第38話:『葵の決意』
壁一面を覆い尽くしていた膨大な血文字が、創太と葵の叫びによって一斉に爆砕し、黒焦げの灰となってボロボロと崩れ落ちていった。
四方八方を埋めていた狂暴な赤光が消え去り、空間を支配していた「文字の暴力」のノイズが急速に遠のいていく。しかし、その後に訪れたのは、安らぎなどとは程遠い、絶望の泥の中に沈み込むような、重く冷たい沈寂だった。
「ハぁ……ハぁ……ハぁ……ハぁッ……!」
神谷創太は、ドロドロとした血と肉の泥の上に両肘と膝をつき、激しい呼吸とともに口から大量の赤黒い血液の塊を吐き散らしていた。
彼の肉体は、もはや生存していること自体が物理的な奇跡と言えるほどに破壊し尽くされていた。
胸の真ん中には、鳴海詩織の残影の奥から飛び出した真っ赤な神経根によって穿たれた、拳大の貫通傷がぽっかりと開いていた。息を吸うたびに、破れた胸郭の隙間から「シュウ、シュウ」と湿った空気が漏れ出し、体内の血液が止まることなく溢れ出て床を赤く染め続けている。
そして、直前の連続問答で自らの意識を死の眠りから強引に繋ぎ止めるために行った、左太ももへの過激な自傷。
ハサミの刃でえぐり取られた太ももの肉は無惨に裂け、大腿骨の白い表面が覗く傷口から、生の血液が絶え間なく溢れ出ていた。創太が身動きを一つするたびに、骨と肉が擦れ合う狂おしいほどの激痛が脳髄を焼き、全身の筋肉を痙攣させた。
それだけではない。正解を重ねるたびに体内に蓄積されていった「言語の毒」は、創太の顔面を完全に人間以外の怪物へと変貌させつつあった。
右頬の皮膚からは長谷川さくらのハサミの刃がギリギリと音を立てて肉を突き破り、額の下では渡辺大樹の沸騰した血液がグツグツと不気味な泡を立て、左目の周囲は水野結衣の色彩豊かなステンドグラスの破片で隙間なく埋め尽くされて視界を奪い、首筋から胸元にかけては菅原の無数の金属針が毛穴からウニのように突き出していた。
過剰な聴覚が、自らの体内で心臓が不規則な心室細動を起こし、脳細胞が酸素不足によってパチパチと音を立てて死滅していく終焉の音を、残酷なまでの精度で拾い上げ続けている。
「創太……っ……創太……っ!」
創太の隣で、白石葵が血の海の中に膝を折り、震える左手で創太の倒れそうな身体を必死に支えていた。
葵自身の惨状もまた、限界の底を抜けていた。
失声。喉に熱蝋を注がれ、声帯を完全に焼き切られた彼女の口からは、引きつったような掠れた呼吸音しか漏れ出ない。回転ノコギリ刃に自ら突き出した右腕の肉と皮はズタズタに引き裂かれ、剥き出しになった骨と断切された血管から生の体液が滴り落ちている。
彼女の顔の左半分は、首筋から這い上がった黒蝋の毒による黒紫色の根の紋様に完全に覆い尽くされ、左目の瞳孔は粘り気のある漆黒の濁りに呑み込まれていた。足元の強酸の消化液によって両脚の皮膚を酷く焼かれた痛みと、急激な大量失血により、彼女の全身は小刻みに震え、まぶたは重く垂れ下がりかけていた。
葵の残された右目の涙腺から、大粒の涙が溢れ出し、血と脂で汚れた創太の痛々しい頬を濡らした。
葵の視界に映っていたのは、自らの命を削り、自らの肉体を自傷で切り刻んでまで自分を守り抜こうとしてくれた、傷だらけの創太の姿だった。
(私……の……せいだ……)
葵の胸の奥で、底知れぬ自責の念と、胸をかきむしられるような絶望が膨れ上がっていた。
一年前、教室で鳴海詩織が追い詰められていた時、自分は恐怖に怯えて目を背け、現場から逃げ出した。あの時、自分が逃げずに詩織の手を握っていれば、こんな惨劇は起きなかった。
そして今、自分のために創太が胸を貫かれ、自分のために創太が太ももを切り刻み、自分のために創太が化物へと変貌させられている。
声を失い、右腕を失い、足の肉を溶かされた自分。
創太の足手まといになり、創太の命をすり減らす「重荷」でしかない自分。
葵は、創太の顔面のハサミやガラス、そして胸の貫通傷から溢れ出る血液を見つめながら、痛感していた。
(もう……ダメだ……。このまま二人で進めば……創太は本当に死んでしまう……)
創太の過剰な耳は、自分の肩を支える葵の指先が小さく震えている音、そして彼女の胸の奥で打つ心臓が、自分に対する申し訳なさと激しい葛藤で激しく不規則に脈打っている音を拾い上げていた。
「葵……大丈夫……だ……」
創太は口から血の泡を吐き出しながら、痛む首をゆっくりと動かし、葵を見つめた。
「俺は……まだ……動ける。あの血文字は……破破した。あとは……あの奥にある本体を……叩き潰すだけだ……」
創太は折れかけた足に力を込め、もう一度立ち上がろうとした。だが、太ももの自傷跡から激痛が走り、胸の貫通傷からガボッと大量の血が吹き出して、その場に再び豪快に倒れ込んだ。
ズサァァァンッ!!
