第41話:『破滅のカウントダウン』
『――よくぞ……ここまで辿り着きましたね。神谷創太くん、白石葵さん』
旧校舎の地下最深部、『死儀の奉納室』。
黒い茨の祭壇の中央に浮かぶ透明な熱蝋の結晶の中から、鳴海詩織の真の本尊が発したその声は、スピーカーを通したような人工的なノイズも、何百という死者たちの重奏もない、痛々しいほどに澄み切った一人の少女の「生の肉声」だった。
その言葉が神殿空間に届いた瞬間、空間の全方位の重力が十倍に跳ね上がったかのように、凄まじい物理的なプレッシャーが二人に襲いかかった。
「ぐっ……ぁ……っ!」
神谷創太は、床の粘液に突き立てた鉄パイプを両手で必死に握りしめ、ガクガクと震えそうになる膝を意志の力で強引に固定した。
彼の肉体は、とうの昔に人間の生存限界を突破している。
右耳は金属針で自ら鼓膜と三半規管を破壊したことで黒い血を垂れ流し、胸の真ん中には神経根に穿たれた拳大の貫通傷がぽっかりと開き、呼吸のたびに空気が漏れている。左太ももはハサミで自傷した裂傷から大腿骨が覗き、顔面はクラスメイトたちの解体パーツ(ハサミ、ガラス、沸騰血、金属針)によって異形へと侵食されている。
隣で創太の制服の裾を握りしめる白石葵もまた、限界の淵に立っていた。
右腕を削がれ、両脚を強酸で焼かれ、左半分を黒紫色の紋様に侵食された彼女の体温は、急速に冷え切りつつあった。
だが、二人は決して互いの手を離さず、祭壇の上で静かに微笑む詩織の「本尊」を真っ直ぐに見据えていた。
『……満身創痍ですね。鼓膜を潰し、自らの肉を削り、仲間を犠牲にしてまで私を拒絶し、ここまで這い上がってきた執念。……それは認めましょう』
詩織の透明な瞳が、創太たちの惨状を冷たく見下ろす。
彼女の胸の真ん中――粉砕されたカセットテープレコーダーの残骸と彼女の生身の心臓が融合した『赤黒い真紅の核』が、ドクン……ドクン……と不気味な脈動を打った。
『ここは、私の絶望が完全に凝縮され、怪異として誕生した場所。そして……この隔離都市(葛葉市)の命運を決める、最後の【儀式の場】です』
詩織の本尊が、黒い熱蝋の玉座から静かに宙へと浮き上がり、両手を天に向かって広げた。
『最終儀式問答。……これが、私とあなたたちの、本当の最後のゲームになります』
詩織の声に呼応するように、神殿の全壁面、全天井、そして足元の肉の床にまで、見たこともない凄絶な赤い光が走り、巨大な『破滅のカウントダウン』が刻まれ始めた。
カチ……カチ……カチ……カチ……。
創太の残された左の過剰な聴覚が、そのカウントダウンの音に込められた「絶対的なルール」の意味を瞬時に理解し、全身の毛細血管を凍りつかせた。
「な……んだ……この音は……!?」
『これまであなたたちは、何度も正解を重ね、自分の肉体を解体パーツで怪物に変えながら、なんとか命を繋いできました。……ですが、この最終儀式において、そのような【生ぬるい救済の甘え】は一切存在しません』
詩織の透明な瞳の奥で、底知れぬ漆黒の殺意が猛烈に渦を巻いた。
『今、この空間に設定された破滅のカウンターは【1(ワン)】』
「カウンターが……1……!?」
創太の喉から、血の泡とともに掠れた叫びが漏れた。
『そうです。残された猶予は、たったの【一度】。……あなたたちが次に提示される問いに対して、たった一度でも【不整(誤答)】を犯すか、あるいは制限時間を一秒でもオーバーした場合――』
詩織の本尊の周囲に、空間そのものを歪ませ、光すら呑み込む破滅の黒い力場が渦を巻き始めた。
『あなたたちの肉体、魂、記憶……そして、あなたたちが生まれてから今日まで生きてきた存在の概念そのものが、この葛葉市ごと、二度と再生できないレベルで【世界から完全消滅】します』
「概念ごと……消滅……!?」
あまりにも凄絶で、絶対的な死のルール。
これまでの問答では、不正解になれば肉体を解体されたり、命を奪われたりするだけだった。だが、この最終儀式における失敗の代償は、創太と葵という人間の「存在した記憶や歴史」すらも世界から最初からなかったことにされるという、完全な無への帰還(存在消滅)なのだ。
そして、それだけではない。
