第29話 休みの日
目を開けると、知らない天井だった。
「……どこ」
狭い部屋に机と椅子、窓が一つ。数秒かかって、昨日借りた宿泊室だと思い出す。
「あ」
地上。役所。姉。
時計を見た瞬間、主人公は跳ね起きた。
行政窓口まで急いだのに、入口の扉は開かなかった。取っ手を引き、もう一度引く。横の表示には《休業日》とある。
「何で!」
「閉まってますよ」
振り返ると、清掃用具を持った人が立っていた。
「昨日言ったと思いますけど」
「聞いてない」
「私は言ってません」
「じゃあ誰」
「知りません」
「いつ開く」
「明日です」
照会も担当部署が休みなら明日だろう、と言われた。
「今日一日?」
「一日ですね」
「何すればいい」
清掃の人は少し困ってから、「休んだらどうですか」と言った。
「昨日も待ってた」
「じゃあ今日も」
「待つ場所も閉まってる」
「外、開いてますよ」
主人公は建物の外を見た。
「広すぎる」
することがない。
本当に、何もない。
昨日までは地上を歩くにも理由があった。薬を探す。逃げる。追われる。店へ行く。警察へ行く。姉を探す。
今日は何をしても、姉の照会は進まない。
「最悪」
それでも街は普通に動いていた。店が開き、電車が走り、自転車が横を抜け、子供が歩いている。
角のある犬まで歩いていた。
「犬?」
飼い主が足を止める。
「犬ですよ」
「角ある」
「ありますね」
「普通?」
「この子は」
犬が主人公の匂いを嗅ごうと鼻を寄せる。主人公は半歩下がった。
「噛む?」
「人見知りです」
「俺も」
「そうですか」
飼い主は笑い、犬を連れて行った。
何も起きなかった。
公園で五分座った。耐えられなくなって歩き、店を覗いたが入らなかった。別の広場で十分座って、また立った。
「無理」
そこで病院が目に入った。昨日来た場所だ。用事はない。それでも地上で数少ない、知っている場所だった。
受付で「今日はどうしました?」と聞かれる。
「何も」
「受診ですか?」
「違う」
「お見舞い?」
「違う。来ただけ」
受付の人は困った顔をしたが、混雑したら席を譲るという条件で待合にいることを許してくれた。
病院は休日でも動いていた。患者が行き交い、車椅子が通り、子供が泣く。機械音の向こうを、昨日採血したスタッフが歩いてきた。
「あ」
「あ」
「昨日の」
「血取った人」
「その覚え方ですか」
「名前知らない」
「名札あります」
主人公は胸元を見た。
「読んだ」
「はい」
「仕事?」
「仕事です」
「今日、休みじゃないの」
「病院は全部休みにはできません」
「役所は閉まってる」
「役所なので」
主人公は少し黙った。
「姉ちゃん探せない」
「そうなんですね」
「何すればいい」
「私に聞きます?」
「他に知ってる人いない」
スタッフは考えて、散歩や食事を挙げた。散歩はもうした。食事はまだだった。
「食べた方がいいです」
「それだけ?」
「休みの日って、そんなものでは」
「役に立たない」
「誰が?」
「俺」
「今日?」
「うん」
「休みならいいんじゃないですか」
「よくない」
「難しいですね」
名前を呼ばれ、スタッフが振り返る。
「あ、行きます」
「待って」
「仕事なので」
「俺は?」
「休みなので」
行ってしまった。
「それが困るんだって」
昼は安いパンを買った。地上の支援でもらった少額の生活券を使うのはまだ気持ちが悪い。それでも腹は減るので、使って、食べた。
向かいの席では学生らしい二人がレポートの話をしていた。
「それ、新人類史のレポート?」
「その言い方やめて。古いって先生に言われた」
「資料タイトルがそうなんだよ」
「今書いたら減点されるやつ」
「共生史?」
「移行史じゃない? 範囲によるけど」
主人公の手が止まった。
「新人類」
二人がこちらを見る。
「はい?」
「今、言った。共生人のこと?」
「昔の言い方ですね」
「昔?」
「今あんまり使わないですよ」
「何で」
二人は顔を見合わせた。
「思想色強いから?」
「あと単純に古い」
「うちのおじいちゃん使う」
「お前のおじいちゃん何歳だよ」
二人は笑った。
「地下では使う。新人類」
「そうなんですか」
「変?」
「別に」
「古い?」
「まあ」
「どれくらい」
「古い映画で未来人のことそう呼んでそうな感じ」
「分かんない」
「ですよね」
二人はすぐレポートへ戻った。
主人公はパンを持ったまま、その言葉だけを口の中で転がす。
「新人類」
昨日まで敵の名前みたいに使っていた言葉が、ここではレポートで減点される古語だった。
「変なの」
午後になっても、何も起きなかった。
公園で、羽が一枚だけ透明な鳩を三十分見た。子供のボールが足元へ転がってきたので拾って返した。
「ありがとう!」
「はい」
それで終わった。
誰も襲わない。誰も追わない。誰も主人公をどこかへ連れていかない。
事件がなくても、時間だけは進んでいく。
夕方、病院の前を通ると採血のスタッフが出てきた。
「あれ」
「終わった?」
「終わりました」
「仕事」
「はい」
「役に立った?」
「今日はまあまあ」
「何人」
「数えてません」
「俺、今日ゼロ」
「何が」
「役に立った回数」
「数えるんですか」
「数えないけど」
「じゃあゼロか分からないですね」
「分かる」
「そうですか」
スタッフは帰るらしい。主人公は横に並んで少し歩いた。
「家?」
「はい」
「毎日?」
「だいたい」
「明日も?」
「仕事です」
「俺も役所」
「仕事じゃないですよね」
「姉ちゃん探す」
「じゃあ用事ですね」
スタッフが主人公を見る。
「今日は?」
「休み」
「なら、休めました?」
主人公は考えた。
歩いた。食べた。角のある犬を見た。病院に座った。学生の話を聞いた。透明な羽の鳩を眺め、子供へボールを返した。
姉のことは、一つも進んでいない。
「……分かんない」
「じゃあ明日分かるかも」
「適当」
「勤務時間外なので」
スタッフは手を振った。
「また」
「また?」
「病院来たら」
「怪我しないで来てください」
「病院なのに?」
「怪我しない方がいいです」
その背中が人混みに消えるまで見送った。
夜。宿泊室へ戻ると、朝と同じ天井があった。もう完全には知らない天井ではない。
姉については何も分からなかった。世界のことも解決していない。役に立った実感もない。
それでも一日は終わった。
「休みの日」
口に出してみる。
地下で、こんな日があっただろうか。何も直さず、何も守らず、何も探し当てないまま終わる日。
思い出せなかった。
明日は窓口が開く。照会が進む。
今日は進まなかった。
ただ、それだけの日を一日過ごした。
主人公は目を閉じた。




