第6話:『犠牲の論理』
渡辺大樹の肉体が爆破し、その血と脂のスコールが教室内を染め上げてから、重苦しい静寂が2年B組を支配していた。
天井の蛍光灯カバーから、ぽたり、ぽたりと赤黒い雫が落ちる音。床の亀裂を伝って血の池が広がる音。そして、恐怖に押し潰された生徒たちの浅く濁った呼吸音だけが、闇の中で不気味に響き合っている。
教室の空気は、人間の脂が焦げたような強烈な異臭と、生の内臓が放つ刺すような鉄臭さで充満していた。壁や黒板にこびりついた血肉のミンスは、まるで生き物のように鈍い体温を保ったまま、じとじとと赤黒い油膜を浮かせている。
「う……うぁ……」
女子生徒の一人が、血で濡れた自分の手を見つめながら、声にならない嗚咽を漏らしていた。だが、彼女の泣き声すらも、周囲の生徒たちにとっては「怪異を刺激するのではないか」という苛立ちの対象でしかなかった。互いを思いやる余地など、この教室のどこにも残されていなかった。
創太は教室の壁際、窓から遠く離れた場所で、血みどろになった制服の背中を壁に預けていた。
「葵、大丈夫か」
創太が隣の葵へ視線を向けると、彼女は真っ白な顔のまま静かに頷いた。葵の膝の上には、血のついたノートが開かれている。声を奪われた彼女にとって、このノートとペンだけが世界と繋がる唯一の皮膚だった。
創太はポケットからシャープペンシルを取り出し、ノートの新しいページに文字を刻み始めた。
『怪異の「言語構造」を整理する。次の問いに備えるぞ』
葵が小さく息を吸い、創太の手元を真剣な目で見つめる。創太はこれまでの犠牲者と、彼らが突きつけられた「問い」、そして導き出された「死のロジック」を過剰なまでの冷静さで書き並べていった。
【犠牲者と問いの言語解析】
1.長谷川さくら × ハサミ =『どちらも(暴言で)他人を切り裂く』
⇒ 【変貌現象】:体内から大量のハサミが噴出し肉体解体。
2.近藤 × 破られた紙切れ =『どちらも(重みに耐えかねて)ちぎれる』
⇒ 【変貌現象】:太ももの肉がシュレッダーにかかった紙のように縦に細かく切断。
3.武田たち × (外への脱出/重み)=『どちらも(圧力を受けて)潰れる』
⇒ 【変貌現象】:昇降口の不可視の重圧により肉餅化。
4.小林 × ガラスの重身=『どちらも(少しの衝撃で)全骨格が粉々に砕け散る』
⇒ 【変貌現象】:全骨格のガラス化と破砕。
5.渡辺大樹 × 沸騰した水風船 =『どちらも(感情・血液を溜め込みすぎて)自らの皮(肉体)を破裂させる』
⇒ 【変貌現象】:体内の血液沸騰と肉体爆発。
ノートの文字を追う葵の指先が、かすかに震えていた。創太は葵の耳元へ口を寄せ、低い声で囁いた。
「すべての問いは、鳴海詩織が受けた『傷の言い換え』だ。彼女が物理的・精神的に追い詰められたプロセスが、言葉の掛詞を通して俺たちの肉体破壊へ変換されている。……ここまでは合っているな?」
葵はコクリと頷き、ペンを掴むと、力強い筆致でノートに書き足した。
『詩織さんが死んだ日のこと、覚えてる? 1年前の雨の日の放課後。詩織さんは屋上じゃなくて、二階の窓から飛び降りた。あの時、彼女は最後に『言葉なんてなくなればいい』って言ってたの』
創太の胸の奥が、冷たく痛んだ。
(言葉なんてなくなればいい――)
「葵……お前は、あの時彼女と何を話していたんだ? お前が放送部に入ったのも、声を失う危険を冒してまで俺たちに協力するのも、ただの恐怖からじゃないはずだ」
葵の指先がピタリと止まった。彼女は長いまつ毛を伏せ、唇を固く噛みしめた。ノートの余白に、ポツリ、と滲むような小さな文字が書かれる。
『私は……詩織さんの声を、一番近くで聴いていたのに……それを校内放送で流す勇気がなかったの。彼女がみんなに何をされていたか、知っていたのに……自分の保身のために、マイクを向けられなかった』
葵の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、血で汚れたノートの紙面を濡らした。
