第49話:『白い病室』
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……。
電子音が、頭蓋骨の奥深くで一定の周期を刻んでいた。
それは、神谷創太が生きていることを世界に知らせるための音であり、同時に、彼が二度と元の世界へは戻れないことを告げる、冷酷なカウントダウンのようでもあった。
(……ここは……どこだ……?)
創太は自らの皮膚感覚と、唯一外界に開かれた窓である『過剰な左耳』を通じて、己の置かれた状況を貪るように手探りし始めた。
視界は、完全な「無」だった。
黒ですらない。光という概念そのものが永遠に剥ぎ取られた、冷たく平坦な虚無。
自らの右指を左の眼孔へと突き立て、水野結衣のステンドグラス片ごと生の眼球を根元から引きちぎったその代償。創太の両眼球は摘出され、いまや彼の顔面の上半身は、分厚く重々しい医療用ガーゼと伸縮包帯によって厳重に封印されていた。
右耳もまた、かつて金属針を深々と突き刺して鼓膜と三半規管を物理的に砕いたため、完全な無音の深海に沈んでいる。
だが、死滅を免れた創太の左耳だけは、この部屋のすべてを、恐怖を感じるほどの解像度で描き出していた。
チチチチチ……という蛍光灯の安定器が発する極小の高周波ノイズ。
輸液ポンプのローラーがポリエチレン管をしごく、微かな摩擦音。
創太の鼻腔を突くのは、高濃度のアルコール消毒液と、漂白された綿シーツ、そして自分の肉体から漏れ出す生血と抗生剤が混ざり合った、冷たく無機質な『白い匂い』。
病室(個室)だ。
それも、一般の病棟ではなく、人工呼吸器や各種生体モニターが稼働する、重症患者用の特殊病室。
「……ハぁ……っ……ハぁ……っ」
創太は喉を動かそうとしたが、気道に挿入されていた人工呼吸器のチューブが抜かれたばかりの喉は、まるで乾いた砂紙を擦り合わせるような不快な摩擦音を立てるだけだった。
胸の真ん中に開いた貫通傷。縫合された巨大な手術痕が、息を吸うたびにミシミシと肉を引っ張り、脳を焼き切るような鋭痛を放つ。自傷によって大腿骨が突出し、創外固定具の金属ボルトが骨に直接打ち込まれた左太ももは、巨大な鉛の塊となってベッドの上に横たわっていた。
生かされている。
自分は、あの地獄の底から、言葉の化物の腹の中から引きずり出され、医療という現代の科学の手によって、この真っ白な部屋に繋ぎ止められているのだ。
その時だった。
カチャン……、カサッ……。
病室の防音ドアが、静かに開いた。
創太の過剰な左耳が、部屋に足を踏み入れようとしている人間の「音」を捉えた。
合皮の革靴が床のビニールタイルを擦る、重く硬い音。
湿り気を帯びたコートの布地が擦れ合う摩擦音。
そして、その人物の胸の奥から漏れる、極度に緊張し、疲弊しきった不規則な浅い呼吸。
「……神谷創太くん、だね」
低く、掠れた男の声だった。
病院の医師や看護師の声ではない。そこには、長年の現場叩き上げ特有の、冷徹で煙草臭い「警察官(刑事)」の響きが含まれていた。
創太は、包帯に覆われた顔を声のする方向へとゆっくり向けた。
「……誰だ……」
創太の口から漏れたのは、声と呼ぶにはあまりに不鮮明な、血の泡の混ざった息だった。
「県警捜査一課の、捜査官だ」
男は、パイプ椅子を引き寄せて腰掛ける音を立てた。ギィ……と金属が軋む。
「君の意識が戻るのを、ずっと待っていた。……本当なら、この状態の君に事情聴取をするのは人道的にどうかと思われるんだが……現場(稜ヶ丘高校)の状況があまりにも異常でね。上がどうしても『直接の生存者の証言』を求めているんだ」
