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言葉に喰われた街の、逃げられない問い  作者: solune


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第32話:『凶刃の理由』

葛葉(くずは)市全体を包み込む巨大な黒い肉のドーム。その漆黒の閉塞感に閉ざされた夜空の下、旧校舎の屋上には、外界の音を完璧に削ぎ落とされた不気味な静寂と、地下の深淵から絶え間なく吹き上がってくる生の血肉の腐敗臭が重く淀んでいた。


屋上の中央に太い根を深く引き込み、天空の黒い膜へと無数の幹を伸ばす『黒い大樹』。その幹の内部で半透明な樹液に浮かぶ鳴海詩織の残影は、冷たく透き通った瞳で、眼下に残されたたった三人の人間を見下ろしていた。


「カチ……カチ……カチ……カチ……」


大樹の奥深くから響く死の歯車音が、静かに、しかし狂暴な音圧を増しながら回転速度を上げ始めていた。屋上のコンクリート床の亀裂からは、黒い粘液がじわじわと滲み出し、風に舞う血の斑点を赤黒く濡らしていく。


その死の律動に引きずられるようにして、地を這っていた西条拓海の身体が、奇怪な引きつけを起こして激しく痙攣し始めた。


「ヒ……ヒヒッ……あはははははっ……!」


血の泡を吐きながらのたうち回っていたはずの西条の破れた唇から、乾いた狂気の笑い声が漏れ出た。


「そうだ……そうだよ……! 分かった……分かったぞ神谷ぁぁぁっ!」


ズズズ……チチチチチ……!


西条のくの字に折れ曲がった右腕と、垂直に引き裂かれた腹部の傷口から、黒い根の細い芽が何十本も同時に突き出し、彼の壊死しかけた筋組織と砕けた骨を強引に縫い合わせるようにして蠢いた。


手当てもなく放置されれば数分のうちにショック死するはずだった西条の身体。だが、絶望的な死への恐怖と、他人を踏み台にしてでも生き残ろうとする凄惨な自保心に狂った彼の脳髄に、怪異の黒い粘液が直接注ぎ込まれ、彼の死にかけた肉体を疑似的な過剰興奮状態(オーバードライブ)へと強引に引き上げていたのだ。


西条は血と泥に塗れたコンクリートを左手で力任せに叩きつけた。骨が不自然な摩擦音を立てるのも構わず、がががっと膝を擦り合わせながら、ゆらりと身体を立ち上がらせていく。


彼の見開かれた両目の瞳孔は完全に開ききり、血走り、白目の部分は赤黒い毛細血管の破裂によってドロドロに潰れていた。腹部の破裂した傷口から覗く紫色の内臓が、黒い根によって生々しく吊り下げられ、一歩踏み出すたびにポタポタと赤黒い体液をコンクリートの上へ撒き散らす。


「西条……お前、まだ立つ気か……!」


神谷創太は背中の刺創に走る激痛に歯を食いしばり、白石葵を自分の背後に庇いながら、血塗られた鉄パイプを構え直した。


創太自身の身体もまた、限界を遠くに超えていた。


正解を重ねるたびに体内に蓄積されていった「言語の毒」は、彼の顔面を確実に怪物へと変貌させていた。右頬の皮膚からは長谷川さくらのハサミの鋭利な刃先が肉を突き破って露出し、額の皮膚の下では渡辺大樹の沸騰した血液が泥のようにグツグツと不気味な泡を立て、左目の周囲は水野結衣の色彩豊かなステンドグラスの破片で隙間なく埋め尽くされ、首筋から胸元にかけては菅原の無数の金属針が毛穴からハリネズミのように突き出していた。息を吸うたびに、背中に刺さったステンドグラスが胸郭の内側を削り、体内の血液が絶え間なく溢れ出している。


創太の背中で息を潜める白石葵もまた、痛々しい惨状の中にいた。


回転ノコギリ刃に自らの右手と腕を差し出し、創太に思考時間を稼ぎ出した彼女。その右腕の肉と皮はズタズタに引き裂かれ、剥がれた指の爪と、断切された血管から溢れ出る生血が創太の破れた制服を絶え間なく朱に染め上げている。彼女の顔の左半分は、首筋の黒蝋から伸びた黒い血管状の紋様に覆い尽くされ、左目の瞳孔は粘り気のある漆黒の濁りに完全に呑み込まれていた。


