第36話:『詩織の遺書』
巨大な胃袋の最奥の肉壁が裂け、そこから吹き荒れるどす黒い『黒い樹液の竜巻』が、空間全体の空気を暴力的に掻き回していた。
「ハぁ……ハぁ……ハぁ……っ!」
神谷創太は、ドロドロに溶けかけた両足と、ステンドグラスに貫かれた肺の激痛に耐えながら、自らの背中に白石葵を庇い、血塗られた鉄パイプを杖にして立ち上がった。彼の顔面を覆うハサミや針のパーツが、竜巻の風圧を受けてギリギリと肉に食い込む。葵もまた、失われた右腕の痛みに顔を歪めながら、左手で創太の制服の裾を強く握りしめ、前を見据えていた。
竜巻の中心。そこから静かに姿を現したのは、一年前のあの日、屋上から飛び降りる直前の姿のままの鳴海詩織だった。
ボサボサの黒髪、切り裂かれた制服。彼女の足元からは、無数の黒い血管状の根が胃袋の肉壁へと深く接続され、彼女自身がこの巨大な空間、いや、葛葉市を包む黒いドーム全体の「心臓」であることを示していた。
『――私をいじめた者たちは、すべて自らの言葉の毒で自壊しました。……残るは、私を見殺しにしたあなたたち二人だけです』
詩織の怨念の実体が、静かに口を開いた。
その瞬間、創太の脳髄を直接切り刻むような、爆音の高周波ノイズが胃袋の空間全体に木霊した。
『さあ、第三の問答を始めましょう。……これが、正真正銘の最後です。あなたたちの存在を、この街ごと完全に消去するための問いを』
詩織の声は、空気を震わせ、創太の全身の毛穴から血を噴き出させんばかりの圧倒的な音圧を伴っていた。
だが――。
創太の極限まで覚醒した「過剰な聴覚」は、その絶望の宣告を真正面から受け止めながらも、ある一つの『決定的な違和感』を捉えていた。
キィィィィィン……ジーーーーーッ……。
(……なんだ、この音は?)
創太は、自らの両耳の穴から血を流しながら、神経のすべてを聴覚へと集中させた。
詩織の怨念が発する声。それは、霊的な現象や、超自然的な怪異の力によって空気が直接振動している音だと思っていた。しかし、創太の耳が極限の極限まで研ぎ澄まされた今、その声の「波形」と「周波数」に、わずかな物理的ノイズが混ざっていることに気づいたのだ。
ジーーーーーッ、キュルルルルルッ……。
(このノイズ……。アナログの……磁気テープが擦れる音……!?)
創太の右目――ステンドグラスに侵食されていない残された人間の瞳が、竜巻の中心に浮かぶ詩織の顔を射抜いた。
創太は、はっきりと目視した。
詩織の怨念が口を動かして喋っている時、その『口の動き(リップシンク)』と、実際に響いてくる『声の発声タイミング』の間に、コンマ一秒未満のほんのわずかな「ズレ」が生じていることを。
さらに、声の音源は、詩織の口(声帯)から発せられているのではなかった。
創太は自らの舌を噛み切り、吐血しながら叫んだ。
「葵……! 聴こえるか……! 違うんだ……!」
「……?」葵が痛みに耐えながら、首を傾げる。
「俺たちをずっと追い詰めてきたあの声……この怪異のルールの宣告……。それは、詩織の霊が直接喋ってるんじゃない! あれは……【録音された音声】だ!」
その言葉を吐き出した瞬間、創太の脳内で、これまでのすべての不可解な現象が、一本の強烈な線となって繋がり始めた。
なぜ、この怪異は「言葉」や「問い」に異常なまでに執着するのか。
なぜ、学校の放送室や体育館のマイクなど、音を増幅する「スピーカー」を模した形態を何度もとってきたのか。