「創太ぁぁぁっ!」
声にならない葵の叫びが、無音の空間に虚しく響いた。
葵は涙で視界を泥々に濡らしながら、自分の膝の上に転がっていた『血濡れのノート』と、折れかけた鉛筆を手にとった。
彼女の指先は、大量の失血と恐怖、そして覚悟によって激しく震えていた。剥がれ落ちた指の爪の傷口から激痛が走るが、彼女はそれを無視して、鉛筆を力任せに握り締め、真っ白なノートのページへと向かわせた。
カリカリカリカリ……ッ! ガリガリガリッ!
静寂に包まれた胃袋の最奥に、鉛筆の芯が紙を深く切り裂く凄惨な音が響く。
葵は、涙をポタポタと紙面に落としながら、自らの魂の底からの【決意】を、血と鉛筆の黒い粉に混ぜ合わせて文字として刻み込んでいった。
それは、自分自身の命をここで終わらせ、創太だけを救うための、あまりにも残酷で、哀しい『遺書(拒絶)』だった。
書き終えた葵は、震える左手でそのページを力任せに破り取った。
バリリリリリッ!!
紙が破れる音が、夜の静寂を切り裂いた。
葵は破り取ったその紙を、血みどろになって床に倒れ込む創太の目の前――彼の残された右目の視界のど真ん中へ、押し付けるようにして差し出した。
そこに書かれていたのは、葵の涙と生血で滲んだ、絶望的なまでに真っ直ぐな言葉だった。
『創太、もういいの。お願いだから……私を捨てて、一人で外へ逃げて』
『私はもう声も出ない、腕も動かない、脚も歩けない。私といたら、創太まで死んじゃう』
『創太が死ぬのを見るくらいなら、私はここで死んだほうがましなの!』
『私を置いていって! 創太だけでも……生きて元の世界へ帰ってぇぇぇっ!』
文字の端々が、葵の激しい体温の震えと涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。
声を奪われた少女が、自らの存在を「捨て去る」ことで、愛する少年の命を救おうとした、あまりにも痛々しく、悲壮な筆談の拒絶。
葵は紙を突きつけると同時に、創太の制服を掴んでいた左手を力なく離し、自らの身体を後方へと引き、創太から距離を置こうとした。
自分が創太の足手まといであることをやめ、自らこの地獄の底に残り、創太一人だけを先へ進ませるために。
だが――。
創太の残された右目の奥に、激しい『火』が灯った。
葵が血と涙でぐしゃぐしゃに歪ませながら書き殴った、最悪で悲壮な『遺書』の破片。
「私を捨てて、一人で外へ逃げて」という絶望的な懇願の文字が、創太の残された右目の視界のど真ん中に突きつけられていた。
葵は紙を差し出すと同時に、創太の制服の裾を掴んでいた左手を力なく離し、膝をついたまま後ろへ退がろうとした。自らの存在を「創太を殺す重荷」と定義し、創太の命を繋ぐために、自分だけがこの暗い血の底へ残ろうとするあまりにも痛ましい撤退。
「ハぁ……ハぁ……ハぁ……ッ」
創太は、ドロドロに溶けた左太ももの激痛と、胸を貫く空洞からの流血に肩を激しく上下させながら、退がろうとする葵の手元を凝視した。
過剰な聴覚が、葵の胸の奥で打つ心臓の音を拾う。
そこにあったのは、冷酷な自己保身などでは断じてない。創太を死なせたくないという狂おしいほどの愛おしさと、自分という存在に対する激しい自責、そして死を受け入れた少女の哀しい静寂の音だった。
「葵……」
創太の掠れた声が、血の泡とともに漏れた。
創太はゆっくりと、自らの右手――ハサミの刃が皮膚を突き破り、血管と金属が不気味に融合した怪物化の右手を伸ばした。そして、葵が震える手で差し出していた『血文字の紙』を、指先で静かに掴み取った。
葵は涙に濡れた瞳で創太を見つめた。「分かってくれたのね、一人で逃げて」と言いたげに、儚げな笑みを浮かべようとした。
だが次の瞬間――。
バリリィィィィィィィィッ!!!!
