第7話:『ガラスの乙女』
教室の前方に聳える黒板が、ギチギチと骨のきしむような音を立てて波打っていた。
滴り落ちる粘液は赤黒く、まるで裁断された動脈から噴き出す血の泡のように、濃緑色の表面をドクドクと濡らしていく。黒板の木枠がメリメリと歪み、そこから染み出た血の筋が、恐ろしいほどの精度で不気味なひらがなを形作っていく。
『2年B組、水野結衣さんと掛けまして』
指名されたのは、教室の隅で身を縮めていた図書委員――水野結衣だった。
「ひっ……! 嫌……嫌ぁぁぁぁぁっ!」
結衣の喉から、掠れた悲鳴が漏れ出た。彼女は両手で顔を覆い、ガタガタと全身を激しく振るわせながら、血で滑る床へへたり込んだ。
黒板の血文字は、彼女の絶望を嘲笑うかのように続きを刻み込んでいく。
『古い教会のステンドグラスと解く。……その心は?』
『制限時間は三分です。……答えを整えなさい、結衣さん』
スピーカーから、あの生々しく湿った女の声が降り注ぐ。直後、スピーカーの奥でカチ、カチ、カチと、刻一刻と死を削り取る歯車の音が響き始めた。
「結衣ちゃん! 逃げて!」
女子生徒の一人が叫んだが、逃げ場などどこにもないことは、一階の昇降口で肉餅と化した武田たちの惨劇が証明していた。
「結衣……っ!」
創太は即座に葵のメモ帳へ視線を落とし、思考の歯車を狂おしいほどの速度で回転させた。
(水野結衣。大人しく、目立たない少女。図書委員。そして、古い教会のステンドグラス――)
結衣の身体的な特徴、過去の行動、そして一年前の鳴海詩織との関係性。
創太の耳の奥に、一年前の「音」が不鮮明なノイズ混じりで蘇ってくる。
雨の日の図書室。書架の陰で、大人しい結衣が詩織に向かって囁いていた、弱々しくも悲痛な拒絶の声。
『ごめんなさい、詩織ちゃん……私、詩織ちゃんと一緒にいると、私もみんなから無視されるから……もう話しかけないで……』
結衣は詩織の味方でも、積極的な加害者でもなかった。だが彼女は、自分が巻き込まれることを恐れ、詩織の差し伸ばした手を冷たく振り払った「透明な裏切り者」だったのだ。
ステンドグラス。
無数の割れたガラスの破片を繋ぎ合わせて作られる色彩の絵。美しいが、光が差さなければ暗闇に溶け込み、衝撃を与えれば脆く砕け散る。
(水野結衣と、ステンドグラス……! 重なり合う概念……!)
「神谷! 答えは何だ! 早く教えろ!」
叫んだのは西条拓海だった。彼は清掃用の尖った木棒を握り締め、肉片と血で汚れた顔を歪ませて創太へと詰め寄ってきた。
「待て西条、いま解析している! 軽率に声を出すな!」
創太が制止しようとしたが、西条の瞳には正気など一切残されていなかった。彼の目にあるのは、さっき提示した「犠牲の論理」――誰かを実験台にして、自分たちの生存率を確かめるという、悪魔のような自保心だけだった。
西条は創太の言葉を無視し、へたり込んでいる結衣の髪を力任せに掴み上げた。
「キャッ……! やめて、西条くん! 痛いっ!」
「うるせえ! 聞け水野!」
西条は結衣の耳元で、悪魔のような囁きを吹き込み始めた。彼の声は狂気に満ち、歪んだ確信に満ちあふれていた。
「お前、神谷の言ってたことを思い出せ! この問いは『詩織にいじめで与えた傷』の言い換えなんだよ! お前、詩織に何を言った!? 『自分は割れやすいから近寄るな』とか何とか言っただろ!?」
「え……? 私……私、そんな……っ」
結衣は涙で視界を濡らし、支離滅裂な恐怖の中で混乱していた。
「そうだ! 答えはこうだ! 『どちらも、外からの圧力に弱く、すぐにバラバラに割れて崩れ去る』だ! ほら、これを言え! 今すぐ大声で唱えろ!」
「西条、やめろ――!」
創太が叫び、結衣の方へ駆け出そうとした。だが、西条の取り巻きの男子二人――太田と菅原が、創太の前に立ち塞がり、力任せに創太の肩を押し戻した。
「邪魔すんじゃねえよ神谷! 西条さんの言う通り試してみるんだよ!」
「葵、ノートを……!」創太が叫ぶが、取り巻きの男子に腕を固められ、動きを封じられる。葵が必死に創太を助けようと取り巻きの腕に噛み付くが、突き飛ばされて床に倒れ込んだ。
西条は結衣の顔を黒板の血文字へ押し付けるようにして怒鳴りつけた。
「いいか水野! これを唱えてお前が無事なら正解だ! もし違ってたら……まあ、お前が死んで次の正解を探す時間ができる! どっちにしろ俺たちには都合がいいんだよ! ほら言え! 『どちらも外からの圧力に弱く、すぐにバラバラに割れて崩れ去る』って言えぇぇっ!」
「嫌……嫌ぁっ……神谷くん……助けて……っ!」
結衣は恐怖で引きつりながら、創太へ助けを求める視線を向けた。
「結衣、言うな! その答えは違う! 概念がズレている!」
創太は必死で声を張り上げた。
(ステンドグラスの真の本質は『割れやすさ』じゃない! ステンドグラスは『繋ぎ合わされた破片』だ! 結衣が詩織を拒絶した理由は、自分が仲間外れにされることへの恐怖……つまり『自分を美しく保つために、割れた他人の破片を繋ぎ合わせて踏み台にした』ことだ!)
