第11話:『放送室の密室』
三階廊下の空気は、二階までの血生臭い熱気とは異なり、氷室に閉じ込められたかのような刺すような冷気で満ちていた。
足元に舞い落ちた太田の血濡れの紙皮膚を踏み越え、創太と葵は静まり返った廊下を奥へ奥へと進んだ。二階から響いていた生存者たちの悲鳴や、壁に縫い付けられた菅原の血の気泡音は、階段を上りきるにつれて薄皮を一枚隔てたかのようにくぐもっていった。
だが、この静寂こそが何よりも恐ろしかった。まるで校舎そのものが巨大な胃袋となり、消化を終えた後の静けさを保っているかのようだった。
「ここだ……」
創太が立ち止まったのは、三階廊下の最奥に位置する防音鉄扉の前だった。プレートには『放送室』の三文字が刻まれている。
防音扉の表面には、無数の「濡れた手の痕」が赤黒くへばりついていた。それは大人の手形ではなく、小さな女子生徒の手形――爪を立て、扉にしがみつき、必死に中へ入ろうとしたか、あるいは中から出ようと揉がき苦しんだ痕跡だった。
「鍵は……かかっているか?」
創太がドアノブに手を伸ばそうとしたその時、隣にいた葵が創太の腕を強く引き留めた。葵は蒼白な顔で首を激しく振り、ポケットからノートを取り出すと、殴り書きのような素早さで文字を提示した。
『待って。放送室の防音扉は、外から鍵をかけたら中からは絶対に開かない仕組みになってるの。一年前のあの日……詩織さんが中に閉じ込められた時も、外から鍵をかけられた』
「……外から施錠されたのか」
創太は眉間を寄せた。
『うん。当時の放送部長たちが、詩織さんの告発を止めるために外から南京錠をかけたの。でも……今のドアノブを見て』
葵の指示に従い、創太はドアノブの根元に視線を落とした。
南京錠を取り付けるための金具(掛け金)は、何者かの手によって根元からぐにゃりと逆方向に折り曲げられ、金属が疲労破壊を起こしてちぎれ飛んでいた。その破断面には、人間の歯型のような鋭利な削り痕がびっしりと残されている。
カチ……。
創太の過剰な聴覚が、扉の内部から響く微かな音を捉えた。
それは、重厚な金属のラッチが、誰も触れていないはずの内側から「解除される」音だった。
ギギギギギギギ……ッ。
静寂を切り裂いて、厚さ十センチメートル以上はある防音扉が、自らゆっくりと内側へ向かって開いていった。
扉の隙間から漏れ出てきたのは、強烈なオゾンの臭いと、湿った古い磁気テープの臭気、そして――人間の汗と脂が腐敗した嫌な不快臭だった。
「……行くぞ」
創太は葵の小さな手を取り、開いた扉の闇の中へ足を踏み入れた。
放送室の内部は、完全な「密室」だった。
窓ガラスは二年B組の教室と同様、石油のようなドロリとした黒い粘液によって隙間なく埋め尽くされ、外の光は一光たりとも差し込んでいなかった。非常用の赤灯だけが天井で不規則に明滅し、室内に立ち並ぶ大型の放送機器(アナウンスコンソールやミキサー、ラックマウント群)のシルエットを浮き彫りにしている。
そして、防音壁に囲まれたこの室内は、外部のあらゆる音を完璧に遮断していた。二階の悲鳴も、廊下の血の滴る音も聞こえない。聞こえるのは、ただ二人の荒い呼吸音と、機械の深頭から漏れる不気味な動作音だけだった。
「葵、放送機器の様子を見てくれ。お前の方が詳しいはずだ」
葵は意を決したようにコクリと頷き、放送主調整卓へ歩み寄った。
葵の手が、フェーダーやスイッチ類の上を素早く滑る。彼女は放送部員として、この部屋の機材を毎日操作していたのだ。しかし、機材を調べる葵の瞳が、次第に恐怖で大きく見開かれていった。
彼女は震える手でコンソール裏の配線スペースを指差し、創太へノートを叩きつけるように突き出した。
『あり得ない……創太、これを見て!』
創太がコンソールの裏側に回り込み、懐中電灯の光(スマートフォンの僅かな残光)で配線群を照らし出した。
そこにあったのは、物理的な常識を狂わせる光景だった。
放送室内のすべての大型機器――アンプ、ミキサー、電源ディストリビューターの主電源コードは、壁のコンセントから完全に抜かれていた。太いプラグが床に転がり、電気の供給は一切絶たれているはずだった。
それにもかかわらず。
ジジジジ……ジジジジジジ……。
アンプの内部にある真空管や大型トランスが、怪しく赤黒く発光していた。トランスは高熱を帯び、空気をジリジリと焦がしながら、生き物のようにドクドクと重低音の振動を放ち続けているのだ。
「電源コードが抜けているのに……稼働している……?」