なぜ、葛葉市全体を巨大なドームで包み込み、外界からの音を完全に遮断したのか。
創太の過剰な聴覚は、音源の真の位置をピンポイントで特定した。
詩織の怨念の実体の胸の奥。彼女の制服の胸ポケットのあたりに、黒い根が何十重にも複雑に絡みつき、一つの小さな『物理的なデバイス』を卵のように大切に抱え込んでいるのが見えた。
そこから、微かなモーターの駆動音と、磁気テープがヘッドを擦るキュルルルッという音が、確実に発せられていたのだ。
「あれは……【カセットテープレコーダー】……!」
創太の口から、戦慄の事実が漏れた。
一年前のあの日。鳴海詩織は、ただ絶望して屋上から飛び降りたわけではなかった。
彼女は、自らの命を絶つ直前、自分の受けた凄惨な虐め、誰も助けてくれなかった絶望、そしてこの学校と街に対する底知れぬ恨みを、手持ちの古いカセットテープレコーダーに『遺書』として録音し、それを自らの胸に抱きしめたまま、二階の窓から身を投げたのだ。
そして、彼女の絶望と怨念が、この葛葉市の淀んだ土地の気(怪異)と結びついた時、その「録音テープ」こそが、怪異を駆動させるための『心臓』へと変異したのだ。
怪異のカラクリの完全な解明。
怨念を持った霊が暴れているのではない。
詩織の死後も延々とループ再生され続ける「遺書の音声(呪いの言葉)」を、怪異の黒い根が旧校舎の建材を巨大なスピーカーとして利用し、物理的な音波エネルギー(言語兵器)として無限に増幅し、空間と現実を書き換えていたのだ!
だからこそ、外部の音を遮断するドームを作り、この街全体を「詩織の遺書だけが響き渡る閉鎖空間」にしようとしていたのだ。
「そうか……そういうことだったのか……!」
創太の顔面を覆う怪物化の痛みが、真実を掴んだ高揚感によって一瞬だけ吹き飛んだ。
「葵! 分かったぞ! この地獄を終わらせる方法が!」
創太は、背後の葵に向かって振り返り、狂気を含んだ笑みを浮かべて叫んだ。
「あの詩織の胸の奥にある『カセットレコーダー』……あれが、この校舎と街を侵食している呪いの放送の『大元』だ! あれを破壊して、ループ再生を止めれば……この怪異のエネルギー供給は完全に絶たれ、ドームは崩壊する!」
声を持たない葵の瞳が、驚愕と、そして絶対的な希望の光で大きく見開かれた。彼女は自らの血で染まったノートを強く抱きしめ、創太に向かって力強く頷いた。
しかし、その真実に創太が辿り着いたことを察知した詩織の怨念が、静かに、そして凄絶な怒りを込めて両手を広げた。
『――ふふ。耳障りなネズミですね……。気づいたところで、どうなるというのですか?』
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォッ!!!!
詩織の怨念の背後から、黒い竜巻がさらに巨大に膨れ上がり、数百、数千という黒い根の槍が、創太たちを串刺しにすべく一斉に牙を剥いた。
『あなたたちに、私の心臓には指一本触れさせません。……第三の問答! これが、正真正銘の最後です!』
怪異の核を解明し、反撃の糸口を掴んだ二人。
しかし、その心臓を破壊するためには、怪異の放つ最悪の最終問答を潜り抜け、詩織の本体へと肉薄しなければならない。
肉体の崩壊が迫る中、隔離都市の最深部で、生き残るための最後の死闘が今、始まった。
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォッ!!!!
