第32話 本人申請
翌朝、主人公は窓口へ来るなり、昨日の紙を机に置いた。
裏側には自分の字で《生きてる》と書いてある。番号を確認するための紙だったはずなのに、今はそちらの一行の方が大事に見えた。
「昨日書いた」
「見れば分かります」
「消えてない」
「インクなので」
「姉ちゃんも?」
職員は少しだけ間を置いた。
「昨日確認した生存記録は変わっていません」
「今日も生きてる?」
「新しい死亡記録はありません」
「じゃあ生きてる」
「はい」
「よし。続き」
紙をしまうと、職員が端末を主人公から少し見やすい角度へ動かした。
「今日は、過去の移行関連記録から確認します」
「されたやつ?」
「先に記録を見てください」
「されたんだろ」
「だから、まず見ます」
表示されたのは《移行処置意思確認》という古い書類だった。本人欄には姉の名前がある。その下の回答を読んだところで、主人公の指が止まった。
《本人意思:拒否》
「拒否」
「はい」
「姉ちゃんが?」
「これまで追跡してきた記録と同一人物として接続されています」
「いつ」
「分離後、保護下にあった時期です」
年齢を聞く。主人公の記憶にいる姉よりは大きくなっていた。それでも、まだ子供だった。
「嫌だったんだ」
「その時点では、移行を拒否した記録です」
「同じだろ」
「何とですか」
「今も」
「今の意思は、この記録からは分かりません」
「変わるわけない」
職員は反論せず、次の記録を開いた。
《意思確認継続》
《本人意思:拒否》
さらに次も拒否。その次には《処置見送り》とある。
「何回あるの」
「複数回です」
「じゃあ、ずっと嫌だった」
「少なくとも、この期間は拒否を継続しています」
主人公は画面から目を離さなかった。
昨日まで、生きていると分かっただけでよかった。今は、その生きている姉が何をされ、何を選んだのかが目の前に積み上がっていく。
「なのに今は共生人なんだろ」
「現在の身体状態については、そのように記録されています」
「じゃあ、どっかでやられた」
職員の指が止まった。
「次の記録を見ますか」
「見せて」
日付が数年飛んだ。
新しい書類の表題は《移行申請》。主人公は一度読んでから、職員の顔を見た。
「誰が出した」
「本人です」
「違う」
「申請者欄は本人になっています」
「誰かが代わりに書いたんじゃないの」
「電子本人認証があります。当時の制度では、申請後にも複数段階の本人確認が必要です」
「脅されたら?」
「記録だけでは分かりません」
「騙されたら」
「それも分かりません」
「強制されたら」
「この申請書だけで完全に否定することはできません」
主人公はすぐに言った。
「じゃあ、やっぱり」
「ただし、続きがあります」
職員が記録を並べる。
《初回申請》
《意思確認》
《待機期間》
《再確認》
《本人申請継続》
《医療適応確認》
《最終同意》
一枚の書類ではなかった。日付も同じではない。主人公が上から下まで読み終えるまで、職員は何も言わなかった。
「全部、姉ちゃん?」
「同じ本人認証が連続しています」
「何でこんなに多い」
「強制移行が問題になった後の制度だからです。申請したその日に処置、という仕組みではありません」
「途中で嫌って言えた?」
「制度上は撤回できます」
「言わなかった?」
「この記録では、申請継続になっています」
主人公は椅子へ深く座った。
最初の《拒否》と、後の《本人申請》が同じ画面の中にある。どちらかが偽物なら簡単だった。けれど職員は、どちらも同じ人の記録だと言う。
「理由は」
「記載欄があります。ただし本人の情報なので、開示できる範囲を確認します」
「俺、弟」
「弟でもです」
「十八年探してた」
「それと、お姉さん自身の情報に権利があることは別です」
主人公は言い返しかけたが、机から手を離した。
「じゃあ確認して」
「します」
