第9話:『言葉の針』
暗闇に覆われた二階の廊下は、足を踏み入れること自体が死の口内へ飛び込むような重圧に満ちていた。
床を濡らす血の海は、粘り気を増して創太と葵の上履きの底にまとわりついてくる。一歩踏み出すたびに、ペチャリ、ペチャリと重く湿った音が暗闇に反響した。水野結衣の体内で弾けた無数のステンドグラスの破片が、足元で踏み砕かれてジャリジャリと嫌な音を立てる。
「葵、足を止めるな! 三階の放送室まで一気に行くぞ!」
創太は自らの背中に走る激痛を抑え込みながら、葵の手を握りしめて走った。背中には、さっきの爆発で刺さったガラス片の傷口から温かい血が滲み続け、制服の生地を皮膚へべったりと張り付かせていた。
だが、創太の手を握り返す葵の指先もまた、激しく震えていた。声を奪われた彼女は、荒い吐息を喉の奥で詰まらせながら、創太の歩幅に必死についてくる。
その時だった。
「待ちやがれぇぇぇっ! 神谷ぁぁぁッ!」
背後の2年B組の教室から、狂乱の怒号が響いた。
前ドアと後ろドアが同時に激しく蹴破られ、血塗られた清掃用の木棒を振りかざした西条拓海と、生き残っていた十五名の生徒たちが、雪崩のように廊下へと飛び出してきたのだ。
「逃がさねえぞ! お前らだけ逃げるなんて許さねえ!」
「神谷! 答えを教えろ! 俺たちを置いて行くなぁっ!」
生徒たちの目は、恐怖と疑心暗鬼で血走り、もはや人間としての理性を完全に失っていた。彼らにとって、創太は唯一の「安全策(問いを解く道具)」であり、同時に自らが生き残るための「人柱」だった。神谷を失えば、自分たちが次の肉体解体の犠牲になるという絶望的な恐怖が、彼らを暴徒へと変えていた。
「追ってきたか……!」
創太が階段の手前で振り返ったその瞬間――。
ジ……ジジジジジジジジジジジジジジジジッ!!!!
校舎全体の天井から、これまでで最も甲高く、狂おしい高周波のノイズが爆発した。
二階廊下の壁、天井、そして床そのものが、まるで巨大な生き物の器官のように激しく波打ち始める。漆黒の暗闇の中で、非常用の赤灯だけが怪しく明滅し、生徒たちの血塗られた顔面を赤黒く浮かび上がらせた。
「ひ……ひぃぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「嫌だ! また来た! 来ないでくれぇぇぇっ!」
走っていた生徒たちが一斉にその場にのめり込み、頭を抱えて悲鳴を上げた。西条もまた、足をもつれさせて血の床へ転がり、木棒を握りしめたまま天井を睨みつけた。
校内放送の配線を通じて、あの濡れた女の声が、深夜の静寂を破って校舎全体へ重重と響き渡る。
『――ふふ。暗い廊下を這い回るネズミたち。どこへ行こうというのですか?』
声は、冷たい指先で背筋を撫で回されるような、ゾッとするほどの生々しさを伴っていた。
『逃げ場など、最初からどこにも用意されていませんよ。言葉の牢獄からは、誰も出られないのです』
「黙れ! 黙れ黙れ黙れぇぇぇっ!」西条が壁を木棒で殴りつけた。「神谷! 問いが来るぞ! 早く答えを用意しろ!」
『五つ目の「整い」の時間です。指名しましょう……』
スピーカーの奥で、カチ、カチ、カチと死の歯車が回り始める。
『2年B組、菅原大介くんと掛けまして』
指名されたのは、西条のすぐ後ろで怯えていた取り巻きの一人――菅原だった。
「ひっ……! お、俺……!? なんで俺なんだよ西条さん! 助けてくれよ!」
菅原が血みどろの顔で西条に縋りついた。だが、西条はその手を苛烈に振り払い、菅原を前に突き飛ばした。
「触るな菅原! 神谷! 早く答えろ! 菅原と掛けまして何だ!?」
黒板のない廊下の壁面に、血の筋がミシミシと音を立てて浮き上がり、文字を刻み込んでいく。
『古い裁縫箱の針山と解く。……その心は?』
『制限時間は三分。……菅原くん、あなたの喉を整えて差し上げますね』
クスクスという女の含み笑いが、闇の廊下に虚しく反響した。
「裁縫箱の……針山……!?」
菅原が両手で自らの首元を狂ったように掴み指を立てた。
「神谷! なんだよそれ! 俺と針山に何の共通点があるんだよ! 早く教えろぉっ!」
創太は階段の手前で立ち尽くし、脳内の思考回路を限界まで加速させた。
(菅原大介。西条の取り巻き。影でコソコソと他人の悪口を言いふらしていた男。そして……裁縫箱の針山――)
針山。無数の鋭い針が刺さっているクッション。尖った金属。刺す。縫い付ける。言葉の毒。
そして、菅原が過去に鳴海詩織へ放った言葉。
創太の研ぎ澄まされた耳の奥に、一年前の雨の日の放課後、階段の踊り場で菅原が漏らしていた陰湿な囁きが蘇る。
『あいつの言うことなんて全部嘘だよ。口を開けばチクチク刺してくるような小生意気な言い方しやがってさ。あいつの口、針で縫い付けてやりてえよ』
(口を針で縫い付ける――言葉の針……!)
