第42話:『最後の選択』
朝日が差し込み、すべてが浄化されたかに見えた世界。
だが、白く眩い光の中で意識を失いかけていた神谷創太の、破壊されずに残された左耳――その過剰なまでに研ぎ澄まされた聴覚神経が、光の粒子の中に微かに混ざり込む、不気味で冷たい「ある音」を捉えていた。
キィィィィィィン……ジーーーーーッ……キュルルルルルッ……。
(……待て。……この音は……?)
絶望の底で何度も聴いてきた、あの磁気テープがヘッドを擦る不快なノイズ。
創太がハッと目を開いた瞬間、視界を包んでいた神々しい朝日の光が、まるでガラス細工のようにパリパリと音を立てて亀裂を走りませ、一瞬にしてどす黒い血液と黒い熱蝋の濁流へと反転した。
「ガハッ……! ゲホッ……っ!」
創太は激しくむせ返り、肺の貫通傷から大量の血液を吐き散らしながら、再び冷たく湿った『死儀の奉納室』のコンクリート床へと叩きつけられた。
差し込んでいたはずの太陽など、どこにも存在しなかった。
天頂を見上げれば、葛葉市を包む巨大な黒い肉のドームは崩壊しておらず、むしろ二人の全全霊の回答を受け止めたことで、より強固に、より不気味に、葛葉市の全空間を密閉するようにドクドクと脈動を打っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ! 偽りの……光……! 臨死体験の幻覚だと……!?」
創太の全身に、再び地獄の激痛が舞い戻ってきた。
自ら金属針を突き立てて破壊した右耳からは、黒く固まりかけていた血液が再びどくどく溢れ出し、左太ももの大腿骨を削り取った自傷の裂傷からは、脳髄を焼くような電流が走り抜ける。胸の真ん中に開いた拳大の貫通傷からは、呼吸のたびに「シュウ、ガボッ」と湿った血の泡が吹き出していた。
「創太……っ! 創太ぁっ!」
創太の膝を抱きかかえていた白石葵もまた、現実の激痛へと引き戻されていた。
声を失った彼女の喉からは、痛痛しい掠れ音が漏れる。回転ノコギリ刃に切り刻まれた右腕、強酸で溶かされた両脚、首筋から顔の左半分を覆う黒紫色の根の紋様。彼女の体温は、刻一刻と氷のように冷たくなり、命の火が消えかかっていることを示していた。
正解は提示した。最終儀式問答のロジックは、間違いなく突破したはずだった。
にもかかわらず、なぜ世界は戻らないのか。なぜドームは消え去らないのか。
ふたりの目の前。
崩壊したはずの黒い茨の祭壇の中央から、静かに立ち上る黒いモヤ。
その渦の中から現れたのは、半透明の光の粒子となって消え去ったはずの――鳴海詩織の『真の本尊』だった。
彼女の顔には、先ほどのような穏やかな笑みも、浄化の兆しも一切存在しなかった。
そこに佇んでいたのは、一年前のあの日、屋上から身を投げる直前の、底知れぬ虚無と冷酷さを湛えた「絶対的な世界の法則」そのものの姿だった。
『――勘違いしないでください、神谷くん、白石さん』
詩織の本尊の口から発せられたのは、氷のように冷たく、一切の情赦を含まない生の肉声だった。
『あなたたちが提示した問答の回答……【過去の罪と絶望を一生涯背負い続ける】というロジックは、確かに完璧でした。私の怨念の「問い」に対する解としては、文句の付けようがありません』
詩織の本尊が、両手を胸の前で静かに重ね合わせた。
『ですが……【問いの論理を破破すること】と、【あなたたち二人の肉体が生きてこの街から出るということ】は、まったく別の問題なのです』
「な……んだと……!?」
