第40話:『肉の迷宮』
『――鼓膜を潰してまで……私の声を拒絶しますか』
黒い螺旋階段を登り詰め、辿り着いた『死の真頂の間』。葛葉市全体を閉ざす黒い肉のドームの直下で、透明な黒い熱蝋の奥に閉じ込められた鳴海詩織の『真の本尊』が、哀しくも恐ろしい肉声を響かせた――はずだった。
だが、その直後、世界はさらなる「階層の反転」という悪夢を引き起こした。
ズババババババババババババッ!!!!
「なっ……!?」
創太の視界が、ぐにゃりと超現実的に歪んだ。
詩織の本尊が放った最後の赤光が空間全体を満たした瞬間、足下のコンクリートが、螺旋階段が、そして天空を覆う黒いドームの天頂すらもが、まるで上下をひっくり返された鏡のように反転・崩落し始めたのだ。
高所へ登っていたはずの二人の身体は、再び激しい重力波に呑み込まれ、暗黒の深淵へと真っ逆さまに叩き落とされた。
ドクンッ……! ドクンッ……! ドクンッ……!
「ガハッ……! げほっ……っ!」
創太と葵が叩きつけられたのは、硬い床ではなく、ぬめりを帯びた粘熱な血肉の泥の上だった。
落下による衝撃が、右耳の自壊跡と左太ももの深い自傷跡、そして胸の貫通傷を同時に突き刺し、創太の口から大量の血液が噴き出した。創太は視界の半分を血に染めながら、自らの異形と化した右腕で葵の身をかばい、激しい喘鳴を繰り返した。
「はぁ……はぁ……葵……くそっ、ここは……!?」
創太が血の混ざった泥の中から顔を上げ、周囲を見渡した瞬間、彼の全身の血液が完全に氷付いた。
そこは、先ほどまで目指していた屋上でも、天頂の空間でもなかった。
校舎の最深部――旧校舎の地下室へと続く、『完全に異界化した肉の地下迷宮』だった。
上下左右の通路の壁、天井、床のすべてが、どくどく脈打つ生の腹膜と紫色の腸管のような粘膜で埋め尽くされている。壁の隙間からは、熱気を帯びた白煙と、強酸の焦げ付く臭い、そして無数の腐肉が発する腐敗臭が混ざり合った、この世の死のすべてを凝縮したような激臭が立ち上っていた。
学校という建造物の骨組みは完全に解体され、校舎の地下の土壌と旧校舎の構造体が、怪異の巨大な肉組織と融合した『臓物でできた迷宮』へと変貌を遂げていたのだ。
そして――何よりも二人を戦慄させたのは、その通路の壁面全体を埋め尽くしていた「あるもの」の群れだった。
ゴルゴルゴル……チチチチチチ……ッ。
「な……んだ……あれは……っ!?」
創太の喉から、掠れた絶望の声が漏れた。
迷宮の壁面、天井、そして足元の泥から突き出た無数の肉の突起の先端。そこに咲く「狂った果実」のように、びっしりと咲き誇っていたのは――。
これまでに死んでいった2年B組のクラスメイトたちの『生首』の群れだった。
長谷川さくら、近藤、武田、工藤、井口、小林、渡辺大樹、水野結衣、菅原、太田、加藤、佐々木、谷口、山田、松本、木村、石井、そして直前に自らの手で腹を掻き切って絶命した西条拓海――。
三十余名におよぶ生徒たちの生首が、肉の壁から首根っこを生やし、壁一面に何百、何千と密集して寄生していたのだ。
彼らの顔面は、死の瞬間の恐怖と激痛で歪み、目球は血走り、あるいは眼球の壊れた穴から黒い粘液を垂れ流していた。自らの命を奪った暴言の代償として解体された傷痕――ハサミで切り刻まれた顔、沸騰した血で焼けた肌、ステンドグラスが刺さった目元、針に縫い潰された口――その悲惨な状態のまま、生首たちは壁の中で生々しく「呼吸」を繰り返していた。
「ひ……っ……!」
声を奪われた葵が、創太の背中で激しい引きつけを起こした。
その瞳には、かつて一緒に教室で笑い合い、喋っていたクラスメイトたちが、壁の装飾品(肉の果実)として生み出されている凄絶な狂気に対する、限界を超えた恐怖が浮かんでいた。
創太は自らの右耳の穴から絶え間なく溢れ出る血液を制服の袖で拭い、葵の手を強く握りしめた。