男の声には、創太に対する哀れみや同情よりも、もっと根本的な、『人間が理解不能な異常事態に直面した時の底知れぬ恐怖』が滲み出ていた。
男はポケットから、小さなICレコーダーを取り出し、ボタンを押した。
ピッと小さく電子音が鳴る。
「神谷くん。君にいくつか質問をしたい。……覚悟して聴いてくれ」
男は一息つき、煙草を吸いたい衝動を必死に抑え込むような掠れた声で、言葉を続けた。
「……あの日、私立稜ヶ丘高校の旧校舎で、一体何が起きた?」
創太は、無言を貫いた。
答える術がなかったのではない。仮に「鳴海詩織の怨念が怪異となり、クラスメイトの肉体を解体して言葉の壁を作っていた」などと真実を話したところで、この警察官がそれを精神異常者の虚言として処理するか、あるいは二人を狂人として隔離するだけであることを、創太は瞬時に理解していたからだ。
創太の沈黙を、捜査官はどのように受け取ったのか。
男は長苦しい溜め息をつき、自らのメモ帳を開く音を立てた。
「……言いたくないのも無理はない。君たちの負った傷を見れば、どれほどの凄惨な目に遭ったかは想像を絶する。……だがね、神谷くん。世間に対して、そして遺族に対して、警察は『社会的な事実』を発表しなければならんのだ」
「……社会的な……事実……?」
創太の破れた唇が、微かに動いた。
「そうだ」
捜査官の声が、どこか機械的な、自分自身に言い聞かせるような硬いトーンに変わった。
「公式発表では……私立稜ヶ丘高校の旧校舎地下に埋設されていた、昭和初期の老朽化した都市ガス配管および化学薬品貯蔵庫からの、【大規模な可燃性ガス漏れによる連続爆発事故】……ということになった」
――ガス爆発事故。
創太の胸の奥で、乾いた冷笑が沸き上がった。
三十数名の高校生が次々と姿を消し、異界に呑み込まれ、言葉のルールによって自らの手足を解体され、沸騰した血液で焼かれ、ハサミで切り刻まれたあの地獄の殺戮劇。
それが、社会の表側では、たった一つの「ガス爆発事故」というありふれた記号に置き換えられ、処理されたのだ。
「……事故、か」
「そうだ。ガス爆発だ」
捜査官の声音に、微かな不協和音が混ざった。
「老朽化した配管から漏れ出した高濃度の可燃性ガスが、旧校舎の地下に充満し、何らかの火種によって一気に爆発を起こした。爆風と落盤によって、旧校舎の全壊をもたらし、校舎内にいた生徒たちが巻き込まれた……。そういうことになっている」
「……遺体は……」
創太が尋ねると、捜査官の手がピタリと止まった。
レコーダーの微かなノイズだけが響く病室。
捜査官の胸の鼓動が、トクン、トクンと急激に早くなったのを、創太の過剰な左耳は見逃さなかった。
「……遺体は……」
捜査官の声が、恐怖でわずかに震えていた。
「……旧校舎の瓦礫の下から、回収された。……2年B組の生徒、三十三名……全員の死亡が確認された」
三十三名。死亡。
創太の脳裏に、死んでいったクラスメイトたちの顔が駆け巡った。
長谷川さくら、渡辺大樹、西条拓海、水野結衣、菅原、工藤――。
自分をいじめ、嘲笑し、あるいは傍観し、そして怪異の解体パーツとなって最後は自らの言葉の毒で破裂していった同級生たち。
「……だがな、神谷くん」
捜査官が、創太の耳元へ顔を近づけ、押し殺した低音で囁いた。
「……現場に入った鑑識も、怪異なんてものは信じちゃいない。だが……現場から出てきた『肉の残骸』の検分結果は、あまりにも狂っていた」
捜査官の呼吸が、急速に荒くなる。
