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言葉に喰われた街の、逃げられない問い  作者: solune


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第48話:『生還の代償』

ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!!


正門の鉄格子の隙間を抜けた直後、創太の背後で鳴り響いたのは、単なる建造物の倒壊音ではなかった。


私立稜ヶ丘高校の広大な敷地全体を埋め尽くしていた、何百トンもの生身の肉と、黒い熱蝋、そして旧校舎のコンクリート骨組みが癒着・肥大化した巨大な「異形の山」。それが、すべての存在理由(言葉の毒)を失ったことで、山体崩壊を起こして一気に崩れ落ちる、凄絶な肉津波(アバランチ)の轟音であった。


ジュクッ! ドバシャァァァァァンッ! バキバキバキバキッ!!


「がはっ……! げほっ……っ!」


神谷創太は、血と泥に塗れたアスファルトの上に両肘を激しく叩きつけ、口から体内の生血の塊を吐き散らした。


第45話で自らの右指を左の眼孔へと突き立て、水野結衣のステンドグラス片ごと生の眼球を根元から強引に抉り出した代償。創太の世界は、完全なる「漆黒の暗黒」に支配されていた。

右耳はかつて金属針で鼓膜を貫いて破壊したため、完全に途絶。


いま、彼が外界の狂乱を感じ取る唯一の器官は、研ぎ澄まされた『左耳だけの異常な過剰聴覚』と、全身の皮膚を灼く激痛、そして皮膚に触れる冷たい風の感触だけであった。


創太の過剰な左耳は、背後で巻き起こる圧倒的な密度の崩落音を、絶望的なまでの立体感で捉えていた。


校舎だった肉の山が、内側から溜まりに溜まった腐敗ガスによって破裂しながら崩れ落ちてくる。

解体されたクラスメイトたちの手足や骨の破片、沸騰した血液、そして溶け去る黒い熱蝋の濁流が、滝のような勢いで正門周辺へと雪崩れ込んでいた。


「葵……っ! 葵っ……!」


創太は、暗黒の世界の中で、自らの腕の中に抱え込んだ白石葵の身体を引き寄せた。


「……っ……ぁ……っ」


葵の全身から、急激に力が抜けていくのが分かった。


自らの喉から呪いの黒蝋を素手で引き剥がし、命を燃やすような最後の咆哮を解き放った代償。葵の喉元は痛々しく裂け、そこから溢れ出る赤黒い血液が、創太の破れた制服を濡らし続けている。

回転ノコギリ刃に削がれて大腿骨まで露出し、肉が挽き肉のようになった右腕。強酸の消化液によって両脚の皮膚を酷く焼き溶かされた痕。失血と激痛の限界をとうに超えた彼女の体温は、まるで冬の氷のように冷たくなり、胸の小さな上下運動は、いつ停止してもおかしくないほど微弱なものとなっていた。


葵の身体が、倒れ込むようにして創太の胸元へと完全に崩れ落ちた。


「葵……! しっかりしろ! 目を開けろ!」


創太は、見えない全盲の目のまま、血に塗れた手で葵の冷たい頬を何度も撫で回した。


声は返ってこない。

彼女の壊れた喉からは、引きつったような掠れた吸気音が漏れるだけだ。


だが、創太の過剰な左耳は、彼女の胸の奥深くから届く、途切れ途切れの、しかし奇跡的に脈打つ『小さな心音』を聴き逃さなかった。


トクン……っ。……トクン……っ。


生きている。彼女は、まだ生きている。

自分と共にあの長い殺戮の夜を生き抜き、いま、確かに自分の腕の中で命を繋いでいる。


ズドドドドドドドッ!!!!