正解は――『どちらも、誰かの割れた破片(犠牲)を継ぎ接ぎして、自分だけの偽りの姿(美しさ)を保っている』だ!
「結衣、口を開くな! 西条の言う答えを叫んだら、お前は死ぬぞ!」
しかし、極限の恐怖と、西条の放つ圧倒的な暴力の圧力に押し潰された結衣の精神は、すでに限界を迎えていた。
残り時間、三十秒。
カチ、カチ、カチ、カチ――死の歯車が狂ったように回転を速める。
「言え! 言わないなら今すぐこの木棒でお前の目を突き破るぞ!」
西条が木棒の尖った先を結衣の目元へ突きつけた。皮膚に木くずが刺さり、結衣の目元からツッと血が伝い落ちる。
「ひぁっ……! 言います! 言いますから! やめてぇぇっ!」
結衣は涙と血に塗れた顔を上げ、狂ったようにスピーカーへ向かって叫んでしまった。
「答えは……っ! 答えは『どちらも外からの圧力に弱く、すぐにバラバラに割れて崩れ去る』ですぁぁぁぁっ!!」
「結衣――っ!」
創太の叫びが教室に空しく響き渡った。
静寂。
一秒。二秒。
黒板の血文字がピタリと動きを止め、教室内を支配していたカチカチという歯車の音が絶えた。
西条がニヤリと惨悪な笑みを浮かべた。
「どうだ……? 喋ったぞ……! 破裂もしねえし、ハサミも出ねえ! 正解じゃないか! 俺の言った通り――」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
天井のスピーカーから、地獄の底から這い上がるような、冷酷極まりない判定が下された。
『――不整』
その宣告が下された瞬間、水野結衣の瞳から一切の光が消え去った。
「え……?」
西条が引きつった声を上げ、結衣の髪を掴んでいた手を思わず離した。
結衣は床にへたり込んだまま、呆然と自らの胸元を見つめた。彼女の制服の胸元――ブラウスの生地の下で、奇妙な「光」がチラチラと点滅し始めていた。
それは、まるで彼女の体内(内臓)に、強烈な光源が埋め込まれたかのような、怪しくも不気味な色彩の光だった。赤、青、緑、黄、紫――宗教画のステンドグラスを透過する光のような、鮮やかで、それでいて致命的な色合い。
「あ……が……っ! 熱い……胸が……熱いよぉ……っ」
結衣が両手で自分の胸をかきむしった。
チリン……。
彼女の体内で、透き通ったガラス同士が硬く擦れ合う、小さく美しい音が響いた。
チリチリチリ……パキンッ!
「ひあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
結衣が突如、天を仰いで狂乱の叫びを上げた。
彼女の胸の皮膚――心臓の真上の肉が、内側から盛り上がり、肉を切り裂いて「何か」が外へ突き出してきたのだ。
ズシャァッ!!
それは、厚さ数センチメートルはある、巨大で鋭利な「ステンドグラスの破片」だった。
赤と青の血に染まったガラスの刃が、彼女の肋骨を叩き割り、胸筋と皮膚を豪快に切り裂いて体内から外へと勢いよく飛び出してきた。ガラスの表面には、彼女の心臓の肉片と、ドロッとした濃い血液がへばりついている。
「結衣――っ!」
創太は取り巻きの二人を力任せに突き飛ばし、結衣の方へ手を伸ばした。だが、もう遅かった。
ズバババババババババッ!!!!
結衣の全身から、破砕音が乱打された。
胸だけではない。彼女の腹部、太もも、首筋、頬、そして背中――肉体の至る所から、数十枚、数百枚もの巨大なステンドグラスの刃が、内臓と肉を内側から豪快に切り裂きながら、芽吹くように外へ突出し始めた。
「ガあっ……ごほっ……! ぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁっ!」
喉から突き出た青いガラスの刃が、彼女の声帯をズタズタに切り刻み、叫び声は血の泡へと変わる。腹部から突き出た赤いガラスの刃は、彼女の大腸と小腸を引っかけて外へ引きずり出し、血の海の上へ撒き散らした。
彼女の体内は、骨も肉も内臓も、すべてがカラフルで鋭利なステンドグラスの破片へと置換されていたのだ。
「ひぃっ……! うわあぁぁぁぁっ!」
結衣を騙して嘘の回答を言わせた西条が、腰を抜かして血の海をのたうち回りながら後ずさった。
「違う! 俺じゃない! 俺は助けようとしたんだ! 俺のせいじゃないぁぁぁっ!」
結衣の体内に溜まった血とガラスの圧力が、限界に達した。
次の瞬間。
パキィィィィィィィィンッ!!!!
