第30話:『隔離都市』
バガアアアアアアアンッ!!!!
破砕された屋上大扉の鉄くずとコンクリートの破片が、夜の静寂の中へ激しく弾け飛んだ。
全十五段の死の連続問答階段――一歩踏み外せば大型ノコギリとギロチン刃によって脚を膝から丸ごと切断される惨劇の山。葵が自らの腕を旋盤の刃へと突っ込み、骨と肉を噛み合わせることで得た「一秒の猶予」と、二人の狂おしいまでの絆によってその難所を突破した創太と葵は、叩きつけられるようにして屋上の硬い床へ倒れ込んだ。
「ハぁ……ハぁ……ハぁ……ハぁッ……!」
神谷創太は血塗られたコンクリートに両肘と膝をつき、胸の奥から押し寄せる血液の塊を床へ激しく吐き捨てた。
背中に深々と刺さったままのステンドグラスの破片は、呼吸を繰り返すたびに肋骨の隙間を削り、体内の血液が破れかけた袋のように止まることなく溢れ出ていた。創太の身体は、すでに「人間」としての原型を留めていない。右頬の皮膚からは長谷川さくらのハサミの鋭利な刃先が肉を突き破って露出し、額の皮膚の下では渡辺大樹の沸騰した血液が泥のようにグツグツと泡立ち、左目の周囲は水野結衣の色彩豊かなステンドグラスの破片で隙間なく埋め尽くされ、首筋から胸元にかけては菅原の無数の金属針が皮下からウニのように突起していた。
創太の胸の中で、白石葵が自らの身体を小さく丸め、声帯の途絶えた喉から激しい苦悶の喘鳴を漏らしていた。
回転ノコギリ刃に自らの右手と腕を差し出し、創太に思考時間を稼ぎ出した彼女。その右腕の肉と皮はズタズタに削ぎ落とされ、剥がれた指の爪と、断切された血管から溢れ出る生血が創太の破れた制服を絶え間なく朱に染め上げていた。彼女の顔の左半分は、首筋の黒蝋から伸びた黒い血管状の紋様に覆い尽くされ、左目の瞳孔は粘り気のある漆黒の濁りに完全に呑み込まれている。
声を奪われ、言葉を二度と紡げなくなった少女。
顔面を犠牲者たちの解体部位で継ぎ接ぎされた怪物となった少年。
二人は生き延びた。2年B組の生徒総勢三十余名が次々と惨殺され、肉塊へと変えられていった惨劇の中で、たった二人だけの生存者として、この屋上という名の最終地点へと辿り着いたのだ。
「葵……葵……聞こえるか……っ!」
創太は自らの歪んだ右手で、葵の力なく揺れる肩を必死で引き寄せた。
地下廊下を埋め尽くしていた腐肉の脂と生の血液、そして強酸の焦げ付くような不快な激臭が、屋上へ吹き込む夜風によって一瞬にして吹き散らされていく。澄んだ風が、創太の血濡れた皮膚を冷たく叩いた。
葵はかすかに目を開け、傷ついた右腕を庇うように抱えながら、左手で創太の痛々しく変質した頬へそっと触れた。声を出すことはできない。しかし、彼女の濁りかけた瞳の奥には、幾多の死線を共に突破してきた者だけが共有する、深く強固な信頼の光が静かに宿っていた。
「助かったんだ……俺たち……外へ出て、この地獄を……」
創太は血の混ざった唾液を拭い、膝を震わせながら身体を起こした。
屋上の鉄製フェンス越しに広がるはずの葛葉市の街並み、そして見上げるはずの夜空。地下の暗闇から這い上がり、ついに学校という閉鎖された箱庭を抜け出して、外の世界と境界を接する場所へ辿り着いたという安堵が、一瞬だけ創太の胸をかすめた。
しかし――。
創太が頭上を仰ぎ見、フェンスの向こう側を凝視した瞬間、彼の全身の血液が、心臓ごと氷漬けにされたかのように凍りついた。
「な……んだ……これは……!?」
創太の口から、絶望に満ちた掠れ声が漏れ出た。
夜空が存在しなかった。
見上げるべき満天の星も、夜空に浮かぶはずの月も、そこには一切存在していなかった。
