第47話:『崩壊する肉塊』
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!!
異界と化した校舎全体を揺るがす地鳴りは、建造物が崩れ落ちるような無機質なものではなかった。
それは、何千、何万という生身の臓器が一度に過呼吸を起こし、内側から溜まりに溜まった腐敗ガスと沸騰した血液によって破裂限界まで膨れ上がり、自らの肉を内側から引きちぎりながら破裂していく、悍ましい生物的自壊の断末魔であった。
ジュクッ……ブチュゥゥゥゥッ……! パァァァァンッ!!!!
完全なる暗黒。
第45話において、自らの右指を左の眼孔へと突き立て、水野結衣のステンドグラス片ごと生の眼球を根元から力任せに抉り出したことによって、神谷創太の視界から「光」という概念のすべてが死絶していた。
右耳はかつて金属針を深々と突き刺して鼓膜と三半規管を物理的に砕いたため、完全な難聴と不通。
いま、創太という人間の意識を外界と繋ぎ止めているのは、全身を焼き尽くすような過酷な肉体の痛覚と、皮膚に触れる生温かい湿り気、そして――唯一生き残っている『左耳だけの異常なまでに研ぎ澄まされた過剰な聴覚』だけであった。
「がはっ……! げほっ……! ぶはっ……っ!」
創太の口から、粘り気を帯びた黒い血の塊がドバッと吐き出され、ぬめりを帯びた床の泥へと叩きつけられた。
創太の頭蓋骨の奥で、過剰な左耳が激しいノイズとともに悲鳴を上げている。
全方位から彼を打擲するのは、肉と骨が弾け飛ぶ惨烈な破砕音の暴風だった。
第46話において創太が叩きつけた「逆のなぞかけ」――。
自らの罪と痛みを認めた上で、怪異が人間へと浴びせてきた言葉の毒そのものを怪異自身へ突き返した結果として巻き起こった【言葉の完全なる逆流(自家中毒)】。
その毒は今や、この異界を形成していた全ての肉壁、すべての解体パーツ、すべての怨念の組織へと細胞レベルで侵食し、それらを内部から自爆させ続けていた。
壁として二人を囲んでいた膨大な肉の粘膜が、土砂崩れのようにドロドロと削げ落ち、その肉の裏側に隠されていた無数の動脈や静脈の束が、千切れ飛んだミミズのように狂乱してのたうち回る。
「あ……あぁ……っ……!」
創太の胸元にしがみつく白石葵の小さな身体が、空間を伝わる凄絶な衝撃波に弾かれて激しく跳ね上がった。
声を失い、自らの手で喉の黒蝋をむしり取った葵の首元からは、今も温かい生の血液がだらだらと滴り落ち、創太の破れた制服の胸元を赤く染め続けている。回転ノコギリ刃に肉を削がれ、骨が剥き出しになった彼女の右腕と、強酸の消化液で皮膚を焼かれた両脚は、もはや歩行という運動を完全に拒絶していた。
「葵……っ……! 離れるな……絶対に、俺から手=を離すなっ……!」
創太は、見えない暗黒の世界の中で、自らの血塗られた右手で葵の細い左手首をガッチリと握りしめた。
創太自身の肉体もまた、生命の灯火がいつ消えてもおかしくない絶体絶命の死に体にあった。
胸のド真ん中に開いた拳大の貫通傷。息を吸い込むたびに「シュウ、ガボッ」と湿った血の泡が吹き出し、肺の表面を折れた肋骨の断面がゴリゴリと削り取る。自傷によって大腿骨が露出した左太ももは、直前に鉄パイプで骨を削り直した衝撃によって筋繊維がズタズタに断裂し、肉の塊として無惨に垂れ下がっていた。
両目の失明。右耳の途絶。潰れた足。穴の開いた胸。
人間が生存できる領域をとうに通り越した惨状でありながら、創太が正気を繋ぎ止めていられる唯一の理由は、左太ももの深部から脳髄へ向かって絶え間なく走り抜ける、狂気を孕んだ「激痛の電流」と、掌を通じて伝わる「葵の温もり」だけだった。
ドスッ! バキバキバキッ! ブシャァァァァァッ!!!!