創太は、血塗られた鉄パイプを杖代わりにして、膝をガクガクと震わせながら立ち上がろうとした。
『この隔離都市(葛葉市)は、過去一年にわたり、私に対するあなたたちの暴言、冷避、そしてクラスメイトたちの殺意という膨大な【言語の質量(毒)】によって構築されてきました』
詩織の透明な瞳が、創太と葵のボロボロの肉体を冷酷に射抜く。
『問答を正解したことによって、私が街を押し潰そうとしていた「直接の殺意」は停止しました。しかし……この街を包むドームを消滅させ、狂った物理法則を元に戻すためには、この一年間で溜まりに溜まった巨大な毒の質量を相殺するための【等価交換の代償(人柱)】が不可欠なのです』
「等価……交換……! 人柱だと……!?」
創太の喉から、絶望の叫びが漏れた。
『そうです。世界とは、常に天秤です。これほど巨大な怪異を終わらせ、数万人の市民を現実世界へ送り返すためには、誰か一人がこの世界の「重し(結界の心臓)」として、永遠にこの地底に留まり続けなければならない』
詩織の本尊が、そっと右手を差し伸べた。
その指先から、二つの互いに排他し合う、残酷極まりない『二つの理(選択肢)』が、創太と葵の意識へと直接叩きつけられた。
『――さあ、神谷創太くん。最後の選択をなさちなさい』
詩織の声が、逃げ場のない真実として神殿全体に響き渡る。
『【選択肢・一】』
『あなたが、これまで死んでいったすべてのクラスメイトたちの解体パーツと、この街の言語の毒のすべてを自らの肉体に引き受け……この旧校舎の地底で、永遠に解体され続ける「新たな怪異の心臓(人柱)」となること』
『そうすれば、白石葵さん一人だけは、怪物化の呪いから完全に解放され、五体満足な「人間」として、朝日の差し込む元の世界へ生還することができます』
創太の背中で、葵の身体が激しく跳ね上がった。
『【選択肢・二】』
『あなたがそれを拒み、二人で手を取り合って地上へ登ろうとすること』
『ですが、言ったはずです。天秤の重しが足りなければ、ドームは解除されません。あなたたち二人の肉体は、地上へ辿り着く前に「言語の毒」と「失血」によって完全に灰となって砕け散り……葛葉市は永久に閉鎖されたまま、数万の市民とともに地獄の底へ沈みます』
『――さあ。どちらを選びますか?』
詩織が突きつけた、あまりにも非情で、あまりにも残酷な『生き残るための条件』。
二人生還の誓い。二人で一緒にあの街へ帰るという約束。
それらすべてを真っ向から全否定する、怪異の最後の構造的罠。
二人で助かろうとすれば、二人とも途中で死亡し、街も滅びる。
自分ひとりが贄になれば、愛する葵だけは確実に元の世界へ生還できる。
「くっ……ぁ……ぁぁぁぁっ……!」
創太は、自らの血に染まった両手を見つめ、絶望の深淵へと叩き落とされた。
創太の過剰な左耳は、自らの体内で心臓が不規則な不整脈を起こし、生命の灯火が残り数分で完全に消え去ろうとしている音を、残酷なまでの精度で聴き取っていた。
自分の命は、どのみちもう保たない。胸の貫通傷、自壊した耳、削られた太もも。
あと数分もすれば、自分の意識は完全に途絶え、肉体は途中で動かなくなる。
(俺の命は……もう終わりだ。どう足掻いても……俺は外へは辿り着けない……)
創太の頭の中で、冷酷な計算が完了してしまった。
自分が人柱になれば、葵は助かる。
自分がこの地底に残り、永遠の痛みを引き受けることで、葵は人間として、歌を取り戻し、光の下で生きていくことができる。
それが……自分の犯した「見殺しの罪」に対する、最高の贖罪なのではないか?
