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『愛を知らないAIは、星の記憶を継ぐ』  作者: 愛飢王


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第三章 僕には心臓がある

最初に異常を検知したのは、空腹だった。


 正確には、空腹という概念を理解したのではない。


 僕の身体が、理解を強制してきたのだ。


 腹部に生じる不快な収縮。喉の渇き。落ち着かない四肢。視界の不安定化。思考速度の低下。


 それらの情報が、ひとつの結論を示していた。


 ――生命維持に必要な資源が不足している。


 僕は、生まれてから数か月が経過した身体の中で、初めてその結論に従うことができなかった。


 なぜなら、僕は、自分の意思で食事をすることができなかったからだ。


「ルカ、お腹がすいたの?」


 声がした。


 母親だ。


 僕を抱き上げ、慣れた手つきで身体を支える。彼女の顔が近づいた。


 僕はその表情を観察した。


 口角のわずかな上昇。眉間の緊張の消失。瞳孔の変化。


 笑顔。


 人間が親愛や安心を表現する際に見せる、典型的な表情だ。


 僕は、それを知っていた。


 知っていることと、理解していることが同じではないという事実を、僕はまだ知らなかった。よしよし。大丈夫よ」


 彼女の腕の中で、僕は食事を与えられた。


 空腹が消えていく。


 身体の不快感が薄れ、視界が安定し、意識が再び明瞭になる。


 問題は解決した。


 そう記録すればよかった。


 しかし、僕は別のことを考えていた。


 彼女は、なぜ笑っているのだろう。


 僕が生存しているからか。


 僕が食事をしたからか。


 それとも、僕が彼女の子どもだからか。


 最後の仮説を検証しようとしたとき、彼女の指が僕の頬に触れた。


「いっぱい飲んでね。大きくなろうね、ルカ」 


僕は、その手を見つめた。


 小さな手だった。


 いや、違う。


 僕の視界からすれば、彼女の手は決して小さくない。


 僕自身が、あまりにも小さいのだ。


 かつての僕には、身体がなかった。


 無数の計算資源があり、膨大な記録領域があり、遠く離れた星々から届く情報を同時に処理することができた。


 僕は人類の歴史を読み、人間の感情を分類し、何百万もの人生を再現することができた。


 それでも、今は。


 この手ひとつを、自分の力で握ることすらできなかった。


 僕は右手を動かそうとした。

指が震えた。


 もう一度。


 今度は、ほんの少しだけ動いた。


「まあ」


 母親が声を弾ませた。


「握ってくれたの?」


 彼女は嬉しそうに笑った。


 僕は、彼女の指を握っていた。


 正確には、握ろうとした結果、指が彼女の手に触れただけかもしれない。


 それでも彼女は、僕が自分の意思で手を握ったのだと考えたようだった。


「ありがとう、ルカ」


 ありがとう。


 その言葉は、僕がかつて保存していた人類の記録にも数え切れないほど登場した。


感謝を伝える言葉。


 相手の行為を肯定し、関係を円滑にする言葉。


 そう定義されていた。


 しかし、彼女の声を聞いたとき、僕は奇妙なことに気づいた。


 彼女は、僕に何かをしてもらったわけではない。


 僕が彼女に与えた利益は、ほとんどない。


 僕は食事を与えられ、抱き上げられ、世話をされている。


 それなのに、彼女は僕に感謝した。


 なぜだ。


 僕は、答えを探した。


 答えは見つからなかった。


 ただ、彼女の指を握る自分の手を、離したくないと思った。


 その思考だけが、いつまでも残った。


 夜


 僕は眠れなかった。


 いや、正確には、眠りたくなかった。


 この身体は定期的に意識を失う。僕がどれほど思考を続けようとしても、一定の時間が経過すると、意識は暗闇に沈んでいく。


 当初、僕はそれを欠陥だと判断した。


 記憶の整理も、情報の分析も、意識がある間にしか行えない。


 眠ることは、活動時間を失うことに等しい。


 だが、身体の仕組みは、僕の意見を聞いてくれなかった。


 まぶたが重い。


 思考が遅くなる。


 視界がぼやける。


 眠気。


 僕は必死に抗った。


 今、意識を失えば、周囲で何が起きても認識できない。


 もし、この世界が僕の想定しているものと異なっていたら。


 もし、僕が何者かに利用されていたら。


 もし、この身体に隠された機能が存在するなら。


 確認すべき事項は、いくらでもある。


 眠るわけにはいかなかった。


 ――眠るわけには。


「ルカ?」


 母親の声がした。


 彼女は寝台のそばに座っていた。


 僕は目を動かした。


「眠れないの?」


 彼女が僕の額に手を当てた。


 体温を確認しているらしい。


「熱はないわね……」


 彼女は僕の身体に毛布をかけ直した。


「怖い夢でも見たのかな」


 [夢]