創太がアンプの金属筐体に手を近づけると、刺すような高熱と、微かな「脈動」が伝わってきた。金属の表面が、まるで人間の皮膚のようにわずかに波打ち、内側から押し上げられているかのような不気味な手触り。
葵はコンソールのメーター類を指差した。
音量を示すVUメーターの針が、音声入力がないにもかかわらず、狂ったように振り切れ続け、レッドゾーンを叩き叩き叩き叩き刻んでいた。
レベルメーターの針が振れるたびに、天井のスピーカーから、あの「濡れた女の声」の吐息が、極小の音量で漏れ出てくる。
『……ふふ……ふふふふ……』
「創太……」葵が創太の服を掴み、小刻みに震えた。
この密室で、電気も通っていないはずの機器が、自律的に狂気の音声を生成し続けている。
だが、創太の過剰な聴覚は、この放送機器が放つ音の「質」に対して、更なる致命的な違和感を察知し始めていた。
(待て……この機器は、音を『作って』いるんじゃない……)
創太はミキサーコンソールの裏側から這い出し、懐中電灯の細い光を放送機器の配線網へ向けた。
電源プラグは床に転がっている。しかし、壁の内部を通る太い同軸ケーブル群が、まるで生き物の静脈のようにピクピクと肉感的に収縮を繰り返していた。壁のコンクリートから無数の「黒い毛細血管のような根」が伸び、それが配線被覆を突き破って、ミキサーやアンプの内部回路へ直接穿孔し、接続されていたのだ。
「創太……?」
葵が不安そうに創太の表情を覗き込む。
「葵、この放送設備は怪異の発信源じゃない」
創太の声は、寒気立つ確信に満ちていた。
「俺は最初、誰かがこの放送室に潜んで、校内放送を使って『問い』を流しているのかと思っていた。だが違う。この機械群は、どこか別の『本源』から流れてくる声を拾い上げ、校内全域のスピーカーへ向かって大音量でブーストしているだけの……単なる『増幅器』に過ぎないんだ」
葵が息を呑み、ノートに素早くペンを走らせた。
『増幅器……? じゃあ、本物の声はどこから出ているの?』
「分からない。だが、この壁の根が伸びてきている『先』……校舎のさらに深い場所か、あるいは異界化した空間の核だ」
創太は自らの耳を澄ませた。
壁の内部を這う黒い根から、地鳴りのような重低音が響いている。それは、これまで犠牲になった長谷川さくら、近藤、武田、小林、渡辺、水野結衣、菅原、太田――死んでいった者たちの絶叫や骨の砕ける音が、何重にも折り重なってドロドロに溶け合った「死者のノイズ」だった。
この放送室は怪異の部屋などではない。かつて鳴海詩織が言葉を奪われた場所であり、その怨念を学校中に撒き散らすための「中継ステーション」として改造された犠牲の部屋なのだ。
その時だった。
カチッ……カチカチカチ……。
放送室の片隅、資料棚の陰に設置されていた古い型のオープンリール式テープデッキから、乾いた機械音が聞こえてきた。
電源コードが抜かれているにもかかわらず、左右の金属製リールがギギギと重い音を立てて自律的に回転を始めのだ。磁気テープは真っ黒く変色し、まるで干からびた人間の皮膚の帯のように、へばりついた赤黒い血を引きずりながら巻き取られていく。
「あ……」
葵がそのテープデッキを指差し、目を見開いた。
葵は知っていた。そのデッキにセットされているオープンリールテープは、一年前のあの日――鳴海詩織が放送室に立てこもった際に、最後にセットしたまま放置されていた「記録テープ」であることを。
デッキの再生ボタン(PLAY)が、見えない指によって強く押し込まれた。
バチッ! という強烈な静電気のスパークとともに、アンプの大型スピーカーから、猛烈なノイズ混じりの「音声」が室内へ溢れ出した。
『――あ、あー。マイクのテスト。マイクのテスト』
流れてきたのは、スピーカーから響く湿った女の声ではなかった。
それは、震え、掠れ、今にも消えてしまいそうな、痛々しいほど幼い少女の声――一年前の鳴海詩織自身の肉声だった。
『……私は、負けません。2年B組のみんなが私に何を言っても……教科書を破られても、ハサミで服を切られても、存在しない者として無視されても……私は、本当のことをみんなに話します』
テープの中で、詩織が必死に鼻をすする音がリアルタイムのように生々しく響く。
『言葉は……凶器です。みんなは軽い気持ちで言っているかもしれないけれど……私の心は、もうボロボロです。体が……骨が割れるみたいに痛いんです。だから……聞いてください。私をこんな風にしたのは――』
ドスッ! ドカッ!