声を奪われ、言葉を二度と紡げなくなった少女。

顔面を解体部位で継ぎ接ぎされた怪物となった少年。


だが、死の淵を踏み越えて立ち上がった西条の瞳に宿っていたのは、人間としての理性でも、怪物化した二人への戦慄でも、あるいは自らの過去に対する罪悪感でもなかった。


それは、怪異が提示する「死のゲーム」のルールを自分勝手に都合よくねじ曲げ、世界で一番醜悪な「自己救済の妄想」に憑りつかれた狂者の眼光だった。


「神谷ぁ……お前が……お前が余計な正解を知ってるから駄目なんだ……!」


西条はだらりと垂れ下がった制服の隠しポケットの中へ、血濡れの左手をゆっくりと突っ込んだ。


ジャキッ……!!


錆びついた金属が噛み合う、重く鋭い打撃音が屋上の夜風を切り裂いた。


西条の手の中に握られていたのは、かつて彼が校外の不良グループから手に入れ、クラスの男子生徒たちに見せびらかして威圧するために制服の奥底に隠し持ち続けていた、全長三十センチを超える大型の『サバイバルナイフ』だった。


黒光りする鋼鉄の刃には、これまでに殺されていった同級生たちの乾いた血液が層をなして黒くこびりつき、刃先の鋸歯(ノコギリ刃)が非常灯の僅かな赤光を吸って、凶悪な殺意をギラギラと放っていた。


「西条……ナイフだと……!?」


創太の過剰な聴覚が、西条の手の中で握り締められたナイフの柄がミシミシと軋む音、そして西条の胸の奥で早鐘のように打つ狂乱の心音を鮮明に拾い上げた。


「お前さえ……お前さえ死ねばいいんだよ神谷ぁぁぁっ!」


西条はサバイバルナイフを頭上高く構え、破れた唇から血の泡を巻き散らしながら咆哮した。


「怪異は言っただろ! 『集団問答』だ! 『正解者には人数制限がある』ってなぁっ! 今ここにいるのは俺とお前と白石の三人だ……! お前が死ねば、残された『正解の枠』は全部俺の物になる! 俺がお前を殺して、お前のノートと知恵を力ずくで奪って『最後の正解者』になれば、俺は……俺様だけは助かるんだよぉぉぉっ!」


狂気の泥沼に沈んだ西条の脳内で創り上げられた、最悪の論理破綻。


自らの手で創太を刺し殺し、その生贄(肉)を怪異へ直接捧げれば、自分は「正解者」として免罪され、この絶望のドームから生還できるという悪魔的な妄想。一年前、教室の陰で鳴海詩織を追い詰めた時と全く同じ「他者を踏み台にして自らの保身を図る」という最悪の凶行の理由が、黒光りする刃となって創太と葵へ向けられたのだ。


「葵! 後ろへ下がれ!」


創太は自らの激痛を叫びで抑え込み、葵を庇うようにして前へ一歩踏み出した。


西条の目は、もはや創太を同級生としても、人間としても見ていなかった。ただ自分が生き残るための「正解のチケット」として、そして怪異へ捧げるための「供物」としてしか捉えていなかった。


「死ねぇぇぇっ! 神谷創太ぁぁぁっ!」


西条は脚の骨が折れかかっていることも忘れ、血の海を強く蹴り上げ、凶悪なサバイバルナイフを創太の喉元目掛けて一直線に突き出してきた。


ドスッ……ガギギギギィィィンッ!!


屋上の夜風を切り裂いたのは、鋭利な鋼鉄が肉を抉り、そして金属同士が火花を散らして激しく噛み合う凄絶な衝突音だった。


「がっ……あ……ぁぁぁぁっ!?」


西条が渾身の力で突き出したサバイバルナイフの黒光りする刃先は、創太の喉元までわずか数センチのところで固直していた。


創太が両手で血塗れの鉄パイプを斜めに構え、刃の軌道を力任せに受け止めていたのだ。ナイフの背に刻まれた鋭利な鋸歯(ノコギリ刃)が、パイプの錆びついた表面をゴリゴリと削り取り、眩い火花が二人の顔面を赤く照らし出した。