突然、二人のすぐ上空で、巨大な肉の天井が内側から自爆した。
降り注いできたのは、雨などではない。
千切れ飛んだ無数の肉片と、ドロドロに沸騰した赤黒い体液、そして強酸の胃液が混ざり合った『死の肉片の豪雨(土砂降り)』だった。
「ぐあぁぁぁぁっ……!」
創太は葵の身体を抱きかかえ、自らの背中を丸めて「肉と血の雨」の直撃を全身で受け止めた。
ビチビチビチッ! ガツンッ! と背中に激しい衝撃が走り、腐敗臭と酸の焼ける臭いが創太の鼻孔を突き刺す。制服の生地が強酸によってジジジと白煙を上げて溶け去り、その下の生の皮膚が熱と痛みで焼き焦げていく。
だが、創太は葵を庇う姿勢を1ミリたりとも崩さなかった。
(崩れていく……。怪異の……この世界の全体が……完全に破裂していく……!)
創太の過剰な左耳は、全方位の反響音を通じて、この「異界の胃袋」の構造的崩壊の全貌を、恐ろしいほどの精度で脳内に可視化していた。
これまでに死んでいった2年B組の三十余名の生徒たち。
彼らの切り刻まれた腕、脚、眼球、心臓、喉――怪異のルールによって解体され、校舎の肉壁の「部品」として組み込まれていた死者たちの肉体が、自らの吐き散らした暴言の毒(逆流)によって、一斉に腐敗ガスを噴出させて破裂し始めていたのだ。
『――痛い! 痛い痛い痛いっ! 私の言葉が! 私の口が弾けるぅっ!』
『――熱い! 助けて! 身体が溶ける! 自分の吐いた血で焼けるぅぁぁっ!』
『――許して! 嫌だ! 自分の声で殺される! 死にたくないぁぁぁっ!』
壁の中で、天井の中で、床の血泥の中で。
解体パーツとして埋め込まれていた死者たちの何百、何千という声帯が、破裂する直前の過剰な摩擦によって、一斉に金切り声を上げ始めた。
長谷川さくらの声、渡辺大樹の声、西条拓海の声、水野結衣の声、菅原の声――。
かつて教室でいじめを繰り返し、あるいは傍観し、そして怪異によって惨殺された同級生たちの断末魔の悲鳴が、重奏となって空間全体を狂乱のソニックブームで叩きつける。
パァァァンッ! パパパパパァァァンッ!!!!
長谷川さくらの何十本もの腕で構成されていた壁の牙が、内側から溜まった高圧の腐敗ガスによって破裂し、骨の破片を散弾銃のように全方位へ撒き散らす。
渡辺大樹の沸騰血の塊でできていた天井の重しが、ドバァァァッと弾け飛び、何百リットルもの灼熱の血液が床を津波となって呑み込んでいく。
「ひ……っ……!」
創太の胸の中で、葵が小さく身を縮こまらせて震えた。
彼女の顔に、破裂した同級生の肉片と熱い血がボタボタと降り注ぐ。
「大丈夫だ……葵! 俺から離れるな! 俺たちが……俺たちが生き残るんだっ!」
創太は、目が見えない暗黒の中で、床の粘液と肉片の海に血塗られた両手を突き立てた。
立ち上がることはできない。左足の大腿骨は砕け、右足も大量失血で神経が麻痺している。
だから、創太は「這う」ことを選択した。
両肘と膝、そして血塗られた右手だけを使い、床の赤黒い泥を掻き分けるようにして、前へ、前へと凄絶な匍匐前進を開始した。
ズリッ……、グチュッ……。
肘を泥に叩きつけるたびに、床に転がる誰かの肋骨や歯の破片が肉に刺さり、激痛の電流が創太の脳髄を叩く。
だが、創太は立ち止まらなかった。引きずる左太ももから溢れ出る生血が、這った後へ赤黒い一本の太い軌跡を描いていく。
創太の過剰な左耳は、崩壊し、狂乱の合唱が響き渡る全方位のノイズの中から、たった一つだけ『質の違う音』を捉えていた。
前方数十メートル。
破裂する肉壁の向こう側から届く、かすかな、しかし決定的な「空気の摩擦音」。
カチャン……、キシィィィィン……。
それは、金属が擦れ合う音だった。
私立稜ヶ丘高校の敷地と、外の葛葉市(現実世界)を隔てていた、あの冷たく頑丈な『鉄製の校門』が、崩壊する異界の圧力によって軋み、開こうとしている音だった。
(あそこだ……! あの音のする場所が……校門だ! 外への唯一の出口だっ!)