「ぐあぁぁぁぁぁっ……!」


背後から迫る肉とコンクリートの崩落津波が、校門の鉄格子を押し潰しながら、二人のすぐ真後へと襲いかかってきた。


弾け飛んだ同級生たちの骨の破片が、肉片が、沸騰血のしぶきが、創太の背中を、後頭部を、脚を容赦なく打ち据える。強酸の液が背中の破れた制服を濡らし、生の皮膚をジジジと白煙を上げて焼き焦がす。


この場所に留まれば、崩れ落ちる何十トンの死肉とコンクリートの瓦礫の下敷きになり、二人とも完全に圧死する。


「這うんだ……! 離れるんだ……この地獄からっ……!」


創太は自らの左太ももの惨烈な自傷痕に、残された全神経を集中させた。


大腿骨が露出し、筋繊維が断裂した左足は、もはや足としての機能を完全に失っている。右足も急激な大量失血によって感覚が痺れ、動かない。

立ち上がることは絶対に不可能だった。


だから、創太は、自分の「両肘」と「血塗られた右手」だけを使い、倒れ込む葵の身体を抱きかかえたまま、アスファルトの上に覆い被さるようにして、前へ、前へと這い進むことを選択した。


ズリッ……、ズザザザッ……!


肘を硬いアスファルトに叩きつけるたび、皮膚が擦り切れ、生の肉が路上にこびりつく。

引きずる左足の傷口から、大腿骨と擦れ合う生肉の絶叫が脳髄を焼き切るような電流となって走り抜ける。胸のド真ん中に開いた貫通傷からは、動くたびに「ガボッ、ガボッ」と湿った血の泡が吹き出し、アスファルトへ赤黒い斑点を散らしていく。


両目は全盲の暗黒。

右耳は不通の難聴。


だが、創太の過剰な左耳は、前方の「空気の音」を捉えていた。


背後で響く肉塊の崩壊音とは違う。

前方から届くのは、冷たく乾いた早朝の風が、街路樹の葉を揺らすささやかな音。

遠くのアスファルトを滑る、車のタイヤの低い摩擦音。

そして、どこかの民家の軒先から聴こえる、朝を告げる小鳥のさえずり。


それらは、一年前からこの葛葉市から完全に失われていた、本物の『現実の音』だった。


「あっちだ……! あっちが……現実だっ……!」


創太は血の涙を流しながら、牙を剥く痛みを気迫でねじ伏せ、這う速度を上げた。


創太の身体の下で、葵の細い左手が、創太の制服の裾をぎゅっと掴み返した。

意識を失いかけていながらも、彼女は創太の手を、創太の存在を離すまいと、死に物狂いの力を指先に込めていたのだ。


「葵……! 離すな……絶対に離すなよっ!」


創太は葵の小柄な体躯を左腕でしっかりと固定し、右手でアスファルトの凹凸を掴んでは、自分の全身を引き寄せるようにして這った。


一歩、また一歩。

自分たちの血で濡れた坂道を、二人はまるで一匹の傷ついた獣のように、泥と血に塗れながら進んでいく。


背後では、私立稜ヶ丘高校という「言葉の怪異の巣窟」が、最後の断末魔を上げて崩れ続けていた。


パァァァンッ! パパパパパァァァンッ!!!!


校舎の肉壁に埋め込まれていた三十余名のクラスメイトたちの生首。

長谷川さくら、渡辺大樹、西条拓海、水野結衣、菅原――彼らの声帯が、自らの吐き出した言葉の毒によって内側から自爆し、最後の悲鳴をあげて粉々に弾け飛んでいく。


『――痛い! 痛い! 助けて!』

『――嫌だ! 死にたくない! 肉になりたくないぁぁっ!』

『――神谷! 白石! お前たちだけ行くなんて許さないぁぁぁっ!』


死者たちの怨念の声が、崩落する肉の山とともに、光の彼方へと吸い込まれるようにして薄れていく。


彼らの放った呪いも、暴言も、不条理なルールも、もう創太と葵を繋ぎ止めることはできなかった。


二人が叩きつけた「自らの罪と向き合い、痛み背負って生きる」という絶対の回答の前に、怪異の存在理由は完全に消滅したのだ。


ズドドドドォォォォン……ッ!


ついに、正門のアーチと校門の鉄格子が、崩落する巨大な肉の重圧に耐えかねて完全に倒壊し、学校の敷地全体が、膨大な瓦礫と肉片の山となって封印された。


その爆風と振動が、坂道を這っていた創太と葵の背中を、強く押し出した。


ズサァァァァァンッ!!


