第31話 生きている
朝、主人公は窓口が開くより少し前から建物の前にいた。
ポケットには、昨日書き写した番号の紙がある。待っているあいだに何度か取り出し、数字を上からなぞっては戻した。紙を見たところで照会が進むわけではない。それでも、手を入れるたび指がそこへ行った。
扉が開くと、主人公は最初に窓口へ向かった。
「これ」
紙を差し出す。
「昨日の照会番号ですね」
「変わってない?」
「番号は変わりません」
「そうじゃなくて。先」
「確認します」
職員が端末を開く。主人公は机の向こうを覗き込もうとして、「こちらでお待ちください」と椅子を示された。
「見ちゃ駄目?」
「ほかの方の情報も表示されるので」
「姉ちゃんのだけ出して」
「そういう画面ではありません」
仕方なく座る。
昨日までなら、待つ時間はただ邪魔だった。今日は違う。進んだ先に何があるのか分からないせいで、待っている時間そのものが落ち着かなかった。
十分ほどして、職員が顔を上げた。
「照会先から回答が一件来ています。ただ、同一人物確認を続けます」
「姉ちゃん?」
「その可能性が高い方です」
「生きてる?」
「まだ断定しません」
主人公は立ちかけた身体を椅子へ戻した。
「昨日は八か月後までいた」
「はい」
「今日はもっと先?」
「もっと先です」
「どこまで」
「確認が終わったらお伝えします」
それからが長かった。
廊下を一往復し、水を飲み、戻って時計を見る。ほとんど進んでいない。もう一度ポケットの紙へ触れたところで、窓口の職員が苦笑した。
「番号は逃げませんよ」
「確認してるだけ」
「朝から六回目です」
「数えるな」
「目の前なので」
主人公は紙をしまった。
「十八年って、こんなに長い?」
「生きるには長いでしょうね。記録を繋ぐにも長いです」
「画面で繋がってるだけじゃん」
「その画面の間で、住所が変わったり制度が変わったり、番号が変わったりしています」
「姉ちゃんは一人なのに」
「だから、一人の人だと確認しています」
昼前、端末から短い通知音がした。
主人公は反射的に立った。職員は「少し待ってください」と言い、届いた記録と昨日までの情報を見比べている。別の画面を開き、何かを入力し、また戻る。
「来た?」
「確認中です」
「何を」
「氏名、旧住所、家族関係、過去の保護番号。別人をお姉さんだと伝えるわけにはいきません」
「俺は困ってる」
「だから急いで間違えないようにしています」
言い返しかけて、やめた。
主人公は立ったまま待った。
やがて職員の手が止まる。
「確認できました」
今度は主人公が動かなかった。
「何が」
自分の声なのに、少し遠く聞こえた。
「お姉さんとみられる方の記録が、現在有効な登録まで連続して接続しました」
「現在って」
「今です」
主人公は机の縁を掴んだ。
「生きてる?」
「はい」
あまりに短い返事だった。
十八年分の空白に対して、たった二文字しか返ってこない。
「姉ちゃんが?」
「はい。現在、生存している方として登録されています。直近にも記録の更新があります」
「本当に?」
「氏名だけではありません。旧住所、家族関係、保護番号から現在記録まで連続しています」
主人公は椅子へ座った。
膝に置いた手が震えていた。寒くはない。職員が水を持ってこようかと聞いたが、首を振った。
「もう一回」
「はい?」
「生きてる?」
職員は今度も同じ調子で答えた。
「生きています」
その言葉を聞いて、ようやく息が抜けた。
「……ばか」
「何がです?」
「生きてるなら、何で」
そこから先はいくつもあった。
なぜ迎えに来なかった。なぜ探してくれなかった。なぜ地下にいない。十八年間、どこで何をしていた。
けれど、どの疑問も今までとは意味が違った。
本人に聞けるかもしれない。
「ばか」
もう一度言うと、今度は少し笑ってしまった。
職員が画面を操作する。
「現在記録について、開示できる範囲の確認を続けます」
「住所分かる?」
「順番に確認します」
「会える?」
「それもまだです」
「今日?」
「分かりません」
いつもの答えなのに、今日は腹が立たなかった。
「ちょっと外行ってくる」
「戻りますか?」
「戻る。続きあるから」
自動扉を抜けると、昨日と同じ街があった。車が走り、電車の音が遠くで響く。四本腕の人が荷物を抱え、透明な髪の人が信号を待っている。
世界の方は何も変わっていない。
「姉ちゃん、生きてる」
小さく言った。
もう一度言ってみる。
「生きてる」
今度は、ちゃんと意味があった。
気づけば病院の前まで来ていた。地上で知っている場所がまだ少ないから、足が勝手に向いたらしい。
受付で「今日は受診ですか」と聞かれ、「違う。ちょっとだけ」と答える。混雑したら席を譲る約束で待合に座っていると、以前採血したスタッフが通りかかった。
「あ。また来たんですか」
「うん」
「今日は怪我?」
「違う」
「体調悪い?」
「違う。姉ちゃん」
スタッフが足を止めた。
「見つかったんですか?」
「まだ会ってない。でも、生きてた」
一瞬の間のあと、スタッフが笑った。
「よかったですね」
「うん」
返事が勝手に出た。
主人公は自分で驚き、それからもう一度言った。
「よかった」
「それ、言いに来たんですか?」
「知らない。たぶん」
「そうですか」
「仕事?」
「仕事です」
「じゃあ行っていいよ」
「言われなくても行きます」
スタッフは笑ったまま仕事へ戻っていった。
昼は昨日と同じ店でパンを買った。たぶん味も同じだった。それなのに今日は妙にうまい。
午後、窓口へ戻ると職員が「お帰りなさい」と言った。
「続き」
「はい。現在記録の開示範囲を確認しています」
「その前に確認」
「何でしょう」
「姉ちゃん、生きてる?」
職員は一瞬だけ目を細めた。
「生きています」
「うん。じゃあ続き」
今度は聞き返さなかった。
住所も、今の生活も、なぜ帰らなかったのかも、まだ分からない。知りたいことは増えたのに、朝まで胸の中にあった焦りは少し形を変えていた。
夜、宿泊室へ戻る。
三日目になる天井は、もう知らない天井ではなかった。
主人公は枕元で番号の紙を広げた。事件番号と保護番号。その裏側に、ペンで一行だけ書く。
《生きてる》
字は少し曲がった。
書き直さず、そのまま枕元へ置いた。
明日になれば、また別の記録が出てくるかもしれない。どうして、どこで、何になって、何をしているのか。聞きたいことはいくらでもある。
けれど今日は、それを先へ急がなくてもよかった。
十八年前に途切れたと思っていた相手が、今も同じ世界のどこかで生きている。
主人公はその事実だけを抱えたまま、目を閉じた。