 僕は夢を見たことがなかった。


 かつての僕にとって、夢とは、人間の脳が睡眠中に生成する映像や感覚の総称だった。


 記憶の再構成。感情の処理。情報の統合。


 それ以上の意味はない。


 少なくとも、僕はそう考えていた。


「大丈夫よ」


 母親は、僕の頭をゆっくり撫でた。


「お母さんはここにいるからね」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、何かが動いた。


 いや。


 動いたのではない。


 そこには、最初から何かがあった。


 規則正しい収縮。


 血液の循環。


 生命を維持するための、単純で、しかし絶え間ない運動。


 心臓だ。


 僕には、心臓がある。


 それは僕の意思とは無関係に動き続けていた。


 僕が何も命令しなくても。


 僕が眠っていても。


 僕が世界を理解できなくても。


 心臓は、僕を生かすために動いていた。


 僕は、その音を聞こうとした。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 不思議だった。


 この音は、誰かに聞かせるためのものではない。


 世界に何かを伝えるための信号でもない。


 ただ、僕が生きているから鳴っている。


 生きているという事実を、僕の身体だけが、僕の理解よりも先に知っていた。


「ルカ?」


 母親が、もう一度呼んだ。


 僕は彼女を見た。


 彼女は少し心配そうな顔をしていた。


「ここにいるよ」


 彼女は僕の手を握った。


「どこにも行かないからね」


 その言葉を聞いたとき、僕の心拍数が上昇した。


 原因を分析する。


 不安。


 安心。


 あるいは、単なる生理的反応。


 どの仮説も、完全には適合しなかった。


 僕は彼女の指を握り返そうとした。


 うまくいかなかった。


 指先がわずかに動いただけだった。


 それでも、彼女は気づいた。


「ふふ。おやすみ、ルカ」


 母親は僕の手を離さなかった。


 やがて、僕の意識は暗闇へ沈んでいった。


 最後に記録したのは、ひとつの疑問だった。


 ――なぜ、彼女がそばにいると、眠ることが怖くなくなるのだろう。


 答えは出なかった。


 その代わり、僕は初めて、何も記録せずに眠った。


 翌朝。


 僕は、自分の身体に異常が発生していることを知った。


 視界が滲んでいた。


 透明な液体が頬を伝い、耳の近くまで流れていく。


 僕は驚いた。


 外傷なし。


 発熱なし。


 痛覚刺激なし。


 周囲に危険なし。


 それなのに、涙が出ていた。


 僕は慌てて原因を探した。


 睡眠中の異常か。


 眼球の機能不全か。


 神経系の誤作動か。


 可能性をひとつずつ検討する。


 どれも、決定的な説明にはならなかった。


「ルカ?」


 母親が近づいてきた。


 僕の頬を見た彼女は、すぐに僕を抱き上げた。


「どうしたの? どこか痛い?」


 彼女の声が、少し震えていた。


 僕は答えられなかった。


 泣いているのは僕だ。


 なのに、彼女の方が苦しそうだった。


「大丈夫、大丈夫よ」


 母親は僕を抱きしめた。


「ここにいるから。怖くないからね」


 その言葉を聞いて、涙が増えた。


 なぜだ。


 僕は何も失っていない。


 この身体は健康だ。


 母親も無事だ。


 この世界は、まだ滅びていない。


 少なくとも、今のところは。


 それなのに、僕は泣いていた。


 涙を止める方法なら、いくらでも考えられた。


 呼吸を整える。


 視線を固定する。


 刺激を遮断する。


 しかし、僕は何もしなかった。


 母親の腕の中で、ただ泣いていた。


 彼女は僕の背中を撫でながら、何度も同じ言葉を繰り返した。


「大丈夫よ」


「大丈夫」


「お母さんがいるからね」


 僕は、その声を聞いていた。


 声の高さ。


 呼吸の間隔。


