第39話:『鼓膜の破壊』
ズッ……ズリッ……。
漆黒の虚空に浮かぶ、終わりなき階段。
一段、また一段と足を上げるたびに、神谷創太の両足から赤黒い血の滴りがポタポタと落ち、冷たい石造りのステップに生々しい斑点を刻み込んでいく。
巨大な胃袋(消化器官)の空間が完全に崩壊し、後に残されたのは、葛葉市全体を包み込む『黒い肉のドーム』の天頂へと向かって、螺旋を描きながら天高く伸びる一本の黒い階段だけだった。
「ハぁ……ハぁ……ハぁ……ッ」
創太の呼吸は、すでに限界を通り越し、壊れた鞴のようにヒューヒューと悲鳴を上げていた。
彼の肉体は、文字通り満身創痍という言葉すら生易しい状態にある。
胸のド真ん中には、詩織の残影から放たれた神経根によって穿たれた、直径数センチの風穴がぽっかりと開いている。一歩踏み出すたびに、その空洞から体内の血液と肺の空気がゴボッと漏れ出し、制服をどす黒く染め上げていた。
左の太ももには、先ほどの問答で自らの意識を繋ぎ止めるために突き立てた「ハサミの刃」による深い裂傷があり、歩くたびにえぐれた肉と大腿骨が擦れ合い、脳髄が焼き切れるような激痛を放ち続けている。
そして、彼の顔面を覆い尽くす怪物化の侵食。
右頬から突き出た長谷川さくらのハサミ、額の下で煮えたぎる渡辺大樹の沸騰血、左目を覆う水野結衣のステンドグラス、そして首筋から胸元にかけて群生する菅原の金属針。
これら死者たちの解体パーツは、怪異の力が弱まったことで進行こそ止まっているものの、創太の生身の肉体に深く寄生し、彼の人間としての理性を絶えず削り取ろうと蠢いていた。
「創太……」
隣を歩く白石葵が、声にならない吐息を漏らし、自らの左手で創太の腰を強く支えた。
彼女自身の身体もまた、限界の底をとうに抜けている。
首筋の黒蝋から顔の左半分を覆い尽くした黒い根の紋様。回転ノコギリ刃に切り刻まれ、骨が剥き出しになった右腕。そして、胃袋の強酸(消化液)によって皮膚をドロドロに焼かれた両脚。
まともに歩ける状態ではないはずの彼女が、それでも創太の隣を歩き続けているのは、先ほど二人が交わした「絶対に二人で生きて帰る」という、血と魂の誓いがあったからだ。
「大丈夫だ、葵……。俺は……まだ歩ける」
創太は血に塗れた顔を葵に向け、痛々しくも力強い笑みを浮かべてみせた。
階段の先、黒いドームの頂点付近には、どす黒い怨念の塊――鳴海詩織の本体であり、この葛葉市を呑み込んだ怪異の『真の心臓部』が、不気味な脈動を打ちながら二人を待ち受けている。
距離にして、あと数十メートル。
この階段を登り切り、あの怨念の塊を完全に破壊すれば、すべてが終わる。失われた葛葉市が元の世界へ還り、二人は生還できる。
だが――。
怪異が、このまま大人しく二人を中枢へと招き入れるはずがなかった。
キィィィィィィン……。
突如として、創太の覚醒した「過剰な聴覚」が、空間の異変を捉えた。
「……っ!? なんだ、この音は……?」
創太は足を止め、周囲の虚空を見回した。
風の音ではない。足音でもない。物理的な空間の振動を伴わない、異常に甲高く、そして細いノイズ。
ジーーーーーーッ……ジジジジジジジッ……。
その音は、外の空気から鼓膜を震わせて聴こえてくるものではなかった。
創太の『頭蓋骨の内側』、脳髄のど真ん中に直接、冷たい金属の針を突き立てられるような、極めて異質で内罰的な音だった。
『――ふふ。物理的な肉体を壊せないのなら、精神を直接腐らせてあげるまでです』
「がっ……あぁぁぁぁぁっ!?」
次の瞬間、創太は自らの頭を両手で激しく抱え込み、黒い階段の石段の上にドシャッと両膝をついた。
「創太っ!?」
葵が驚き、急いで創太の背中にしがみつく。
だが、創太には葵の体温すらもはや感じられなかった。
彼の脳内で、先ほどの「カセットテープレコーダーのノイズ」とは次元の違う、『超高密度の呪詛の奔流』が爆発的に再生され始めたのだ!
