第4話:『学級崩壊の兆し』
二階廊下を埋め尽くした小林の砕けた骨のガラス片と、血の海から逃れるようにして、生存者たちは再び2年B組の教室へと這い戻っていた。
だが、そこは避難所などでは断じてなかった。
教室の床には、最初の犠牲者である長谷川さくらの凄惨な残骸が、発生した当初のまま放置されている。全身の皮膚と臓器を内側から突き破った数百本ものハサミ。それらは時間が経った今も、カチ……カチ……と、不規則に刃先を噛み合わせる不気味な微動を繰り返していた。死体から流れ出た黒赤い血は乾き始め、六月の湿気と混ざり合って、教室全体に生温かい屠殺場のような腐臭を充満させている。
「ハぁ……ハぁ……水……水をくれよ……」
男子生徒の一人が、壁に頭を打ち付けながらうわ言のように呟いた。
外界からの遮断が始まってから、わずか数時間しか経過していない。しかし、極限の恐怖と大量の冷や汗は、生徒たちの水分を苛烈な勢いで奪い去っていた。水道の蛇口を捻っても、出てくるのは錆と血の混ざった泥水だけだった。購買の自動販売機へ向かおうにも、廊下に一歩足を踏み出せば、いつ次の「問い」が自分を指名するか分からない。
「おい、そこの女子。鞄の中にペットボトル入ってただろ。出せよ」
教室の後ろで、西条拓海が濁った声を発した。
彼の視線の先にいたのは、小さく身を縮めていた図書委員の水野結衣だった。結衣はビクッと肩を揺らし、自分のスクールバッグを必死に胸元へ抱え込んだ。
「え……で、でも、これ……私のお茶で……あと半分しか……」
「出せと言ってんだよ!」
西条が激昂し、結衣の前に大股で詰め寄った。彼は廊下で拾った清掃用のモップの柄をへし折った、尖った木棒を右手に握りしめている。その顔面には小林の飛び散った血が乾燥してへばりつき、人間の表情というよりは鬼の面のような醜悪さを呈していた。
「今ここで一番必要なのは、次の『問い』が来た時に頭を働かせられる人間だ。お前みたいなトロい奴が水を持ってたって無駄なんだよ! よこせ!」
「やめて……! お願い、やめてっ……!」
結衣が悲鳴をあげると、西条は躊躇なく彼女のスクールバッグを力任せに奪い取った。中のプラスチック製ペットボトルをひっ掴むと、キャップを乱暴に外して一気に喉へ流し込む。ゴクゴクと喉仏が跳ね、数滴のお茶が彼の血塗れた顎を伝って床へ垂れ落ちた。
「ふぅ……あぁっ!」
半分残っていたお茶を飲み干すと、西条は空のボトルを床へ投げ捨て、満足そうに息を吐いた。結衣は床にへたり込み、声もなく涙を流して肩を震わせている。
教室内の誰も、西条を止めようとはしなかった。
かつてクラスのスポーツマンとして人気を集めていた西条の横暴を、他の男子運動部員たちすらも、恐怖と迎合の入り交じった目で見つめるだけだった。正義感や道徳心といった日常のタガは、さくらのハサミと近藤の肉のフリンジ、武田たちの肉餅によって、完璧に破壊し尽くされていた。
「創太……」
教室の最前列、窓際から最も離れた壁際で、葵が創太の袖を引っ張った。
葵の顔色は土気色で、唇は乾燥してひび割れていた。創太は自らの制服のポケットから、奇跡的に手元に残っていた未開封の小さな水筒を取り出した。今朝、母親が持たせてくれた麦茶だ。
創太はそっと水筒の蓋を開け、葵の口元へ運んだ。
「少しずつ飲め。一口で飲み干すな」
葵は申し訳なさそうに創太を見つめたが、喉の乾きには勝てず、小さく三口ほど喉を鳴らして口を含んだ。そして、創太の手を押し返し、創太にも飲むよう目で促した。創太も僅かに喉を潤すと、しっかりと蓋を締め、制服の奥深くへ隠した。この水が知られれば、西条たちに力ずくで奪われることは目に見えている。
創太は膝の上に広げたノートに、ペンを走らせた。
