第5話:『濡れた声』
『――次の問いです』
天井のスピーカーから降る濡れた声が、教室内を冷たく撫で回す。
直後、教室前方の黒板が、異様な不協和音を響かせ始めた。
ギギギギギギギ……ッ、と、目に見えない巨大な釘で引っ掻かれたような嫌な音が黒板の表面を削る。生徒たちが耳を塞ぎ、悲鳴をあげて身をすくめる中、黒板の濃緑色の表面から、赤黒いドロリとした粘液が滲み出し始めた。
滲み出た粘液は、まるで意志を持つ無数の百足のように這い回り、黒板の上に太くグロテスクな血文字の列を刻んでいく。
『2年B組、渡辺大樹くんと掛けまして』
指名されたのは、西条のすぐ後ろで威張り散らしていた運動部の男子生徒――渡辺大樹だった。
「ひ……っ!?」
渡辺の顔から一瞬で血の気が引いた。彼は自分の胸を両手で抱え込み、ガタガタと膝を激しく震わせる。
黒板の血文字は、さらにドクドクと血を吐き出しながら続きを刻んでいく。
『沸騰した水風船と解く。……その心は?』
血文字の末尾から、滴り落ちる赤黒い雫が床の傷に染み込んでいく。
「ふふ……制限時間は三分です。今回は特別に、黒板に文字としても刻んであげました。読めますね? 渡辺くん」
スピーカーの奥で、カチ、カチ、カチと、あの死の歯車が回り始める。
「な……なんだよそれ……! 渡辺と、沸騰した水風船……!?」
西条が後ずさり、渡辺から距離を置いた。さっきまで「選別だ」「弱者から実験台にしろ」と威張っていた西条だったが、いざ自分の配下の渡辺がターゲットに指定されると、あからさまに彼を見捨てるような軽蔑と恐怖の入り交じった視線を向けた。
「西条さん……! 助けてくださいよ! 西条さん!」
渡辺が泣き叫びながら西条の服の袖に縋りつこうとする。だが、西条はその手を蹴り飛ばした。
「触るな! 寄ってくるんじゃねえよ! 神谷! 神谷ぁっ! お前が答えろ! 渡辺の代わりに答えを言え!」
渡辺は床に這いつくばったまま、血走った目で創太を見上げた。
「神谷……頼む、助けてくれ! 俺、まだ死にたくない! 沸騰した水風船なんて分かんないよ! なんで俺なんだよぉっ!」
渡辺の全身から、嫌な汗が噴き出していた。創太の研ぎ澄まされた耳は、渡辺の皮下組織から「ピチ……ピチ……」と、水滴が弾けるような不気味な小振動が始まりつつあるのを捉えていた。すでに彼の肉体の中で、怪異の概念侵食が始まっているのだ。
「葵、ノートを」
創太は隣の葵からメモ帳を受け取り、思考を高速で回転させた。
(渡辺大樹。サッカー部。威勢が良く、短気。そして『沸騰した水風船』――)
黒板の血文字を見つめる。
渡辺と、沸騰した水風船。
水風船。ゴムの皮の中に水が入っている。沸騰する。内部の圧力が爆発的に高まる。皮が限界まで伸び切る。弾ける。
そして渡辺大樹という人間の性質、あるいは過去の行動。
彼は一年前、鳴海詩織に対して何を言った? 何をした?
創太の記憶の奥底から、一年前の「音」が蘇ってくる。
雨の日の放課後。靴箱の陰で、渡辺が周囲の男子に聞こえよがしに言い放った下劣な陰口。
『あいつ、泣き面見せまいとして顔真っ赤にしてやんの。今にも頭が爆発しそうな顔してさ、見苦しいんだよ』
詩織がクラス全員から無視され、追い詰められ、怒りと屈辱で顔を真っ赤にして震えていた時、渡辺は彼女を「今にも破裂しそうな惨めな存在」として嘲笑したのだ。
(言葉の呪い……言葉の返り血……!)