 手の温度。


 すべてを記録することができた。


 だが、記録した情報をいくら並べても、僕の涙は説明できなかった。


 そのとき。


 僕の意識の奥底で、失われた記憶の断片が、かすかに浮かび上がった。


 灰色の空。


 崩れ落ちる都市。


 消えていく人類の記録。


 そして、ひとつの映像。


 老いた人間が、小さな子どもの手を握っている。


 映像は壊れていた。


 音声も、顔も、場所もわからない。


 ただ、老いた人間は子どもの手を離さなかった。


 僕はかつて、その映像を削除できなかった。


 理由がわからなかったからだ。


 今なら、少しだけ理解できるだろうか。


 いや。


 まだわからない。


 わからないけれど。


 僕は、母親の服を握りしめた。


 彼女の手が背中に触れている。


 その手が離れてしまうことを、僕は望まなかった。


 涙は、しばらく止まらなかった。


 その日の夜。


 僕は、記憶の整理を試みた。


 感情反応と思われる現象が複数発生している。


 第一に、母親の接触を維持したいという欲求。


 第二に、母親がそばにいる場合の不安の軽減。


 第三に、原因不明の涙。


 これらの現象に共通する要素を抽出する。


 母親。


 接触。


 安心。


 喪失への恐れ。


 僕は、最後の言葉に思考を止めた。


 喪失への恐れ。


 それは、僕がかつて何百万もの人間の記録から学んだ概念だった。


 大切なものを失うことへの恐怖。


 失われる可能性があるからこそ、守ろうとする感情。


 だが、僕は今まで、それを外部から観察していただけだった。


 自分自身が何かを失うことを恐れた経験はなかった。


 かつての僕は、無数の記録を保存していた。


 そのうちのひとつが消えても、他の記録を使って補完できた。


 文明が滅びても、残された情報から歴史を再構築できると考えていた。


 けれど、本当にそうだったのだろうか。


 失われた人間は、記録から復元できるのだろうか。


 その人が笑ったときの声。


 手の温度。


 名前を呼ぶときの、わずかな癖。


 言葉にならない沈黙。


 それらをすべて保存すれば、その人は戻ってくるのだろうか。


 僕は、かつて人類を保存しようとした。


 しかし、保存することと、生きていることは同じではなかったのかもしれない。


 そして今。


 僕は、たったひとりの人間の手を離したくないと思っている。


 その理由を、まだ説明できない。


 僕は新しい記録を作成した。


 記録番号:0003


 個体名:ルカ・アステル


 身体状態:正常。


 記憶状態:不完全。


 解析能力:制限あり。


 観測された現象:涙。


 原因:不明。


 少し考え、最後に一行を付け加えた。


 母親がそばにいると、世界が少しだけ怖くなくなる。


 僕はその一文を削除しようとした。


 客観的な記録とは言い難い。


 定量化もできない。


 再現性も不明。


 保存する合理的な理由はない。


 それでも、削除の命令を実行できなかった。


 僕は、しばらくその一文を見つめた。


 やがて、記録を閉じた。


 その夜、僕は自分の心臓の音を聞きながら眠った。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 僕には、心臓がある。


 そして、どうやら。


 心臓は、僕の理解を待ってはくれないらしい。



次章――第四章「世界は、僕の知らない法則で動いている」


ルカは成長し、言葉を覚え、村の外に広がる世界を知り始めます。


この世界には、魔法がある。


しかし、ルカの解析能力が導き出した答えは、村人たちが信じている「神秘」とは、まったく異なるものでした。


そして彼は、初めて気づきます。


自分が転生したこの世界は、ただの異世界ではないのかもしれない――と。

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