『もしあなたたちが消滅すれば、この葛葉市を包む黒いドームは永久に固定され、この街は日本地図から切り離された死の空間として、永遠に闇の中へ埋没します。……逆に、あなたたちがこの最終儀式を突破できたなら、私の怨念は完全に浄化され、この街は元の世界へ還るでしょう』
創太と葵の肩に、葛葉市数万人の市民の命、そして自分たちの存在のすべてが、ズシリと重く圧し掛かってきた。
「創太……」
声を奪われた葵が、創太の制服の裾を強く握りしめた。
両脚を強酸で焼き溶かされ、右腕を削がれた彼女の体温は、急速に冷たくなりつつあった。彼女の命の灯火もまた、この最後の問いの制限時間とともに消え去ろうとしていたのだ。
創太は自らの怪物化しつつある右手で、葵の冷たい左手をしっかりと握り返した。
右耳は自壊し、左太ももは切り刻まれ、胸には貫通傷が開いている。
創太の顔面は、ハサミとガラスと沸騰血と金属針によって、もはや人間の原型を留めていない。
だが、創太の残された右目――水野結衣のステンドグラス片に覆われた眼孔の奥で燃える人間の瞳は、真っ直ぐに詩織の本尊を見据えていた。
「あと……一回の誤答で、概念消滅か……」
創太の破れた唇から、血の泡とともに不敵な笑みが漏れた。
「上等だ……! 最初から……間違えるつもりなんてねえよ!」
創太は血塗られた鉄パイプを床へ力任せに突き立て、背中の葵を庇うようにして前へ一歩踏み出した。
『……ふふ。その虚勢がいつまで保つか、見せてごらんなさい』
詩織の本尊が、両手を交差させ、最も深く、最も残酷な『最終問答』を紡ぎ出した。
ジジジジジジジジッ! ガギィィィィィンッ!
空間全体に張り巡らされた巨大な死の歯車が、最後の回転を開始する。
『――最終儀式問答!』
『私を無視し、追い詰めた結果として生まれた【この怪異の完全なる絶望】と掛けまして』
『私を見殺しにしたお前たちが、最後に果たすべき【真の贖罪の形】と解く。……その心は?』
『制限時間は、十秒!……さあ、あなたたちの存在のすべてを懸けて、答えを提示しなさい!』
神殿の空気が、一瞬にして真空のように張り詰めた。
十秒。
たった十秒で、この怪異の存在理由と、自分たちが背負うべき罪の精算を繋ぐ「究極の概念」を導き出さなければ、すべてが消滅する。
十、九――。
破滅のカウントダウン【1】。
逃げ場のない祭壇で、二人の存在と世界の存亡を懸けた「真の最終問答」が、今、絶望の口を大きく開けた。
九――。八――。
絶対的な破滅を刻むカウントダウンが、静寂の神殿空間に重々しく響き渡る。
一秒ごとに、神谷創太と白石葵の周囲を渦巻く黒い力場が、空間の光を、音を、そして「存在の概念」そのものを物理的に削り取り始めていた。
『――私を無視し、追い詰めた結果として生まれた【この怪異の完全なる絶望】と掛けまして』
『――私を見殺しにしたお前たちが、最後に果たすべき【真の贖罪の形】と解く。……その心は?』
提示された最終儀式問答。
あと一回の誤答、あるいは一秒のタイムオーバーで、創太と葵という人間の存在は、初めからこの宇宙に生まれなかったものとして完全消滅する。
七――。
「がはっ……! ごほっ……!」
創太の口から、大量の血液がどばっと溢れ出し、床の粘液を赤く染めた。
失血と激痛により、脳への酸素供給はとうに途絶えている。視界は深い闇に沈みかけ、意識は千切れる寸前の細い糸一本で辛うじて繋がっている状態だった。
思考を回さなければならない。しかし、怪物化した顔面の解体パーツ――右頬のハサミ、額の沸騰血、左目のガラス、首筋の針が、創太の残された理性を完全に食い破ろうと、狂ったように肉の奥深くへと根を張り巡らせて激痛の嵐を巻き起こす。
(考えろ……! 怪異の完全なる絶望と……俺たちが果たすべき、真の贖罪……!)
六――。
創太の過剰な左耳が、自らの脳細胞がパチパチと音を立てて死滅していく音を拾う。
怪異の絶望。それは一年前、鳴海詩織が受けた陰惨ないじめを、クラス全員が「見えなかったこと」にし、彼女の存在を日常から切り捨てたことによって生まれた。誰にも声を届けることができず、ただ一人で死を強要された絶対的な孤独。
では、その絶望に対する「真の贖罪」とは何か?
自らの命を絶って詫びることか?
