第34話:『二人生還の誓い』
ズズズ……ズチュッ……ズチュチュチュッ……。
葛葉市全体をドーム状に包み込んだ巨大な黒い肉の膜が、屋上の夜空を完璧に遮断していた。星も月も存在しない、完全なる隔離都市。その閉鎖された空間の真ん中で、旧校舎のコンクリート床に撒き散らされた西条拓海の臓物と大量の血液は、『黒い大樹』から伸びた無数の根によって、最後の一滴、最後の一欠片に至るまで容赦なく啜り上げられていった。
自らのプライドに狂い、自らの手で腹を裂いて臓器を引きずり出した男の遺体は、瞬く間に水分と肉を奪われ、干からびた皮と骨だけの無惨なミイラと化し、風に吹かれてボロボロと灰のように崩れ去った。
彼が死んだことで、2年B組の生徒は、文字通り神谷創太と白石葵の「二人だけ」になった。
数十人いたクラスメイトの嘲笑も、悲鳴も、命乞いも、今はもうどこにもない。残されたのは、世界から切り離された絶対的な孤独と、屋上の空気を重く圧迫するほどの濃密な怨念の気配だけだった。
「ハぁ……ハぁ……ハぁ……ッ」
創太は、崩れ落ちそうになる両膝を、血塗られた鉄パイプを杖にして必死に支えていた。
西条という極上の罪の供物を啜り上げ、完全に覚醒した『黒い大樹』。その幹が裂けて現れた黒い茨の玉座の中央で、鳴海詩織の実体が、ゆっくりと創太たちを見下ろしていた。
一年前、この屋上から身を投げる直前の、美しくも哀しい姿。ボサボサの黒髪の隙間から覗く、透き通るように白い肌。かつて彼女の死体に無数に突き刺さっていたハサミや針、ガラス片などの解体パーツは一切消え去り、ただ純粋な「絶望」と「殺意」だけを凝縮したような、静かで圧倒的な怨霊の姿がそこにあった。
『――不純な雑音は消えました。……さあ、始めましょうか。神谷くん、白石さん』
詩織の濡れた声が、黒いドームの天頂に反響し、冷たい夜風となって創太の鼓膜を撫でる。
創太の覚醒した「過剰な聴覚」は、その詩織の声が、これまでのどんな怪異の音よりも深く、鋭く、自らの脳髄の根源を直接揺さぶる「絶対的な死の周波数」を持っていることを瞬時に理解した。
(このプレッシャー……! これまでの死体傀儡や、教室の罠なんかとは次元が違う……! 彼女自身の直接の怨念……これが、全ての怪異の心臓……真の本尊……!)
創太は奥歯を強く噛み締めた。だが、その瞬間、彼の顔面に凄まじい激痛が走った。
「がっ……ぁ……っ!」
創太の顔面を覆う『怪物の継ぎ接ぎ』が、詩織の完全顕現に呼応するかのように、一気にその侵食速度を速めたのだ。
右頬から突き出ている長谷川さくらのハサミの刃が、ギリギリと音を立てて肉の奥深くへと根を張り、頬骨を削り始める。額の下で沸騰している渡辺大樹の血液が、皮膚を突き破らんばかりにドクドクと膨張し、左目の周囲を覆う水野結衣のステンドグラス片が、創太の左目の視界を赤と紫のステンドグラスの色彩で完全に塗り潰していく。首筋の金属針はさらに増殖し、もはや人間の皮膚の形を留めていない。
「創太……っ!」
創太の背後に隠れていた白石葵が、異変に気づいて前に進み出た。
声を失った彼女の口からは、引きつったような空気の漏れる音しか出ない。葵は、自らの右腕――回転ノコギリ刃に切り裂かれ、骨が剥き出しになって大量の血を流しているその腕を庇いながら、左手で創太の怪物化しつつある頬へ、恐る恐る、だが慈しむように触れた。
葵の左手は氷のように冷たかった。彼女自身の命の火もまた、消えかかっていたのだ。
彼女の首筋を覆う黒い熱蝋から伸びた黒い根の紋様は、すでに彼女の左目から額、そして左耳にかけての顔の半分を完全に黒紫色の網目で覆い尽くし、彼女の人間としての美しさを無惨に冒涜していた。大量の失血により、彼女の呼吸は極端に浅く、立っていることすら奇跡のような状態だった。
(葵……!)