「……詩織」
創太は血の泡を吐き出しながら、低く、静かな声で口を開いた。
「俺が……俺が人柱になれば……葵は……本当に外へ出られるんだな……?」
その言葉を吐き出した瞬間だった。
「――ッ!? ―――――ッッッ!!!!」
創太の背後から、声にならない、だが魂のすべてを破裂させるような凄絶な叫びが上がった。
白石葵だった。
彼女は、自分の命を投げ捨てて自分を救おうとしている創太の意図を瞬時に察知したのだ。
葵は、傷ついた両脚の激痛を無視して創太の正面へと回り込み、創太の血塗られた制服の胸元を、折れた爪から血を流しながら、死に物狂いの力で掴みかかった。
葵の涙腺から、血の混ざった大粒の涙が滝のように溢れ出し、創太のボロボロの顔面を濡らした。
彼女は激しく首を横に振り、創太の胸をその小さな左拳で何度も、何度も叩いた。
『ダメ! 絶対にダメ! そんなの絶対に許さない!』
『創太がここに残るなら、私も残る! 一人で生きて帰るくらいなら、ここで一緒に死んだほうがいい!』
言葉にならない呼吸の摩擦音が、葵の壊れた喉から悲痛に漏れ出す。
彼女は自分のポケットから、ボロボロになった血濡れのノートを取り出し、震える指先で真っ白なページを開いた。そして、剥がれた爪の痛みに耐えながら、自分の生血を指につけ、紙面に直接、狂ったような速度で文字を書き殴ったのだ。
『二人生還の誓いを破ったら、絶対許さない!』
『創太が私を助けて死ぬなんて、私への一番酷いいじめだよ!』
『二人で帰るの! 二人で生きるの! 創太のいない世界なんて、私にはいらないのぉぉぉっ!』
血で染まったノートの文字。
そこには、少女の全身全霊の拒絶と、創太に対する狂おしいほどの愛と執着が刻み込まれていた。
詩織の本尊は、その葵の必死の抗議を、ただ冷たく、哀しげに見つめていた。
『愛おしい友情ですね。ですが……現実とは無慈悲なものです。天秤の重さは変わりません。神谷創太くん、あなたが決断しなさい。……時間がありませんよ』
カチ……カチ……カチ……。
神殿の壁に刻まれた、破滅のカウントダウンが、二人の残された命の秒数を容赦なく削り取っていく。
葵を救うために自らを人柱として差し出し、永遠の地獄へと堕ちるのか。
それとも、二人生還の誓いに殉じて、あえて共倒れの死を選ぶのか。
残された命の火は、あとわずか数分で完全に尽きる。
神谷創太は、底知れぬ絶望の天秤を前に、人生で最も重く、最も過酷な『最後の選択』を突きつけられていた。
『――時間がありませんよ、神谷創太くん』
鳴海詩織の真の本尊から放たれる声は、神殿空間の全原子を振動させ、創太と葵の全身の皮膚を氷の針で刺すように冷却していった。
祭壇を取り囲む黒い熱蝋の壁、天井の主脈、そして足元の肉の床。そのすべてに刻まれた赤黒い『破滅のカウントダウン』が、チクタク……チクタク……と、残酷なまでの精度で二人の残された命の秒数を刻み続けている。
神谷創太は、床の血泥に膝をついたまま、己の胸元に突き立てられた白石葵の血濡れのノートを見つめていた。
そこに走り書きされた、葵の生血による叫び。
『創太が私を助けて死ぬなんて、私への一番酷いいじめだよ!』
『二人で帰るの! 二人で生きるの! 創太のいない世界なんて、私にはいらないのぉぉぉっ!』
文字の端々から立ち上る、葵の生の体温。剥がれ落ちた指の爪から流れる赤黒い血液が、紙面をドロドロに湿らせ、創太の視界を真っ赤に染め上げていた。
「葵……っ……」
創太の喉から、血の泡とともに呻きが漏れた。
創太の破壊されずに残された左耳――極限まで研ぎ澄まされた過剰な聴覚神経は、葵の胸の奥で早鐘のように打つ心臓の不規則な高鳴りを、痛いほどの精度で拾い上げていた。
トックン、トックン、トックン……!!
そこにあったのは、冷酷な自己保身や死への恐怖などでは決してなかった。
自分を救うために自らを人柱に捧げようとしている創太に対する、狂おしいほどの怒り。自分を置いて一人で光の世界へ帰されることに対する、底知れぬ絶望。そして何より、「創太と一緒に生きたい」という、魂の根源からの叫びだった。
詩織の本尊が差し出す残酷な天秤。
一人だけが生還し、一人が人柱として永遠に地底で解体され続ける【選択肢・一】。
二人で地上を目指すが、毒と流血によって途中で果て、街もろとも永久に消滅する【選択肢・二】。
「ふふ……ふふふ……っ」
創太の破れた唇から、乾いた笑いが漏れた。
「……なぁ、詩織」
創太は、自らの怪物化しかけていた右拳――先ほどまでハサミの刃が群生していたが、いまや人間の皮膚へと戻りつつある異形の腕で、太ももの壮絶な自傷痕を力任せに鷲掴みにした。
ガバッ……!!
