第28話 開いた扉
「帰っていいです」
記録担当の男は、端末から目を上げずに言った。
主人公は返事をしなかった。机の端には、地下側の識別票と空になった紙袋、それから昨日まで預けていた細々した荷物が、返却済みの印をつけられて並んでいる。男が画面を一度スクロールし、ようやく顔を上げた。
「聞こえませんでしたか。あなたをここに留める手続きは、もうありません」
「……どこに帰っていいの」
「地下でも、ほかの場所でも。店と研究棟の件は捜査が続きますが、あなた自身の確認は終わっています」
逃げたのに、と主人公は思った。口にも出した。
男は肩をすくめるでもなく、「その件も含めて確認済みです」と答え、受領欄を指した。
署名をする。返された識別票を握る。いつもと同じ薄い板なのに、今日は妙に軽かった。
「これで終わり?」
「こちらでは」
主人公は椅子から立った。
閉じた扉まで三歩。昨日までは、向こうへ行くには誰かの許可が要った。今日は取っ手に触れても誰も何も言わない。
開ける。
廊下だった。
拍子抜けするほど普通の廊下を歩き、受付の警察官の横を通る。警察官は主人公を一度見たが、視線はすぐ手元の端末へ戻った。玄関の自動扉が近づくと、透明な板が左右へ滑った。
外気が頬に当たった。
主人公はそこで止まった。
空が広い。道路の向こうで配送車が信号を待ち、歩道では角のある女が飲み物を片手に誰かと話している。自分だけを見張っているものは、どこにもない。
一歩出る。
警告音は鳴らなかった。
二歩目。腕も掴まれない。
三歩目で、主人公は振り返った。自動扉はもう閉じている。近づけば、また開いた。
そのまま建物へ戻ると、受付の職員が怪訝そうに顔を上げた。
「忘れ物ですか?」
「違う。今、外に出た」
「はい」
「戻ってきた」
「見ていました」
主人公は扉を指した。
「止めないの?」
職員は一瞬だけ考え、それから「ここへ戻る用事があるなら、止めません」と答えた。
用事。
胸の奥に、ひとつだけ残っている。
「姉ちゃんの照会」
「それなら隣の行政窓口です。結果を待つだけなら、連絡先を登録して外へ出ても構いません」
主人公には地上で使える端末がない。貸与制度もあるらしいが、地下へ戻れば通信が切れる場所もあるという。
それを聞いた途端、帰り道が少し遠くなった。
もう一度外へ出る。
今度は建物へ戻らず、一つ目の角まで歩いた。曲がる。足音は自分のものだけだ。二つ目の角まで行っても、追ってくる制服はない。
試しに少し走った。
誰も追わない。
速度を落とす。胸が妙にざわついた。
地下へ帰れる。寝床も、配管の音も、空気の匂いも知っている。養父にはたぶん怒られる。それでも帰れば、今日からまた知っている生活に戻れる。
PANDEMONIUM BURGERへ行くことだってできる。
どこへ行くかを、誰にも決められていない。
主人公は交差点の手前で立ち止まり、来た道を見た。
「……待つか」
誰かに言わされたわけでもないのに、口にした瞬間だけ腹が立った。
隣の行政窓口へ戻ると、昨日の女がいた。主人公を見るなり、机の上の書類を一枚脇へ寄せる。
「照会は継続中です。まだ回答は来ていません」
先に言われた。
「ここで待つ」
「どうぞ。待合は誰でも使えます」
「保護対象だからじゃなく?」
「違います。ですから、途中で出ても戻ってきても自由です」
自由、という言葉がまた出た。
主人公は椅子に座った。
三分で立った。給水機まで行き、紙コップ一杯の水を飲む。戻って座り、今度は掲示板を端から端まで読む。読めない漢字を二つ飛ばす。それでも時間はほとんど進んでいなかった。
「まだ十二分です」
女が時計を見ずに言った。
「聞いてない」
「聞く顔をしていました」
「十二分、長い」
「昨日は四十分で同じことを言っていました」
主人公は黙った。比較されると負けた気がする。