『死ね』『お前のせいだ』『痛い』『助けて』『苦しい』『憎い』『許さない』『なんで私だけが』『お前も死ね』『肉になれ』『溶けろ』『ぐあぁぁぁぁっ』――!!
それは、この葛葉市のドーム内に取り込まれ、未消化のまま絶望の底で溶かされ続けている数万人の市民たちの悲鳴と、鳴海詩織の持つ無限の怨念が、ドロドロのタールのように濃縮された「純度百パーセントの悪意の音声データ」だった。
怪異は、創太の最大の武器であり、同時に最大の弱点でもある『過剰な聴覚』を逆手に取ったのだ。
物理的な刺突や、文字による攻撃(血文字)が通用しないと悟った怪異は、空間を介した音波攻撃を捨て、創太の特異な聴覚神経と脳のシナプスへダイレクトにリンクし、彼の脳内に直接『絶望の音声』を無制限にダウンロード(強制注入)し始めたのである。
「ア……ガガガガガガガガガガガッ!!!!」
創太の白目を剥いた両目から、真っ赤な血の涙がドバッと噴き出した。
鼻穴から、そして両耳の穴から、脳の毛細血管が次々と破裂したことによる黒い血液が、滝のように流れ落ちる。
(頭が……っ! 脳みそが……割れるっ! 潰れるぅぁぁぁっ!)
創太の視界が完全にブラックアウトし、幻覚が彼の意識を支配した。
自分の脳みその中に、何万匹もの黒いムカデが這い回り、神経の束を一つ一つ噛み千切っていくような、想像を絶する極限の精神苦痛。
「創太! 創太ぁぁぁっ!」
葵が声なき悲鳴を上げながら、創太の頭を必死に抱きしめ、自分の顔を彼の胸に押し当てる。しかし、脳内に直接響く呪詛の嵐は、外部からのいかなる接触をも拒絶し、創太の自我を急速に粉砕していく。
(痛い……! 苦しい……! もう嫌だ……死にたい……殺してくれ……っ!)
創太の意識が、圧倒的な絶望の渦に呑み込まれ、自殺衝動へと強引に書き換えられていく。
先ほどまで燃え上がっていた「生きたい」「葵を救いたい」という決意すら、何万もの死者の叫びによって一瞬にして漂白され、黒く塗り潰されていく。
(痛みを……! 痛みを上書きしないと……自我が消える……!)
創太は狂乱する意識の底で、左太ももに刺さったままの「ハサミの傷」を、自らの拳で力任せに殴りつけた。
肉が裂け、激痛の電流が走る。
だが――足りない。
物理的な肉体の痛み(太ももの激痛)では、脳髄へ直接撃ち込まれる「精神の激痛」を上書きすることができなくなっていたのだ。
怪異の放つ呪詛の声は、すでに創太の聴覚神経を完全にハッキングし、彼の脳を『受信機』として固定化してしまっている。このままでは、あと数秒で脳細胞が完全に焼き切れ、創太は発狂して自らの喉を掻き切るか、完全に心停止を引き起こす。
(音が……音が脳に直接入ってくる……! 俺の『過剰な耳』が……この呪詛を……増幅して受け取ってしまっているんだ……!)
創太は、血の涙を流しながら、一つの絶望的な真理に到達した。
自分のこの異常なまでに発達した聴覚ネットワークがある限り、怪異の脳内ハッキングから逃れることは絶対にできない。
外部の音ではなく、神経を通じて脳を侵食してくるこの音を止めるには。受信機そのものを、脳に近い場所で、物理的に、そして致命的に『破壊』するしかない。
すなわち――自らの『鼓膜』と、その奥にある『聴覚神経』を、自らの手で直接物理的にぶち壊し、脳に超特大のショック(破壊の激痛)を与えることで、神経回路を強制的にショート(再起動)させるしかないのだ。
「あ……あぁ……がぁぁぁぁっ!」
創太の血塗られた右手が、自らの首筋へと伸びた。
彼の首元から胸元にかけては、第18話の問答で体内に蓄積した言語の毒によって、菅原の身体から噴出したものと同じ『太さ数ミリの鋭利な金属針(畳針)』が、皮下から何十本もウニのように突き出している。
創太は、その中の一際長く、太い金属針の根元を、自らの血に濡れた指先で力任せに掴み取った。
「創……太……?」
葵が、創太の異常な行動に気づき、恐怖に目を見開いた。
ブチブチブチブチィィィッ!!