否。それは「死による逃亡」であり、贖罪ではない。自分たちが死ねば、過去の罪も一緒に消え去り、詩織の痛みと絶望だけが世界に置き去りにされる。それでは、この怪異の怨念は永遠に晴れない。
五――。
創太の膝が、概念消滅の引力に耐えきれず、ガクンと折れ曲がりそうになる。
その時だった。
「……ッ! ……ッ!」
背後から、白石葵が自らの冷え切った両腕で、創太の腰を死に物狂いで抱きしめた。
右腕を削がれ、両脚を焼かれ、声を奪われた彼女。だが、彼女は残された左手で、自らの血で染まったノートの切れ端を、創太の視界の端へと押し付けた。
そこには、震える血の文字で、たった一言だけが力強く書き殴られていた。
『逃げない』
その四文字を見た瞬間、創太の脳蓋の奥で、散らばっていた概念の破片が、雷に打たれたかのように一本の太い線となって繋がった。
(そうだ……。いじめを無かったことにして逃げたから、怪異は生まれた。命を捨てて逃げることも、忘れて逃げることも、すべては罪の放棄だ。……なら、真の贖罪とは……!)
四――。三――。
黒いアンチ・マターの渦が、創太と葵の足元を削り取り始めた。靴の底が消滅し、皮膚の表面から「存在の粒子」がサラサラと光の粉となって空中に吸い込まれていく。
『……終わりです。さようなら、無責任な傍観者たち』
祭壇の中央で、詩織の本尊が冷たく言い放ち、その白い右手を静かに振り下ろそうとした。
二――。
「終わらせるかよぉぉぉぉぉっ!!」
創太は、消滅しかけている自らの両足で床の粘液を力任せに踏み砕き、左太ももの自傷跡から血の尾を引かせながら、凄まじい気迫で上半身を跳ね起こした。
一――。
破滅の黒い力場が、二人の全身を完全に呑み込もうと牙を剥いた、その絶対零度の刹那。
創太は自らの怪物化した両腕を天に向かって突き上げ、潰れた肺から最後の一息を絞り出して、魂の全存在を懸けた「究極の解」を、隔離都市の最深部へと咆哮した!!
「最終儀式問答! 正解は!」
創太の喉から、血の泡と肉片が撒き散らされる。
「『どちらも、過去の罪と絶望を「無かったこと」にして逃げ去るのではなく! その取り返しのつかない痛みと命の重さを、自らの存在のすべてを懸けて真正面から受け止め、一秒たりとも忘れることなく、一生涯、永遠に背負い続けることでしか果たし得ない、絶対的な魂の責任』だぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
静寂。
世界から、すべての音が消え去った。
神殿の空気を揺るがした創太の咆哮は、物理的な音波となって空間の全原子を打ち据え、詩織の本尊が放っていた破滅の力場の渦と正面から激突した。
ピタァァァァァァァァァァァッ……!!
創太と葵の存在を消滅させる寸前だった漆黒の渦が、まるで時間が停止したかのように、空中で完全にその動きを凍結させた。
ガギィィィィィィィィィィンッ!!!!
旧校舎の地下最深部、いや、葛葉市全体を包み込むドームの底の底で、これまでとは比較にならないほど巨大で、重々しい『最後の死の歯車』が、凄まじい火花を散らして逆回転を始め、そして――粉々に爆砕した!
『――――――――――――』
祭壇の中央に浮かぶ、鳴海詩織の本尊。
その透明な瞳が、大きく、限界まで見開かれた。
彼女の胸の真ん中で太陽のように禍々しく明滅していた『赤黒い真紅の核』が、ドクン……と最後の一際大きな脈動を打った直後。
ピキッ……。
ピキピキピキピキピキッ……!!
真紅の核の表面に、無数の亀裂が走った。
『あ……ぁ……』
詩織の口から、怨念のノイズではなく、一人の等身大の少女としての、掠れた吐息が漏れた。
パァァァァァァァンッ!!!!
次の瞬間、怪異の完全なる心臓部であった真紅の核が、眩い純白の光を放ちながら、粉々に砕け散ったのだ。
『――正解、です(ととの……いました……)』
その宣告は、呪いではなく、呪縛からの解放を告げる、限りなく優しく、哀しい響きを持っていた。
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォォォッ!!!!