教室全体に、耳を切り裂くような凄絶な高音が炸裂した。
結衣の体内から生え揃っていた無数のステンドグラスが、一斉に内側からの圧力に耐えかねて爆発するように砕け散ったのだ。
バシャアッ! グシャァッ!
何千、何万という鋭利なガラスの微粒子と破片が、彼女の肉体を内側から粉々に粉砕しながら、全方位へと弾け飛んだ。
「目を閉じろ! 伏せろぉっ!」
創太は咄嗟に葵を床へ押し倒し、自らの身体で彼女を覆い隠した。
チュチュチュチュチュチュンッ!
弾け飛んだガラスの弾丸が、教室の壁、天井、机、そして逃げ惑う生徒たちの皮膚へ豪雨のように突き刺さった。
「痛いっ! 眼が! 眼に刺さったぁぁぁっ!」
「顔が! 顔が切れたぁぁぁっ!」
生徒たちの悲鳴が響き渡る。取り巻きの男子生徒の一人は、頬に巨大なステンドグラスの破片が深く突き刺さり、顔半分から激しく血を吹き出させてののしり倒れた。
創太の背中にも、幾つもの鋭いガラス片が突き刺さり、制服を切り裂いて激しい激痛が走った。だが創太は歯を食いしばり、葵を抱きしめる腕を絶対に緩めなかった。
ガラスの嵐が収まった時、教室内を支配したのは、あまりにもグロテスクな「静寂」だった。
床の中央――さっきまで水野結衣という女子生徒がいた場所には、原型を留めた肉体など存在していなかった。
そこにあったのは、色鮮やかな血と肉片がへばりついた、数千枚のステンドグラスの破片の山だけだった。
赤、青、緑、黄色のガラス片が、結衣の流した大量の血の海の中で不気味に輝いている。そのガラスの表面一つ一つに、死んだ結衣の歪んだ顔や、開いたままの眼球が、バラバラに映り込んでいた。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ」
創太は背中の痛みに耐えながら起き上がり、葵を抱き起こした。葵の服や顔に怪我はない。葵は創太の背中から流れる血を見て、声にならない悲鳴を上げ、必死に創太の手を握りしめた。
教室内は、結衣の体内で弾けたガラスと肉の残骸で、見るも無残な地獄と化していた。
「ひ……ヒヒッ……」
西条が血とガラス片の散らばる床で、力なく笑い声を漏らした。彼の腕や脚にも幾つものガラス片が深く突き刺さり、赤黒い血が滴り落ちている。
「死んだ……本当に……俺の言った通り……死にやがった……」
「西条拓海」
創太の声は、今までで最も低く、殺意に満ちていた。
創太は背中に刺さったガラス片を自分自身で引き抜き、血の滴る手を西条へ向けた。
「お前が結衣を殺したんだ。お前が自分の保身のために、嘘の答えを結衣に言わせて実験台にした。お前が……彼女を殺したんだ!」
「違う! 違うんだよ神谷!」
西条は狂ったように頭を振り、血塗られた木棒を握り直して創太を睨み返した。
「俺はテストしただけだ! お前だって止められなかったろ!? お前がもっと早く正解を言わないから、こうなったんだよ! お前も同罪だ! お前だって鳴海詩織を見殺しにした同罪だろうがぁぁぁっ!」
西条の叫びが、血塗られた教室に空しく反響する。
その時だった。
ぽたり。ぽたり。
結衣だったステンドグラスの山の真上から、赤黒い血液が滴り落ち、ガラスの表面で弾けた。
天井のスピーカーから、ジジ……というノイズとともに、あの湿った女の声が、今までにないほど深い愉悦を帯びて響き渡った。
『――ふふ。美しい『不整』でしたね』
女の声は、結衣の死を心から慈しむかのように囁いた。
『自分の保身のために、怯える友人を押し出し、嘘の言葉を唱えさせて殺す……。西条拓海くん、あなたのその醜さ、詩織さんも天国で大喜びしていますよ』
「黙れ……! 黙れぇぇぇっ!」西条が天井に向かって木棒を投げつけた。だが木棒は虚しく空を切り、血の床へと転がった。
『さて……実験台を使ったテストも失敗に終わりました』
スピーカーの声は、残された16名の生き残りを見下ろすように、冷たく告げた。
『言葉の重なりを正しく解き明かせない愚かな羊たちに……次は、どんな死の言葉を与えて差し上げましょうか』
スピーカーの奥で、ガチリと、次の殺戮を告げる歯車が噛み合った。
水野結衣の砕けたステンドグラスの破片が、血の海の中で怪しく光を反射している。
ご都合主義の救いは存在しない。
仲間の裏切りと、狂気に走る支配者。
そして、容赦なく襲いかかる「言葉の解体」。
創太と葵は、地獄と化した教室の中で、さらなる深い絶望の深淵へと引きずり込まれていった。