「グガァァァァァァァァっ!!」
創太は、自らの首の肉に深く根を張っていた金属針を、肉片と血しぶきごと、力任せに引き抜いた。
長さ十センチ以上ある、黒光りする鋭利な鉄の針。
創太の残された右目が、狂気と、そして絶対的な生存本能にギラギラと発光した。
(俺は……死なない……! この耳が……お前の呪いを受信する回路なら……こんな耳……自ら潰してやるぅぁぁぁっ!!)
創太は、引き抜いた血まみれの金属針を逆手に持ち、自らの『右耳の穴』の奥深くへと、躊躇うことなく一直線に突き立てたのだ!
ドスッ……!! パキィィィィンッ!!!!
右耳の奥底で、生身の肉体が決して上げてはならない「惨烈な破砕音」が脳蓋を激しく振るわせた。
長針の冷酷な先端が、耳道を容赦なく掻きむしり、創太の右鼓膜を、そしてその奥に存在する三つの繊細な耳小骨(ツチ骨・キヌ骨・アブ骨)を、微塵も容赦なく一直線に貫通・粉砕したのだ。
「――――――――――――――――ッッッ!!!!」
創太の口から漏れたのは、もはや悲鳴と呼べるような音ではなかった。
声帯が限界を超えて引きちぎれるほどに開放され、声にならない空気の爆裂が、血の泡とともに喉奥から噴き出した。
ズキンッ!! ガガガガガガガガッ!!
脳髄を直接ハンマーで叩き割られたかのような、白熱した破壊の激痛。
右耳の奥で、神経細胞が一瞬にして万単位で焼き切れていく。その超高圧の物理的破砕の激痛は、脳内に直接ダウンロードされ続けていた鳴海詩織と数万の死者たちの「呪詛のハッキング音」を、暴力的な圧力を以て一瞬にして強引に打ち砕き、回路ごとショートさせたのだ!
ジーーーーーッ……バチバチバチッ!
脳内で狂ったように響き渡っていた悲鳴の渦が、まるでテレビの主電源を力任せに斧で叩き割られたかのように、激しい雑音の火花とともに唐突に途絶えた。
「はぁッ……! がはぁッ……! げほっ……っ!」
次の瞬間、創太の右耳の穴から、どくどくという湿った水音とともに、赤黒い血液の塊が滝のように溢れ出した。
右耳の完全なる破壊。
だが、その代償はあまりにも苛烈だった。
鼓膜と耳小骨だけでなく、内耳に存在する平衡感覚を司る「三半規管」までもが針の先端によって破壊されたことで、創太の世界は一瞬にして狂乱の渦へと叩き落とされたのだ。
天地が逆転し、水平感覚が完全に崩壊する。
視界が上下左右に高速で回転を始め、激しい悪心と吐き気が創太の胃袋を絞り上げた。創太の膝から完全に力が抜け、彼の体躯は黒い階段の縁から、暗黒の虚空へと真っ逆さまに転落しかけた。
「――っ! 創太ぁぁぁっ!」
その倒れゆく創太の身体を、後ろから死に物狂いで抱きすくめたのは、白石葵だった。
葵は、強酸で皮膚を焼き溶かされた両脚の痛みを無視して石段へと膝を突き、残された左腕と自らの全重量を投げ打って、創太の崩れ落ちる背中を必死で受け止めた。
ドシャッ!!
二人の重なり合った身体が、黒い階段の狭いステップの上で激しく衝突する。
「……っ! ……っ!」
声を失った葵は、自分の涙と創太の右耳から溢れ出る熱い血で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、創太の顔を自らの胸元へ強く強く抱き寄せる。
彼女の左手が、創太の破れた制服の上から、彼の冷え切りかけた心臓のあたりを狂おしいほどの力で擦り続けた。
(創太! しっかりして! 私を見て! 倒れないでぇぇぇっ!)