右耳の鼓膜と聴覚神経を自ら針で撃ち抜いたことで、怪異が脳内に直接ハッキングして流し込んできた精神汚染のノイズは遮断されていた。だが、左耳の過剰な聴覚は、この肉の迷宮の全方位から漂う「異常な音圧」を捉えていた。
壁に埋め込まれた何百ものクラスメイトたちの生首。
その目が、一斉にギギギ……と音を立てて向きを変え、通路の真ん中に立つ創太と葵の二人を、血走った眼光で射抜いたのだ。
そして――。
生首たちの裂けた口が、同時に、完璧な同調を持って大きく開かれた。
『――不整』
『――不整』
『――不整』
何百もの死者の口から、一斉に吐き出された低音の輪唱。
それは、スピーカーのノイズでも、頭腔内へのハッキングでもない。肉の壁に咲く死んだ同級生たちの声帯が物理的に振動し、空間の空気を激しく揺さぶって重奏される、狂気の『死の合唱』だった!
「ぐ……あぁぁぁぁっ!?」
創太は崩れそうになる膝を必死で支えた。
自壊させた右耳からは音が入らないものの、残された左耳の過剰な聴覚が、何百もの死者の声帯が同時に放つ物理的な重圧音を正面から受け止め、創太の脳震盪を極限まで悪化させた。
通路の壁全体が、生首たちの合唱に合わせてドクドクと脈動を激しくする。
そして、その死者たちの合唱は、創太たちの背後への退路を塞ぐように肉の壁を急成長させ、旧校舎のさらに深い地下室――怪異の最深部へと二人を誘うように、一つの輪唱(問い)を紡ぎ始めのだった。
『――問う!』
『――問う!』
長谷川さくらの生首が、血の泡を吐きながら叫ぶ。
渡辺大樹の生首が、沸騰した血を噴出しながら叫ぶ。
西条拓海の生首が、切り開かれた腹の傷から腸を垂れ流しながら叫ぶ。
『教室の片隅で死んだ鳴海詩織と掛けまして――!』
『この迷宮の壁に咲く、私たち死者の生首と解く――!』
『――その心はぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
死んだ同級生たちの何百もの生首が、一斉に裂けた口から撒き散らす死の合唱。その圧倒的な音圧と音波が、肉でできた迷宮の全方位から脈動し、空間を満たす生の血液と強酸の悪臭を激しく波立たせていた。
「制限時間は、十秒……!」
神谷創太の喉から、血と肉片が混ざり合った呻きが溢れ出た。
自ら右耳の鼓膜と聴覚神経を金属針で突いて破壊したことで、脳内へ直接撃ち込まれるハッキングの精神汚染ノイズは遮断されていた。だが、残された左耳の過剰な聴覚は、何百もの死者の声帯が物理的に空間の空気を震わせる「音圧の暴風」を正面から浴びせかけられ、脳の奥深くまで直接ハンマーで打たれるような激しい脳震盪を引き起こしていた。
長谷川さくらの生首、渡辺大樹の生首、水野結衣の生首、そして自らの手で腹を掻き切った西条拓海の生首――。
かつて教室で軽口を叩き合い、噂話に興じ、そして鳴海詩織を絶望へと追いやったクラスメイトたちの顔面が、壁の突起から無数に咲き誇り、血走った眼光で創太と葵の存在を射抜いていた。彼らの切り口からは黒い体液と脂がドロドロと滴り落ち、口を開くたびに歯の隙間から千切れた肉片がボロボロと零れ落ちる。
「九……八……七……っ!」
壁に埋め込まれた膨大な数の死の歯車が、死者の合唱と完全に同調してカチカチカチカチッ! と狂乱の速度で回転を刻み始める。
時間が足りない。
視界は胸の貫通傷からの激しい流血によって急速に暗転し、創太の脳細胞は酸素不足で一瞬ごとに死滅を起こしていた。正解を重ねるたびに体内に蓄積されていった「言語の毒」は、創太の顔面を侵食し続け、右頬のハサミと左目のガラスが肉の奥深くへと食い込んで、脳の思考領域を根底から掻き乱していた。
(死んだ同級生たちの生首……! 教室の片隅で死んだ詩織……! どちらも……どちらも!)