大腿骨の表面を指先で直接握り潰すような、脳髄が弾け飛ぶ超高圧の痛撃。その痛みの激流が、失血と酸素不足で麻痺しかけていた創太の脳シナプスを一瞬にして白熱させ、消失しかけていた思考回路を極限の速度で再起動させた。
「がはぁッ……! げほっ……っ!」
創太は血の塊を吐き捨て、血走った残された右目で、黒い茨の祭壇に浮かぶ詩織の本尊を真っ向から射抜いた。
「お前は……どこまで行っても……変わらないんだな」
『――何ですか?』
詩織の透明な瞳が、かすかに細められた。
「お前が提示した……この『二者択一』だよ」
創太は、立ち上がろうとする自らの脚に力を込め、血濡れた鉄パイプをコンクリートへ叩きつけながら、低い声で言葉を繋いだ。
「一人を『生贄(人柱)』にして捧げるか……全員で共倒れになって死ぬか……。お前が突きつけているその二択は……一年前、あの2年B組の教室でお前を追い詰めた……【最悪のシステム】そのものじゃないかぁぁぁっ!」
神殿空間の全空気が、創太の咆哮に大きく揺れた。
「教室で誰か一人をターゲット(生贄)にして排除することでしか、自分たちの平和や関係性を維持できなかったあの汚いクラスの論理! 『誰かが犠牲にならなければ世界は成り立たない』という、あの同調圧力の呪い!」
創太は自らの胸の貫通傷を左手で強く押し当て、漏れ出す血の泡を噛み殺しながら、一歩、また一歩と詩織の祭壇へ向かって歩みを進めた。
「お前は……怪異の神になってもなお……その『生贄の論理』に囚われているんだ! 『街を救うためには誰かが人柱にならなければならない』だと? ふざけるな! そんな二者択一に丸呑みされるために、俺たちはここまで自らの肉を削って這い上がってきたんじゃないっ!」
『……戯言を』
詩織の本尊の声に、初めてかすかな「不快感」のノイズが混ざり込んだ。
『これは世界の理です。莫大な言語の毒を相殺するには、同等の質量の犠牲(代償)が不可欠。……あなたが拒むなら、天秤は傾き、二人とも途中で果てるだけです』
「相殺だと……? 違うな、詩織!」
創太は、自らの右耳――自ら金属針を刺し通して鼓膜と三半規管を物理的に破壊した、あの耳指で己の頭骨を強く叩いた。
「俺は……自分の鼓膜を自分で突き破った! 他人からのハッキングも、お前たちの提示する身勝手なルール(問い)も……俺のこの耳には、もう二度と届かない!」
創太の瞳に、絶対的な反逆の火が宿る。
「生贄を一人選んで差し出すのが贖罪か? 違う! それは……またしても誰かに痛みを押し付けて、自分だけが助かろうとする【選択という名の逃走】だ!」
葵が、創太の背中にぴったりと寄り添い、彼女の体温を創太の背骨へと直接注ぎ込んだ。
声を失った彼女は、創太の腰に回した左手にすべての力を込め、創太の言葉が自分の魂の言葉でもあることを、全身の共鳴をもって詩織へ叩きつけていた。
「俺と葵が果たすべき『真の贖罪』は……お前の痛みを、お前の絶望を、誰一人犠牲にすることなく……【二人で背負ったまま生きて外へ出る】ことだぁぁぁっ!」
『――不可能です』
詩織の本尊が、冷たく言い切った。
『あなたたちの肉体はすでに限界。胸は貫かれ、耳は潰れ、脚は溶けている。天秤の重しにならなければ、地上へ至る階段の途中で、あなたたちの存在は毒に呑まれて灰になる』
「なら……その天秤ごと……ぶち壊すまでだっ!」
創太は、自らの血塗られた右手で、葵の冷え切った左手を力任せに、互いの骨が軋むほどの強さで握りしめた。
「葵……聴こえるか」
創太は、自らの頭骨を葵の額へと静かに押し当てた。
「お前の『失われた声』と……俺の『潰された耳』。……俺たちの肉体は、もうボロボロで半分化物みたいなもんだ」
「……っ……!」
葵の瞳から、大粒の涙がポタポタと落ち、二人の重なった手に吸い込まれていく。
「でもな……俺たちの魂は、何一つ奪われちゃいない! 命が尽きるのが先か……俺たちが地上へ辿り着くのが先か……! 詩織の作った『生贄の二択』なんて全部無視して……二人で……二人揃って、あの朝日の差す街へ帰るぞっ!」
葵は、泣き顔のまま、最高の笑顔を創太に向けた。
彼女の壊れた喉から、血の泡とともに「――うんっ!」という声にならない魂の破裂音が漏れた。
二人の血が、重なり合った手を通じて交じり合う。
創太の体内に残された「最後の生の熱」と、葵の心臓が発する「生きるための強い拍動」。
二人の命が完全に一つへと融合したその瞬間――。
ズババババババババババババババッ!!!!