『西条の精神状態が限界に近い。恐怖が支配欲に変換されている。一番危険な状態だ』
葵がノートを覗き込み、震える手で続きを書く。
『クラスがバラバラになっていく……どうしてこんなことに……』
創太は葵の文字を見つめた後、ペンを強く握り直して書き足した。
『バラバラになったんじゃない。これがこのクラスの「本当の姿」だ。一年前の事件の時も、みんなこうやって自分を守るために誰かを差し出していた』
一年前の惨劇――鳴海詩織の投身自殺。
創太の脳裏に、当時の断片的な記憶が蘇る。
おとなしく、目立たない少女だった詩織。彼女がある日を境に、クラス内で露骨な無視や嫌がらせを受けるようになったこと。教科書がズタズタに切り裂かれ、下駄箱に心無い中傷の紙切れが押し込まれ、SNSのグループから弾き出され……最終的に、彼女は二階の窓から校庭へ身を投げた。
当時の創太は、その陰惨ないじめを「音」として聴いていた。
女子生徒たちが漏らすクスクスという陰湿な嘲笑。男子生徒たちが投げる心無い暴言。そして、追い詰められた詩織が一人で殺していた、小さな喘鳴のような泣き声。
創太はそのすべてに気づきながら、自らの「過剰な聴覚」を守るために耳を塞ぎ、冷淡な傍観者であり続けたのだ。
(あの時、俺たちは言葉で彼女を殺した。そして今、彼女の怨念が言葉を使って俺たちの肉体を殺しに来ている)
怪異の法則は明白だ。放たれる「なぞかけ」は、かつて2年B組の生徒たちが詩織へ浴びせた残酷な言葉の具現化である。
「おい、神谷」
不意に、低く濁った声が頭上から降ってきた。
創太が顔を上げると、木棒を手にした西条が、取り巻きの男子二人を連れて目の前に立っていた。その瞳には、人間的な温かみが一切感じられない、冷酷な選別者の光が宿っていた。
「……何の用だ、西条」
創太は姿勢を崩さず、静かに西条を見返した。
「何の用だ、じゃねえよ」
西条は木棒の先を創太の胸元へ突きつけ、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「お前、さっき廊下でいいこと言ってたよな。『この問いは肉体解体の設計図だ』とか何とか。お前なら次の問いが来ても、すぐに解けるんだろ?」
「解ける保証はない。提示される言葉と過去の因果を分析しなければ、答えは出ない」
「謙遜すんなよ」西条は顔を近づけ、腐敗臭の混ざった息を創太の顔に吹きかけた。「お前は頭がいい。だからよ、提案があるんだ」
西条は教室内に残っている生徒たち――恐怖で青ざめた顔を並べる18名の生存者たちを見渡した。
「このクラスには、役に立つ奴と、立たない奴がいる。そうだろ?」
教室内がしんと静まり返った。誰もが息を殺し、西条の次の言葉を待っていた。
「次の問いが来た時、神谷、お前が真っ先に指名されるとは限らない。もし、そこらの頭の悪い女子や、パニックを起こすだけのウジウジした奴が指名されたらどうする? そいつが適当な答えを口にして『不整』になったら、また全員巻き添えで死ぬんだぞ」
「……何が言いたい」創太の目が細くなる。
「簡単なことだ」
西条は木棒をポンポンと自分の手のひらに打ち付けた。
「次に問いが来たら、指名された奴は勝手に口を開くな。まず神谷、お前に答えを考えさせる。そして……もしお前が答えに確信を持てない時は、指名された奴自身に『実験台』として答えをテストさせるんだ」
「な……!?」
悲鳴を上げたのは、壁際にいた女子生徒だった。
「そんなの……そんなの、生贄じゃないですか! 最初から死なせる前提じゃないですか!」
「ウルッセえよ!」
西条が怒鳴りつけ、木棒で近くの机を叩き壊さんばかりの勢いで打った。バカァン! とけたたましい音が教室内を切り裂き、女子生徒たちが抱き合って悲鳴を上げる。