校舎の屋上の真上――上空数千メートルの天頂を覆い尽くしていたのは、何千、何万という黒い巨大な血管がドクドクと収縮を繰り返し、ヌラヌラとした赤黒い粘液を吐き出し続ける、巨大な『黒い肉のドーム(天頂)』だった。
「あ……あぁぁ……っ!?」
創太は這いずるようにして屋上の鉄製フェンスへとすがりつき、指先が白く変色するほどの力で血濡れた鉄柵を掴み、眼下に広がる葛葉市の全景を見下ろした。
街の灯りが、どこにもなかった。
本来なら、この屋上からは葛葉市の穏やかな住宅街の灯火、遠くを一直線に走る国道バイパスの車のヘッドライト、夜間営業のロードサイド店舗が放つ賑やかなネオン、そして遠方の隣市へと続く街灯の光の帯が一望できるはずだった。
だが、創太の目の前に広がっていたのは、黒い漆黒の泥の中に沈み込んだ、完璧に死に絶えた都市の廃墟だった。
私立稜ヶ丘高校を中心として、葛葉市の市界(外縁部)――東西南北数キロメートルにおよぶ行政境界線の全周を取り囲むように、地表から空へ向かって、肉と油膜でできた厚さ数十メートルもの『黒い壁の膜』が、円劫の壁となって巨大なドームを描き、市全体を完璧に包み込んでいたのだ。
その黒いドーム状の膜は、まるで巨大な化物の内部臓器のように、ドク……ドク……ドク……と地鳴りのような重低音を響かせて収縮を繰り返し、葛葉市という都市そのものを、世界から切り離して丸呑みにしていた。
「街が……葛葉市が……丸ごと封鎖されている……!?」
創太の爪が鉄製フェンスの金属を激しく削り、キーキーと嫌な摩擦音を立てた。
創太の覚醒した「過剰な聴覚」が、極限の集中によって葛葉市の市界(境界線)へと意識を無差別に拡張させていく。
キィィィィィン……サワサワサワ……。
創太の耳が拾い上げたのは、葛葉市と隣市を分かつ「市境界線」の全域で起きていた、凄惨極まりない物理的切断の音だった。
国道バイパスの境界線。地表から黒い膜が突き生えたその瞬間、そこを時速数十キロで走行していた長距離トラックや乗用車が、膜の鋭利な空間境界によって一瞬で真っ二つに切断されていた。車体の前半部分は隣市(外界)へ抜け出せたものの、後半部分は葛葉市側の黒い膜の内部へ取り残され、切断面から高熱のガソリンと搭乗者の血液を大量に垂れ流して沈黙していた。
葛葉市を横断する川の水流も、鉄路の線路も、地中に埋設された高圧送電線や通信の光ファイバーケーブルも、すべてがその黒いドーム状の粘膜によって物理的に切り断たれていた。
外界からの音は、何一つとして届かなかった。
隣市の生活の喧騒、遠くを走る列車の踏切音、外界から吹き込む風の音。それらすべては黒い膜の厚い遮音壁によって遮断され、このドームの内側に存在するのは、葛葉市という死の空間の中で響く、怪異の不気味な脈動音だけだった。
「葛葉市は……外界から……消滅させられたんだ……」
創太の膝から力が抜け、血みどろのコンクリート床へ打伏するように崩れ落ちた。
学校の中だけが異界化したのではなかった。
一年前、鳴海詩織が受けた集団暴力、そして学校の教師や街の大人が見せた冷酷な隠蔽と無関心。その「街全体の罪」を吸い上げた怪異は、学校という閉鎖空間を食い破り、葛葉市という都市そのものを日本地図から、この世界から物理的に切り離し、完全に外界から消滅させていたのだ。
自分たちが学校の校舎から逃げ出したところで、行く場所など最初からどこにも存在しなかった。
この黒いドームの壁を越えて外の世界へ出ようと試みれば、あの市境界線で真っ二つに切断された車のように、自らの肉体を二つに削ぎ落とされて即死する以外に道はないのだ。