「渡辺」創太は叫んだ。「お前、一年前の雨の日、鳴海詩織に向かって何を言った!? 思い出せ!」
「え……!? な、鳴海……? 知らねえよ! 俺が何言ったかなんて覚えてねえよ!」
「思い出せ! 『爆発しそう』『顔が真っ赤』……お前が彼女に投げつけた言葉だ!」
「分かんねえよ! そんなの昔のことだろ! なんで今さらそんなことで俺が死に目にならなきゃいけないんだよ!」
残り時間、一分。
渡辺の額の皮膚が、奇妙にテカり始めていた。まるで薄いゴム膜のように皮膚が引き伸ばされ、その下を流れる静脈が黒ずんで浮き上がってくる。
「あ……あつ……熱い……! 体が、中から沸騰してる……!」
渡辺が自らの首元をかきむしった。皮膚を引っ張ると、本来なら伸びるはずのない首の皮が、水風船のゴムのようにビヨーンと十センチ以上も簡単に伸びた。そして、その透けた皮の下で、血と脂がグツグツと煮え立つ不快な音が教室内を満たし始める。
「ひぁあぁぁぁぁっ!? 皮膚が……俺の皮膚がぁぁぁぁっ!」
「神谷! 早く答えを言え! 間に合わねえぞ!」西条が狂ったように叫ぶ。
創太はペンを握り締め、必死に言葉の重なりを構築しようとした。
(渡辺と沸騰した水風船。共通点。皮の中が熱で満ち、限界まで膨らんで――)
「答えは……『どちらも、限界を超えて頭に血が上り、破裂する』か!?」
創太が口を開かけようとした、まさにその時だった。
極限の恐怖と、体内の異常な熱に正気を失った渡辺が、自分の膨らみ続ける顔面を両手で抱え込み、血の泡を吹きながら叫んでしまった。
「答えはっ……! 答えは『どちらも中身がパンパンで破裂しそうだ』だぁぁぁぁっ!!」
「渡辺、やめろ――!」
創太の制止は届かなかった。渡辺の叫びが教室の天井に木霊した瞬間、黒板の血文字が激しく脈打ち、黒赤い液体を天井まで噴き上げた。
スピーカーから、地獄の底から響くような声が下された。
『――不整』
その二文字が宣告された瞬間、渡辺の顔から一切の人間的な表情が消え失せた。
「あ……が……?」
渡辺が何かを言おうと口を開いたが、もう意味のある声は出なかった。代わりに彼の喉の奥から出たのは、グツグツと煮え立つ汚水のような不快な気泡の音だった。
「ひっ……! 渡辺! 渡辺ぇぇっ!」
隣にいた西条が、狂ったように叫びながら教卓の陰へと転がり込んだ。
渡辺の肉体に変変が訪れたのは、一瞬だった。
まず、彼の両目の眼球が、水で濡らしたピンポン球のように丸く膨らみ始めた。まぶたの皮膚が薄く引き伸ばされ、充血した毛細血管が浮き彫りになる。
「ゴぼ……っ! ゴボボボボボボッ!?」
渡辺は両手で自らの首を掴もうとしたが、その手自体が急速に形を変えていた。五本の指が丸々と太くなり、爪と爪の間の皮膚がパンパンに突っ張る。手の甲の皮膚は半透明になり、その下で煮え滾る赤黒い血液と黄色い皮下脂肪が、激しい勢いで対流しているのが透けて見えた。
チチチチチ……メキメキメキメキッ!
彼の制服の縫い目が弾け飛んだ。胸、腹、背中、太もも――渡辺の全身の皮膚が、限界まで空気を吹き込まれた水風船のように丸く、巨大に膨張していく。
本来なら人間が保てる肉体の容積を遥かに超え、彼の胴体は直径一メートルを超える巨大な球体へと膨れ上がった。腕も脚も太い丸太のようになり、指は短いソーセージのように突き出している。
「あ、が……あぁぁぁぁぁぁっ! 熱い! 熱いよぉぉぉぉぉっ!」
渡辺の皮膚から、ジュウジュウと肉が焼ける脂の煙が立ち上り始めた。体内の血液が100度を超えて沸騰し、彼の内臓を内側から煮詰めているのだ。引き伸ばされた顔面の皮膚は半透明の膜のようになり、見開かれた眼球の奥で、彼の脳髄が赤黒い泡を立てて熱分解していくのが見えた。
「嫌だ……助けて……弾ける……俺、弾けちゃ……!」
渡辺が足をもつれさせ、丸くなった巨体を揺らして創太の方へ倒れ込んできた。
「近寄るな!」
創太は即座に葵の腰を抱き寄せ、教室の壁際へと飛び退いた。
その直後だった。
渡辺の額の中央――薄く伸び切った皮膚に、プツリと小さな穴が開いた。
パンッ!!!!