二人の身体は、私立稜ヶ丘高校の正門前の坂道を数メートル滑り落ち、完全に学校の敷地から離れた、広大な県道の交差点のアスファルトの上へと転がり出た。


ピタッ……。


静寂。


あまりにも唐突に、あまりにも絶大な静寂が、周囲を支配した。


耳を打ち続けていた死者たちの悲鳴も、肉が弾ける悍ましい破砕音も、強酸の焦げ付く臭いも、すべてが嘘のように消え去っていた。


創太は、血と汗に塗れた顔をアスファルトから上げた。


両目は見えない。視界はどこまでも真っ黒な暗黒だ。

だが、彼の肌は、はっきりと感じ取っていた。


天頂から降り注ぐ、温かい、本物の『朝日の光』。

頬を撫でる、爽やかで冷たい早朝の風。

鼻孔をくすぐる、乾いたコンクリートと排気ガスの匂い。


そして、創太の過剰な左耳に届くのは――。


遠くの信号機が鳴らす、ピヨ、ピヨという歩行者用の電子音。

新聞配達のバイクがエンジンを吹かす音。

街のあちこちの家々から漏れ出す、朝のテレビのニュースの音声。


止まっていた葛葉市の時間が。

一年間にわたって隔離され、言葉の怪異に呑み込まれていたこの街の時間が、いま、完全に動き出したのだ。


「出……出た……」


創太の破れた唇から、血の泡とともに、絞り出すような声が零れ落ちた。


「出たんだ……! 本当の……現実の世界に……っ!」


創太は、目が見えない暗黒の中で、自らの腕の中に抱いた葵の身体を、強く、強く抱きしめた。


「葵……! 葵、聴こえるか……!? 帰ってきたぞ……! 俺たちの……俺たちの街だ……っ!」


創太の残された右目の奥から、温かい血の涙が零れ落ち、葵の血に汚れた頬を湿らせた。


創太の腕の中で、葵の指先が、ぴくりと動いた。


彼女は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、意識の底から目覚めようとしていた。

彼女の残された左目が、眩しい朝日の光に細められながら、薄っすらと開かれた。


視界に映る、青く澄み切った朝の空。

そして、自分を抱きしめ、血の涙を流しながら呼吸を繋いでいる、傷だらけの神谷創太の姿。


「……あ……っ」


声帯を失った葵の喉から、掠れた呼吸の音が漏れた。


彼女は、自らの血塗られた左手を伸ばし、創太の抉れた左の眼孔、そして血の涙が流れる頬に、そっと触れた。


彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、創太の手の上に落ちた。


助かったのだ。

二人は、あの惨劇の夜を生き抜き、自らの肉体を解体されながらも、手を取り合って、この朝日が照らす現実の世界へと生還を果たしたのだ。


しかし――。


二人を取り巻く周囲の「現実」は、決して手放しで喜べるような、優しいものではなかった。


創太の過剰な左耳が、静まり返っていた交差点の周囲から、徐々に集まりつつある「人間たちの足音」と「ざわめき」を拾い上げた。


ザッ、ザッ、ザッ……。


「な……なんだ、あの高校生たちは……!?」

「おい、警察を呼べ! 救急車だ!」

「血だらけだぞ……!? 目が……腕が……!」

「あそこを見ろよ! 私立稜ヶ丘高校が……学校が崩れてる……!?」


早朝の街に出てきた市民たち、通勤・通学の大人や生徒たちが、交差点の真ん中で血みどろになって倒れている創太と葵の姿を発見し、悲鳴と困惑の声を上げ始めたのだ。


市民たちにとっては、昨日までの日常が続いていたはずの街。

彼らにとっては、この葛葉市が一年間隔離され、怪異によって支配されていた記憶など存在しないか、あるいは深い悪夢から覚めたばかりの混乱の中にあった。


その「正常な現実」の真ん中に、突如として投げ出された、異形と化した二人の高校生。


両目を失い、右耳を潰し、胸に穴を開け、太ももの肉を抉られた少年・神谷創太。

声を失い、右腕を挽き肉にされ、両脚の皮膚を溶かされた少女・白石葵。


二人の肉体に刻まれた無数の惨烈な傷痕。

