」
主人公は一瞬だけ別の意味でその言葉を聞き、それから小さく笑った。
「何でもない」
改札を通り、階段を下りる。線路は地下にもあった。けれど、ここでは暗い坑道を自分の足で歩く必要はない。
線路の先から光が近づいてくる。
姉のいる方角へ、自分を運ぶ電車が来る。
主人公は帰らなかった。
ホームの線の内側に立ち、近づいてくる光を待った。




