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第33話 十八年


 翌朝、主人公は窓口が開くのを待って、昨日と同じ席へまっすぐ向かった。


「住所」


 職員は端末から顔を上げる。


「おはようございます」


「住所」


「まず挨拶を」


「……おはよう。住所」


 職員は少し笑った。


「確認が取れました」


 主人公の身体が机へ寄る。


「どこ」


「その前に、開示できる情報を順番に確認します」


「また?」


「昨日は移行申請の理由を知りたがっていました」


「今日は住所」


「明日は?」


「会う」


「予定が早いですね」


「十八年遅い」


 職員は一度口を閉じ、それから小さく頷いた。


「……そうですね」


 画面に、これまで追ってきた記録が時系列で並んだ。


 保護施設。生活移管。そこまでは昨日までにも見た。その先に、主人公の知らない項目が続いている。


《教育登録》


「学校?」


「はい。在籍記録があります」


「姉ちゃんが?」


「そうです」


 主人公は表示された年代を指で追った。


 その頃、自分は地下で何をしていただろう。配管の音を聞き分けることを覚えた頃かもしれない。食料庫から何かを盗んで怒られた頃かもしれない。


 同じ時間に、姉は学校へ通っていた。


「次」


《資格取得》


「これ何」


 職員が説明した。地上では珍しくない職種に必要な資格らしい。


「姉ちゃん、これできるの」


「取得記録がありますから、少なくとも資格要件は満たしたのでしょう」


「俺できない」


「比較しなくてもいいのでは」


「してない」


「今しました」


 主人公は画面を睨み、すぐ次を促した。


《就労登録》


「働いてる?」


「現在も勤務記録があります」


「どこ」


「勤務先そのものの開示には制限があります。職種区分までなら確認できます」


「弟なのに?」


「弟でもです」


「またそれ」


「またです」


 職種を聞いた。


 想像していたものとは違った。もっとも、主人公は姉が働く姿そのものを一度も想像したことがなかった。


 記憶の中の姉は、いつも自分より少し前にいる。手を引いて、振り返って、何かを言っている。


 仕事へ行く姉も、給料を受け取る姉も、疲れて帰る姉も、その記憶のどこにもいなかった。


「次があります」


 職員の声が少し慎重になった。


《生活単位登録》


「何それ」


「世帯情報です」


「姉ちゃん、一人?」


「いいえ」


 主人公の視線が止まる。


「誰と」


「現時点で開示できるのは関係区分までです。継続的なパートナー関係が登録されています」


 主人公はすぐには返事をしなかった。


「……結婚した?」


「法的な区分は少し違いますが、生活上は近い関係と考えてください」


「いつ」


 日付を聞く。


 その年、自分が地下で何をしていたのか、今度は思い出せなかった。


「俺、知らない」


「そうですね」


「姉ちゃんも、俺のこと知らない?」


「それは記録では分かりません」


 昨日なら、その空白を勝手に埋めていたかもしれない。


 忘れた。探さなかった。捨てた。


 どれも今は書けない。


「次」


 職員が少し間を置いた。


「家族関係の記録が、もう一件あります」


「俺?」


「あなたではありません」


 主人公は眉を寄せた。


「言って」


「子の登録があります」


 言葉の意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。


「……子?」


「はい」


「姉ちゃんの?」


「はい」


「子供いるの?」


「記録上は」


 主人公は立ち上がりかけ、何をするでもなく座り直した。


「俺、何になる」


「続柄で言えば、叔父ですね」


「おじ」


「はい」


「俺が?」


「お姉さんのお子さんなので」


 理屈は分かる。分かるのに、自分とその言葉がまるで繋がらなかった。


「知らなかった」


「そうですね」


「十八年って、そういうの?」


 職員は答えなかった。


 答えがないのではなく、たぶん答える種類の質問ではなかった。


 主人公は一度外へ出た。


 朝から聞いたことが頭の中で順番を失っている。


 姉は生きている。移行した。学校へ行った。資格を取った。働いている。誰かと暮らしている。子供がいる。


「多い」


 思わず声に出た。


 十八年が長いことは知っていた。数字としては、何度も聞いた。


 けれど十八年は、空白の長さではなかった。


 姉が自分の知らない場所で過ごした、十八年分の人生だった。


 公園を横切ると、小さな子供が二人、遊具の周りを走っていた。主人公は足を止めた。


 姉の子供。


 どんな顔をしているのだろう。


 人間なのか。共生人なのか。どんな身体で、何が好きで、姉を何と呼んでいるのか。


 頭の中で形を作りかけて、やめた。


「知らない」


 昨日、《強制》と書くのをやめたのと同じだった。


 まだ会っていない子供の姿を、自分の都合で決める必要はない。


 午後、窓口へ戻った。


「住所」


「はい。今度はそこです」


 職員が画面を切り替える。


「本人への連絡可否確認が取れました。直接訪問に必要な範囲の情報を開示できます」


「会える?」


「訪問することは可能です」


 住所が表示された。


 地名。路線。駅名。番地。


 主人公は黙って読み、紙へ一文字ずつ写した。これまでにも番号を書いた。今日は同じ数字と文字が、姉のいる場所まで続いている。


「遠い?」


「ここからなら公共交通を使うのが現実的です」


「歩く」


「おすすめしません」


「走る」


「もっとおすすめしません」


「電車嫌い」


「乗ったことは?」


「ない」


「では、まだ嫌いか分からないのでは」


「地下の線路なら歩いた」


「それは電車利用ではありません」


「知ってる」


 住所を書き終えた主人公は、紙を折らずに持ったまま立った。


「今行く」


「待ってください」


「何」


「訪問可能な時間があります」


「姉ちゃんだよ」


「はい」


「俺、弟」


「はい」


「会うのに時間いる?」


「十八年ぶりなら、なおさら必要ではありませんか」


 主人公は返事を失った。


 自分にとっては、五歳のとき離れた姉だ。


 けれど相手は、学校へ行き、働き、誰かと暮らし、子供を育てている。その生活の途中へ、自分は突然現れる。


「今日は?」


「連絡確認上、明日以降が適切です」


「今日、生きてる」


「はい」


「住所もある」


「はい」


「なのに明日」


「はい」


「遅い」


 職員は否定しなかった。


「十八年待ったので」


「だから一日も待ちたくない」


「そうでしょうね」


 その一言だけで、主人公は少し黙れた。


 夜、宿泊室で紙を広げる。


《生きてる》

《本人申請》


 その下へ、今日知ったことを書き足した。


《仕事》

《パートナー》

《子供》

《住所》


 昨日までは、姉を見つければ、五歳の自分が手を離したところから続きを始められる気がしていた。


 違う。


 止まっていたのは、自分が知っている姉だけだった。


 姉の時間は、その先を十八年も進んでいた。


 主人公は最後に書いた住所を指でなぞった。


「明日」


 明日、自分は姉を探しに行くのではない。


 十八年を生きた、今の姉に会いに行く。

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