凄絶な破砕音が、静寂に包まれた胃袋の最奥に激しく響き渡った。
「……ッ!?」
葵の目の前で、創太は自らの異形の右手と左手を使い、葵が命を削って書きあげたその『血の遺書』を、力任せに、容赦なく二つに引き裂いたのだ!
それだけではない。
バリッ! ガリッ! バリバリバリバリッ!!!!
創太は刃物の群生する異形の右拳で、引き裂いた紙片をさらに細かく、粉々に切り刻み、ズタズタの紙くずへと変え、床の血の海の中へ容赦なく叩き捨てたのだ!
赤黒い泥の中に沈み、濡れて二度と読めなくなっていく血の文字。
葵の残された右目が、驚愕と動揺で限界まで見開かれた。声を失った彼女の口が、はくはくと空を切り、「なんで……なんでそんなことをするの!?」と全身で叫びを上げた。
「白石……葵……」
創太の口から漏れたのは、低い、地鳴りのような怨念を含んだ声だった。
創太は、左太ももの自傷跡から激痛の血を流しながら、コンクリートと血肉の床を這うようにして前へ進み、逃げようとした葵の細い左手首を、自らの血塗られた手で力任せに掴み寄せた。
「ふざけるな……っ! ふざけるなよ……葵ぃぃぃっ!!」
創太の咆哮が、血みどろの空間を揺るがした。
「俺が……俺たちが、何のためにここまで生き延びてきたと思ってるんだ! 長谷川も、渡辺も、水野も、西条も……クラスメイト全員が肉片になって死んでいったこの地獄で! お前が声を失い、右腕を切り刻み、俺が顔面を化物に変えてまで繋いできたこの命を……『私を捨てて逃げろ』だと……!?」
創太の右目から、熱い血の涙がボロボロと溢れ落ち、葵の手に落ちた。
「そんな理由で俺がお前を捨てて一人で逃げたら……俺は一年前、雨の中で詩織の手を振り払ったあの時の、最低の傍観者と何一つ変わらないじゃないかぁぁぁっ!」
「……っ! ……っ!」
葵は首を激しく横に振り、創太の胸の貫通傷と、太ももの酷い自傷跡を指差して、涙を流しながら訴えかけた。『あなたの身体はもう限界なの! 私がいたらあなたまで死んじゃうの!』と、声なき悲鳴で創太を押し返そうとした。
だが、創太は葵の手首を絶対に離さなかった。それどころか、引き寄せた葵の小さな体躯を、胸の痛みを無視して、自らの両腕で強く、強く抱きしめた。
ドクン……! ドクン……!