創太の胸の奥で、激しい怒りと、狂おしいほどの焦燥が爆発した。
創太は自らの怪物化した顔の痛みを意志の力で強引にねじ伏せ、葵の冷たい左手を、自分の震える両手でしっかりと握りしめた。
「葵……よく聞け」
創太の声は、血の泡に塗れ、掠れ切っていたが、その響きにはいかなる怪異のノイズにもかき消されない「絶対の熱」が込められていた。
「俺たちの身体は……怪異のルール(問い)に付き合いすぎた。正解を出して死を免れる代わりに、俺たちの身体には詩織の『言葉の毒』が溜まりすぎたんだ」
創太は自らの顔のハサミとガラス、そして葵の顔の黒い根を見つめた。
「もう……俺たちに、残された時間の猶予はない。あと数回、いや、下手すれば次の問答で……俺たちの肉体はこの毒に耐えきれず、完全に崩壊して怪物になる。人間の形を保っていられるのは、あとわずかな時間だけだ」
タイムリミット。
隔離都市に閉じ込められただけでなく、自分たちの肉体そのものが崩壊へのカウントダウンを刻んでいるという絶望。
だが、創太の右目――ステンドグラスに侵食されていない残された人間の瞳は、真っ直ぐに葵の黒く濁りかけた瞳を射抜いていた。
「だけどな、葵。……俺は絶対に諦めない」
創太は、自らの命を削るようにして、言葉を紡いだ。
「俺は、過去にお前の声を聴き落とし、詩織の手を振り払った大罪人だ。俺がここで肉塊になって死ぬのは、自業自得かもしれない。……でも! お前は違う! お前は自分の声を犠牲にしてまで、俺の命を繋いでくれた! お前が右腕を砕いてまで稼いでくれた時間があったから、俺は今、ここに立っているんだ!」
創太は、葵の血塗れのノートが入った制服のポケットを、自らの血の手で強く叩いた。
「俺はどうなってもいい。俺の顔が化け物になろうが、この耳が潰れようが、命が尽きようが……俺は絶対に、お前だけはこの地獄から生きて外へ出す! この隔離された街をぶち破って、お前を元の世界へ還す!」
それは、単なる生存本能からの言葉ではなかった。
自らの罪と向き合い、他者のために命を投げ出すことを決意した、神谷創太という人間の『真の贖罪』であり、『二人生還の誓い』だった。
声を奪われた葵の目から、大粒の涙が溢れ出した。
彼女は言葉を発することができない。だが、彼女は首を何度も横に振り、「創太だけが死ぬなんて絶対に嫌だ」と全身で訴えかけていた。
彼女は震える左手で、創太の手からそっと手を引き抜き、自らの血で染まったノートを開いた。そして、剥がれた爪の痛みも忘れ、折れかけた鉛筆を握りしめ、最後の力を振り絞って、ノートの真っ白なページに、これ以上ないほど力強く、大きな文字を書き殴ったのだ。
『創太だけが犠牲になるなんて絶対に許さない!』
『二人で一緒に生き残るの! 二人で一緒に、この街から帰るの!』
『私を信じて! 創太の耳と、私の言葉があれば、絶対に勝てる!!』
涙で滲んだ血の文字が、夜の暗闇の中で、二人の絆を証明する絶対的な光となって輝いていた。
創太はノートの文字を見つめ、熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、不敵な笑みを浮かべた。
「……ああ、そうだな。二人で……一緒に帰ろう」
創太は鉄パイプを強く握り直し、葵を自らの背後に庇うようにして、黒い大樹の玉座に座る鳴海詩織の怨念へと、真っ向から向き直った。
肉体の崩壊まで、残された時間はわずか。
しかし、二人の心の中には、怪異の絶望を打ち破るための、折れることのない強靭な『意志の刃』が完成していた。
「二人で一緒に、この街から帰るの!」
白石葵が自らの血と命を削ってノートに叩きつけたその言葉は、漆黒に塗り潰された絶望の屋上において、唯一無二の眩い光となって神谷創太の胸の奥底を激しく照らし出した。
創太は、自らの異形と化した右拳を強く握りしめた。手の甲から突き出たハサミの刃がギリギリと軋むが、その痛みすらも今の創太にとっては、自分がまだ人間として葵を守るために立っているという「生の証明」に過ぎなかった。
背中に庇う葵の小さくも力強い体温。彼女の早鐘のように打つ心音が、創太の覚醒した「過剰な聴覚」を通じて、どんな怪異のノイズよりも鮮明に、そして確実に創太の脳髄へと流れ込んでくる。
(そうだ……俺は一人じゃない。そして、葵も一人じゃない)
創太は血に塗れた顔を上げ、正面を見据えた。
数十メートル先。旧校舎の屋上の中央を突き破り、葛葉市を包む巨大なドーム状の膜へと無数の根を伸ばす『黒い大樹』。その幹が裂けて現れた黒い茨の玉座に座る、鳴海詩織の怨念の実体。
かつてクラスの片隅で膝を抱え、誰の助けも得られずに一人で窓から身を投げた少女。彼女の顔には、もはや怒りも悲しみも浮かんでいなかった。ただ、凪いだ水面のような、底知れぬ冷酷な漆黒の虚無だけが広がっている。
玉座に座る詩織の残影が、ゆっくりと首を傾げた。
『――ふふ……ふふふふふっ』
静かな笑い声。だが、それはスピーカーを通したような人工的な高周波ノイズではなく、彼女自身の声帯から直接発せられた、魂を凍りつかせるような「生きた怨霊」の肉声だった。
『美しいですね。本当に……涙が出るほどに、美しい自己犠牲と絆です』
詩織の白い指先が、空中で優雅にタクトを振るように動いた。
『自分の罪を悔い、言葉を奪われた少女のために命を懸ける少年。右腕を砕かれながらも、罪深き少年と共に生きることを誓う少女。……まるで、絵本の中の綺麗なお伽話を見ているようです』
ズズズズズズズズズッ!!!!