巨大な胃袋の空間全体が、鳴海詩織の怨念が発する絶大な怒りの波長に共鳴し、激しく波打ち始めた。
最奥から吹き荒れる『黒い樹液の竜巻』が、空間の空気を削り取るような轟音を立てて回転速度を増し、その中心に浮かぶ詩織の背後から、大蛇の群れのような数百本もの太い黒い根の槍が、創太と葵を完全に包囲するように広がり、いつでも串刺しにできる態勢を整えた。
『――ふふ。心臓の在り処に気づいたところで、それが何だというのですか?』
詩織の怨念の実体が、空中で静かに嘲笑う。
だが、その声の出処は、彼女の唇からではない。創太の過剰な耳は、彼女の制服の胸の奥深く、黒い根に幾重にも守られた「カセットテープレコーダー」のスピーカー部から、キュルルルッという磁気テープの駆動音とともにその音声が発せられているのを、完璧に捉え続けていた。
一年前、彼女が自ら命を絶つ直前に録音した、絶望と怨みの『肉声の遺書』。
それがこの狂った怪異の全てのエネルギー源であり、現実の物理法則を書き換える「呪いの発信源」だったのだ。
「葵、いいか」
創太は、自らの焼け爛れた両足の激痛に耐え、血塗れの鉄パイプを前方に突き出しながら、背後の葵へ向かって低い声で言った。
「怪異の攻撃も、あのドームも、すべてはあの胸の中のテープレコーダーから流れる『詩織の言葉(呪い)』によって物理的な力を持たされている。……つまり、あのテープの再生を止めさえすれば、この怪異はすべての力を失う」
葵は、失われた右腕の痛みに顔を歪めながらも、左手で創太の制服の裾を強く握りしめ、無言で力強く頷いた。声を奪われた彼女の瞳には、一切の迷いがなかった。顔の左半分を黒い根の紋様に侵食され、異形へと変貌しつつある今であっても、彼女の魂は創太と共に生き抜くことだけを真っ直ぐに見据えていた。
「俺が……怪異の最後の問いの隙を突いて、あの本体へ突っ込む」
創太は、自らの右頬から突き出たハサミの刃を、コンクリートの破片に擦り付けてさらに鋭く研ぎ澄ましながら言った。
「俺のこのバケモノの拳で……あのレコーダーごと、詩織の胸をぶち抜いてやる」
『――不快な雑音どもが。まだそんな絵空事をほざいているのですか』
詩織の怨念が、冷たく手を振り下ろした。
その瞬間、上空の闇から、これまでで最大かつ最悪の「死の歯車音」が、空間全体を押し潰すような大音量で鳴り響き始めた。
ガゴォォォォォォォンッ!!!! カチ、カチ、カチ、カチッ!
巨大な胃袋の肉壁全体が、その歯車の回転に呼応してドクドクと収縮し、創太たちを囲む数百本の黒い根の槍が、切っ先をギリギリと軋ませて狙いを定めた。
『さあ、これが最後です。第三の問答……!』
テープレコーダーの磁気ヘッドが、狂ったような速度で回転する音が聴こえる。
『絶望の底で録音された【私の遺書のテープ(声)】と掛けまして』
『傍観者として私を見殺しにした【あなたたちの偽善の耳】と解く。……その心は?』
『制限時間は、五秒!……さあ、あなたたちの罪の深さを、言葉で証明してごらんなさい!』
五、四――。
「五秒……!」
創太の口から、血の泡が飛び散った。
怪異の核である「遺書のテープ」と、自らの「過剰な耳」を繋ぐ概念。
自らの罪を完全に肯定し、かつ、詩織の怨念の構造そのものを暴き出す解答。
三、二――。
周囲の数百本の黒い根の槍が、一斉に発射のモーションに入った。
創太の脳髄が、高熱を発して焼き切れる寸前の速度でロジックを回転させる。
(遺書のテープ……俺の耳……! どちらも……!)
一――。
「答えを……提示するぅぁぁぁぁっ!」
創太は、両足の激痛を無視して血の泥を強く蹴り上げ、黒い竜巻の中心に浮かぶ詩織の怨念へ向かって、自らの魂の叫びを真っ向から叩きつけた。
「正解は! 『どちらも、誰にも届かない絶望の叫びを、ただの一度も再生(理解)されることなく、暗闇の中で空回りしてすり減っていくだけの、悲しい器官(機械)』だぁぁぁぁぁっ!!」
静寂。
創太の絶叫が空間に響き渡った瞬間。
ピタァァァァァァァッ……!
創太と葵の全身を四方八方から串刺しにすべく、超高速で射出されていた数百本の黒い根の槍が、創太の眼球や葵の喉元わずか数ミリの空中で、完全な静止状態に陥った。
ガギィィィィィンッ!!!!