彼女の抱える深い罪悪感。それは創太と同じだった。創太は「耳」で聴きながら知らぬふりをし、葵は「声(放送)」を持ちながら黙殺した。2年B組の誰もが、加害者であり、傍観者であり、鳴海詩織という少女を死へ追いやった共犯者だったのだ。
「だからこそ……」創太は葵の震える肩を抱き寄せた。「俺たちは生き残って、この言葉の呪いを解かなきゃならない」
その時。
創太の過剰な聴覚が、教室の反対側の隅から漏れ出している「異様な雑音」を捉えた。
ヒソヒソ……ヒソヒソヒソ……。
それは、教卓の影に集まった男子生徒たちのひそめられた会話だった。中心にいるのは、血塗られた清掃用の木棒を握りしめた西条拓海。彼の周囲には、恐怖で理性を失った四人の男子が生け垣のように群がっていた。
「……おい、本当にやるのかよ、西条さん」
「うるせえ、声が大きい。神谷に聞こえるだろ」
西条の声は、毒液のように低く濁っていた。創太は意識を集中させ、彼らの心拍数と呼吸の乱れから、彼らが企てている狂気の全貌を拾い集め始めた。
「神谷の解説はもっともらしいがな……あいつの言った答えが100%正解だっていう証拠がどこにある?」西条が囁く。「もしあいつが途中で推測を外したらどうする? 指名された奴がそのまま正解を口にして『不整』になったら、即死だぞ」
「じゃあ……どうすんだよ?」
「簡単なことだ」西条の口元が、暗闇の中で歪む音が聞こえた。「神谷が提示した『答えの候補』を、指名された本人じゃねえ『別の誰か』に言わせて試すんだよ」
「え……? 別の奴に言わせる……?」
「そうだ。もしそれが間違ってたら、そいつが死ぬだけで済む。指名された本人は死なないし、次の正しい答えを探す時間が稼げるだろ?」
創太の背筋に、氷のような戦慄が駆け抜けた。
(人体実験……! こいつら、正解かどうかも分からない言葉を他人に言わせて、テスト(試走)させる気か……!?)
「犠牲の論理」だ。
自分が助かるために、他人の命をコンクリートの叩き台として使い捨てる。正気ではあり得ないその発想は、しかし、死の恐怖に極限まで追い詰められた生徒たちにとって、甘美な救済の毒として染み渡ろうとしていた。
西条が立ち上がった。木棒を床にコツン、コツンと叩きつけながら、彼の視線が教室の隅で身を縮めている「弱者たち」へと向けられた。
「全員、よく聞け」
西条の声が、静まり返った教室に響き渡った。
へたり込んでいた生徒たちが、ビクッと肩を跳ねさせて西条を見上げる。西条の顔には渡辺の返り血が不気味な斑点となって残り、その目は捕食者のそれへと変貌していた。
「神谷の分析のおかげで、この『なぞかけ』が俺たちの過去の罪と繋がってることは分かった。だがな……」
西条は木棒で創太を指し示した。
「神谷の出す答えが、常に正解だという保障はねえ。神谷だって人間だ。考え違いをすることもある。……そうだろ、神谷?」
創太は無言のまま立ち上がり、葵を自らの背後へ庇った。
「俺の推測に100%の保証はない。だからこそ、軽率に口を開かず、言葉の重なりを吟味する必要があるんだ」
「吟味だぁ?」西条があざ笑う。「そんな悠長なこと言ってる間に三分が過ぎたら、全員まとめて肉片だぞ! だから俺は、より確実で、合理的な生存方法を提案してやる」
西条は教室内を見回し、ゆっくりと歩みを進めた。彼の足音が、血濡れた床をペチャリ、ペチャリと踏みしめる。
「次に問いが来た時……もし指名された奴がいたら、そいつはすぐに答えを口にするな。まず神谷に『答えの候補』をいくつか出させる。そして……」
西条の視線が、教室の最前列で震えていた水野結衣の頭上で止まった。
「その候補となった言葉を、指名された本人ではなく、クラスの『誰か』に声に出して唱えさせる」
教室内が、凍りついたような静寂に包まれた。誰もが西条の言わんとすることの狂気に気づき、息を呑んだ。
「な……何を言ってるの、西条くん……?」
結衣が途切れ途切れの声で尋ねた。
「意味が分かんねえか? 『テスト』だよ」
西条は悪びれもせず、当然のことのように言い放った。