二人の胸が重なり合い、創太の脈動と葵の脈動が、至近距離で強く共鳴し合う。
「葵……よく聴け」
創太は自らの顔面を葵の首元へ寄せ、過剰な聴覚を通じて、葵の魂の底へと直接語りかけるように囁いた。
「俺の耳には聴こえてるんだ……。お前の心臓が、どれだけ『生きたい』って叫んでいるか。お前が本当はどれだけ恐怖に震えて、俺と一緒に帰りたいって願っているか……俺の過剰な耳は、全部聴き取ってるんだよっ!」
葵の身体が、ビクッと激しく跳ね上がった。
「自分を犠牲にして人を助けるのが綺麗事か? 自分が足手まといだから死ぬのが美徳か? 冗談じゃない! 俺はそんな哀しいお前を見たくて、お前の手を握ったんじゃない!」
創太は、葵の涙で濡れた顔を、自らの手でまっすぐに向かい合わせさせた。
「お前が右腕を切り刻んで俺に繋いでくれた命だ。……なら、この命の使い道は俺が決める。俺の命は……お前と一緒に生きて、この暗闇から外の世界へ帰るためにしか使わない!」
「創……太……っ!」
葵の破れた声帯から、血の混ざった掠れ声が漏れ出た。
「一人で逃げるくらいなら……ここで二人で肉片になって死んだ方が、一万倍マシだ! でもな葵……俺たちは死なない。俺たちを縛るこの過去も、この怪異も、全部二人でぶち破って……絶対に、二人揃って元の世界へ帰るんだ!」
創太の言葉は、嘘偽りのない、人間の尊厳のすべてを懸けた「絶対の拒絶(誓い)」だった。
葵の目から、堰を切ったように大量の涙が溢れ出した。
彼女が自分を捨てようとしたのは、創太を愛していたからだ。創太に生き残ってほしかったからだ。だが、創太にとって、葵を失った生還など、永遠の地獄と同義であることを、彼女は創太の瞳の奥に宿る圧倒的な熱によって、ついに理解したのだ。
自らを「足手まといの荷物」として諦めかけていた彼女の心の中で、冷え切っていた生の火種が、疾風のような感動とともに爆発的に燃え上がった。
葵は、残された左腕を創太の首に強く回し、創太の血塗られた制服に顔をうずめて、声にならない咆哮を上げて泣き叫んだ。
『生きたい! 創太と一緒に生きたい! 一人にしないで! 私を連れていってぇぇぇっ!』
魂の咆哮が、過剰な耳を持つ創太の脳髄へとダイレクトに突き刺さった。
創太は不敵に、そして慈しむような笑みを浮かべ、葵の背中を強く叩いた。
「ああ……任せろ。絶対に……連れて帰る」
葵は泣きじゃくりながら、自らの血の手で落ちていたノートを持ち上げ、折れた鉛筆を力任せに握り直した。
そして、破り捨てられた『遺書』の次のページに、今度は自分たちの「未来」を確定させるための、強靭な言葉を力強く叩きつけた。
『もう絶対に言わない! 私も諦めない!』
『創太の耳になって、創太の盾になって、最後まで一緒に戦う!』
『二人で……この地獄を終わらせて、一緒にあの街へ帰るんだからぁぁぁっ!』
血と涙で書かれたその言葉には、もう「逃避」の二文字は存在しなかった。声を失い、右腕を削がれた少女は、愛する少年と共に死線を越える「一人の戦士」として、完全に覚醒したのだ。
二人の心が、魂の底から一つに結ばれた、その瞬間だった。
ズズズズズズズズズズズッ!!!!
二人を取り囲んでいた血と肉の胃袋の空間全体が、まるで生き物のように悲鳴を上げて大きく歪み始めた。
血文字が破破され、二人の絆が固く結ばれたことで、空間を維持していた鳴海詩織の怨念の「論理的支配」が、根本から瓦解し始めたのだ。
肉の壁がボロボロと崩れ落ち、頭上の肉の天井が、激しい火花とともにドバッと弾け飛ぶ。
その崩れゆく肉壁の最奥――。
砕け散ったテープレコーダーの残骸が散らばる暗闇の向こうから、葛葉市全体を包む巨大なドームの「中心核」へ向かって伸びる、一本の『漆黒の階段』が、月光のような冷たい光を浴びて浮かび上がってきた。
その階段の最上階。
黒いドームの真下、空中に浮かぶようにして佇むのは、いじめの記憶のすべて、そしてこの街を呑み込んだ怪異の怨念の「真の本体」――。
「行こう……葵」
創太は自らの太ももの傷口を制服の切れ端で強く縛り上げ、血塗られた鉄パイプを再び強く握りしめた。葵もまた、血のノートを胸に抱き、創太の隣にしっかりと並び立った。
互いの傷を庇い合い、互いの命を背負い直した二人。
自分を捨てる自虐の迷いは、もうどこにもない。
二人で生きて帰るという絶対の誓いを胸に、創太と葵は、失われた世界を取り戻すための「真の最終決戦」へ向かって、黒い階段を一歩ずつ踏み出していった。