創太は、全盲の暗黒の中で、その金属音だけを全神経の錨として見据えた。
「葵……! 聴こえるか! 校門の音だ……! 出口が開こうとしている!」
「……っ! ……っ!」
葵は創太の言葉に応えるように、自らの痛む左腕で創太の腰を強く抱きしめ返し、己の脚を泥の中で必死に掻いた。
声を失った少女と、視力を失った少年。
二人は一塊の肉体となって、破裂する死者の肉片と強酸の雨が吹き荒れる地獄の底を、校門に向かって泥まみれになりながら這い進んだ。
ズドドドドドドドッ!!!!
突然、二人の進行上の天井が、巨大な落盤を起こした。
崩れ落ちてきたのは、巨大な「肉の腫瘍の塊」だった。
怪異の胎内に取り込まれ、未消化のまま肥大化していた数十人分の肉体パーツが癒着し、巨大な肉の障壁となって二人の真前へと叩きつけられたのだ。
ドシャァァァンッ!
激しい衝撃とともに、赤黒い血液の波が創太と葵を飲み込み、二人の身体は数メートル後方へと押し流された。
「ガハッ……! げほぉっ!」
創太は口と鼻に入り込んだ血と胃液を吐き捨て、必死で葵の腕を引っ張り寄せた。
目の前を塞ぐ、全高数メートルにおよぶ肉の腫瘍の壁。
その肉の壁の表面には、無数の生首が埋め込まれ、血走った眼球で創太たちを睨みつけながら、自らの言葉の毒で破裂寸前の悲鳴を上げていた。
『――通さない! 通さない! 私たちの言葉で弾ける前に、お前たちも道連れだ!』
『――お前たちだけが外へ行くなんて許さない! ここで一緒に肉になれ!』
『――溶けろ! 弾けろ! 一緒に消えろぉぉぉっ!』
肉の腫瘍が、内部の腐敗ガスでパンパンに膨らみ始める。
あと数秒で、この巨大な肉の爆弾が自爆し、周囲数メートルを強酸と骨の破片で跡形もなく吹き飛ばそうとしていた。
「クソッ……! 邪魔をするなっ……!」
創太は自らの血塗られた右手を、泥の中に落としていた壊れた鉄パイプへと伸ばした。
鉄パイプの先端は、直前に自分の太ももの骨を削ったことで、赤黒い血と肉片がこびりつき、鋭利に破断していた。
創太は、見えない目の前にある「肉の腫瘍の壁」へ向かって、己の残された全腕力を込めて、その鉄パイプを深々と突き立てた!
ズブスゥゥゥゥッ!!!!
「道を開けろぉぉぉぉぉっ!! 俺たちは……俺たちは絶対にあの街へ帰るんだぁぁぁっ!!」
創太の気迫の咆哮とともに、鉄パイプが肉の腫瘍の「一番薄い接合部」を貫通した。
パァァァァァァァァンッ!!!!