「ガス爆発で人間が死ぬとき、肉体は熱で焼け焦げるか、爆風で肉が引きちぎられるのが普通だ。……だが、瓦礫の下から出てきた生徒たちの遺体は……まるで【外科手術用の鋭利なハサミで正確にパーツごとに切断】されていたり、【金属の長針が何百本も皮膚の奥まで生け花のように突き刺さって】いたり、【沸騰した血液で内側から風船のように破裂】していたりしたんだ」
捜査官の指先が、膝の上でガタガタと震えている音が聴こえる。
「それだけじゃない……。生徒たちの皮膚の表面には……刃物で刻まれたような……無数の『文字』がびっしりと残されていた。『死ね』『キモい』『消えろ』……。鑑識の人間が何人も、現場で胃液を吐いて倒れたよ。あれは爆発の傷じゃない。あれは……誰かが意図的に人間を『解体』した痕だ」
大人たちは、気づいているのだ。
これが単なるガス爆発などではないことに。
現場に転がる肉片が、常識では説明のつかない「言葉の狂気」によって破壊されていたことに。
しかし、警察も、行政も、世間も、それを「怪異の仕業」として受け入れることは絶対にできない。
そんなものを認めれば、社会の秩序そのものが崩壊してしまうからだ。
だからこそ、彼らは自分たちの理性を守るために、いくら矛盾があろうとも、「ガス爆発事故」という嘘の看板を死に物狂いで掲げ続けているのだ。
「捜査本部は……君と、白石葵さんの二人が、何らかの理由でクラスメイトたちを凄惨に虐殺し、爆発に紛れて逃げ出そうとしたのではないかという『極秘の疑い』すら持っている」
捜査官の冷たい言葉が、創太の皮膚を刺した。
「なぜなら……あの旧校舎の地獄から生きて生還したのは、全身をズタズタに引き裂かれた君たち二人だけだからだ」
「……そうか」
創太の破れた唇から、乾いた息が漏れた。
加害者、あるいは容疑者としての疑い。
生き残った者へ向けられる、世間の冷酷な眼差し。
怪異の毒は消えても、人間の吐き捨てる「疑念という名の言葉の毒」は、どこまでも二人を追いかけてくる。
その時、病室の隅に設置された小さなテレビの電源が、ナースステーションからの遠隔操作によって自動で投入された。
ジジジ……ッ。
『――続いてのニュースです。私立稜ヶ丘高校で発生した大規模なガス爆発事故から、本日で二週間が経過しました』
無機質で平滑な、女子アナウンサーの合成音声のような声が、病室内に流れ出した。
『現場では依然として崩落した瓦礫の撤去作業が続いており、本日までに2年B組の生徒三十三名全員の身元が確認されました。警察と消防は、老朽化した地下配管からのガス漏れが原因とみて、当時の管理体制を厳しく追及する方針です』
『なお、奇跡的に救出された同校二年の生徒二人につきましては、集中治療室にて現在も重体となっており、警察は容態の回復を待って事情聴取を行う予定です。現場周辺では、遺族会による集会が開かれ――』
テレビから流れる、洗練され、削ぎ落とされた「綺麗な言葉たち」。
何十人もの人間が、肉を削られ、血を沸騰させられ、精神を破砕されて死んでいったあの惨劇の夜が、テレビ画面の上では、わずか数十秒の「痛みのないニュース」として処理されていく。
創太の過剰な左耳は、ニュースの音声の裏側にある「虚無」を、痛いほどに拾い上げていた。
誰も、本当の痛みなど知ろうとしない。
誰も、鳴海詩織という少女がなぜ死んだのか、なぜこの街が呪われたのかなど、興味もない。
大人たちは自分たちの都合の良い「物語(ガス爆発)」を作り上げ、終わったこととして片付けようとしているのだ。
「……神谷くん」
捜査官が立ち上がった。パイプ椅子がカチャンと音を立てる。
「今日はここまでにしよう。君の容態が安定したら、また来させてもらう。……白石葵さんにも、同様の聴取を行う予定だ」
捜査官の足音が、病室のドアへと向かう。
「……無駄だ」
創太が、低く言った。