それこそが、この言葉の怪異から生き残り、二人で世界を取り戻したことの、あまりにも重く、凄惨な『生還の代償』であった。


創太は、周囲の人間たちのざわめきを左耳で聴きながら、葵の身体を抱きしめたまま、アスファルトの上でじっと動かずにいた。


目が見えなくても分かる。

自分たちの姿が、いまや周囲の人間たちにとってどれほど異常で、異様で、恐ろしいものとして映っているか。


怪異は消えた。

だが、自分たちが負った傷、失った身体の機能、そして背負った過去の罪は、元の世界に戻ったからといって消えてなくなるわけではなかった。


創太は、暗黒の世界の中で、葵の手を握りしめ直した。


「葵……」


創太は、彼女の耳元で、静かに、しかし確かな力を持った声で呟いた。


「俺たちの……新しい戦いが……ここから始まるんだな……」


葵は、泣き顔のまま、創太の手をギュッと握り返した。


声を奪われ、視力を失った二人。

だが、二人の間に通い合う「魂の絆」は、どんな怪異の毒よりも、どんな現実の冷たさよりも、強く、温かく、二人を繋ぎ止めていた。


遠くから、サイレンの音が聴こえ始めていた。

救急車とパトカーの赤色灯の光が、朝日が差し込む葛葉市の交差点を、赤く染め上げていく。


長かった死闘の夜が明け、二人は、壊れた現実と、重い代償を抱えた新しい朝の光の中へと、一歩を踏み出そうとしていた。


ピポー、ピポー、ピポー、ピポー――。


遠くから近づいてくる救急車のサイレンの音が、朝の冷気と排気ガスの臭いを切り裂いて、交差点の全方位へと甲高く鳴り響いていた。


「おい! 触るな! 搬送チームが来るまで動かすな!」

「何なんだよこれ……警察はまだか!? 学校が崩れてるんだぞ!?」

「写真……撮るな! スマホしまえ!」

「血が……血が止まらない! あいつ、目が……目が無いぞ……!」


現実の人間たちの叫び声、困惑、怒号、そして野次馬たちのひそひそ話が、神谷創太の唯一残された『過剰な左耳』の聴覚神経へと、逃げ場のない音圧となって押し寄せていた。


創太の両目は、水野結衣のステンドグラス片ごと自ら指先で抉り出したため、二度と明けることのない完全な暗黒に包まれている。右耳は金属針で自壊させたため、完全な沈黙。


暗黒の世界の中で、創太は左耳だけを頼りに、自分たちを取り巻く「現実」の温度を感じ取っていた。


怪異の毒は消えた。

あの一年間にわたって二人を苛み、クラスメイトたちを肉片に変えた狂った空間は崩壊した。


だが――そこに待っていた「現実」は、優しく二人を抱きしめてくれるような温かい場所ではなかった。


チチチ……、カシャッ、カシャッ。


周囲に集まった市民たちのスマートフォンが、無遠慮に向けられ、シャッター音が小さく連続して響く。


「ねえ、あの子たち……2年B組の神谷くんと白石さんじゃない……?」

「嘘でしょ……ずっと行方不明だった……」

「見てよあの体……人間じゃないみたい……」

「何があったの? 誰にやられたの? 気持ち悪い……」


好奇、恐怖、拒絶、哀れみ。


怪異が消え去っても、人間が吐き捨てる「無意識の言葉(噂話)」の毒は、この葛葉(くずは)市の街に当たり前のように満ち溢れていたのだ。

かつて一年前、2年B組の教室で鳴海詩織に向けられていたあの不躾な視線と噂話の群れが、今度は生還を果たした創太と葵の二人へと向けられていた。


(そうか……。世界は……最初からこうだったんだ……)


創太は、アスファルトの上で葵を抱きしめたまま、血の泡とともに静かに息を吐いた。


世界は急に綺麗にはならない。

自分たちの背負った罪も、クラスメイトたちが死んだ事実も、そして人間たちが吐き出す言葉の冷たさも、何一つ消えてはくれない。


だが、創太の胸に去来したのは、絶望ではなかった。

どんなに冷たく、どんなに理不尽な現実であろうと、ここは二人で生きて辿り着いた「本当の世界」なのだという、動かしがたい実感だった。


バタン! パタパタパタパタッ!