貫通した穴から、溜まっていた高圧の腐敗ガスが「シューッ!」と凄まじい音を立てて吹き出し、肉の腫瘍は二人の頭上を飛び越えるようにして、後方の闇へと破裂しながら吹き飛んでいった。
開いた。道が開いた。
その肉の腫瘍が消え去った向こう側から、創太の左耳に、よりはっきりと、より鮮明に「外の音」が届いた。
ガラガラガラ……ッ! カチャンッ!
校門だ。
私立稜ヶ丘高校の正門を閉ざしていた巨大な鉄の扉が、崩壊する異界の圧力に耐えかねて、ついに数センチの「隙間」を開けて外部へと倒れかけ始めていたのだ!
その隙間から吹き込んできたのは、腐敗臭と酸の臭いに満ちたこの地獄には存在し得ない、冷たく、乾いた、『本物の外の朝風』だった。
「葵……! 見えるか……!? いや、聴こえるか! 校門だ……! 校門が開いている!」
創太は血の涙を流しながら、這う速度を上げた。
肘の肉が削れ、大腿骨が泥を擦り、胸から血が溢れ出る。
それでも、創太は葵の手を引いて、前へ、前へと這い続けた。
周りでは、依然として怪異の肉体が凄絶な自壊を続けている。
壁が破裂し、天井が落ち、死者たちの生首が次々と弾け飛んで血の雨を降らせる。
異界という名の巨大な怪異が、自らの死の苦悶にのたうち回りながら、世界そのものを完全に消滅させようと暴れているのだ。
だが、創太と葵の意志は、もう何ものにも折られることはなかった。
あと十メートル。あと五メートル。
二人は、血と肉片の海を這い抜け、ついに、開きかけたあの「鉄の校門」の真下へと辿り着いた。
校門の鉄格子の隙間から漏れ出す、眩い本物の朝日の光。
そして、その向こう側に広がる、本物の葛葉市の坂道。
長かった惨劇の夜の出口が、いま、二人の満身創痍の手の届く場所で、ゆっくりと、その絶望の重口を開こうとしていた。
ギギギギギギギギギギギギギギギッ……!!
私立稜ヶ丘高校の正門を鎖で固く閉ざしていた、高精細な鉄製の校門。
崩壊を続ける異界の膨大な圧力に耐えかね、中央の合わさり目がひび割れ、数センチの小さな『隙間』を開けて外側へと軋み倒れかけていた。
その鉄の隙間から吹き込んでくるのは、腐敗臭と酸の焼ける悪臭に塗れた地獄の胃袋の中には存在しない、冷たく、乾いた、『本物の外の朝風』だった。
「はぁ……っ! はぁ……っ! はぁ……ッ!」
両目の視力を完全に失った全盲の神谷創太は、床の血泥と肉片の海に両肘と膝を叩きつけ、文字通り「蛇のように」地を這いながら、その校門の真下へと辿り着いていた。
創太の過剰な左耳は、数センチの鉄の隙間から漏れ出す風の音、遠くのアスファルトを滑る車のタイヤの摩擦音、そして朝の街を包む澄んだ空気の振動を、砂漠で水を求める亡者のように貪り拾い上げていた。
「ここだ……! ここが……外だ……っ! 葵……っ!」
創太の破れた唇から、血の泡とともに掠れた歓喜の咆哮が漏れた。
だが、彼らがその数センチの「生の隙間」を潜り抜けようとした、まさにその絶対の刹那。
『――逃がさない……逃がさない逃がさない逃がさない逃がさないぁぁぁっ!!』
崩壊の絶頂を迎えていた異界の空間全体から、万の死者たちの悲鳴が混ざり合った、この世の終わりのような怨嗟の濁流が吹き荒れた!
ズボバババババババババババババッ!!!!