核が破壊された瞬間、神殿全体を構成していた黒い熱蝋と無数の肉の根が、急速にその生命力を失い、ボロボロと灰になって崩壊を始めた。
それだけではない。
天頂へと伸びていた太い主脈が千切れ飛び、葛葉市全体を包み込んでいた「絶対遮断の黒いドーム」の天蓋に、何万本もの巨大な亀裂が走り始めた。
暗黒の空が裂け、そこから、一年間この街に一度も降り注ぐことのなかった『本物の朝日の光』が、神々しい黄金色の筋となって、地下最深部の祭壇へと真っ直ぐに差し込んできたのだ。
「あ……あぁ……っ!」
創太は、差し込んでくる温かい光を浴びながら、自らの怪物化していた顔面に触れた。
肉の奥深くへと根を張っていたハサミの刃が、ガラスの破片が、金属の針が、沸騰した血液が、朝の光に溶けるようにしてサラサラと砂になって崩れ落ちていく。
言語の毒が浄化され、創太の顔が、傷だらけではあるものの、本来の「人間の少年」の顔へと戻っていく。
背中にしがみついていた葵の顔を覆っていた黒い紋様も、そして右腕を削いでいた呪いの傷口も、柔らかな光に包まれてその侵食を完全に停止した。
「終わった……終わったんだ……葵……」
創太は、膝から崩れ落ちそうになりながら、振り返って葵を抱きしめた。
葵もまた、声を上げて泣くことはできないものの、溢れ出る涙で創太の制服を濡らしながら、彼を力強く抱きしめ返した。
光の柱の中央。
祭壇の上に残された、鳴海詩織の魂。
胸の核を失い、半透明な光の粒子となって空へと昇りかけている彼女は、静かに二人の姿を見つめていた。
彼女の顔には、もはや憎しみも、怨念も、絶望もなかった。
一年前のあの日、教室の片隅で誰にも気づかれずに泣いていた少女の、ただ一つだけ欲しかったもの。
それは、「自分の痛みから逃げずに、真正面から受け止めてくれる誰か」の存在だった。
創太が自らの命と存在を懸けて叩きつけた贖罪の覚悟は、怪異の理屈を超えて、詩織の凍りついていた魂の最奥に、確かな熱となって届いたのだ。
『……忘れないで』
光に包まれて消えゆく寸前。
詩織は、とても穏やかな、そして少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべて、静かに唇を動かした。
『私が、ここにいたことを。……私の痛みを、どうか……背負って生きて』
「ああ……」
創太は、涙に濡れた瞳で、消えゆく少女の魂を真っ直ぐに見据え、深く、深く頷いた。
「絶対に忘れない。お前の痛みも、俺たちが犯した罪も……俺と葵で、一生背負って生きていく。……だから、もう……眠れ。詩織」
その言葉を聞き届けた瞬間、鳴海詩織の魂は、朝日の光の中へと完全に溶け込み、美しく煌めく無数の光の粒子となって、天空へと昇華していった。
パァァァァァァァァァァァァッ……!!
怪異の完全なる浄化。
私立稜ヶ丘高校の旧校舎地下から発生した莫大な光の奔流は、葛葉市を包んでいた黒いドームを内側から完全に吹き飛ばし、消滅させた。
止まっていた街の時間が動き出す。
道路で、家で、学校で、怪異の空間に呑み込まれ、未消化のまま意識を失っていた数万人の市民たちが、一斉に目を覚まし始める。
時計の針が動き、鳥が鳴き、外の世界の風が、一年ぶりに葛葉市の街路を吹き抜けた。
「……ハぁ……ハぁ……っ」
すべてが光に包まれ、崩壊していく祭壇の上で。
創太は、やり遂げたという絶対的な安堵とともに、ついに肉体の限界を迎え、ゆっくりと背中から倒れ込んだ。
「あ……」
葵が悲鳴を上げようとするが、声は出ない。彼女は慌てて創太の身体を抱き抱え、自らの膝枕に乗せた。
右耳の鼓膜を潰し、左太ももを削り、胸を貫通された肉体。失血量は致死量をとうに超え、創太の意識は急速に白くフェードアウトしようとしていた。
だが、創太の顔には、一片の悔いもない、清々しい笑みが浮かんでいた。
「葵……泣くなよ……。俺たちは……勝ったんだ……」
創太は、震える左手を伸ばし、葵の涙に濡れた頬にそっと触れた。
「約束……守れただろ……? お前を……元の世界に……連れて帰るって……」
葵は、首を何度も何度も激しく縦に振りながら、大粒の涙をポタポタと創太の顔に落とした。彼女の右手は失われているが、残された左手で創太の手を強く握りしめ、彼の胸の奥で弱まっていく心音を必死に聴こうとしていた。
「俺の耳は……もう、お前の泣き声しか……聴こえねえや……」
創太のまぶたが、ゆっくりと、しかし抗いがたい重力に従って閉じていく。
朝日の光が、血に塗れた二人の姿を優しく、そして神々しく包み込んでいた。
葛葉市を呑み込んだ『言葉の怪異』との、絶望と狂気に満ちた長きにわたる死闘。
自らの罪と向き合い、自らの肉体を削りながらも、愛する少女を守り抜いた少年の命は、今、静寂と光の中で、一つの終焉を迎えようとしていた。




