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言葉に喰われた街の、逃げられない問い  作者: solune


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第8話:『疑心の毒』

水野結衣だった色彩豊かなガラス片の山から、赤黒い血が床の目地に沿って尾を引くように広がっていく。


教室内は、完全に死滅していた。


誰も言葉を発しない。発すれば、次の瞬間に自らの名前が呼ばれ、肉体が異形へと解体されるのではないかという妄想が、生存者16名の脳髄を苛烈に突き刺していたからだ。エアコンの切れた室内に立ち込めるのは、渡辺の煮え滾った脂の焦げた臭い、さくらの血肉の腐敗臭、そして結衣の体内で弾けた鉄分混じりの血液の臭気。それらが湿気と混ざり合い、呼吸をするたびに肺の奥へ粘りつくような吐き気を運び込んでくる。


「ヒっ……ふぅ……ふぅ……」


教卓の陰で、西条拓海が己の血塗られた両手を見つめながら、浅い呼吸を繰り返していた。彼の腕や首筋には、結衣の身体から爆発的に飛び散ったステンドグラスの破片が幾つも深く突き刺さっており、動くたびに服地を赤く染め上げていく。だが、彼はその激痛すら感知できていないようだった。


彼の瞳は、もはや人間のそれではない。恐怖と自保心が限界突破し、周囲の全てを「自分を殺しに来る敵」と見なす狂人の眼光へと成り果てていた。


「西条さん……」


西条の取り巻きだった男子生徒・太田が、頬をガラス片で切られ、血を流しながら怯えがちに声をかけた。


「静かにしろぁぁっ!」


西条が落雷のような怒号を上げた。手に握りしめた清掃用の折れた木棒を、狂ったように太田の足元へ叩きつける。木くずが弾け、太田は「ひいっ!」と悲鳴を上げて壁際へのけぞった。


「喋るな! 俺に話しかけるな! お前ら全員、俺を陥れようとしてんだろ!? 水野に嘘の答えを言わせたのは俺じゃねえ! 神谷だ! 神谷が正しい答えを言わなかったからだ!」


西条の血走った目が、教室の隅に佇む神谷創太へと向けられる。


創太は背中の刺創(さくそう)からの痛みに耐えながら、葵を己の身体の後ろへ庇い、冷ややかな視線で西条を見返した。西条の心拍数は異常な高音のタペストリーとなって創太の耳へ届いていた。早鐘のように打つ心臓。血流が激しく脳へ打ち付ける音。西条自身が、己の犯した罪と死の恐怖によって、内側から自壊しかけているのだ。


「誰も……お前を陥れてなどいない、西条」


創太の低い声が、静まり返った教室内を切り裂いた。


「お前は自分で自分の首を絞めているんだ。恐怖に囚われ、他人を実験台にし、クラスメイトを殺した。その事実から逃げるために、俺や他人に罪をなすりつけているだけだ」


「ウルッセえよ! 賢者ぶるんじゃねえぞ神谷ぁッ!」


西条が木棒の先を創太へ突きつけた。彼の指先はガタガタと激しく震えている。


「お前が……お前が全部悪いんだ! お前がその気になれば、全員助かる答えを一瞬で出せるはずだろ!? なのに出し惜しみしやがって! お前は俺たちが死ぬのを高みの見物で楽しんでんだろ!?」


西条の支離滅裂な糾弾に、周囲の生存者たちの視線が揺れた。


クラスの人間関係は、結衣の惨劇を経て、完全に「疑心暗鬼の毒」に侵されていた。


生徒たちは西条の狂暴さを恐れる一方で、創太の「冷徹な観察力」に対しても不気味さと恐怖を抱き始めていたのだ。なぜ神谷だけが問いの法則を見抜けるのか。なぜ神谷は仲間が惨殺されても冷静でいられるのか。まさか、神谷自身がこの怪異と裏で繋がっているのではないか――。