「救急隊到着! 傷病者二人! 高度外傷(バイパス)用意!」

「ストレッチャー持ってきて! 急げ!」


慌ただしい靴底がアスファルトを蹴る音とともに、温かい手袋をはめた救急隊員たちの手が、創太と葵の身体へと触れた。


「君! 聞こえるか!? 分かるか!?」

隊員の一人が、創太の肩を抱きかかえ、耳元で必死に呼びかける。


「心拍数150超え! 血圧微弱! 両眼球欠損、胸部開口創あり! 左大腿部著しい肉芽不全および骨露出!……嘘だろ、こんな傷で生きてるのか!?」

「こっちの少女も危険だ! 失血性ショック! 右上腕部重度粉砕・挫滅! 両下肢重度化学火傷! 首元に自傷と思われる穿孔創あり!」


隊員たちの悲鳴に近い報告が交わされる。

彼らは数々の事故や事件現場を経験してきたプロであったが、目の前で重なり合って倒れている二人の高校生の「解体」されたかのような惨状には、恐怖で指先を震わせていた。


「よし、引き離すぞ! 一人ずつストレッチャーへ!」

「待て……! 手が……手が離れない!」


隊員の手が、創太の右手と、葵の左手が重なり合っている部分にかかった。

だが、二人の指先は、互いの骨が軋むほどの強さで、固く、固く結ばれたまま、一切離れようとしなかった。


「力が入ってる……! 脳卒中や強直(リゴール)じゃない、意志で握ってるんだ!」

「駄目だ、無理に離したら指の骨が折れる!」


「葵……」


創太は、血泥で汚れた口を微かに動かし、救急隊員に抱え上げられながら、目が見えない顔を葵のほうへと向けた。


「葵……離すなよ……。絶対に……離すな……」


「……っ……っ」


創太の胸の下で、葵の喉から掠れた呼吸が漏れた。

彼女もまた、剥がれ落ちた爪の傷口から血を流しながら、創太の手を握り返していた。


死の淵にありながら、互いの存在だけを命の錨(アンカー)として繋ぎ止めている二人の異様な執念。

救急隊員たちは、その絆の持つ圧倒的な威圧感に気押され、息を呑んだ。


「分かった……分かったから! 二人一緒に搬送する! ストレッチャーを並べろ!」


ガチャン! ガタガタガタガタッ!


創太と葵の身体は、手が結ばれたまま、二台のストレッチャーへと同時に固定された。


「搬送開始! 葛葉総合病院救命救急センターへ! 全力で飛ばせ!」


ピーポー、ピーポー、ピーポー――。


救急車の後部ドアがバタン! と重く閉じられ、サイレンの音が車内に反響する。


車内は、消毒液の匂いと、生体モニターの機械音が支配していた。


ピコン、ピコン、ピコン、ピコン……。


心電図の電子音が、創太と葵の心音を刻む。

創太の左耳は、その二つのモニター音を正確に聴き分けていた。


創太の心電図:速く、不規則で、今にも停止しそうな弱々しい波形。

葵の心電図:小さく、細く、しかし創太の波形と呼応するように打つ脈動。


酸素マスクが顔に装着され、太い静脈ラインが両腕に突き刺さり、冷たい輸液が体内に流れ込んでくる。


「心停止に気をつけろ! 人工呼吸器準備!」

「輸血用パック追加! 止血帯を巻け!」


隊員たちが死に物狂いで救命措置を施す中、創太の意識は、激痛と酸素の供給によって、ゆっくりと白いモヤの中へと沈み込んでいった。


(葵……)


(……創太……)