神殿空間全体に、物理法則の根底を揺るがすほどの凄絶な衝撃波が駆け抜けた。
『――なに……!?』
詩織の本尊の透明な瞳が、驚愕によって見開かれた。
創太と葵の手が重ね合わされた場所から、眩いばかりの『真紅と漆黒の混ざり合った生霊の光』が爆発的に噴出し、二人を包み込んだのだ。
それは、怪異の毒でも、言葉の罠でもない。
死の恐怖を乗り越え、自己犠牲の罠すらも拒絶し、二人で生きて罪を背負い続けることを決意した、二人の人間の『絶対的な生存意志の質量』だった。
ドクンッ……! ドクンッ……!
創太と葵の体内から溢れ出たその生霊の光は、詩織が「人柱(重し)」として要求していた莫大な言語の毒の質量を、なんと【ふたりが互いの命と罪を共有・倍増させる】という極限の共鳴論理によって、内側から強引に相殺・上書きし始めたのだ!
『バカな……! 代償を捧げずに……二人分の生の質量で……怪異の毒を直接相殺しようというのですか……!?』
詩織の本尊の声が、激しく歪み、初めて動揺に震えた。
天秤の重しとして誰かを犠牲にするのではない。
二人が互いの傷を庇い合い、互いの命を背負い直すことで、一人では耐えきれない毒の重さを「二人で分け合って持ち上げる」という、怪異のシステムには存在しなかった第三の答え。
カチカチカチカチカチカチッ!! ガギィィィィィィィンッ!!!!
神殿の全壁面に刻まれていた『破滅のカウントダウン』が、狂ったような速度で逆回転を始め、詩織が突きつけていた【選択肢・一】と【選択肢・二】の二つの理そのものが、ガラスのように音を立てて粉々に砕け散った!
『アあぁぁぁぁぁぁぁっ……! 私の……私のシステムが……破破される……っ!』
詩織の本尊の周囲を覆っていた黒い熱蝋の玉座が、二人の放つ圧倒的な生の光によって激しく溶かされ、ボロボロと剥がれ落ちていく。
詩織が強制していた「生贄の構造」は、逃げない二人の絆の前に、完全に崩壊したのだ。
「行こう……葵っ!」
創太は、焼け爛れた両足で、胸の空洞から血を流しながら、鉄パイプを投げ捨て、自らの左腕で葵の腰を力強く抱き寄せた。
葵もまた、残された左腕で創太の首を強く抱きしめ、二人の体重を互いに預け合いながら、一歩を踏み出した。
二人の目の前。
崩壊していく黒い茨の祭壇の最奥――。
二択の呪縛が打ち砕かれたことで、地底の暗黒を切り裂き、地上へと向かって一直線に伸びる『真の生還の階段』が、まばゆいばかりの黄金色の光を浴びて、悠然と現れ出でた。
その階段の先からは、本物の風の匂い、本物の街の騒めき、そして本物の朝日の温もりが、神殿の底まではっきりと届いていた。
『……神谷くん……白石さん……』
崩れゆく熱蝋の中で、光の粒子となって消えていく詩織の本尊が、最後に見せたのは、悲しくも、どこか救われたような、小さな微笑みだった。
『あなたたちは……本当に……強いのですね……』
詩織の残影は、二人が選んだ「逃げない未来」の光の中に溶け込み、二度と二人を縛ることのない、ただの哀しい記憶となって、空へと昇華していった。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太と葵は、互いの心音を重ね合わせながら、黄金の光が降り注ぐ階段の第一段目へと、足を踏み下ろした。
残された命の火は、もう指の隙間からこぼれ落ちるほどに僅か。
肉体はボロボロで、いつ倒れてもおかしくない。
だが、二人の瞳には、もう迷いも、恐怖もなかった。
二人生還の誓い。
言葉を失い、鼓膜を潰した二人は、世界を取り戻し、自分たちの未来を掴み取るための「最後の数歩」を登り始めたのだ。