捜査官の足音が止まった。
「……何だと?」
「……葵に……聴取をしても……無駄だ」
創太は、包帯に覆われた顔を上空へ向けたまま、血の泡とともに言った。
「……あいつは……声を失った。……二度と……喋ることはできない」
「……失声症か。精神的なショックによる――」
「違う」
創太は捜査官の言葉を遮った。
「……あいつの喉は……二度と動かない。……俺たちの『言葉』は……もう、お前たちの世界には届かないんだ」
捜査官は不気味な沈黙ののち、何も言わずに病室のドアを開け、去っていった。
バタン。
再び、病室内に訪れる無菌の静寂。
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……。
生体モニターの電子音だけが、創太の生きている証拠を刻み続ける。
両目を失った暗黒の世界。
右耳を失った無音の世界。
胸に開いた穴。動かない足。
創太は、ベッドの上に一人取り残され、自分たちが勝ち取った「生還」の、あまりにも重く、恐ろしい手応えを全身で噛み締めていた。
自分たちは生き残った。
だが、その代償として、人間としての身体の多くを失い、社会からは「怪しい生存者」として疑われ、世間の冷たい言葉の海へと投げ出されたのだ。
その時だった。
ポリ……ッ。
病室の外、廊下の向こうから、かすかな「音」が創太の左耳に届いた。
ガラガラガラ……ッ。ガラガラガラ……ッ。
それは、金属の車輪が病棟のビニールタイルを静かに滑る音だった。
車椅子の音だ。
その車椅子を押す看護師の足音とともに、車椅子の上に座っている人物の、かすかな、しかし創太にとって世界で最も愛おしい「呼吸の音」が、創太の左耳へと真っ直ぐに届いてきた。
白石葵だった。
(葵……!)
創太の胸が、激しく高鳴った。
ガラガラ……カチャ。
病室のドアが、静かに開かれた。
「神谷くん。隣の病室から、白石さんが車椅子で来られたよ」
看護師の優しい声が響いた。
全盲の創太の視界には、何も映らない。
だが、創太の過剰な左耳は、車椅子に乗せられて近づいてくる葵の「姿」を、音を通じて鮮明に描き出していた。
車椅子の車輪が止まる音。
看護師が気を利かせて「二人で少し話すといいよ」と言い、病室のドアを閉めて出ていく音。
二人だけの、白い病室。
創太と葵。
壊れた現実へ生還を果たした二人の高校生が、いま、静かに向かい合っていた。
カチャ……ッ。
看護師の足音が廊下の彼方へと消え去り、分厚い防音ドアが完全に閉じられた。
病室内を支配するのは、輸液ポンプの不規則なローラーの駆動音と、生体モニターが刻む「ピッ……ピッ……」という規則的な電子音だけだった。
「……葵……か?」
神谷創太の破れた唇から、砂を噛むような掠れた声が漏れた。
両目は完全な失明。顔面の上半身を覆う分厚い医療用ガーゼと伸縮包帯が、外の世界のあらゆる光をシャットアウトしている。右耳もまた、物理的に打ち砕かれた三半規管と鼓膜の奥で、底知れぬ無音の深海に沈んでいた。
だが、死滅を免れた創太の『過剰な左耳』は、ベッドのすぐ傍らに停止した車椅子の上にいる人物の「微かな気配」を、恐ろしいほどの解像度で捉えていた。
車椅子の合皮シートが軋む、かすかな摩擦音。
鼻腔を突く、医療用ガーゼの匂いと、彼女の髪に微かに残るあの生臭い血と酸の匂い。
そして何より――創太の心臓の鼓動と完全に同調するように打つ、彼女の痛々しいほど弱々しい『命の呼吸音』。
「……あ……っ」
声帯を切除された白石葵の首元から、言葉にならない、掠れた空気の漏れる音だけが溢れ出た。