極限状態の人間は、理不尽な状況を理解するために「わかりやすい悪者」を欲する。


「そうだ……神谷くん……」


壁際で膝を抱えていた女子生徒が、涙と血で汚れた顔を上げ、怯えた声で呟いた。


「神谷くん、最初から知ってたんでしょ……? 水野さんが間違えたらどうなるか、知ってたのに止めなかった……」


「違う!」


喋れないはずの葵が、掠れた声にならない空気の塊を吐き出しながら、創太の前に立ちはだかった。葵は必死でノートを掲げ、震える手で書かれた文字を生徒たちに見せつけた。


『創太は助けようとしてた! 水野さんに喋るなって何度も叫んでた! 結衣ちゃんを殺したのは西条くんなの!!』


だが、恐怖で正気を失った生徒たちに、葵の必死の訴えは届かない。


「白石さんは神谷くんと仲が良いから庇うんだ……」


「私……もう誰も信じられない……みんな自分が助かるために嘘ついてるんだ……」


毒は、静かに、確実に全員の精神を蝕んでいた。


かつて文化祭や体育祭で笑い合っていた仲間たちが、今や互いを「次の問いの生贄候補」として品定めし合っている。誰かが一歩動くだけで、周囲の生徒がビクッと体を硬くし、身構える。会話は途絶え、残されたのは互いへの敵意と、いつ天井のスピーカーが鳴り出すかという生殺しの恐怖だけだった。


(ダメだ……ここに居続けては全員狂い死にする)


創太は自らの研ぎ澄まされた聴覚で、教室内の「音」を拾い上げた。


生徒たちの不規則な心音。西条の荒い息遣い。床で固まりつつある血の粘つき。そして――廊下の闇の奥から、かすかに響いてくる「別の音」。


ジジ……ジジジ……。


アンプの電源が入っているはずのない、校内放送の配線系統から漏れる、微弱な高周波のノイズ。


(あの音の根源……怪異が音を吐き出している『元栓』はどこだ?)


創太は葵の手を握りしめ、彼女の目に強い光を込めて視線を合わせた。


葵もまた、創太の意図を察したように、小さくコクリと首を振った。


彼らが向かうべき場所。この血塗られた教室を捨て、怪異の核へと迫るための唯一の場所――それは、三階の奥にある『放送室』だった。


2年B組の教室は、もはや死体安置所であり、同時に狂人たちの監獄と化していた。


窓を塞ぐ石油のような黒い粘液は、時折ウネウネと蠢き、外の陽光を遮断し続けている。教室内には水も食料もなく、生存者の体力と精神力は削り取られ、限界を超えつつあった。


西条拓海は、取り巻きの二人に指示を出し、教卓や破られた机を移動させて教室の前ドアと後ろドアの付近に「自陣」を築き始めていた。彼はクラスの生存者を自分に従う者と、従わない者に選別し、恐怖政治によって教室の支配権を完全に握ろうとしていたのだ。


「おい、神谷、白石」


西条が血塗られた木棒を肩に担ぎ、凶暴な笑みを浮かべて近づいてきた。


「お前らは壁際のあの席から動くな。水や何かが見つかっても、お前らには分けねえからな。次の問いが来たら、真っ先にお前が解け。解けなきゃ……わかるな?」


創太は西条の脅迫に応えず、静かに葵のノートへ目を落として筆談を続けた。


『西条たちは教室に固執している。だが、この狭い空間に大人数で留まり続けること自体が自殺行為だ。次の問いが来れば、逃げ場のないこの部屋で再び惨劇が起きる』


葵が素早くペンを動かす。


『放送室に行きたいの? でも、廊下に出たら……武田くんたちみたいに押し潰されるんじゃ……』


創太は首を横に振った。


『武田たちが潰されたのは「校外への脱出」を試みたからだ。境界線を越えようとした者にだけ、あの不可視の重圧が働く。校内の移動であれば、問いの回答猶柔時間内か、あるいは問いが発生していない隙を突けば移動できる可能性がある』


葵の瞳が小さく見開かれた。彼女は放送部員だ。校内の放送設備、配線、そして放送室の構造を誰よりも熟知している。


葵は震える指先で、重要な伏線となる事実をノートに書き刻んだ。


『一年前の雨の日……鳴海詩織さんが飛び降りる直前、彼女は放送室に忍び込んでいたの。私はそれを見た。詩織さんは放送室のマイクを使って、全校生徒に「何か」を訴えようとしていた……でも、当時の放送部長(現・3年生)がそれを止めて、詩織さんを追い出したの』