「なっ……!?」
創太の皮膚感覚が、頭上からの「致命的な落盤」を察知した。
校門の真上――アーチ型の石造りの正門のフレームにまとわりついていた巨大な肉の腫瘍。第46話で自らの言葉の逆流(自家中毒)によって自爆を開始した、死んだクラスメイトたちの肉体パーツの残骸が一斉に融合し、一つの巨大な『死肉の土砂崩れ(肉の雪崩)』となって、二人を校門ごと押し潰し、埋め尽くすべく頭上から一気に雪崩を打って落殺してきたのだ!
長谷川さくらの千切れ飛んだ指、渡辺大樹の煮え滾る皮膚、西条拓海の引きずり出された内臓、水野結衣のステンドグラスが刺さった眼球、そして何十ものクラスメイトたちの無惨な顔面――。
それらが熱い血液と強酸の消化液の津波となって、校門の隙間を内側から完全に埋め立てようと降り注ぐ。
ドシャァァァァァァァァンッ!!!!
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
創太は自らの身体を折り曲げ、両腕の中に白石葵の小さな体躯を完全に包み込んで、その頭上からの「死肉の雪崩」の直撃を背中で受け止めた。
ドスッ! ガツンッ! ビチビチビチッ!
重力に従って落下してきた何百キログラムもの肉と骨の塊が、創太の背中に容赦なく叩きつけられる。
背骨がミシミシと嫌な音を立てて歪み、胸のド真ん中に開いた貫通傷から、体内の血と空気が「ガボッ! ガボッ!」と絶叫とともに大量噴出した。
さらに、落盤した肉の腫瘍から漏れ出た強酸の胃液が、創太の背中の制服を一瞬にして焼き溶かし、剥き出しになった生の皮膚をじゅうじゅうと白煙を上げて灼熱の激痛で焼き焦がしていく。
「あ……ぁ……っ! 創……太……ッ!」
創太の胸の下で、葵の声帯を失った喉から、血の泡を噛み殺すような悲痛な摩擦音が漏れた。
彼女自身の身体も、すでに限界の底を抜けていた。
声を奪われ、右腕を削がれ、両脚の皮膚を酸で溶かされた彼女。首元の黒蝋を自らむしり取った傷口からは、未だに生の血液が赤黒く溢れ出し、彼女の生命維持機能は数分と持たない状態にあった。
肉の雪崩によって、二人の身体は校門の真下で完全に「埋もれかけた」。
首から下が赤黒い肉片と沸騰した血液の海に埋まり、ずっしりとした湿った肉の重圧が、二人から息を吸うための肺の膨らみを奪い去っていく。
『――ここで死ね! 一緒に肉になれ! 外へなんか行かせない!』
『――お前たちだけが朝日を見るなんて許さない! ここで溶けろ! 腐れぇぇぇっ!』
埋もれた肉の塊の中から、クラスメイトたちの生首の口が一斉に開き、創太と葵の耳元で狂乱の絶望を囁きかけてくる。
(だめだ……身体が……動かない……っ!)
創太の意識が、急激な失血と酸素不足によって、再び漆黒の泥の中へと沈みかけようとしていた。
右耳は途絶。両目は全盲。左足は砕け、胸には穴が開いている。
背中にのしかかる何百キロの肉の重圧。
このまま力を抜けば、肉の海に沈み、数秒後には自分たちもまた、この崩壊する怪異の「肥やし」となって消滅する。
(もう……ここまでなのか……? 出口は……目の前にあるのに……っ!)
創太の右目の奥から、血の涙がポロポロと零れ落ち、肉泥へと消えていく。
その時だった。
ギュッ……!!
