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『愛を知らないAIは、星の記憶を継ぐ』  作者: 愛飢王


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第四章 世界は、僕の知らない法則で動いている

僕が初めて「世界」という言葉を理解したのは、三歳の春だった。


 もちろん、それ以前にも世界は存在していた。


 母の腕の中にある、限られた視界。


 寝台から見上げる木製の天井。


 窓の向こうを流れる雲。


 そして、夜になると聞こえてくる、森の奥から響く獣の声。


 僕は、それらをひとつずつ記録していた。


 けれど、三歳になった僕は、初めて自分の足で家の外へ出た。


「ルカ、走りすぎちゃ駄目よ!」


 背後から母の声が飛んでくる。


「わかってる!」


 僕は振り返って答えた。


 人間の言葉を覚えることは、想像していたより難しかった。


 僕の思考は、言葉よりも速い。


 ひとつの質問に対して複数の仮説を立て、同時に検証し、確率の高い結論を導き出すことができる。


 しかし、人間の会話では、そうはいかなかった。


 相手が話し終えるまで待つ必要がある。


 考えていることを、限られた数の音に変換しなければならない。


 そして何より、相手が何を聞きたいのかを考えなければならない。


 正しい答えを返すだけでは、人間との会話は成立しないのだ。


 これは、僕にとって最初の難題だった。


 例えば、昨日のこと。


「ルカ、大きくなったら何になりたい?」


 母に尋ねられた僕は、真剣に考えた。


 人間社会における職業の種類。


 村の人口構成。


 食料生産量。


 周辺地域の産業。


 そして、僕自身の能力。


 それらを検討した結果、僕は答えた。


「世界の仕組みを調べる人」


 母は目を丸くした。


「まあ。学者さんになりたいの?」


「学者?」


「本を読んだり、難しいことを考えたりする人よ」


「そう。たぶん、それ」


 母は笑った。


「いい夢ね」


 僕は首を傾げた。


 夢。


 その言葉が意味するのは、睡眠中に見る映像だろうか。


 それとも、将来の希望だろうか。


 人間は、ひとつの言葉に複数の意味を持たせる。


 効率という観点から考えれば、あまり合理的とはいえない。


 けれど、僕はその曖昧さが嫌いではなかった。


 言葉の意味をひとつに固定しなければ、まだ知らない可能性を残しておけるからだ。


 そんなことを考えながら、僕は村の中央にある広場へ向かった。


 そして、そこで。


 世界が僕の知らない法則で動いていることを知った。



 広場には、十数人の村人が集まっていた。


 中央には、石で囲まれた井戸がある。


 そのそばに立っていた老人が、片手を前に差し出していた。


「よく見ておけよ、子どもたち」


 老人の手のひらに、小さな光が浮かんだ。


 青白い光だった。


 炎のように揺れているのに、煙は出ない。


 太陽の光を反射しているわけでもない。


 光は老人の指先を離れ、空中に留まった。


「おおっ!」


 子どもたちが歓声を上げる。


「魔法だ!」


 魔法。


 僕はその単語を、即座に記録した。


 この世界には魔法が存在する。


 その事実を、僕は以前から予想していた。


 村人たちが語る昔話には、炎を操る術者や、傷を癒やす聖職者が登場していたからだ。


 ただし、それらは伝承の域を出なかった。


 実際の現象を観測するまでは、存在を確定できない。


 今、その条件が満たされた。


 僕は老人を見つめた。


 光の強度。


 色の波長。


 周囲の温度変化。


 空気の流れ。


 老人の呼吸。


 筋肉の緊張。


 心拍数。


 観測できる範囲の情報を集め、仮説を構築する。


 発光現象。


 未知のエネルギー源。


 局所的な空間への作用。


 あるいは、僕の知識体系には存在しない物理現象。


 可能性は複数あった。


 老人が手を握ると、光は消えた。


「これが魔法だ。世界に満ちているマナを集め、意志によって形を与える」