テープの中で、突如として激しい破砕音と、ドアを蹴り破るような爆音が炸裂した。
『開けろ詩織! 何勝手な真似してんだ!』
『マイクを切れ! テープを奪え!』
テープから聞こえてきたのは、当時の3年生の男子生徒たちと――そして、聞き覚えのある男子の声だった。
『お前みたいな汚い奴の声、全校放送で流せるわけねえだろ! 消えろ!』
それは、西条拓海の荒々しい怒号だった。
『嫌! 触らないで! 離して! 私の言葉を……私の声を奪わないでぇぇぇっ!』
ザザザッ! ガシャーン!
マイクが床へ叩きつけられ、詩織の悲鳴と、彼女が外へ引きずり出されていく凄惨な暴行の音がテープに録音されていた。そして最後に、重厚な防音扉が外から閉められ、南京錠がガチャンと施錠される嫌な音が響き――テープの音声は、激しいノイズへと呑み込まれていった。
「詩織さん……」
葵の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。葵は床にへたり込み、胸をかきむしるようにして声を殺して泣いた。
一年前、葵はこのドアのすぐ外にいたのだ。詩織が助けを求めてマイクを握り締め、そして上級生や西条たちによって強引に連れ去られていく音を、扉越しに聴いていたのだ。しかし、葵は恐ろしさのあまり助けることができず、ただ物陰に隠れて震えていることしかできなかった。
『ごめんなさい……ごめんなさい詩織さん……っ!』
葵がノートに殴り書いた文字は、涙で大きく滲んでいた。
創太はオープンリールデッキへ近づき、回転し続ける黒いテープを見つめた。
「そうか……怪異の『なぞかけ』は、詩織自身が考えたものじゃない」
創太の言葉に、葵が顔を上げた。
「詩織は、ただ自分の傷ついた声を届かせたかっただけだ。だが、彼女が死んだ後……彼女を死に追いやった俺たち2年B組の『醜い罪悪感』と『悪意』が、この放送機器の増幅作用によって歪められ、物理的な殺戮プログラムとして現実化してしまったんだ」
この怪異の正体。
それは単なる亡霊の復讐ではない。鳴海詩織という犠牲者の怨念を核として、生き残った生徒たちの「保身」「憎悪」「罪の擦り付け合い」という醜い精神エネルギーを増幅器が吸い上げ、凶悪な殺戮の『問い』へと変換・出力し続けている悪夢のシステムなのだ。
「この放送設備を壊せば……『問い』の増幅を止められるかもしれない!」
創太は近くにあった鉄製のマイクスタンドを拾い上げ、脈動するアンプへ向かって力任せに振り下ろそうとした。
その時――。
ガギィィィィィンッ!!!!
放送室の防音扉が、外側から凄まじい衝撃とともに叩き開かれた。
「見つけたぞ……神谷ぁぁぁぁぁっ!」
扉の隙間から滑り込んできたのは、全身を返り血と汗で泥みどろにした西条拓海だった。
彼の後ろには、生き残っていた数名の生徒たちが、亡者のような虚ろな目をして群がっている。西条の手には、血の滴る凶器――ガラスの破片を縛り付けた太い木棒が握られていた。
「お前らだけ……この部屋に隠れて助かろうなんて許さねえ……!」
西条の瞳には、もはや完全な正気の破片すら残されていなかった。
「外の奴らはみんな……針で壁に縫い付けられたり、紙切れになって死んだ! 俺を残して全員死にやがった! お前らのせいだ! お前らが正解を言わないからだぁっ!」
西条が木棒を振り上げ、創太へ向かって飛びかかってきた。
同時に、放送室のアンプから、電源が入っていないはずのスピーカーが爆音のノイズを叩き出した。
ジジジジジジジジジジジジジッ!!!!
『――ふふ。増幅器の部屋に、すべての罪人が揃いましたね』
湿った女の声が、放送室の防音壁に反響し、創太たちの鼓膜を内側から破らんばかりの勢いで響き渡る。
『七つ目の「整い」の開始です。……さあ、あなたたちの命を、極上のノイズに変えて差し上げましょう』
増幅された絶望の密室で、創太、葵、そして狂気に憑かれた西条たちの、生き残りを懸けた最悪の問答が始まろうとしていた。




