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言葉に喰われた街の、逃げられない問い  作者: solune


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第10話:『偽りの回答』

二階廊下の地獄から逃れるように駆け上がった階段の踊り場は、吐き気を催すほどの濃密な血の匂いと、冷たい湿気に満ちていた。


「ハぁ……ハぁ……ッ!」


神谷創太は壁に肩を打ち付けながら、自らの激しい呼吸を必死で抑え込んだ。背中の刺創からは依然として赤黒い血が滲み、制服の生地を皮膚へ重く張り付かせている。隣にいる白石葵もまた、壁に背を預け、胸を激しく上下させていた。声を奪われた彼女の喉からは、ヒュー、ヒューという痛々しい喘鳴が漏れている。


階下からは、なおも狂乱した生徒たちの悲鳴と、壁に縫い付けられた菅原の血の泡を吐く不気味な音が届いていた。だが、それ以上に創太の研ぎ澄まされた耳を捉えたのは、階段の段差を一段ずつ駆け上がってくる「荒い足音」だった。


ペタ……ペタ……タッ、タッ、タッ!


血で濡れた靴底がコンクリートを叩く嫌な音。


「誰だ……!」


創太が咄嗟に葵を背後に隠し、身構える。


階段の暗闇から姿を現したのは、西条拓海の忠実な取り巻きの一人――太田勝(おおた まさる)だった。


太田の顔面は酷い有様だった。水野結衣の体内で弾けたステンドグラスの破片によって右頬が深く切り裂かれ、だらりと垂れ下がった肉の隙間から赤黒い血が溢れ出している。さらには第9話で西条に突かれた左胸の傷口を押さえ、ボロボロの衣服で息を荒らげていた。


「はぁ……はぁ……神谷……白石……っ!」


太田は階段の手すりに縋り付きながら、血走った目で創太たちを見つめた。その瞳には、恐怖だけでなく、歪んだ執着の色が宿っていた。


「太田……お前、西条たちと一緒に二階にいたはずだろ」


「西条の奴は狂ってやがる……! あいつ、自分だけ助かろうとして俺を木棒で刺しやがったんだぞ! 俺は……俺はあんな狂人から逃げてきたんだ!」


太田は涙と血を混ざり合わせた顔で泣き叫び、創太へ向かって両手を差し伸べた。


「頼む神谷! 俺を一緒に連れて行ってくれ! 俺は西条と違って、お前に敵意なんてない! お前と白石を助けたいんだ! 三階の放送室に行きたいんだろ!? 俺、放送室の鍵の場所を知ってるんだよ!」


「なに……? 放送室の鍵……?」創太の目がわずかに細くなる。


「そうだ! 職員室の非常用鍵ボックスから、俺が前に予備の鍵を持ち出して持ってるんだ! ほら!」


太田は血塗られたポケットから、一本の金属製の鍵を取り出してみせた。暗闇の中で、鍵の表面が非常灯の赤光を浴びて鈍く光る。


葵がハッとしたように創太の袖を引っ張り、ノートを取り出そうとした。放送室は通常、放課後には施錠されているはずだ。もし太田が鍵を持っているなら、扉を破る時間を大幅に短縮できる。


だが――。


創太の過剰な聴覚は、太田の言葉と同時に、彼の身体が発する「決定的な不協和音」を逃さず拾い上げていた。


トク……トクトクトクトクッ!


太田の心拍数。それは単なる恐怖や動悸による上昇ではない。嘘をついている人間が特有に見せる、不自然に跳ね上がる不規則な脈動。さらには彼の喉の奥で走る微細な唾の呑み込み音、視線をわずかに創太の右斜め後ろへ泳がせる眼球の摩擦音。


(こいつ……嘘をついている)


創太は顔色一つ変えず、冷徹な観察眼で太田を注視した。


太田が差し出した「鍵」の表面。そこには微細なバリ(金属の加工痕)が残っていた。それは学校の備え付けの鍵ではなく、個人がキーホルダーなどに使う一般的な南京錠の鍵だ。


(こいつは放送室の鍵など持っていない。それどころか……俺たちをここで足止めし、何かへ誘導しようとしている)


なぜ太田はそんな嘘をつくのか?


その疑問に対する答えは、直後に訪れた恐ろしい予兆によって証明された。


ジ……ジジジジジジジジッ!