詩織の指先の動きに呼応して、屋上全体を覆うコンクリートの床が、凄まじい地鳴りを上げてひび割れた。床下から、太さ一メートルを超える巨大な黒い根が何十本も飛び出し、創太と葵を取り囲むようにして、巨大な「すり鉢状の闘技場」を形成していく。
『でも……ここは地獄の底。私が、私たちが一年間味わい続けた、誰にも声が届かない絶対孤独の底です。……そんな見え透いた【希望】が、私の絶望の前でいつまで保つというのでしょうか?』
詩織の瞳の奥で、ドロドロとした赤黒い殺意が猛烈に渦を巻いた。
『あなたたちは、私を見捨てた。私が教室で教科書を破られ、笑い者にされ、冷たい雨の中で助けを求めた時……あなたたちは、誰一人として私の手を握ってはくれなかった!』
詩織の怨念の声が、葛葉市を包む巨大な黒いドームの天頂に激しく反響し、暴風となって創太と葵の全身を叩きつけた。
『今さら偽善の絆を見せつけないで! あなたたちのその浅ましい希望も、綺麗事も、すべて私がこの手で粉々に解体してあげる! あなたたちが人間としての形を失い、完全に醜い化物へと成り果てるまで、極限の苦痛の中で問いを与え続けてあげます!』
詩織の激怒に呼応し、隔離都市の空を覆う黒い膜の表面から、無数の「人間の顔」が浮かび上がった。それは、この葛葉市の中で無関心を貫き、今まさに怪異に呑み込まれて消化されようとしている街の大人たちや、数万人の市民たちの苦悶の顔だった。
怪異は、すでに学校という枠を完全に超えていた。この街全体の「言葉の罪」を喰らい尽くし、詩織という一人の少女の怨念を核とした、巨大な神のような存在へと昇華しつつあったのだ。
だが、その圧倒的な神威と絶望の暴風を真正面から浴びながらも、創太の瞳の光は一ミリたりとも揺るがなかった。
「……詩織」
創太の声が、風を切り裂いて真っ直ぐに届いた。
「お前の絶望は……お前の怒りは、痛いほど分かる。俺が、そしてこのクラスの全員がお前にしたことは、決して許されることじゃない。俺はお前を助けなかった。お前の命を、見殺しにした」
創太は、自らの両足でしっかりとコンクリートを踏みしめ、血塗られた鉄パイプを胸の前に構えた。
「だからこそ……俺たちは、もう逃げない。お前が世界を恨み、この街を呑み込もうとするなら、俺は……俺の命と引き換えにしてでも、お前のその絶望のロジック(問い)を真っ向からすべて論破して、お前を止める!」
背中の葵が、失われた右腕の激痛に耐えながら、創太の背中に自らの額を押し当てた。彼女の左手が、創太の制服の裾を強く、固く握りしめる。声は出ずとも、その圧倒的な存在感と命の熱が、創太の覚醒した耳に『私も一緒に戦う!』という無言の咆哮となって鳴り響いていた。
『――ふふ。愚かな。すでに肉体が崩壊しかかっている化物の分際で』
詩織が玉座から立ち上がった。彼女の足元から、底知れぬ赤黒い血の海が屋上へと一気に溢れ出し、創太と葵の足首までを波打って浸していく。
『いいでしょう。……これが、最後の宴です』
カチッ……!
世界を包み込む黒いドームの壁面全体から、これまでとは次元の違う、巨大な機械時計の歯車が噛み合う音が鳴り響いた。
ガゴォォォォォォンッ!!!!
それは、数千、数万もの死の歯車が、一斉に逆回転を始める破滅の音。
『さあ、始めましょう。私とあなたたちの、世界(街)の命運と、人間の形を懸けた……【最終問答】を』
創太の顔面を覆うハサミとガラスが軋み、葵の顔を覆う黒い根が脈打つ。タイムリミットは、限界のその先まで迫っている。
残された猶予は数分。その数分の間に、怪異の放つすべての「言語の罠」を潜り抜け、詩織の怨念の心臓を撃ち抜かなければ、二人は完全に怪物と化し、葛葉市はこのまま永遠の闇へと消滅する。
創太は鉄パイプを強く握り直し、葵は血塗れのノートを胸の前に構えた。
二人の生還の誓い。それは今、世界を取り戻すための最後の反逆の刃となって、漆黒の夜空に研ぎ澄まされていた。