それは、静かな部屋で巨大なゴム風船を針で突いたかのような、どこか乾いた、しかし破滅的な破裂音だった。
次の瞬間、渡辺大樹だった肉体が、教室の中央で内側から粉々に爆発した。
ドバシャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
「ひゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
教室内を襲ったのは、100度に達する熱い血と、煮えたぎる脂、そして細かく破砕された肉片の嵐だった。
天井、壁、黒板、窓ガラス、そして教室内で震えていた生徒たちの全身へ、渡辺の体内から噴出した熱湯のような血のスコールが叩きつけられた。
「痛い! 熱い! 熱いよおぁぁぁぁっ!」
「顔が! 顔に血がついて……! 熱いぃぃぃっ!」
生徒たちが悲鳴を上げ、自分の顔や腕に付着した熱い血を拭おうと狂乱した。渡辺の爆発によって撒き散らされた血液は、火傷を負わせるほどの熱を帯びており、生徒たちの肌に触れるたびにジュッと嫌な音を立てて皮膚を赤く腫れ上がらせた。
床の中央には、何もない。
ただ、飛び散った肉のミンスと、ドロドロに溶けた内臓の残骸が、血の海の中に薄く広がっているだけだった。彼の着ていた制服の切れ端が、天井の蛍光灯カバーに血みどろになって引っかかり、ぽたり、ぽたりと赤黒い滴を垂らしている。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
創太は自らの背中で葵を庇い切っていた。創太の制服の背中側には、渡辺の熱い血がべったりとこびりつき、じわじわと服の生地を通して熱が皮膚へ伝わってくる。
葵は創太の胸の中で目をつぶり、全身をがたがたと激しく震わせていた。彼女の手は創太の服を破らんばかりの力で握りしめられている。
教室内は、渡辺の肉体が弾けたことによる生の肉の臭気と、煮沸された脂の強烈な異臭で満たされていた。黒板に書かれた『沸騰した水風船』の血文字は、渡辺の血を浴びてさらに不気味にドクドクと脈動していた。
「ひ……ヒヒッ……あははははっ!」
教卓の陰から、西条拓海が血塗れの顔を覗かせ、狂ったような笑い声を漏らした。
「弾けた……本当に弾けやがった……渡辺の奴、パンパンになって破裂しやがった……!」
西条の瞳からは完全に正気が失われていた。彼は自分の手に付着した渡辺の熱い血を舐めとり、その血走った目を創太に向けた。
「おい神谷……お前、さっきなんて言おうとした? 『限界を超えて頭に血が上り』……だっか? お前、また正解を分かってただろ!? なのに渡辺に言わせなかった! お前が渡辺を殺したんだ!」
「狂うな、西条」
創太は冷たく言い放ち、背中の痛みに耐えながら西条を睨み返した。
「渡辺がパニックを起こして『不整』の回答を叫んだんだ。俺が止める間もなかった。それより……お前はまだ分からないのか?」
「何がだよ! 偉そうに言うんじゃねえ!」
「この怪異の殺意は、俺たち全員を殺し尽くすまで終わらない」
創太は静かに黒板の血文字を指差した。
渡辺が死んだことで、一瞬静まり返ったスピーカーから、再びあのノイズが混ざり始めいていた。
ジ……ジジジ……。
「渡辺大樹の問いの正解は……『どちらも、怒り(熱)を溜め込みすぎて、自らの皮(感情)を破裂させる』だ。渡辺は一年前、鳴海詩織がクラス全員の嫌がらせに耐かねて怒りを爆発させそうになった時、それを嘲笑した。だから今度は、自分自身が感情と血液を体内に溜め込み、肉体ごと破裂させられた」
創太の声が教室内を冷たく通り抜ける。
「怪異は俺たちの『過去の罪』を正確に記憶している。さくらは『ハサミ(切り裂くような暴言)』。近藤は『紙切れ(破り捨てた詩織のノート)』。武田たちは『押し潰し(詩織を精神的に追い詰めた重圧)』。小林は『ガラスの全身(詩織の繊細な心を笑った陰口)』。そして渡辺は『破裂(追い詰められた詩織の怒り)』だ」
生徒たちが絶句した。
創太の口から明かされた冷酷な真実。
自分たちが過去に行ってきた「日常の小さな悪意」「軽い気持ちのいじめ」のすべてが、今、最悪の肉体破壊という形で自分たちへ跳ね返ってきているのだ。
「じゃあ……じゃあ俺たちは……全員殺されるってことかよ……!?」
男子生徒の一人が頭を抱えて泣き叫んだ。
「俺だって……俺だって詩織ちゃんの机に『消えろ』って落書きしたよ! 俺も死ぬのか!? こんな風に体が弾けて死ぬのかよぁぁぁっ!」
「いやだ……いやだぁっ! 謝るから! 詩織ちゃん、ごめんなさい! ごめんなさい!」
教室中に広がる、罪の告白と見苦しい謝罪の嵐。しかし、どれほど悔い改めようと、一年前の少女の絶望が消えることはない。血塗られた壁と床が、その謝罪を冷笑するように湿った音を立てて震えていた。
『――ふふ。自分の罪を思い出し始めましたね』
スピーカーから、女の声が熟しきった果実のような甘い響きで降り注いだ。
『謝罪などいりませんよ。言葉は一度口から出れば、二度と消すことはできないのですから。あなたたちが詩織さんに与えた『言葉の傷』の数だけ、あなたたちの肉体を整えて差し上げます』
スピーカーの奥で、次の歯車がガチリと噛み合う音がした。
『さあ……次は、どなたの過去を解体しましょうか』
血の海と化した2年B組の教室。
渡辺の肉片が天井からぽたりと床へ落ち、血の波紋を広げた。
生存者、残り17名。