階段の踊り場の天井にある非常用スピーカーから、高周波のノイズが鼓膜を刺すように炸裂した。


暗闇の空間が一瞬で凍りつき、階段の壁面からドクドクと不気味な黒赤の粘液が滲み出し始める。


「ひぁっ……! き、来た! また来たぁぁぁっ!」


太田が悲鳴を上げてその場に膝をついた。しかし、その狼狽の仕方に、創太は確固たる違和感を覚えた。太田は恐怖に震えながらも、自らの身体の位置を「創太の目の前」から「創太のわずか背後(階段の登り口)」へと、さりげなく移動させていたのだ。


スピーカーから、あの濡れた女の声が降ってくる。


『――ふふ。階段の途中で出遭った愚かな羊たち』


声は楽しげに、そして甘く耳元で囁く。


『六つ目の「整い」の時間です。さあ……指名しましょう』


スピーカーの奥で、カチ、カチ、カチと死の歯車が回り始める。


『2年B組、太田勝くんと掛けまして』


指名されたのは――太田だった。


「ひっ……! お、俺……っ!?」


太田は顔を歪め、絶叫した。だが、次の瞬間、太田の口から出た言葉は、狂乱した人間のそれではなく、事前に緻密に計画されていたかのような「誘導の罠」だった。


「神谷! 助けてくれ! 問いが来た! でも俺……俺、答えを知ってるかもしれないんだ!」


太田は血塗られた手で創太の腕を掴もうとして叫んだ。


「一年前! 一年前の鳴海詩織の事故の時、俺は見たんだ! 白石だ! 白石が詩織のノートを破いて、ゴミ箱に捨ててたのを俺は見たんだよ!」


「な……!?」


葵の身体が、雷に打たれたように硬直した。


「嘘をつくなぁぁぁっ!」


創太の冷酷な怒号が、暗闇の階段に響き渡った。


創太は掴みかかってきた太田の手首を力任せに振り払い、彼を突き飛ばした。


太田は階段のステップへ尻餅をつき、血走った目で創太を睨み返した。


「嘘じゃない! 本当なんだ! 問いの答えはこれだ! 『太田勝と掛けまして、破られた詩織のノートと解く。その心は、どちらも白石葵に裏切られて捨てられた』だ! 神谷、これを今すぐスピーカーに向かって唱えてくれ! お前が言えば正解になるんだよ!」


太田の企みの全貌が、ここで完璧に露わになった。


太田は最初から、自分がターゲットに指定された時のために「身代わりの罠」を用意していたのだ。


自分に対する問いが発生した際、葵に過去の罪(偽りの罪)をなすりつけ、創太の「高い観察力と発言力」を利用して、その偽りの回答を正解として怪異へ提出させようとしていたのだ。もしそれが正解なら自分が助かり、たとえ間違えて創太や葵が「不整」で解体されたとしても、自分は回答猶予時間を稼ぎ、その間に脱出する――。