「死ね! 死ね! 死ねぇぇぇっ! お前が死ねば……お前を刺せば俺が最後の正解者になれるんだよぉぉっ!」


西条の口から、血の泡と唾液が雨のように創太の顔へ降り注いだ。


正気を完全に焼き切られた西条の腕力は、怪異の黒い根によって限界を超えて駆動されていた。折れ曲がっていたはずの右腕の骨が、黒い粘液の圧力で無理やり固定され、西条は己の全身の体重と、自保心のすべてをナイフの柄へと叩きつけて押し込んでくる。


「くっ……うぁぁぁぁっ!」


創太の脚が、コンクリートの上に広がった血液と脂の膜に滑り、後方へとズルズルと後退させられた。


足元が崩れ、背中に深々と突き刺さったままのステンドグラスの破片が、西条の強烈な圧力を受けてさらに胸郭の奥深くまで沈み込んだ。


チチチチ……ガコッ!


創太の肋骨が嫌な音を立てて軋み、彼の口から熱い血液の塊がガボッと吐き出された。視界が真っ赤に染まり、頭骨の奥で過剰な聴覚が悲鳴を上げる。


「神谷……お前は……お前はただの気取り屋の傍観者だったろうがぁぁっ!」


ナイフを押し込む西条の顔面は、膨れ上がった血管と引きつった筋肉で怪物のように歪んでいた。彼の見開かれた血の眼球が、創太の顔面を至近距離で射抜く。


「お前はいつも教室の最前列でヘッドホンを付けて、俺たちのすることを見下してた! 詩織がいじめられてる時も、泣いてる時も、お前は何も言わずに知らんぷりして耳を塞いでたんだ! なのに……なんでもっともらしい顔をして正解を出してんだよぉっ! お前も同類だ! お前も俺たちと同じ、最低で汚い加害者なんだよぉぉっ!」


西条の叫び。それは、自らの身勝手な暴力を棚に上げ、他者を道連れにして死の淵から逃れようとする、最悪の自己正当化だった。


しかし、その言葉は、創太の胸の奥を鋭い刃となって深々と穿ち抜いた。


(そうだ……西条の言う通りだ……!)


創太の脳裏に、第23話で蘇った「血濡れの記憶」が鮮明にフラッシュバックした。


一年前の雨の日の放課後。助けを求めて涙を流し、自分の制服の袖を掴んできた鳴海詩織の手を、『お前の声は不快な雑音だ』と吐き捨てて力任せに振り払った自分。


自分は犠牲者でも、正義の味方でもない。西条拓海が直接的な暴力と暴言の加害者であるならば、自分は冷酷な拒絶によって彼女の最後の魂を殺した「陰の加害者」なのだ。


自分の背中に刺さったガラス片の痛みが、罪の重さとなって創太の膝を屈させようとする。


(俺は……罪人だ。俺がここで死ぬのが……因果応報なのか……?)


創太の指から力が抜けかけた、その瞬間だった。


「……っ! ……っ!」


声にならない、痛々しい息の漏れる音が、創太の耳奥に届いた。


創太の視界の端で、血塗れのノートを抱きしめた白石葵が、自らの壊死しかけた右手の手首を庇いながら、壊れた脚で創太の元へ這い寄ろうとしていた。


回転ノコギリ刃に自らの腕を突き出し、骨を削られながらも創太に一秒の思考時間を稼ぎ出した少女。顔半分を黒い根の紋様に侵食され、声を完全に奪われながらも、彼女の瞳は創太を見つめ、「創太、負けないで!」という魂の叫びを、その身全霊で放ち続けていた。


葵の瞳にあったのは、創太を責める色などではなかった。


創太が過去にどんな罪を背負っていようと、今、命を懸けて自分を守り、共にこの地獄を突破しようとしてくれている創太という存在に対する、絶対の信頼と命懸けの絆の光だった。


(そうだ……俺は罪人だ……! だが……!)


創太の心臓が、劇的な熱を帯びて打ち鳴らされた。


(俺がここで西条の狂った妄想に倒れれば……葵が殺される! 葵の自らを捨てた犠牲も、彼女が血を流して繋いでくれたこの命も、全部この男の醜悪なナイフによって踏みにじられる……! それだけは……絶対に許さない!!)