言葉は交わされない。

だが、固く握り締められた手を通じて、二人の魂は確かに繋がり続けていた。


長かった殺戮の夜が終わり、二人は壊れた現実の病院へと、運ばれていった。


葛葉総合病院・ICU(集中治療室)。


ピー……、ピー……、ピコン……、ピコン……。


規則的な機械音と、人工呼吸器のプシュー、プシューという不気味なほどの静寂。


どれほどの時間が流れただろうか。

数日か、あるいは数週間か。


神谷創太は、深い、深い暗黒の底から、ゆっくりと意識の表面へと浮上してきた。


「……っ……ふぅ……っ」


体に触れるのは、消毒臭のする清潔な綿のシーツの感触。

胸には厳重な包帯が巻かれ、点滴の管が何本も皮膚に繋がれている。


そして――視界は、どこまでも、どこまでも真っ黒な「無」だった。


両目は、もう存在しない。

第45話で自ら抉り出した左眼球、そして怪異によって潰された右眼球。医師たちの緊急手術によって、二つの眼球は完全に摘出され、創太の顔面には深いガーゼと包帯が重々しく巻かれていた。


右耳もまた、完全な静寂の中にある。壊れた聴覚神経は二度と戻らない。


だが、創太の『過剰な左耳』だけは、依然として研ぎ澄まされたまま、病室内のすべての音を拾い上げていた。


「……気がついたかね、神谷くん」


病室のドアが静かに開き、足音が近づいてきた。

主治医である老医師の、重く、痛々しい声だった。


「……先生……」


創太の破れた唇から、掠れた声が漏れた。喉に差し込まれていた管が抜かれたばかりの、枯れた声。


「……白石は……葵は……どこですか……?」


創太が最初に発したのは、自らの身体のことではなく、葵の安否だった。


老医師は静かに溜め息をつき、創太のベッドの脇にあるパイプ椅子に腰掛けた。


「白石さんは……隣の高度治療室にいる。命に別条はない。……だが」


医師の言葉が重く沈む。


「……君たちに、現実を伝えなければならない。……覚悟して聴いてほしい」


医師は、手元のカルテをめくる音を立てながら、二人が生き残るために支払った『残酷な代償』の全貌を、淡々と、しかし悲痛な声音で告げ始めた。


「まず、君……神谷創太くん。……両眼球は重度の損傷により、摘出せざるを得なかった。君の視力が戻ることは……永遠にない。両目とも完全な失明だ。右耳も内耳が物理的に破壊されており、右の聴力も完全に失われている」


「……はい」


創太は、驚かなかった。自ら選んだ代償だ。


「胸部の貫通傷は、折れた肋骨が右肺を深く穿っていたため、右肺の一部を切除した。左太ももの組織欠損と大腿骨の開放骨折は著しく、数回に及ぶ再建手術を行ったが……左足の運動機能は大幅に失われた。一生、松葉杖か車椅子での生活になるだろう」


医師は一息つき、さらに重いトーンで言葉を続けた。


「そして……白石葵さんだ」


創太の胸が、ドクンッと大きく跳ね上がった。


「彼女の首元の傷……自ら何かをむしり取ったかのような凄惨な傷によって、声帯が完全に壊死していた。命を救うため、彼女の声帯は切除された。……彼女が声を取り戻すことは、二度とない。永久的な【完全失声】だ」


「……っ……!」


「さらに、右上腕部は骨と筋肉の潰滅が酷く、神経が断裂している。右腕の機能は全廃。両脚も重度の化学火傷により、広範囲の皮膚移植を行ったが、自力での歩行は極めて困難だ……」


両目を失った少年。

声を失い、右腕と両脚を失った少女。


二人が生き残るために立ち向かい、怪異の理不尽な問答を打ち砕いた結果として残されたのは、人間としての体を原型を留めないほどに解体された、あまりにも凄惨な「壊れた身体」だった。


「……世間は、大混乱だ」


医師は静かに言った。


「私立稜ヶ丘高校の校舎が原因不明の大崩壊を起こし、生徒三十数名が行方不明……君たち二人だけが、血みどろの姿で生還した。警察も、記者も、連日のように病院へ押し寄せている。『学校で何があったのか』『なぜ二人だけがそんな怪我を負って助かったのか』とね」