待っている間、主人公は何度も最初の拒否記録へ目を戻した。
拒否した。処置は見送られた。それが数年後には、自分から申請したことになっている。
「間違いじゃない?」
「記録上は本人申請です」
「その言い方、嫌い」
「正確なので」
「拒否してたのに」
「はい」
「何回も」
「はい」
「なのに自分で?」
「後年の記録では、そうなっています」
主人公は眉を寄せた。
「おかしいだろ」
「人の意思が変わること自体はあります」
「そんなの」
「ただし、お姉さんがなぜ変えたのか、そもそも本人が『変えた』と考えているのかまで、私が記録だけで決めることもできません」
その答えは気に入らなかったが、前ほど腹は立たなかった。
移行期の資料でも同じだった。強制した者がいて、止めた者もいた。被害に遭った移行者が、今の身体を自分のものだと言うこともあった。
片方を消せば簡単になる。けれど、簡単にしたものが本当だとは限らない。
「開示できます」
職員の声で顔を上げた。
画面に《申請理由:本人記載》と表示され、その下に短い一文だけが現れる。
《自分で決めたい》
「……これだけ?」
「今回開示できる部分は」
「何を自分で決めるんだよ」
「この一文だけでは分かりません」
「前に拒否したのも、自分で決めたんだろ」
「そう記録されています」
「じゃあ何で逆になる」
職員は少し考えてから答えた。
「本人に聞くのが一番正確だと思います」
主人公は黙った。
「会える?」
「現在情報の開示確認がまだ続いています」
「今日行きたい」
「まだ無理です」
「姉ちゃんに聞けば分かる」
「少なくとも、記録から推測するよりは」
主人公は画面に残る《自分で決めたい》をもう一度読んだ。
「されたのか、自分でやったのか」
「申請主体が本人だったことは確認できます。ただ、その申請に至った十八年の事情までは、この記録だけでは分かりません」
「なら聞く」
「はい」
昼、外へ出た。
昨日は《生きてる》という一行だけで、街が少し違って見えた。今日は同じ紙の余白へ《本人申請》と書き足す。
二つの言葉を並べると、姉が急に知らない人になった気がした。
「何で」
紙は答えない。
夕方、主人公はもう一度窓口へ戻った。
「住所は?」
「まだ開示確認中です」
「本人申請は?」
「記録は変わりません」
「拒否も?」
「変わりません」
「両方あるんだ」
「はい」
主人公はしばらく黙ってから聞いた。
「どっちが本当?」
「どちらも、その時点の記録です」
「また両方」
「また?」
「前にもあった。ひどかったのと、止めようとしたの。どっちもあった」
「そうですか」
「両方ばっか」
「十八年ありますから」
主人公は紙を指で挟んだ。
「十八年あったら、人って逆になる?」
「逆になったのかどうかも、本人に聞かないと分かりません」
以前なら、その答えを逃げだと思ったかもしれない。
今は少しだけ違った。
「拒否した人が、後で申請した。それは本当?」
「確認できる範囲では、はい」
「何でかは分からない」
「はい」
「じゃあ、そこまで」
主人公は立ち上がった。
「明日も来る。会えるようになるまで」
「分かりました」
「本人に聞く」
「それがいいと思います」
夜、宿泊室で紙を広げた。
《生きてる》
《本人申請》
その下に三つ目を書こうとする。
《強制》
最初の二文字まで書きかけて、ペンが止まった。
昔の自分なら、そのまま書いていた。
姉は拒否していた。なのに移行している。なら、誰かに強制された。それで終わりだった。
けれど今は、本人申請の記録も知っている。その理由をまだ知らない。
主人公は書きかけた線を見つめたあと、紙を裏返した。消したことにはしない。けれど、続きを書くこともしなかった。
「……本人に聞く」
姉が十八年のあいだに何を見て、何を嫌い、何を選んだのか。
それを知らないまま、昔の姉だけで今の姉を決めるのはやめた。




