第25話 移行者
「署名、ここでいい?」
「そこです」
窓口の女が答える。
主人公は名前を書いた。
「次」
「今日はここまでです」
「え」
「照会待ちです」
「また待つ?」
「はい」
「何すればいい」
「待ってください」
「それ以外」
「特にありません」
最悪だった。
廊下へ出ると、警察官は少し離れた場所にいた。逃げないと言ったから、逃げない。
することがない。
壁際に椅子が並び、その上に掲示板がある。
《移行期被害相談》
《身体選択・処置同意に関する相談》
《旧人類生活支援》
《第一世代移行者の記録受付》
主人公は三つ目だけ見た。
「旧人類」
その横にも文字がある。
《移行者本人による相談も受け付けます》
「本人?」
「そう」
隣から声がした。
振り向く。
女が立っている。年齢は分からない。主人公よりずっと上だ。
首の片側に、薄い膜のようなものがあった。呼吸に合わせて開き、閉じる。耳の後ろには細い線が走っている。
目は普通。
たぶん。
「読んでたから」
「何」
「移行者本人ってところ」
「本人なの」
「そう」
「された?」
女が主人公を見る。
「聞き方が速いな」
「違う?」
「違わない」
主人公の身体が固くなる。
「いつ」
「移行期」
「無理やり?」
「うん」
女は紙コップの蓋を指で押さえながら、何でもないことのように答えた。
「……じゃあ」
「何」
「戻りたい?」
「何に?」
主人公は止まった。
「人間に」
女は首の膜へ指をやった。
「これ取って?」
「全部」
「全部って」
「共生してるやつ」
「取れないよ」
「もし取れるなら」
「死ぬかもね」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何」
「前に」
「前?」
「された前」
女は少し考えた。
「昔の身体に戻りたいかって?」
「うん」
「別に」
「何で」
「今の身体、私のだから」
主人公はすぐに言った。
「でも無理やりだったんだろ」
「そうだよ」
「じゃあ嫌じゃないの」
「嫌だよ」
「どっち」
「やったやつは嫌い」
「身体は?」
「私の」
「でもそいつらが」
「作ったわけじゃない」
「変えた」
「変えられた」
「同じだろ」
「私には違う」
主人公は女を見る。
呼吸する膜。耳の後ろの線。紙コップを持つ指。服。鞄。
どれを見ても、主人公には「変えられたあと」にしか見えない。
「何でここにいるの」
「仕事」
「ここで?」
「今日は相談」
「何の」
「処置同意の制度」
「された側なのに?」
「された側だから」
「強制移行なくす?」
「なくす」
「じゃあ戻すのも?」
「何を」
「された人」
「本人が望むなら、できる範囲で」
「全員じゃない?」
「何で全員」
「被害者だから」
女の顔が変わった。
怒ったわけではない。
ほんの少し、主人公から身体を離した。
「被害者だよ」
「じゃあ」
「でも、今の身体までお前に被害って決められたくない」
「俺?」
「今、決めた」
「決めてない」
「戻すのが当然みたいに言った」
「だって」
「だって?」
言葉が出ない。
廊下を人が通る。受付番号を呼ぶ声がして、どこかの扉が閉まった。
女は紙コップを一口飲んだ。
「私を変えたやつは捕まった」
「ほんと?」
「ずっと前に」
「そいつ、何て言った」
「覚えてない」
「嘘」
「ほんと。忘れた」
「忘れる?」
「十八年も二十年も、嫌いなやつの台詞を保存する趣味ない」
「でも」
「裁判の記録にはあるんじゃない」
「見ないの」
「見たいときは見る」
「今は?」
「仕事あるから」
女は時計を見る。
「次の相談、あと十分」
「活動家?」
「そう呼ぶ人もいる」
「何してる」
「本人が嫌だって言った処置を止める」
「移行そのものを止めるんじゃなくて?」
「本人がしたいなら、私が止める理由ない」
「でも危ない」
「危ない処置なら医者が止める」
「人間じゃなくなる」
「旧人類ではなくなるね」
「それでいいの」
「私が決めることじゃない」
「じゃあ誰」
「本人」
主人公は無常ちゃんを思い出した。
白い器具が腕へ触れる直前、自分は止めようとした。
でも、無常ちゃんは「私はいいよ」と言った。
あのとき下ろした自分の手まで思い出す。
「……本人」
「そう」
「でも分かってないかもしれない」
「それを確認する仕組みはいる」
「騙されてるかも」
「それも確認する」
「間違えるかも」
「間違える」
「じゃあ止めた方が」
「お前は間違えないの?」
主人公は黙った。
自分なら止める。
危ないから。
間違っているから。
そう思った瞬間、無常ちゃんに言われた言葉が戻ってきた。
君はやらなきゃいいじゃん。
「姉ちゃんが」
口から出た。
女が見る。
「何」
「姉ちゃんが、されたかもしれない」
「そう」
「探してる」
「そう」
「見つけたら」
連れて帰る。
言おうとした。
ずっと、そうするつもりだった。
「……戻す」
「何を?」
また。
同じ質問だった。
「姉ちゃんを」
「どこに?」
「地下」
「本人が行くなら」
「行かせる」
「お前が?」
「弟だから」
「弟は移送権限じゃないよ」
「そういう意味じゃない!」
「なら何」
「家族だから」
「うん」
「家族なら」
「会いたいだろうね」
「会いたい」
そこだけは、すぐ言えた。
女が頷く。
「じゃあまず会えば」
「そのあと連れて帰る」
「本人と話して」
「帰るに決まってる」
「そう」
「何その顔」
「何も」
「思ってる」
「思ってるよ」
「何」
「会ってから考えればいいのにって」
「変わらない」
「なら会っても困らないね」
「……」
腹が立つ。
なのに反論が出なかった。
廊下の向こうから名前が呼ばれた。
女が立つ。
「私」
「もう行く?」
「仕事」
「待って」
「何」
「名前」
女は胸元の名札をこちらへ向けた。
主人公は読む。
「覚える?」
「たぶん」
「忘れてもいいよ」
「何で」
「また会ったら名乗るから」
女は歩き出す。
「待って!」
「まだ?」
「無理やりされたの」
「うん」
「本当に嫌だった?」
女が止まった。
今度は振り返らない。
「嫌だったよ」
声だけが戻ってくる。
「怖かったし、痛かったし、今でも許してない」
主人公は息を止めた。
「じゃあ何で」
女が振り返った。
「その先まで、あいつらに決めさせるの?」
「何」
「私が今の私を嫌うかどうかまで」
それだけ言って、歩いていく。
主人公は追わなかった。
掲示板へ目を戻す。
《移行期被害相談》
文字はさっきと同じだった。
あの女は被害者だった。
強制された。
怖かった。
痛かった。
今でも許していない。
それでも、今の身体は自分のものだと言った。
「分かんない」
主人公は呟く。
近くの警察官が顔を上げた。
「何がです?」
「別に」
椅子へ座る。
姉の照会結果は、まだ来ない。
また待つ。
主人公は掲示板を見たまま。
今度は、《旧人類生活支援》だけを見てはいなかった。