市民たちやメディアにとっては、これは理解不能な大惨事であり、不気味な事件だった。

怪異の存在など、誰にも信じてもらえない。

二人はこれから、失った体だけでなく、「世間からの好奇と疑念」という冷たい言葉の暴力とも、一生戦っていかなければならないのだ。


「……先生」


創太は、包帯に覆われた顔を上げ、静かに口を開いた。


「……葵に……逢わせてください」


「……分かった。車椅子を用意させよう」


数十分後。


車椅子に乗せられた創太は、看護師の手によって、隣の静かな個室へと運ばれた。


カチャ……ッ。


ドアが開く。

病室内を満たすのは、消毒液の匂いと、車椅子の軋む音。


「……白石さん。神谷くんが来たよ」


看護師の優しい声。


創太の過剰な左耳は、病室の奥から届く、かすかな音を拾い上げた。


ベットの上で、身を起こす衣擦れの音。

そして、プシュー、プシューという微弱な酸素投与の音。


「……葵」


創太は、目が見えない暗黒の中で、車椅子の車輪を自らの右手でゆっくりと回し、ベッドの脇へと近づいた。


ベッドの上には、白石葵が座っていた。


彼女の首元には厚い包帯が巻かれ、壊死した声帯を切除された痕が痛々しく隠されている。右腕は吊り包帯で固定され、両脚も重重しいガーゼに覆われていた。


彼女は声を出すことができない。

そして、創太は彼女の姿を見ることができない。


一年前、教室で互いに言葉を交わすことを恐れ、目を背けた二人が。

言葉を失い、視力を失った姿で、こうして病室で向かい合っていた。


葵は、ベッドからゆっくりと左手を伸ばした。

彼女の指先が、創太の膝の上に置かれた血の巡りの悪い右手へと、そっと触れた。


ポリ……ッ。


「……葵」


創太は、その温かい感触に、自らの右手を重ね合わせた。


葵の掌から、創太の掌へ。

彼女の生きている体温が、直接伝わってくる。


葵は、自分の左手の指先を使い、創太の掌の表面に、かすかな爪の感触を立てて、ゆっくりと文字を描き始めた。


声を失った少女が、目が見えない少年へ送る、触覚の言葉。


カリ……カリカリ……ッ。


創太の左耳と皮膚感覚が、彼女が創太の手に刻む文字を、一文字ずつ噛み締めるように読み取っていった。


『い』

『き』

『て』

『る』

『ね』


『そ』

『う』

『た』


創太の胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。


創太の残された右の眼孔(包帯の奥)から、大粒の涙が零れ落ち、葵の手の上に落ちた。


「ああ……」


創太は、葵の手を、両手で優しく包み込んだ。


「生きてるよ……葵。俺たち……生きて……帰ってきたんだ」


葵は、創太の手を強く握り返した。

彼女の瞳からも、溢れ出る涙が頬を伝い、ベッドのシーツを濡らした。


二人は、体を解体された。

普通の人間としての未来を、日常を、健康な体を、怪異の毒によって奪われた。

世間からは不気味な目で見られ、過去の「傍観の罪」と、死んでいったクラスメイトたちの記憶を、一生涯背負って生きていかなければならない。


だが――。


創太と葵の間に流れるこの温かい空気には、絶望など一滴も存在しなかった。


自分たちは、逃げなかった。

言葉の暴力に屈せず、自己犠牲の罠にも惑わされず、互いの手を握りしめて、地獄の底から二人揃って這い上がってきたのだ。


これから始まる新しい現実は、壊れていて、冷たくて、過酷かもしれない。


それでも、二人で生きていく。

声を失った葵の「耳」に創太がなり、両目を失った創太の「目」に葵がなる。

互いの傷を補い合い、互いの痛みを分かち合いながら、二人でこの世界を歩んでいく。


病室の窓から、温かいあさひの光が差し込み、重なり合う二人の手を、柔らかく照らしていた。


葛葉市を呑み込んだ『言葉の怪異』との、凄惨を極めた長き戦いは、ここに完全に幕を閉じた。


失ったものはあまりにも大きく、背負う罪はあまりにも重い。

だが、二人の胸の中で燃え続ける「生きていく」という誓いの火は、どんな闇も、どんな言葉の毒も、二度と消し去ることはできない。


朝日の中で、二人は静かに手を握り合い、新しい朝の光を、共に受け止めていた。

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