言葉は届かない。創太の右耳は完全に潰れ、左耳も脳震盪と出血で激しい難聴のノイズで埋め尽くされている。
しかし――創太の頭骨に密着した葵の胸の奥から響く、ドクン、ドクンという力強い『心音』と、彼女の身体から溢れ出る圧倒的な『生の体温』が、激しい眩暈の中で崩壊しかけていた創太の三半規管に代わる、唯一の「世界の水平線(軸)」となった。
「あ……葵……」
創太は、自らの血に染まった左手で、葵の背中を力任せに引き寄せた。
視界の回転が、ゆっくりと収まっていく。
右耳からの激痛は、今や彼の全身の細胞を覚醒させる炎となっていた。
右耳を物理的に自壊させたことで、怪異が彼の過剰な聴覚ネットワークを利用して脳へ直接流し込んできた「ハッキングの呪詛」は完全に遮断されたのだ。
右耳の途絶。
それは一見すれば致命的な障害でありながら、怪異の最大の武器であった「脳内精神汚染」を完全に無力化するという、狂気に満ちた、しかし完璧な『拒絶の回答』となった。
「聴こえる……」
創太は、右耳から絶え間なく血を流しながら、掠れた声で呟いた。
「もう……あいつらの雑音は……届かない。俺の耳に聴こえてるのは……葵、お前の心臓の音だけだ……!」
創太の残された右目――水野結衣のステンドグラス片に半分覆われながらも、爛々と燃え上がる人間の瞳が、ゆっくりと焦点を結んだ。
過剰な聴覚が怪異のハッキングを遮断されたことで、創太の精神領域は、これまでにないほど澄み渡った「絶対の極限状態」へと到達していた。
怪異の放つノイズに惑わされることは、もう二度とない。
「立つぞ……葵」
創太は左太ももの傷と、右耳の破砕傷の激痛を、意志の力で完全にねじ伏せた。
彼は血塗られた鉄パイプを石段に突き立て、葵の肩を支えながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、二本の足で立ち上がった。
葵もまた、流れる涙を拭い、自らの血濡れたノートを胸に抱いて、創太の隣へと並び立った。
二人を遮るものは、もう何一つとしてなかった。
一段、また一段。
創太と葵は、互いの体温を分け合い、互いの傷を補い合いながら、黒い螺旋階段を登り詰めていく。
トツ……トツ……トツ……。
静寂に包まれた空間に、二人分の血みどろの上履きが石段を刻む、硬く力強い足音が響き渡る。
その一歩一歩が、一年前のあの日、誰の助けも得られずに一人で屋上を歩いていた鳴海詩織の絶望の記憶を、塗り替えていくかのように。
そして――。
ついに、二人の上履きが、黒い螺旋階段の『最上段』のステップを踏みしめた。
ズズズズズズズズズズズッ!!!!
階段の先。
葛葉市全体を包み込む巨大な黒いドームの天頂(真下)。
そこに広がるのは、学校の屋上を模した、しかしすべてが黒い根と血肉によって形成された『死の真頂の間』だった。
空間の中央。
何万本もの黒い肉の根が複雑に絡み合い、巨大な「心臓の臓器」のようにドクン……ドクン……と不気味な脈動を打ち続けている、怪異の最果ての核心。
その黒い肉の心臓の表面が、メリメリと音を立てて観音開きに裂けた。
中から静かに現れたのは――これまでのどんな形態よりも小さく、そしてどんな異形よりも恐ろしい、鳴海詩織の『真の本尊』だった。
それは、透明な黒い熱蝋の中に閉じ込められた、一年前のあの日、飛び降りる直前に涙を流していた詩織の「本物の肉体」そのものだった。
『――鼓膜を潰してまで……私の声を拒絶しますか』
詩織の本体の口から発せられたのは、ノイズも、スピーカーの重奏もない、痛々しいほどに澄み切った一人の少女の「生の肉声」だった。
『素晴らしいですよ、神谷くん、白石さん。……ですが、これで本当にすべてが終わりです』
詩織の肉体の胸の奥で、カケットテープの残骸と融合した『最後の真っ赤な核』が、太陽のような禍々しい赤光を放ち始めた。
人間の形を保てるタイムリミット、そして命の残量。
すべての限界を越えた果てで、ついに二人は怪異の根源との「本当の最終決戦」の真前へと到達したのだった。