「生贄じゃねえ、選別だ! 全員で全滅するより、生き残れる可能性の高い奴だけが残る方が合理的だろ! 違うか!?」
西条の主張は狂っていた。だが、極限状態に置かれた人間にとって、その狂気は悪魔的な説得力を持って響いていた。
「……西条の言う通りかもしれない」
後ろで震えていた男子生徒が、ボソリと呟いた。
「俺……答えなんて分からないもん……神谷に教えてもらうか、誰かがテストしてくれるなら……その方が……」
「そうだ! 弱奴から順番に答えを試せばいいんだ!」
狂気が感染していく。恐怖に囚われた生徒たちが、自らの保身のために西条の「選別論」に賛同し始めたのだ。かつて鳴海詩織をいじめた時と同じ構造。誰かをターゲットにし、自分だけが安全圏に逃げ込もうとする、悪虐な集団心理の再来。
「正気か、お前たち」
創太は冷たく言い放ち、ゆっくりと立ち上がった。
「誰かを実験台にして生き残ったとして、その後に来る問いはお前たち自身に向けられるんだぞ。仲間を殺して手に入れた数分の寿命で、何が得られる?」
「かっこつけるなよ神谷ぁっ!」
西条が創太の胸ぐらを掴み上げ、壁へ押し付けた。木棒の鋭い先端が、創太の喉元へ数ミリの距離まで迫る。
「お前だって自分が助かりたいだけだろ! 綺麗事言ってた小林がどうなった!? 近藤がどうなった!? ここにはな、まともなルールなんてねえんだよ! 俺がルールだ!」
創太の服を掴む西条の手が激しく震えていた。支配者を気取ってはいるが、西条自身が誰よりも死の恐怖に狂わされていることが、その異常な心拍数と浅い息遣いから創太にはハッキリと聴こえていた。
葵が立ち上がり、西条の腕を必死に引っ張ろうとする。だが、西条の取り巻きの男子が葵を突き飛ばした。葵は床に膝をつき、痛みに顔を歪めながらも、言葉にならない怒りの視線を西条へ向けた。
「白石ぃ、お前もだ」西条は葵を見下ろし、舌なめずりをした。「お前は放送部で、あの鳴海詩織と仲が良かったろ? お前も何か隠してんじゃないのか?」
葵の身体がピクリと跳ねた。
(葵と詩織……仲が良かった……?)
創太の胸に、新たな疑問が突き刺さる。葵は一年前の事件について、創太にすべてを話してはいない。葵が持つ「言葉」への強いこだわりと、あの痛々しいほどの罪悪感の正体は何なのか。
「やめろ、西条」
創太は喉元に突きつけられた木棒を見つめながら、氷のように冷たい声で呟いた。
「お前がどれだけ威張り散らそうと、怪異はお前の命令など聞かない。次にお前の名が呼ばれた時、その木棒が何の役に立つ?」
「っ……!」
西条の顔が屈辱と恐怖で歪んだ。彼が創太を押し殴ろうと腕を引き絞った、その瞬間。
ジ……ジジジ……ジジジジジジジッ!
天井のスピーカーから、これまでで最も激しいノイズが爆発した。
教室内の温度が一気に数度下がったかのような、刺すような冷気が立ち込める。床に散らばる長谷川さくらのハサミが一斉にジャキジャキジャキ! と猛烈な勢いで開閉を始め、乾き始めていた血の海が、まるで煮え立つ炭酸水のようにボコボコと泡立ち始めた。
「ひ……あぁぁぁっ! 来た! 来たぁぁぁっ!」
生徒たちが頭を抱えてのたうち回る。西条は創太から弾かれたように手を離し、尻餅をついて後ずさった。
スピーカーのノイズの奥から、無数の子供の手拍子のような音が聞こえてくる。パチ、パチ、パチ、パチ。そして、あの湿った女の声が、教室内を舐め回すように響き渡った。
『――ふふ。学級崩壊の音は、いつ聴いても心地よいですね』
声は生徒たちの醜い争いを嘲笑うかのように、甘く、酷薄に紡がれる。
『お互いを高値で売り払い、命を削り合うあなたたちに……四つ目の「整い」を進呈しましょう』
血の泡が弾ける床の上で、死の指名が下されようとしていた。
『次の問いです――』