自分の保身のためだけに、冤罪を捏造し、創太と葵を死の罠へ落とし込もうとする悪虐極まりない狂気。


「太田」


創太の声は、もはや人間に対するそれではなく、害虫を見下ろすような冷徹さに満ちていた。


「お前の心臓の音は、さっきから不自然に跳ね上がっている。指の震え、目線の動き、そして……お前の語る『嘘』の波形まで、俺の耳には全て聴こえているんだ」


「な……なにを……言叩いてんだよ……!」


「葵が詩織のノートを破くはずがない。一年前、詩織のノートを破り、靴箱にゴミとして叩き込んだのは――お前と西条だ」


創太の言葉に、太田の顔面が恐怖で引きつった。


「お前の過ちは二つある」


創太は一歩、太田へ向かって踏み出しかけた。


「一つは、俺の耳を欺けると思ったこと。そしてもう一つは……怪異が『偽りの回答』をごまかせるほど甘いと思っていることだ」


一年前の雨の日。

創太の過剰な聴覚は、廊下の隅で太田が西条に激賞されながら、詩織の教科書やノートをビリビリと破り捨てていた「紙の引き裂ける音」を、ハッキリと聴いていたのだ。


太田こそが、詩織の所有物を物理的に破壊し、彼女の尊厳をズタズタに引き裂いた主犯の一人だったのだ。


「ひっ……! 違う! 俺じゃない! 俺は西条に命じられて……!」


太田が言い訳を叫ぼうとした、その時。


スピーカーの奥から、カチ、カチという歯車の音がピタリと止まった。


制限時間、三分。


だが、問いの「真の答え」を出す前に、太田が自ら弄した「偽りの回答」と「保身の嘘」に対して、怪異の冷酷極まりない審判が下された。


『――偽答(ぎとう)、ならびに不整』


スピーカーから響いたのは、これまでと異なる、地獄の最底から放たれたような禍々しい宣告だった。


「え……? ぎ、偽答……!?」


太田が目を見開き、自分の絶叫を途切れさせた。


次の瞬間、太田の全身の皮膚の下から、ミシミシ、パリパリパリッ、という、紙が極限まで引っ張られて破れ出る不快な摩擦音が響き始めた。


「ひあぁぁぁぁぁぁぁっ!? 痛い! 皮膚が! 皮膚が破れるぅぅぅっ!」


太田が自らの腕と胸をかきむしった。


だが、彼の皮膚はもう人間の肉体ではなかった。


彼の全皮膚が、一年前にお前が破り捨てた鳴海詩織のノートの紙質――乾いた白紙へと変質していたのだ。


ズザザザザザザザザザッ!!!!


太田の全身の皮膚に、目に見えない無数のカッターナイフで切り裂かれたような「縦と横の亀裂」が一斉に走った。


「あガっ……ごふっ……! ぎゃあああぁぁぁぁぁぁっ!」


太田の顔面、首、胸、腹、腕、足の全皮膚が、まるで細かくシュレッドされた無数の「白い紙切れ」となって、一瞬にしてペラペラと剥がれ落ち始めたのだ。


皮を奪われた彼の肉体から、赤黒い血液と黄色い脂が泥流となって噴き出す。


「助けて! 神谷! 助けてぇぇぇっ!」


皮を失った太田が、創太へ向かって血みどろの手を伸ばした。しかし、彼の指の肉もまた、細かく縦に引き裂かれ、紙くずのようにボロボロと床へ崩れ落ちていく。


さらに、彼の体内で砕けた骨と内臓が、剥がれ落ちた皮膚の隙間から大量に溢れ出し、階段のステップを血の海へと変えていった。


太田の体から剥がれ落ちた数千枚の「白い紙切れの皮膚」。その一枚一枚の表面に、赤黒い血の文字で、かつて彼が詩織へ書き集めた醜い中傷の言葉――『死ね』『消えろ』『汚い』という文字が、びっしりと浮き上がっていた。


「が……ぁ……っ……」


自らの嘘と罪の代償として、全皮膚を紙切れのように引き裂かれた太田は、血と肉の塊となって階段を転がり落ち、二階の踊り場でピクピクと痙攣した後に動かなくなった。


彼の剥がれ落ちた血濡れの紙皮膚が、階段の風に舞い、創太と葵の足元へひらひらと舞い落ちてくる。


「はぁ……はぁ……」


創太は舞い散る血の紙切れを見下ろし、深く息を吐いた。


葵は創太の背中にしがみつき、言葉にならない震えを抱えながら、創太の無事を確認するように手を強く握りしめていた。


太田の自爆劇によって、西条グループの罠は破綻した。

自らの保身のために仲間を騙し、嘘の回答で怪異をごまかそうとした者は、その嘘の代償として最も惨酷な解体を受ける。


『――ふふ。偽りの言葉を紡ぐ舌は、自らの皮膚とともに引き裂かれましたね』


スピーカーから、あの女の声が慈しむように響く。


『神谷創太くん。あなたは実に耳が良い。ですが……いつまでその耳で、他人の絶叫を聴き続けられるでしょうか?』


スピーカーのノイズが静まり、階段に再び冷たい静寂が戻ってきた。


階下からは、太田の死体を見た西条たちの絶望の悲鳴が遠く聞こえていた。もはや彼らも、創太を安易に騙したり襲ったりすることはできないと知ったはずだ。


「行くぞ、葵」


創太は足元の血の紙切れを踏み越え、三階へと続く最後のステップを駆け上がった。


三階廊下の奥。

暗闇の中にぽつんと佇む、重厚な鉄の扉――『放送室』。


鳴海詩織が遺した真実の言葉と、この惨劇の根源が眠る場所へ、ふたりはついに足を踏み入れようとしていた。

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