「もし神谷の候補が間違っていたら、テストした奴が『不整』になって死ぬ。だが、指名された本人は死なずに済むし、間違った選択肢が一つ消えるだろ? 逆に、テストした奴が無事なら、それが正解だって分かって本人がそれを唱えれば助かる。一人死ぬか、全員助かるかの違いだ」
「狂ってる……!」
女子生徒の一人が悲鳴を上げた。
「そんなの、誰かを実験台にするってことじゃない! 人殺しよ!」
「人殺しぃ!?」
西条が突如怒号を上げ、木棒で近くの机をバカァンと激しく叩き割った。木くずが弾け飛び、女子生徒たちが抱き合って悲鳴を上げる。
「殺してるのは怪異だろ! 俺は生存率を上げるための『計算』をしてんだよ! お前らだって自分が指名されたらどうする!? 神谷の言った答えを信じて、一発ぶっつけ本番で唱えられるか!? 間違えたら渡辺みたいに爆破するんだぞ!?」
生徒たちの目が揺れた。
渡辺の爆破。小林の骨格粉砕。近藤の縦裂き。
あの凄惨な死の光景が脳裏をよぎり、恐怖が彼らの倫理観を急速に押し潰していく。
「西条の言う通り……かもしれない……」
後ろにいた男子生徒が、震える声で漏らした。
「指名された本人がぶっつけ本番で言うより……誰かに試してもらった方が……確実だ……」
「そうだよ……俺、死にたくないもん……誰かがテストしてくれるなら……」
感染する狂気。
恐怖に支配された人間は、自分以外の誰かが犠牲になることを望み始める。西条の「犠牲の論理」は、クラスメイトたちの自保心という腐肉に群がるハエのように、瞬く間に教室内へ浸透していった。
「やめろ、西条」
創太が前に踏み出し、低い声で制した。
「そんな論理は破綻している。怪異が『身代わりのテスト』を許すはずがない。仮にテスト役が間違えて死んだとして、指名された本人の制限時間は刻一刻と削られるんだぞ。それに……一度そんな惨劇を許せば、次は誰が『テスト役』に選ばれる?」
創太の言葉に、何人かの生徒がハッと顔を上げた。
そうだ。自分自身が「テスト役(生贄)」として指名された本人に身代わりにされる可能性があるのだ。
「誰がテスト役になるかだと?」
西条は醜悪な笑みを深め、木棒の先端を水野結衣の額へ突きつけた。
「決まってんだろ。このクラスで一番役に立たない奴。過去の問いでも何の貢献もしてない奴。鳴海詩織のいじめの時にも、コソコソ隠れて何も言わなかったような『ノロマな奴』から順番にテスト役に指名するんだよ」
「ひっ……!」
結衣が腰を抜かし、涙をボロボロとこぼしながら後ずさった。
「嫌……嫌です……私、そんなの……嫌……っ!」
「お前みたいなトロい奴が生き残っても意味ねえんだよ! 役に立ちたいなら、せめてみんなの実験台になって死ね!」
「そこまでにしろ、西条!」
創太が西条の手首を掴もうと手を出した、その瞬間――。
ジ……ジジジジジジジジジッ!
天井のスピーカーから、これまでで最も禍々しい高周波のノイズが炸裂した。
教室内の一光が一瞬で途切れ、漆黒の暗闇が戻ってくる。床に転がる渡辺の血肉がボコボコと激しく泡立ち、教室の黒板から新たな血の粘液が滝のように垂れ落ち始めた。
「ひあぁぁぁぁぁぁぁっ! 来た! 来たぁぁぁっ!」
生徒たちが悲鳴を上げてののしり合い、床へ倒れ込む。
スピーカーから、あの濡れた女の声が、耳元で吐息を吐くような生々しさで降ってきた。
『――ふふ。犠牲、生贄、実験台。なんと美しい醜悪さでしょう』
女の声は、西条たちの企みをすべて見透かしているかのように嘲笑っていた。
『あなたたちが他人の命を量りにかけ、誰かを差し出そうとするその心……それこそが、詩織さんが最も嫌悪した『人間の醜さ』そのものです』
黒板の血の滝が弾け、次の呪いの文字が赤黒く浮かび上がる。
『次の問いです――』
カチ、カチ、カチ……と、死のカウントダウンの歯車が回り始めた。
西条が凶悪な目で結衣を睨みつけ、創太は葵を守るように身構える。
絆が千切れ、人間性が崩壊した2年B組に、最悪の問答が突きつけられようとしていた。