創太の胸の奥で、カチリと何かが噛み合った。


(鳴海詩織と、放送室――)


なぜ怪異は「校内放送のスピーカー」を媒体として、あの濡れた声で問いを投げかけてくるのか。


それは、彼女が最期に自らの声を届かせようとし、拒絶された場所が「放送室」だったからだ。


あそこに怪異の起源がある。あそこに、彼女が遺した「真実の言葉」が眠っているはずだ。


『放送室には、アナウンス用のアンプ機器だけじゃなく、過去の校内放送の録音テープや、生徒の活動記録がアーカイブされている。詩織さんが残したメッセージがあるかもしれない』


葵の文字に、強い決意が宿っていた。


だが、問題はどうやってこの教室を脱出するかだった。


前後のドア付近には西条とその取り巻きが目を光らせている。西条は創太を「問いを解かせるための道具」として拘束するつもりであり、創太たちが教室を出ようとすれば、力ずくで阻止してくることは確実だった。


しかも、他の生徒たちも「神谷がいなくなったら自分たちが死ぬ」という恐怖から、西条の暴虐を容認して創太たちを閉じ込めようとするだろう。


(全員が疑心の毒に侵されている。この狂気の連鎖を逆手にとるしかない)


創太は自らの過剰な聴覚に意識を集中させた。


廊下の暗闇。二階から三階へと続く階段。そして放送室のある三階廊下。


静寂の奥底で、かすかな「予兆」が聞こえていた。


ポタ……ポタ……。


二階廊下の天井から、血の滴る音がリズムを変え始めていた。怪異が次の「問い」を形成するための準備段階。ノイズの周波数がわずかに高くなり、壁の内部で肉と骨が蠢く湿った摩擦音が強まっている。


あと数分で、次の死の問いが教室を襲う。


「葵」


創太は葵の耳元へ顔を寄せ、西条たちに聞こえないほどの極小の囁き声で告げた。


「次の問いの予兆が来たら、俺が西条たちの注意を黒板へ引きつける。お前はその隙に後ろのドアの隙間から廊下へ滑り出せ。俺もすぐ追う」


葵は驚いたように創太を見つめたが、創太の瞳にある一切の迷いのない意志を感じ取り、固く頷いた。


「おい、何コソコソ話してんだよ!」


異変に気づいた西条が、木棒を構えて大股で迫ってきた。


「神谷、白石! お前ら妙な真似してみろ、ただじゃ――」


その言葉が完結することはなかった。


ジジジジジジジジジジジジッ!!!!


突如、天井のスピーカーから、耳を切り裂くような凶悪なノイズが炸裂した。


「ひあぁぁぁぁぁっ! 来た! また来たぁぁぁっ!」


生徒たちが悲鳴を上げて頭を抱え、床へ転がり回る。西条も思わず顔を歪め、スピーカーを見上げて足を止めた。


黒板の表面がドクドクと赤黒い血を吹き出し始め、新たな死の文字を刻もうと蠢き出す。


「今だ!」


創太が叫ぶと同時に、葵は弾かれたように立ち上がり、教卓の陰をすり抜けて後ろドアの隙間へ飛び込んだ。


「あ!? 白石! 待ちやがれ!」


西条の取り巻きが気づいて手を伸ばしたが、創太が机を力任せに蹴り飛ばし、西条たちの足を掬った。ガシャーン! と激しい音を立てて机が倒れ、西条たちが血の海の上で盛大に転倒する。


「神谷ぁぁぁっ! お前ら逃げる気かぁっ!」


西条の怒号が響く中、創太は葵の後に続いて後ろドアの隙間へと飛び出した。


背後で、スピーカーからあの濡れた女の声が響き始める。


『――ふふ。逃げ出しましたね、賢い仔羊たち』


暗闇に包まれた二階廊下。


創太と葵は、足元に散らばる小林のガラス状の骨片と結衣の血の海を蹴り分け、三階の放送室を目指して走り出した。


背後から追ってくる西条たちの怒声と、教室内で始まる新たな死の問答。


疑心の毒に冒された教室を捨て、ふたりは死と真相が渦巻く校舎の深淵へと、一歩を踏み出した。

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