肉の海に埋もれていた創太の右手の指先に、小さく、しかし凄まじい熱量を持った「力」が込められた。
葵だった。
彼女は、強酸に焼かれた両脚と、削られた右腕の絶望的な激痛に耐えながら、自らの残された左手で、創太の右手を強く、強く握り返したのだ。
彼女の剥がれ落ちた指の爪の傷口から、熱い生血が溢れ出し、創太の掌を濡らす。
葵は、目が見えない創太の顔に向かって、自分の額を強く擦り付けた。
そして、声帯の千切れた喉から、血の泡を撒き散らしながら、魂の咆哮を放ったのだ。
『――諦めないでっ! 創太ぁぁぁっ!』
文字にはならない。言葉にはならない。
ただの空気の摩擦音と、血の泡が弾ける音。
しかし、その音は、過剰な左耳を持つ創太の脳髄の最も深い領域へ、雷撃となって突き刺さった。
葵の胸の奥から響く、ドクン……! ドクン……! という、狂おしいほどに力強い心音。
彼女は諦めていなかった。
声を失い、腕を失い、脚を溶かされ、死の淵に立たされながらも、彼女の瞳は一瞬足りとも「二人で生きて帰る」という誓いの光を失っていなかったのだ!
(そうだ……! 何のために……何のために俺は自分の目を潰した!? 何のために俺はお前の手をとったんだぁぁぁっ!!)
創太の頭蓋骨の奥で、消えかかっていた「生きるための炎」が、超高圧の暴風となって爆発した!
「おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
創太は、背中にのしかかる何百キロという死肉の重圧を押し返すように、自らの折れた背骨と、壊れた上半身の筋肉のすべてに、狂気の電流を駆け巡らせた!
自傷によって大腿骨が露出した左太ももの傷口へ、創太は己の右手で握りしめていた鉄パイプの角を、さらに肉の奥深くまで深々と突き立てた!
ズブズブスッッ!! バキバキバキッ!!
「ガハァァァァァァァァァァッ!!!!」
大腿骨の表面を鉄パイプで直接打ち砕くという、正気の沙汰を超越した極限の痛撃!
その脳を焼き切るような激痛のエネルギーが、創太の肉体からすべての「限界」を力任せに解除させた!
創太は血の泡を全身から撒き散らしながら、背上の肉の雪崩をドゴォンッ! と力任せに跳ね上げた!
「邪魔だぁぁぁぁぁっ!! どけぇぇぇぇぇっ!!」
創太は左腕で葵の腰をガッチリと抱きかかえ、血塗られた右手で、数センチ開いた「鉄の校門の格子」を掴み取った!
冷たい。硬い。本物の鉄の感触。
外の朝風が、創太の血濡れた顔面を優しく撫でる。
「葵……行けぇぇぇぇっ!!」
創太は自らの残された全腕力を絞り出し、抱きかかえていた葵の身体を、校門の数センチの隙間から、外のアスファルトの上へ向かって、押し出そうとした!
「……っ!? ―――――ッッッ!!!!」
その瞬間、葵が拒絶の叫びを上げた。
葵は、校門の外へ出されそうになりながらも、自らの左手で、創太の制服の胸元を破れんばかりの力で掴み返したのだ!
『嫌! 創太も一緒! 一人で外になんて行かない! 一緒に出るのぉぉぉっ!』
声を失った少女の魂の叫びが、創太の手首を通じて伝わってくる。
葵は、自分の身体を外へ脱出させると同時に、その左腕の力だけで、傷だらけで動かない創太の巨躯を、校門の隙間から「引きずり出そう」と、命を賭して引っ張り始めたのだ!
剥がれた指の爪から血が吹き飛び、彼女の肘の関節が悲鳴を上げる。
それでも葵は、創太の手を絶対に離さなかった。
「あ……葵……っ!」
創太の血塗られた右目が、涙で溢れた。
一人で死なせない。一人で生かさせない。
二人で一緒に、あの光の下へ帰るのだ。
「ああ……一緒だ……! 二人で……帰るぞぉぉぉっ!」
創太は、葵の引く力に合わせ、自らの潰れた右脚と肘を泥に叩きつけ、校門の鉄格子の隙間へ向かって、自らの頭部と上半身をねじ込んだ!
ミリミリミリ……ッ! ガバッ!!