「俺は……罪人だ!」


創太は口から血を撒き散らしながら、地鳴りのような咆哮を上げた。


「俺は過去の罪から逃げない! だが……お前のその歪んだ自保心のために、葵の……葵の未来を渡してたまるかぁぁぁっ!」


ガギィィィィィィィンッ!!!!


創太の過剰な聴覚が、西条の突き出すナイフの「重心の偏り」と、彼の折れ曲がった右足の踏み込みの摩擦音を完璧に捕捉した。


創太は全身の筋組織を破裂させる勢いで駆動させ、構えていた鉄パイプを、西条のナイフの刃先に向かって下から上方へと一気にねじり上げた。


バキィンッ!


「なっ……!?」


受け止められていたサバイバルナイフの柄が、西条の握力を弾き飛ばし、旋風を巻き起こしながら上空へと撥ね上がった。


バランスを崩し、胸元を大きくガラ空きにした西条。


その一瞬の隙を、創太は見逃さなかった。


創太は鉄パイプを投げ捨て、自らの怪物化しかけた右手――第28話以降、皮膚の下から長谷川さくらのハサミの刃が何本も鋭利に突き出している自らの「異形の右拳」を、全身の体重と背中の痛みのすべてを乗せて、西条の胸元へ向かって一直線に叩き込んだ。


ドスッ!! バキバキバキバキッ!!


「ぶふっ……! あガぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


創太の拳から突出していた金属ハサミの刃先が、西条の肉と胸骨を豪快に砕き割り、彼の胸郭の奥深くまで深々と突き刺さった。


破れかけた西条の心臓と肺胞が、創太の異形の拳によって直接押し潰される凄惨な感触。


西条の口から、大量の熱い血液と千切れた肉片の塊がガボッと吹き出し、創太の顔面と胸元を赤黒く染め上げた。


「うぁぁぁぁぁぁっ!」


創太が腕を振り抜くと同時に、西条の巨体が宙を舞い、数メートル後方の屋上コンクリート床へと豪快に叩きつけられた。


ズサアアアアアンッ!!


上空へ弾き飛ばされていたサバイバルナイフが、カランカラン……と虚しい金属音を立ててコンクリートの上を滑り、屋上の端の暗闇へと落ちていった。


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁッ……!」


創太は膝を床につき、自らの血塗られた右手を見つめながら激しい吐息を撒き散らした。


胸郭を砕かれた西条拓海は、床の血の海の上でビチビチと魚のように痙攣し、破れた胸元から溢れ出る大量の血に溺れながら、見開かれた血の瞳で天井の黒いドームを見つめていた。


「あ……が……っ……俺の……俺の正解は……どこだ……っ……俺を……助けろ……っ」


西条の破れた唇から、最後まで他人を踏み台にしようとした惨めな吐息が溢れ出た。


怪異の問いを解くのではない。仲間を刺し殺して奪い取るという破綻した自己救済の妄想に囚われた男の、あまりにも惨酷で、救いのない完全なる敗北だった。


その時である。


ズズズ……ズズズズズズッ!


屋上の中央に太くそびえ立つ『黒い大樹』が、倒れた西条の身体に向かって、無数の黒い根を一斉に鞭のように突き伸ばした。


ズススススススッ!!


「ヒガぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


黒い根の群れが、倒れた西条の首、両腕、両脚、そして砕かれた胸の傷口へと容赦なく刺し貫かれた。


根は西条を救うためではない。彼の体内に残された最後の生の血液、壊死した筋肉の脂、そして彼が死の直前に撒き散らしていた醜悪な怨念のエネルギーを、ズズズ……と凄まじい音を立てて貪るように吸い上げ始めたのだ。


西条拓海の肉体は、怪異への正解者(生還者)になることなど最初から許されていなかった。


彼はただ、怪異が最終問答を起動させるための「哀れな高純度の燃料(生贄)」として、骨と皮だけになるまで吸い尽くされていったのだ。


チチチチ……ジジジジジッ!


西条の体液を吸い上げた『黒い大樹』の幹が、赤黒い光を増して不気味に発光し、幹内部の鳴海詩織の残影が、より生々しい実体を伴って浮き上がり始めた。


創太と葵の目の前で、すべてを狂わせた元犯人の惨めな終焉が訪れ、いよいよすべての因果を断ち切るための「真の最終決戦」の幕が上がろうとしていた。

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