巨大な胃袋の奥深くで、最後となる巨大な死の歯車が、爆発的な音を立てて逆回転を始め、粉々に砕け散った。
『――正、解…………(ととの……いました……)』
詩織の胸の奥のテープレコーダーから、激しいノイズ混じりの、苦悶に満ちた判定の声が漏れ出た。
その瞬間、怪異の絶対的な物理法則の支配が、一瞬だけ「大きく揺らいだ」のだ。
数百本の根の槍がパラパラと力を失って崩れ落ち、黒い樹液の竜巻の風圧がフッと弱まる。
「今だぁぁぁぁぁぁっ!!」
創太は、自らの筋肉の限界を超えた力で、焼け爛れた両足で血の海を蹴り裂いた。
鉄パイプを放り捨て、彼は詩織の怨念の実体――黒い竜巻の中心へと向かって、一直線に跳躍した。
『なっ……!? 近づくなぁぁぁっ!』
詩織の怨念が、想定外の創太の動きに驚愕し、咄嗟に防御のために胸の前に黒い根の盾を展開しようとした。
だが、遅い。
創太の突進速度は、自らの命のすべてを燃やし尽くした、文字通りの『決死の一撃』だった。
「これで……終わりだぁぁぁっ! 詩織ぃぃぃっ!」
創太は、自らの怪物化した右腕――手の甲からハサミの刃が鋭利に突き出し、ガラス片が皮膚に食い込んでいるその異形の拳を、全身の全霊の体重を乗せて、詩織の胸元目掛けて豪快に叩き込んだ。
ドバゴォォォォォォォンッ!!!!
創太の異形の拳が、詩織の胸を覆っていた黒い根の装甲を粉砕し、彼女の胸の奥深くまで深々と突き刺さった。
「あ……が……ぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
詩織の怨念の口から、この世界のものとは思えない凄惨な悲鳴が上がった。
創太の拳のハサミの刃が、彼女の胸の奥で何重にも絡みついていた黒い根を切り裂き、そして――怪異の心臓である『カセットテープレコーダー』の本体へと、ダイレクトに直撃したのだ。
ガシャァァァァンッ!!!!
物理的なプラスチックと金属の破砕音。
創太の拳が、テープレコーダーの筐体を粉々に打ち砕き、内部の磁気テープをズタズタに引き裂いた。
キュルル……ギーーーーッ……バチバチバチッ!!
「やった……! 砕いたぞぉっ!」
テープが引き裂かれた瞬間、詩織の怨念の声が、壊れたレコードのように不気味に間延びし、激しい火花とともに途絶えた。
怪異の全てを駆動させていた『遺書の無限ループ』が、ついに物理的に破壊されたのだ!
『ア……アァ……ァァァ……』
詩織の怨念の実体が、心臓を砕かれたことで急激にその形を崩し始め、光の粒子となってボロボロと崩壊していく。
周囲を覆っていた巨大な胃袋の肉壁が、エネルギー供給を絶たれたことで、まるで空気が抜けた風船のように萎み、溶け始めた。
そして、はるか上空の夜空――葛葉市全体を包み込んでいた『巨大な黒いドームの膜』にも、凄まじい轟音とともに無数の巨大な亀裂が走り始めたのだ。
「葵! 勝った……! 俺たちの勝ちだ!」
創太は自らの右腕を引き抜き、崩れゆく詩織の残影を背にして、血の海に膝をつく葵の方へと振り返った。
彼の顔面を覆っていた解体パーツの侵食が、怪異の力の減弱とともにピタリと止まり、彼の残された人間の瞳が、歓喜の涙で濡れていた。
声を奪われた葵も、自らの血濡れたノートを抱きしめ、顔半分の黒い紋様が薄れていくのを感じながら、創太に向かって最高に美しく、涙に濡れた笑顔を向けた。
すべてが終わった。
呪いの放送は止まり、怪異の心臓は砕かれ、隔离都市を包む黒いドームは崩壊を始めている。
二人で一緒に生きて帰るという誓いは、絶望の果てに、ついに果たされようとしていた。
……かに、見えた。
ズブチュッ!!!!
その時。
背後で完全に崩壊し、光の粒子となって消滅しかけていたはずの鳴海詩織の残影の胸の奥から、砕け散ったカセットテープの残骸を無理やり縫い合わせるようにして、一本の「極太の、真っ赤な神経の根」が、狂ったような速度で創太の背後へと突き出されたのだ。
「え……?」
創太の胸の真ん中から、ドス黒い血の刃の先端が、メリメリと音を立てて突き出してきた。