彼女の右腕は回転ノコギリ刃によって骨まで切り刻まれ、いまやギプスと重々しい包帯で胸元に固定されたまま動かない。両脚も強酸の消化液によって重度の火傷を負い、皮膚移植の手術を終えたばかりの生肉が、医療用ガーゼの奥で悲鳴を上げている。
創太は、動かなくなった左太ももの激痛に歯を喰いしばりながら、点滴のチューブが繋がれた右手を、ゆっくりとベッドの縁から外へ向かって差し出した。
虚空を彷徨う、創太の血巡りの悪い、冷え切った指先。
ポリ……ッ。
創太の指先に、葵の痛々しく震える「左手」が、そっと触れた。
葵の剥がれ落ちた爪の痕が残る、冷たい指先。
二人は、手繰り寄せるようにして、互いの指を深く、骨が深く軋むほどの強さで、固く、固く絡め合わせた。
「葵……っ……!」
創太の破れた胸の縫合痕が激しく痛み、口から血の味が広がった。
言葉など、必要なかった。
二人の重なり合った手を通じて、互いの脈動が、互いの体温が、直接魂の核心へと流れ込んできた。
生きていた。
生き残ったのだ。あの言葉の化物が這い回る地獄の旧校舎から、二人の手で怪異の理不尽な論理を叩き潰し、朝日の差すこの世界へ生還を果たしたのだ。
しかし――二人の手に伝わる温もりは、手放しの歓喜に満ちたものでは決してなかった。
葵の指先が、創太の掌の皮膚の上で、静かに動き始めた。
カリ……カリカリ……ッ。
言葉を奪われ、完全に声帯を失った少女が、両目を抉り出されて全盲となった少年へ送る、触覚の言葉。
彼女の爪が、創太の皮の擦り切れた手袋のような皮膚の上に、ゆっくりと、祈るような速度で文字を刻み込んでいく。
『が』
『す』
『ば』
『く』
『は』
『つ』
創太の脳内で、彼女が刻んだ「文字」が、冷たい事実として組み上がっていった。
「……ああ」
創太は、包帯に覆われた顔を微かに頷かせた。
「……警察が来たよ。……学校の惨劇は……全部『ガス爆発事故』として処理されたそうだ……」
カリ……カリカリ……ッ。
『み』
『ん』
『な』
『し』
『ん』
『だ』
「……ああ。三十三人全員の死亡が……確認された」
創太の声は、乾いていた。
長谷川さくら、渡辺大樹、西条拓海、水野結衣、菅原、工藤――。
自分をいじめ、嘲笑し、あるいは見殺しにし、そして最後は自らの吐き捨てた暴言の毒(言葉の逆流)によって肉体を内側から自爆させて死んでいったクラスメイトたち。
彼らの凄惨な解体死体は、いまや「ガス爆発に巻き込まれた可哀想な犠牲者」という綺麗事で塗り固められ、葬式が上げられ、世間の同情を引いている。
誰も、彼らが一年前、鳴海詩織という一人の少女を死に追い詰めた加害者であったことも、怪異の胎内で自らの言葉の毒によって身を滅ぼしたことも知る由はない。
カリ……カリカリ……ッ。
葵の指先が、激しく震え始めた。
彼女の指先が描く文字が、涙の揺らぎのように崩れていく。
『わ』
『た』
『し』
『た』
『ち』
『が』
『さ』
『つ』
『じ』
『ん』
『か』
創太の胸に、冷たい針が突き刺さった。
警察の捜査官が告げていった言葉。
「旧校舎の地獄から生きて生還したのは、君たち二人だけだ」
「現場の肉片は、ガス爆発ではなく、鋭利な刃物や針で解体されていた」
「世間や遺族は、君たち二人を『爆発に紛れてクラスメイトを殺戮した容疑者』として疑っている」
世間のニュースでは、悲劇の生存者として扱われながらも、警察や行政、そして死んだ同級生たちの遺族の裏側では、生き残った二人へ向けた「冷酷な疑念と憎悪」が、じわじわと渦を巻き始めていた。
なぜ、あの惨劇の中で二人だけが助かったのか?
なぜ、彼らの体はこれほど無惨に壊されているのか?
神谷創太と白石葵が、みんなを殺したのではないか?