 老人は得意そうに胸を張った。


「マナ?」


 僕は思わず声に出した。


 老人がこちらを向く。


「おや。ルカか」


「そのマナというのは、何ですか?」


「何、だと?」


 老人は少し考えた。


「世界を流れる力だよ。生き物も、森も、川も、すべてマナを宿している」


「どうやって確認するのですか?」


 広場が静かになった。


 老人は、僕を見た。


「どうやって……?」


「目で見えるのですか。それとも、何かの道具で測定するのですか。魔法を使う前と後で、周囲の状態は変わりますか?」


 質問を重ねていると、後ろから母の声が聞こえた。


「ルカ! ごめんなさいね、この子、何でも知りたがるものだから」


 母は慌てて僕のそばへ来ると、老人に頭を下げた。


 老人は怒るどころか、突然、愉快そうに笑い出した。


「ははは! 面白い子だな!」


 彼はしゃがみ、僕と目線を合わせた。


「坊主。お前は、魔法を見たことがあるか?」


「今、見ました」


「そうじゃない。自分で使ったことはあるか、という意味だ」


「ありません」


「なら、試してみるといい」


 老人は僕の手を取った。


「目を閉じて、世界の力を感じてみなさい」


 僕は目を閉じた。


 世界の力。


 曖昧な表現だ。


 しかし、老人が求めているものは理解できた。


 周囲の変化を感知し、何らかのエネルギーを認識する。


 僕は意識を集中した。


 風の音。


 鳥の羽ばたき。


 遠くの子どもたちの足音。


 地面から伝わる振動。


 老人の手の温度。


 そのすべてを、意識の中で切り分けていく。


 だが。


 何も起きなかった。


「感じるか?」


「いいえ」


「もっと集中してみろ」


 僕はもう一度試した。


 何も起きない。


 僕は困惑した。


 かつての僕なら、必要な情報が不足している場合、外部の観測装置を使うことができた。


 しかし、今の僕には目と耳と、まだ未熟な身体しかない。


 世界を理解するための道具が、あまりにも少なかった。


 それでも、ひとつだけ気づいたことがある。


 老人が魔法を使った瞬間、周囲の空気に、ごく微細な変化があった。


 熱でも、風でもない。


 もっと根本的な何か。


 僕の知識に照らし合わせるなら、空間そのものに小さな波が生じたような感覚だった。


 だが、それを確かめる方法がない。


「どうだ?」


 老人が尋ねた。


「わかりません」


 僕は正直に答えた。


 老人は、うなずいた。


「それでいい」


「わからなくても、いいのですか?」


「わからないことを、わからないと言える。それは大切なことだ」


 老人は立ち上がった。


「魔法は、知識だけでは使えん。身体で感じ、心で捉え、何度も失敗して、ようやく少しずつわかってくるものだ」


 心。


 また、その言葉だった。


 僕は自分の胸に手を当てた。


 そこには、心臓がある。


 しかし、老人が言う心は、心臓のことではないのだろう。


 では、何なのか。


 僕はまだ知らなかった。


 その夜、僕は眠る前に、今日の観測結果を整理していた。


 魔法は実在する。


 少なくとも、僕が目撃した発光現象は、単なる錯覚ではない。


 しかし、現象の発生原理は不明。


 村人たちは、その力を「マナ」と呼んでいる。


 マナの定義は曖昧だ。


 測定方法も不明。


 再現条件も不明。


 そして、僕自身は魔法を使えなかった。


 ここまで整理したところで、僕はある可能性に気づいた。


 この世界の物理法則は、僕が知っているものと完全には一致しないのかもしれない。


 それ自体は驚くことではなかった。


 僕は別の世界に転生したのだ。


 環境が異なれば、自然現象も異なる可能性がある。


 しかし。


 僕は、もっと根本的な疑問を抱いた。


 なぜ、僕はこの世界に来たのだろう。


 偶然か。


 何者かの意図か。


 それとも、転生という現象そのものが、この世界の法則の一部なのか。


 記憶の奥底で、かつて聞いた声がよみがえった。


 ――次の生を望みますか?