思考が停滞しかけた、その時だった。
「……っ! ……っ!」
背後から、白石葵が自らの冷え切った身体で創太の背中を強く抱きしめ返した。
声を奪われ、右腕を切り刻まれ、両脚の皮膚を強酸で焼き溶かされた少女。だが、彼女は残された左手で、創太の制服の裾を破れんばかりの力で掴み、自分の頭を創太の背中に強く押し当てていた。
葵の胸の奥で打つ、ドクン、ドクンという小さくも力強い心音。
『創太、負けないで! 私たちの絆は折れない!』という無言の叫びが、過剰な耳を持つ創太の脳髄へと劇的な生の熱となって流れ込んできた。
(そうだ……葵が……葵が俺を信じてくれている……!)
創太は自らの怪物化した右拳――長谷川さくらのハサミの刃が群生する異形の右拳を、左太ももの惨烈な自傷痕の奥へ向かって、大腿骨を削り取るほどの力でさらに深々と突き立てた!
ズブスッッ!! バキバキッ!!
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
創太の口から、迷宮の肉壁を振動させるほどの凄絶な咆哮が上がった。
大腿骨の表面を金属の刃が削り取るという、正気の沙汰ではない『極限の痛撃(電流)』。その超高圧の激痛が、途切れかけていた創太の脳神経を一瞬にしてスパークさせ、彼の思考回路を強制的に再起動させたのだ!
「六……五……四……っ!」
創太の残された右目の奥に、赤黒い血走った生の光がバチバチと燃え上がった。
過剰な聴覚と極限の思考領域が、狂乱の合唱の中から二つの概念の核(重なり)を完璧に捉えた。
教室の片隅で死んだ鳴海詩織。
誰にも声を届けることができず、助けを求める手を取り払われ、存在そのものを教室の空気から消去されたまま死んでいった少女。
この迷宮の壁に咲く死者の生首。
自らの言葉の毒によって肉体を解体され、声を奪われ、怪異の肉壁に呑み込まれて、ただの「死の仕掛け(装飾品)」として固定されたクラスメイトたち。
(共通する概念の核は……!)
三――。二――。
死者たちの口が一斉に大きく開き、制限時間の終了とともに、彼らの口から無数の黒い肉の槍が創太と葵の全身を串刺しにすべく突起しかけた、その一瞬前!
「答えを……提示するぅぁぁぁぁっ!」
創太は血濡れた鉄パイプを床の肉泥へ力任せに突き立て、生首の群れに向かって魂のロジックを叩きつけた。
「正解は! 『どちらも、誰にも声を届けることができない暗闇の中に置き去りにされ、存在の尊厳を奪われて、怪異(学校)の肉壁の一部として同化させられた、惨酷な言葉の亡霊』だぁぁぁぁぁっ!!」
ズババババババババババババババァァァァァァンッ!!!!
創太の叫びが空間を貫いた瞬間、壁面を埋め尽くしていた何百もの生首の群れが、一斉に破滅の悲鳴を上げながら、熟し切った果実が爆発するように、ドバドバと一気に爆砕した!