怪異が消え去った現実の世界。
しかし、人間たちが吐き出す「噂」「疑念」「自己保身」という名の【言葉の毒】は、何一つ消えていなかったのだ。
「……葵」
創太は、葵の震える手首を、自らの右手でしっかりと包み込み直した。
「……気にするな。……俺たちが何を言ったところで……大人たちは信じやしない。……怪異なんてものを認めたら、自分たちの日常が壊れてしまうからな……」
創太は、自分の顔面を覆う分厚い包帯の奥で、哀しく、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「俺たちは……容疑者でいい。……悪魔でいいんだ」
カリ……っ?
葵の指先が止まった。
「俺たちは……一年前、あの教室で詩織を見殺しにした。……長谷川たちが直接手を汚していた陰で、俺たちは『関係ない』という顔をして、目を逸らして逃げたんだ。……俺たちもまた、詩織を殺した同罪者だった」
創太の喉から、血の混ざった重い息が漏れる。
「だから……この壊れた身体も……世間からの冷たい目も……全部、俺たちが背負っていくべき【生還の代償(本当の罪)】なんだよ。……みんなの分まで、死んだクラスメイトたちの痛みも……詩織の悲しみも……俺と葵で、一生抱えて生きていくんだ」
創太の言葉は、悲壮感に満ちた諦めではなかった。
自らの罪から逃げず、言い訳もせず、どれだけ現実が冷たくとも、二人でその痛みを引き受けて生きていくという、強固な「覚悟」だった。
カリ……カリ……カリ……。
葵の指先が、今度は優しく、創太の手に文字を刻んだ。
『つ』
『ら』
『い』
『ね』
「……ああ。辛いさ」
創太の包帯の隙間から、大粒の涙が零れ落ち、ベッドのシーツへと染み込んでいった。
「失明して……声を失って……体はボロボロで……世間からは人殺しみたいに疑われて……。……でもな、葵」
創太は、葵の手を自分の胸元へと引き寄せ、自分の心臓の真上に彼女の掌を重ねさせた。
ドクン……! ドクン……! ドクン……!
力強く打つ、創太の心音。
そして、葵の胸の奥から届く、彼女の命の脈動。
「……俺たちは、生きてる。……あの地獄の底で、お前が俺の手を握りしめてくれたから……俺たちは今、ここにいるんだ」
病室の窓の外から、風の音が聴こえていた。
本物の風。本物の街の騒めき。
かつて一年間、漆黒のドームに閉じ込められ、死者たちの怨念に狂わされていた葛葉市の街が、いま、何事もなかったかのように朝の陽光を浴びている。
誰一人、あの地下で起きた狂気(怪異)の真実を知らない。
誰一人、この二人の高校生が何を守り、何を失って生還したのかを理解しない。
世界は、どこまでも冷たく、不条理で、自分勝手な言葉で満ち溢れている。
だが――。
創太と葵の間には、決して壊れることのない「絆」が存在していた。
両目を失い、全盲となった神谷創太。
声帯を切除され、完全な失声を負った白石葵。
これからの人生、二人は言葉を音として交わすことはできない。
目で互いの笑顔を見ることもできない。
しかし、手が重なり合っている限り。
触れ合う皮膚の温度と、手のひらに刻む触覚の言葉がある限り。
二人は互いの「目」となり、互いの「声」となって、この壊れた現実をどこまでも歩んでいくことができる。
葵は、創太の胸の上で、自分の頭を創太の肩口へと静かに預けた。
声は出ない。涙だけが、彼女の美しい瞳から溢れ落ち、創太の病衣を濡らした。
それは、絶望の涙ではなかった。
どんな過酷な未来が待っていようとも、二人で共に生きていくという、決意と安堵の涙だった。
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……。
生体モニターの電子音が、静かな病室内に響き続ける。
外の廊下では、また捜査官たちの足音や、記者たちの騒がしい声が近づきつつあった。
明日になれば、再び警察の不躾な取調べが始まり、世間のゴシップ誌が二人を不気味な生存者として書き立てるだろう。
だが、二人はもう、何も恐れていなかった。
創太は右手で葵の背中を優しく抱きしめ、二人は重なり合った手を通じて、新しい朝の光を、静かに受け止めていた。