貸与端末の申請書を一度受け取ったが、地下で確実に繋がる保証はないと聞いて返した。女は勧め直さなかった。
そのことも落ち着かなかった。
「何で追い出さないの」
「待つと言った人を、用もなく追い出す理由がないからです」
「仕事の邪魔なら?」
「今のところ、あなたよりコピー機の紙詰まりの方が邪魔です」
少し離れたところで、別の職員が本当にコピー機を開けていた。
主人公はそれ以上聞かなかった。
昼前になると腹が鳴った。
自販機には食べ物が並んでいる。地上の金はない。PANDEMONIUM BURGERで借りた分さえ、まだ返していない。
女が細長い券を一枚、机越しに差し出した。
「相談利用者向けの食事券です。一食分。給付なので返却は不要です」
主人公は受け取らず、券を見た。
「返せないの?」
「返したいんですか?」
「借りたなら返せる。でも、もらったら終わりじゃん」
女は主人公と券を見比べたあと、無理に渡さず手元へ引いた。
「使わない選択もできます」
その瞬間、腹がもう一度鳴った。さっきより大きかった。
女は何も言わない。
「……待って。それは使う」
「どうぞ」
「好きで使うんじゃないから」
「食堂の人には伝えません」
「そういう意味じゃない」
食堂の昼食は、パンとスープと肉だった。特別なものはない。だからこそ、妙にうまかった。
トレーを持って空席を探すと、昨日の四本腕の老人がいた。二本の手でパンを割り、三本目でスープを持ち、残った一本で端末を流している。
「またお前か。役所が好きになったのか」
「嫌い。姉ちゃん探してるだけ」
老人はそれ以上聞かず、「そうか」とだけ言ってパンを口へ運んだ。
主人公は向かいに座り、しばらくその四本の腕を見た。見慣れてきたせいか、昨日ほど異様には感じない。
「やっぱ便利じゃん」
「肩が四つあるわけじゃないんだぞ。凝る場所は増える」
「昨日も言ってた」
「昨日から今日で肩凝りが絶滅したなら、ニュースになってる」
主人公はスープを飲んだ。
少しして、老人の方から聞いた。
「帰れるようになったんじゃないのか」
「帰れる」
「なのに、まだいる」
「照会が来るかもしれない」
「なら待てばいい」
簡単に言われて、主人公はむっとした。
「簡単に言うな」
老人は四本の手を一度止めた。
「帰りたいのに待つんだろ。だったら難しいのは待つことじゃなくて、お前が帰らないって決めたことの方だ」
主人公は返事をしなかった。
老人はまた食べ始めた。説教を続ける気はないらしい。
午後も照会は来なかった。
人が呼ばれるたびに顔を上げ、そのたびに別の名前だった。窓口の向こうでは職員が交代し、コピー機の紙詰まりも直り、日差しが待合の床を少しずつ横へ移動していった。
夕方、昨日の女が主人公の前まで来た。
「今日はここまでです。照会先の一部が業務を終えました。続きは早くても明日になります」
窓口も閉まる。
その事実を聞いた瞬間、地下へ帰る道がまた頭に浮かんだ。今からなら帰れる。明日の朝、また地上へ来ればいい。
けれど、明日ここへ戻るために一度地下へ帰る、という動きがひどく遠回りに感じた。
「泊まれるところ、ある?」
自分から聞いた。
女は少しだけ目を上げたが、理由は聞かなかった。
「生活接続支援の宿泊先なら手配できます。保護収容ではないので、出入りは自由です」
「一晩だけ」
「必要になったら、そのとき考えてください」
主人公は頷いた。
建物を出る。
背後で自動扉が閉まった。
朝から、扉はいくつも開いた。警察の扉。役所の扉。地下へ戻る道。どれも、もう主人公を閉じ込めるためのものではない。
ポケットの中で、地下の識別票に指が触れた。
帰れる。
その事実は変わらない。
主人公は地下へ続く方向ではなく、女から渡された宿泊先の案内を開いた。
姉の返事が来る場所から離れないことを、今度は自分で選んだ。