赤黒い血液、頭骨の破片、そしてドロドロに溶けた脳漿の雨が、粘熱な通路全体へと豪快に降り注ぐ。
『――正、解……(ととの……いました……)』
死者の合唱が完全に途絶え、肉の迷宮の壁が、油の抜けた干し肉のように急速に収縮し、ボロボロと黒い灰となって崩落し始めた。
死の歯車の回転音が狂ったように不協和音を奏でて砕け散る。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁッ……!」
創太は太ももから血を吹き出させながら膝をつき、激しい吐息を撒き散らした。
生首たちの合唱を破破した。だが、怪異の根源である「鳴海詩織の本体」を撃破しない限り、この地獄の構造そのものが消えることはなかった。
ズズズズズズズズズズズッ!!!!
生首の壁が崩れ去ったその直後、肉の通路の最奥――旧校舎の地下最深部へ向かって伸びる巨大な肉の管が、大蛇がのたうち回るような地鳴りを立てて、二人の足元を強引に呑み込み始めたのだ。
「葵! 離すなっ!」
「……ッ!」
創太は葵の身体を自らの腕の中に強く抱き寄せた。
二人の身体は、崩れゆく肉の迷宮の管の中を、滑り台のように何十メートルも下方へと滑り落ちていった。
風が、血液の激臭とともに二人の顔を叩く。
どれほど降下しただろうか。
ズサァァァァァンッ!!
二人の身体は、底なしの粘液の池へとドシャッと豪快に叩きつけられた。
「ガハッ……! げほっ……っ!」
創太は口から溜まった血液を吐き捨て、激しい衝撃に軋む体躯を起こした。
葵もまた、創太の腕の中で小さく喘ぎながら、創太の顔を見上げた。
二人が叩き落とされた場所。
そこは、私立稜ヶ丘高校の真下に存在していた、旧校舎の地下最深部――『死儀の奉納室(最深部の祭壇)』だった。
かつて怪異が生まれた場所。そして、鳴海詩織の怨念が、学校という閉鎖空間、さらには葛葉市全体を侵食する「心臓」として鎮座していた、本当の最果ての空間だった。
周囲を見渡した創太の目が、激しい戦慄に剥き出しになった。
空間の上下左右、見渡す限りの壁面は、黒い熱蝋と何万本もの黒い肉の根が複雑に絡み合い、巨大な大聖堂のような異界の神殿を形成していた。天頂からは、葛葉市全体を包み込む巨大な黒い肉のドームへ向かって太い主脈が何百本も伸び、そこから絶え間なく赤黒い粘液が滝のように流れ落ちている。
そして、その空間の中央に鎮座していたのは、巨大な『黒い茨の祭壇』だった。
その祭壇の中央。
透明な黒い熱蝋の結晶の中に、一人の少女の「真の本尊」が佇んでいた。
鳴海詩織。
それは、これまでの怪異の影や傀儡、残影などではない。
一年前のあの日、屋上から身を投げ、この学校と街を呪いによって呑み込んだ、鳴海詩織という少女の『魂と怨念の完全なる本体』そのものだった。
彼女の身体は、解体された解体パーツ(ハサミや針やガラス)の呪縛から完全に解き放たれていた。
彼女は、一年前の死の直前の姿のまま、綺麗に切り揃えられた黒髪をなびかせ、悲しくも透き通るような両目で、創太と葵の二人を見下ろしていた。
だが、彼女の胸の真ん中には、創太が粉砕したはずのカケットテープレコーダーの残骸と、彼女の生身の心臓が不気味に融合した、太陽のように激しく明滅する『赤黒い真紅の核』が宿っていた。
『――よくぞ……ここまで辿り着きましたね。神谷創太くん、白石葵さん』
詩織の本尊の口から発せられたのは、ノイズも、重奏もない、どこまでも静かで、どこまでも冷たい「生の肉声」だった。
その声が届いた瞬間、神殿全体の空気の重力が十倍に跳ね上がったかのように、創太と葵の膝がガクガクと激しく震えた。
肉の迷宮を突破し、ついに辿り着いた最深部。
二人の限界を超えた肉体と精神の前に、すべての因果を断ち切るための「真の最終問答」が、静かにその姿を現そうとしていた。