「そんな……そんなのって……ないだろぁぁぁぁぁっ!!」
創太は自らの血濡れた拳でコンクリートを何度も叩きつけ、血の涙を零して咆哮した。
2年B組のクラスメイト全員の凄惨な解体と死亡。
葵の失声と右腕の惨劇。
自らの肉体の怪物化。
それらすべての凄惨な犠牲を払い、死の連続問答階段を突破して辿り着いたこの屋上で突きつけられたのは、「自分たちの生きるべき世界そのものが消滅している」という、あまりにも絶望的な最終宣告だった。
声を奪われた葵が、床を這うようにして創太の隣へ寄り添い、自らの細い左腕で創太の震える首元を強く抱きしめた。
彼女の顔の左半分を覆う黒い根の紋様が、赤光を浴びて不気味に蠢いている。葵もまた、境界線を埋め尽くす黒いドームの全貌を目撃し、その瞳に底知れぬ絶望の色を浮かべていた。
だが、葵の残された手は、決して折れてはいなかった。
彼女は傷ついた右手の手首を庇いながら、血塗られたノートを開き、左手で力任せにペンを握り締め、創太の目の前へ【血の言葉】を叩きつけた。
『創太、見て! 街が消えても、私たちが消えたわけじゃない!』
『ここが世界の一番底なら、この元凶を倒して、私たちが街と世界を取り戻せばいい!』
『私を……私を最後まで信じて! 創太と一緒に、生きて元の世界へ帰るんだからぁぁぁっ!』
破れかけたノートのページに刻まれた血の文字が、絶望の夜空の下で力強く脈動していた。
外界が消えようと、街が呑み込まれようと、この少女は諦めていなかった。声を失い、身体を毒に冒され、右腕を傷つけられながらも、彼女の魂は創太と共に生き抜くことを、失われた街と世界を取り戻すことを強く選択していたのだ。
ノートの文字を見つめた瞬間、創太の胸の奥で萎みかけていた最後の火種が、激しい劫火となって一気に燃え上がった。
(そうだ……! 街が消されたなら、この呪いの元凶を叩き潰して、俺たちの世界を力ずくで引き戻すしかない!)
創太は自らの舌を強く噛み切り、吐血とともにゆっくりと立ち上がった。
「そうだな……葵……! 俺たちは絶対に諦めない!」
二人が固く手を取り合い、向き直ったその瞬間――。
屋上の中央のコンクリート床が、地鳴りのような凄絶な振動とともに豪快に爆砕した。
バガガガガガガガガガッ!!!!
屋上のコンクリートを突き破り、旧校舎の全フロアを縦貫して伸び上がってきた「黒い根の主脈」の全てが、一本の巨大な『黒い大樹(心臓の幹)』となって、漆黒のドーム天頂へ向かって威容を誇るようにそびえ立った。
その巨大な黒い樹幹の内部――半透明の黒い樹液の奥に、一人の少女の残影が漂っていた。
切り裂かれた制服、ボサボサの髪、そして胸元を太い根で貫かれた少女――鳴海詩織の本尊の核。
黒い大樹の幹全体が、巨大な樹木状のスピーカーとなって、葛葉市全体へ響き渡る大音量の声を吐き出した。
『――ふふ。よくぞ辿り着きましたね……外界から消えた、言葉の棺桶へ』
本尊の声が、葛葉市を包む黒いドームの天頂に反響し、地鳴りとなって二人へ降り注ぐ。
『ここが、あなたたちの罪の行き着く果てです。……さあ、最後の「問答」を始めましょう。あなたたちの存在そのものを、この街とともに解体するために』
黒い大樹の周囲で、無数の黒い根が鋭利な爪となって蠢き始め、夜風を切り裂いた。
怪物化の侵食に耐える少年と、声を失い腕を傷つけられた少女。
ふたりは血濡れた手を固く握り締め、黒い大樹の幹で揺れる少女の残影を見据えながら、その漆黒の静寂の中へと踏み出していった。