「菅原!」創太は叫んだ。「お前、一年前の階段で詩織に向かって言ったはずだ! 『口を針で縫い付けてやりたい』って!」
「え……!? な、なに言叩いてんだよ昔のことなんて! 分かんねえよ!」
「思い出せ! 針山の本質は『無数の針が刺さっていること』、そしてお前の本質は『チクチクと他人に針を刺すような陰口を叩いていたこと』だ!」
「神谷! だったら答えは何なんだよ! 時間がねえぞ!」西条が狂暴な声で叫ぶ。
残り時間、一分。
菅原の首元――皮膚の下で、チクチク、チクチクと、目に見えない無数の小針が皮膚を内側から突くような嫌な不快音が響き始めていた。
「あぁっ……! 痛い! 喉が、喉の奥がチクチクする! 何かが刺さってるぅぅぅっ!」
菅原が自分の口の中に指を突っ込み、血の混ざった唾液を吐き出しながらのたうち回った。彼の首筋の皮が、内側から押し上げられ、数千本の針山のように細かく突っ張り始める。
「答えは……答えは『どちらも、チクチクと痛い針(陰口)をたくさん隠し持っている』か!?」
創太が叫びかけようとした、まさにその時だった。
極限の激痛と恐怖に耐えかねた菅原が、自らの口から血を吹き出しながら、支離滅裂な叫びを上げてしまった。
「答えはっ……! 答えは『どちらも針がいっぱい刺さってて痛い』だぁぁぁぁっ!!」
「菅原、言うな――!」
その叫びが届くことはなかった。
スピーカーから、地獄の底からの判定が冷酷に下された。
『――不整』
その宣告が廊下に響き渡った瞬間、菅原の身体が激しく痙攣した。
「あ……が……っ!?」
菅原が両手で自分の喉を狂ったようにかきむしった。爪が首の皮膚を裂き、赤黒い血が飛び散るのも構わず、彼は自らの喉の奥へと指を深く突っ込もうとした。だが、彼の口からはもう意味のある言葉も、絶叫すらも出てこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、ジュクジュク、ミチミチミチッ、という、無数の金属が肉を切り裂いて押し合いへし合いする凄惨な摩擦音だった。
「ひっ……! 菅原……!?」
隣にいた太田が腰をのぬかして後ずさった。
次の瞬間、菅原の首筋――喉仏を中心に、彼の皮膚が一瞬で弾け飛んだ。
ズバババババババババババババババババッ!!!!
「ガあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
菅原の口、喉、首筋、そして胸元から、一斉に何千本、何万本もの錆びついた針が噴出した。
裁縫針、畳針、待ち針、安全ピン、注射針――ありとあらゆる種類の鋭利な金属針が、彼の喉の肉、声帯、気管、頸動脈を内側からズタズタに引き裂きながら、爆発的な勢いで外へ飛び出してきたのだ。
噴き出す血のシャワーとともに、長さ数センチから数十センチにおよぶ針の豪雨が、全方位へと弾け飛ぶ。
「ひぁあぁぁぁぁぁぁっ! 針だ! 針が降ってくるぅぅぅっ!」
廊下に集まっていた生徒たちが悲鳴を上げてののしり倒れた。
だが、菅原の身に起きた惨劇はそれだけでは終わらなかった。
彼の喉から飛び出した何千本もの巨大な畳針には、太く赤黒い「自らの血管と神経の糸」が繋がっていた。その針が、菅原の背後のコンクリートの壁、天井、そして床へ、凄まじい物理的な圧力をもって深々と突き刺さったのだ。
ドスッ! ドスッ! ドスドスドスドスドスッ!!!!
「あが……がっ……! ぐ、あぁぁぁっ!」
菅原の肉体が、自らの喉から出た何千本もの針と血の糸によって、廊下の壁面へ向かって強引に引っ張られていく。
バチバチバチッ! という骨と筋肉がちぎれる音とともに、菅原の顔面、首、両肩、両腕が、壁にぴったりと張り付けにされた。飛び出した針が彼の皮膚を外側から貫き、骨を壁に固定し、彼の口を何十本もの針が上下から貫通して完全に「縫い合わせ」てしまった。
壁に縫い付けられた菅原は、目球を血走らせて見開いたまま、縫い合わされた口の隙間から血の泡をボコボコと吐き出し、足先をピクピクと痙攣させている。
彼の首元は、何千本もの針が乱立するグロテスクな「肉の針山」と化し、壁全体へ赤黒い血の海を垂れ流していた。
「嫌だ! 嫌だぁぁぁぁぁっ! 刺さる! 俺に刺さるぅぅぅっ!」
生徒たちの間で、完全な狂乱が爆発した。
壁に固定された菅原の体から飛び出す針の二次被害を恐れ、さらには次に自分がターゲットにされるという絶望的な恐怖から、生徒たちが狭い廊下で互いを惨殺するかのように押し合い、突き飛ばし始めたのだ。
「どけ! 俺が先だ! 階段へ行かせろ!」
「押すな! 落ちる! 痛い、足を踏むな!」
男子生徒の一人が、逃げようとする女子生徒の髪を掴んで後ろへ力任せに突き飛ばした。突き飛ばされた女子生徒は、菅原の喉から突き出ている針の山へ向かって倒れ込み、頬に太い針が深く突き刺さって「ギャあぁぁぁっ!」と悲鳴を上げた。
「西条! お前のせいだ! お前が菅原を唆したからだ!」
「うるせえ! 触るんじゃねえ!」
西条は自分に縋りつこうとした太田の胸を、血塗られた木棒で力任せに突き刺した。木棒の尖った先端が太田の皮膚を破り、太田は血を吐いて廊下の床へ転がった。
地獄。
誰もが生き残るために仲間を突き飛ばし、踏みつけ、血の海の上でのたうち回る。かつて同じ教室で笑い合っていた高校生たちの姿はそこにはなく、あるのは死の恐怖に狂った肉塊の醜悪な生存競争だけだった。
「創太! 上へ!」
声を失っているはずの葵が、創太の腕を振り解かんばかりの力で引っ張った。彼女の目には、涙とともに、死線を潜り抜けようとする強い光が宿っていた。
「ああ! 階段を上がるぞ!」
創太と葵は、互いを突き飛ばし合う生徒たちの狂乱の隙を突き、血で滑る階段のステップへと跳び移った。
背後で、壁に縫い付けられた菅原の目が、創太たちを虚ろに見つめていた。彼の縫い合わされた口から、ぽたり、ぽたりと血の滴が落ち、階段の第一段を濡らす。
『――ふふ。チクチクと他人に針を刺していた男が、最後は壁の飾り針になりましたね』
スピーカーから、あの湿った女の声が嘲笑うように響く。
『さあ……残された罪人たちよ。階段を上りなさい。詩織さんが待つ、最期の場所へ……』
二階廊下に残された生徒たちの悲鳴と、血の叩きつけられる惨劇の音を背に受けながら、創太と葵は暗闇の階段を駆け上がった。
三階へ。
鳴海詩織の怨念が渦巻く、壊れた放送室へ向かって。