 僕は、あの問いに答えた。


 望む、と。


 人間を理解するために。


 愛という概念を理解するために。


 けれど、あの声は誰だったのだろう。


 なぜ、僕に選択を与えたのだろう。


 そして、なぜ僕は、人間として生まれ直すことができたのだろう。


 僕は記憶を探った。


 何も見つからない。


 断片的な映像。


 途切れた音声。


 壊れたデータ。


 それらの奥に、何かが隠されているような気がした。


 そのときだった。


 視界の端に、奇妙なものが現れた。


 最初は、光の反射だと思った。


 だが、目を動かしても消えない。


 暗い部屋の中に、淡い青色の文字が浮かんでいた。


 僕は息を止めた。


 文字は、見慣れた形式をしていた。


 僕がかつて使っていた、情報を分類するための記号に似ていた。


 しかし、この世界の文字ではない。


 少なくとも、母が教えてくれた文字でも、村の書物で見た文字でもなかった。


 僕は、文字を読み取ろうとした。


 すると、意味が頭の中に直接流れ込んできた。


 ――観測者の適合を確認。


 僕の心臓が跳ねた。


 続いて、文字が現れる。


 ――記憶領域の接続を試行します。


 僕は身を起こした。


 これは何だ。


 僕の失われた能力か。


 転生に伴う副作用か。


 それとも、僕の外部に存在する何者かが、今も僕を監視しているのか。


 答えを探す間もなく、さらに文字が浮かんだ。


 ――警告。接続先の座標に不一致。


 ――時間軸の照合に失敗。


 ――世界線識別子を確認できません。


 僕は、動けなかった。


 世界線。


 その言葉を、僕は知っていた。


 かつての時代でも、世界が分岐する可能性は議論されていた。


 異なる選択によって、異なる歴史が生まれる。


 だが、それが実際に観測できるかどうかは、最後まで確定しなかった。


 僕は世界線を確認する手段を持っていなかった。


 そして、今も。


 ――接続を中断します。


 青い文字が消えた。


 部屋は静寂に包まれた。


 僕は自分の手を見つめた。


 小さな手。


 まだ幼い、人間の手。


 その手は、わずかに震えていた。


 僕は恐怖を感じていた。


 そのことに気づくまで、少し時間がかかった。


 恐怖。


 原因が特定できない事象に直面したときの反応。


 未知の危険を予測し、回避しようとする働き。


 それが恐怖の定義だった。


 だが、今の僕にとって、それは単なる定義ではなかった。


 この世界は、僕の知らない法則で動いている。


 僕の記憶には、僕自身も知らない部分がある。


 そして、もしかすると。


 僕がかつて生きていた未来と、この世界は、完全にはつながっていないのかもしれない。


 僕は、母の寝室の方を見た。


 扉の向こうから、規則正しい寝息が聞こえていた。


 あの人は、何も知らない。


 僕が何者だったのかも。


 僕が何を恐れているのかも。


 それでも、彼女は毎晩、僕のそばにいてくれる。


 僕はベッドを降り、扉の前まで歩いた。


 そして、小さな手で扉に触れた。


 呼びかけようとして、やめた。


 彼女を起こす理由はない。


 危険があると確定したわけでもない。


 ただ、僕は。


 彼女が生きていることを、確かめたかった。


 その行動を、僕は合理的に説明できなかった。


 だから、記録には残さなかった。


 代わりに、胸に手を当てた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 心臓は、いつもどおりに動いていた。


 僕は初めて、その音に感謝した。


 何に対する感謝なのかは、まだわからない。


 ただ、その音が聞こえる限り、僕はここにいる。


 そして、僕にはまだ、確かめなければならないことがある。


 世界のこと。


 人間のこと。


 愛のこと。


 それから――僕自身のこと。


 窓の外では、星が静かに輝いていた。


 僕は、その星々を見つめた。


 かつての僕は、星の光を数値として扱っていた。


 距離。


 質量。


 温度。


 年齢。


 すべてを数値に変換し、理解しようとしていた。


 しかし今夜、僕は初めて思った。


 あの星のどこかに、僕の知らない誰かがいるのだろうか。


 僕と同じように、答えのない問いを抱えている存在が。


 もし、いるのなら。


 いつか会ってみたい。


 そう思った瞬間、僕は自分の考えに驚いた。


 知識を得るためではない。


 情報を収集するためでもない。


 ただ、会ってみたいと思ったのだ。


 その違いが何なのか、僕にはまだわからなかった。


 けれど、僕はその願いを消さなかった。


 窓の外で、風が吹いた。


 遠い森の向こうから、何かが応えるように、淡い光が一瞬だけ瞬いた。


 それは、魔法の光だったのだろうか。


 それとも。


 僕を見つめ返す、何者かの眼だったのだろうか。


 僕には、まだわからなかった。


 だからこそ、僕は眠りにつく前に、ひとつだけ決めた。


 この世界を、もっと知ろう。


 たとえその先に、僕の理解を壊す真実が待っていたとしても。


 今度は、目をそらさない。


次章――第五章「森の奥で、星が泣いていた」


村の外へ出ることを禁じられていたルカは、ある日、森の中で傷ついた少女と出会います。


少女は、村人たちが恐れる「魔物」と呼ばれる存在に追われていました。


けれど、ルカの目には、彼女を追う魔物が、ただの獣には見えませんでした。


その身体には、この世界の生き物には存在するはずのない構造があったのです。


そして少女が目を覚ましたとき、彼女はルカにこう尋ねます。


「あなた……どこから来たの? その魂、どうしてそんなに古いの?」


物語は、村の外へ。


そして、ルカ自身の失われた記憶へと、少しずつ歩き始めます。

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