鉄格子の冷たい感触が、二人の頬を、肩を、胸を擦り抜けていく。
まさにその瞬間――。
ズバババババババババババババババババババァァァァァァンッ!!!!
二人の背後で、私立稜ヶ丘高校の異界そのものが、完全なる【最終崩壊】を迎えた。
自らの言葉の毒によって内側から完全に自爆した巨大な肉のドーム、校舎の残骸、そして三十余名の死者たちの怨念。
それらすべてが、白熱した真白な光の暴風となって一気に爆発し、跡形もなく粉砕されていったのだ!
『――アぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!』
何万の死者たちの最後の悲鳴が、光の彼方へと消え去っていく。
爆風の凄まじい衝撃波が、校門の隙間にいた創太と葵の背中を、力任せに屋外へと吹き飛ばした!
ガシャァァァァァァンッ!! ドシャァァァァンッ!!
二人の重なり合った身体は、校門を完全に突き抜け、ゆるやかな傾斜を描く私立稜ヶ丘高校前の坂道――本物の、現実のアスファルトの上へと、派手に転がり出た。
ゴロゴロゴロ……ッ。
数メートル転がり、ようやく二人の身体は停止した。
静寂。
あまりにも唐突に、あまりにも完全な形で、周囲からすべての不快なノイズ、血の雨の音、腐敗臭、そして狂気の悲鳴が消え去っていた。
頬を撫でるのは、本物の、冷たく澄み切った早朝の風。
耳に届くのは、遠くの街で鳴り響く朝を告げる時計の音と、風が街路樹の葉を揺らすささやかな音。
そして――全盲となった創太の肌を、温かい、本物の『太陽の光(朝日)』が、全身を包み込むようにして優しく照らし出していた。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……っ」
創太は、血と泥で濡れたアスファルトに両肘をつき、呼吸を確かめた。
喉に入ってくる空気には、胃液の臭いも、強酸の焦げ付く匂いもなかった。
アスファルトの乾いた匂いと、朝露の匂い。
「出……出た……」
創太の破れた唇から、掠れた声が零れ落ちた。
「出たんだ……! 本当の……現実の世界に……っ!」
両目は見えない。右耳は聴こえない。左足は大腿骨が砕け、胸には穴が開いている。
全身の筋肉は断裂し、皮膚は酸で焼け焦げている。
だが――創太の右手には、しっかりと、確かな体温を持った白石葵の左手が、固く握り締められていた。
「葵……! 葵っ……!」
創太は、目が見えない暗黒の中で、這うようにして葵の身体を抱き寄せた。
葵の胸の奥から、ドクン……ドクン……と、微弱ではあるが、確かに生きている心臓の拍動が、創太の左耳に伝わってくる。
葵もまた、ゆっくりと意識を取り戻し、血と涙で濡れた顔を上げ、創太の胸に自らの顔をうずめた。
声を失い、右腕を失い、脚を焼かれた彼女。
しかし、彼女の瞳からは、絶望の涙ではなく、溢れるばかりの「生の光」が零れ落ちていた。
ふりかえると――いや、創太の過剰な左耳が聴く後方の空間には。
私立稜ヶ丘高校の正門の向こう側。
かつて一年間にわたって街を包み込み、無数の生徒を呑み込んで解体し続けたあの黒い異界のドームは、跡形もなく消滅していた。
そこにあったのは、朝日を浴びて静かに佇む、古びた、ただの誰もいない木造の校舎があるだけだった。
言葉の怪異の完全なる崩壊。
自らの罪から逃げず、互いの傷を庇い合い、自傷と痛みの果てに絶望の問いを打ち砕いた二人の高校生。
神谷創太と白石葵は、満身創痍の肉体と、決して解けることのない絆を抱きかかえたまま、ついに、あの長い長い惨劇の夜を越え、朝日が照らす現実の世界へと、生還を果たしたのだった。




