第29話:『屋上への階段』
地下洗面所の古びた鏡に映し出されていたのは、人間の尊厳を根底から打ち砕く悪夢の造形だった。
右頬から突出し、皮膚を内側から引き裂く長谷川さくらのハサミの刃。額の皮膚下で泥のように煮え滾る渡辺大樹の沸騰した血液。左目の周囲を埋め尽くし、瞬きのたびにチリチリと不気味な擦れ音を立てる水野結衣のステンドグラス片。そして首筋から胸元にかけて皮下で逆立ち、毛穴から赤黒い血を滲ませる菅原の無数の金属針――。
創太の顔面は、これまで死んでいった2年B組の犠牲者たちの惨酷な解体部位が継ぎ接ぎされた、おぞましい「言語の怪物」へと変貌を遂げつつあった。
隣に立つ白石葵の容姿もまた、人間としての境界線を踏み越えかけていた。彼女の首筋を覆う黒い熱蝋の固まりから、植物の根に似た黒紫色の細い脈線が、顔の左半面へと目に見える速さで網目のように這い上がっている。左目の瞳孔は粘り気のある黒い濁りに呑まれ、その美しかった素肌は異界の毒によって侵食されていた。
しかし、自分たちの肉体が怪物化へ向かってカウントダウンを刻んでいる恐怖の真っ只中で、声を奪われた少女は爪の剥がれた血の手でノートを抱きかかえ、血の文字でこう叩きつけたのだ。
『顔が歪んでも、姿が変わっても……創太は創太だよ! 私は私だよ!』
その言葉が、創太の崩壊しかけていた正気を、繋ぎ止めた。
「ふぅ……ハぁ……ッ!」
創太は自らの歪んだ右手で葵の冷たい手をしっかりと握り返し、地下最深部の『死儀の奉納室』へと至る廊下の突き当たりに立っていた。
目の前にそびえるのは、旧校舎の底に隠されていた、全高三メートルを超える重厚な黒鉄の扉だった。しかし、その扉は開かれることを頑なに拒んでいた。壁の内部から噴出した何十本もの太い黒い血管状の根が、まるで巨大な鎖のように扉の表面を何重にも巻きつけ、油膜を張った粘膜で隙間なく固着させていたのだ。創太が血塗られた鉄パイプを力任せに打ち込んでも、カンカンと虚しい金属音が弾け飛ぶだけで、根の表面に傷一つ付くことはなかった。
「だめだ……この扉は、物理的な力で外から破れる代物じゃない……」
創太は吐血しながら、自らの覚醒した「過剰な聴覚」に意識を集中させた。
キィィィィィン……ドク、ドク、ドク、ドク……!
創太の耳が拾い上げたのは、扉を縛り上げる無数の黒い根が、どこへ向かって伸び、音と殺戮のエネルギーを吸い上げているかという「主脈の潮流」だった。
太い根の束は、奉納室の扉から始まり、旧校舎のコンクリートの壁の骨組みを縦貫して、上階へ、さらに上階へと向かって、巨大な樹木の幹のように太さを増しながら伸び上がっていた。
その主脈が辿り着いている終着点。
それは、地下でも、一階でも、教室でもなかった。
旧校舎の最上階――かつて校舎で唯一、空へと開かれていた『屋上への階段』、そしてその先に佇む『屋上扉』だったのだ。
「屋上……!」
創太の脳裏に、一年前のあの日、夕暮れの校舎の光景が鮮明に蘇った。
鳴海詩織が二階の窓から校庭へ身を投げ、自らの命を絶つ直前。彼女が一人、教科書を破られ、服を切り裂かれた状態で、呆然と空を見上げながら佇んでいた場所。学校という閉塞した地獄の中で、唯一彼女が「外の世界(死)」と境界を接していた聖域。
怪異は、自分たちの罪のエネルギーをその屋上へと集積させ、校舎を覆う黒い膜を突き破って、外界全体へ殺戮の領域を拡張しようとしていたのだ。
「行くぞ……葵……! 屋上へ向かう!」
創太は葵をしっかりと背負い直し、血の海と化した地下廊下を蹴って、旧校舎の中央階段へと取って返した。
一階、二階、三階――。
階段を駆け上がるにつれて、周囲の異様さは密度を増していった。壁のコンクリートはペラペラと剥がれ落ち、内部の赤い肉層がむき出しになってドクドクと不快な脈動を繰り返している。踏み出すステップごとに、固まりかけた人間の脂と血液が上履きの底にまとわりつき、嫌な吸引音を立てた。
そして、三階の奥。通常なら生徒の立ち入りが禁止され、頑丈な鉄格子で施錠されているはずの「屋上出口への階段前」へと辿り着いた時、創太の全身の毛穴が一斉に逆立った。
ギギギギギギギギギギギギッ!!!!
創太の耳が捉えたのは、空間そのものが「物理的な切断兵器」へと書き換えられていく、破滅的な構造変化の音だった。
屋上へと続く、全十五段の石造りの階段。
その階段の一段一段のステップ(踏み面)の表面から、まるで巨大なギロチンの刃のように研ぎ澄まされた、ギラギラと光る鋼鉄の鋸歯状の刃が、メリメリと音を立てて突出し、階段全体を刃の山へと変貌させていたのだ。
それだけではない。
各段の左右の壁面からは、人間の太ももを一瞬で骨ごと叩き切るような、巨大な「回転ノコギリ刃」や「肉切り包丁の振り子刃」が、油を挿された機械のように重い駆動音を上げて作動準備を整えていた。
さらに、全十五段の階段の最上階――屋上扉の真前には、壁の黒い根にぐるぐる巻きにされた巨大な「死の時計」が鎮座し、その振子自体が幅五十センチを超える三日月状の巨大ギロチン刃となって、左右に猛烈な速度で大振りに揺れていた。
「な……んだ……この階段は……!?」
創太の喉から、血の混ざった呻きが漏れた。
アンプもスピーカーもないはずの階段の空間全体が、コンクリートと肉壁を直接振動させ、あの鳴海詩織の濡れた声で大音量で叫び始める。
『――ふふ。逃げる罪人たち。天国(屋上)へ登りたいのですか?』
声は、全十五段のギロチン刃に反響し、狂気を含んで二人を威嚇する。
『この階段は、あなたたちが詩織さんを言葉の暴力で追い詰め、一段ずつ奈落へ突き落とした『罪の階段』です。……一段上るごとに、一つずつの問いを解きなさい』
カチ、カチ、カチ、カチ――!
最上階の死の時計が、狂ったような速度で逆回転を開始した。
『一問につき、制限時間は三秒!……問いに答えられず足を踏み外すか、誤答した瞬間、その段のギロチン刃が作動し、あなたたちの足を膝から丸ごと切断します!』
「三秒で一段……!? 全十五段の連続・足切断問答かぁぁっ!」
創太が喉を引き裂くような声を上げた。
全十五段。一段上るごとに、わずか三秒という殺人的な短時間で「問い」が出題される。一問でも思考が遅れるか、あるいは言葉の整合性を外せば、その段の刃が脚を膝から叩き切り、創太と葵は血の海へ転がり落ちて怪物化の泥の中で自壊する。
「葵! 俺の背中にしっかり捉まってろ! 一瞬でも足の踏み場を誤れば終わりだ!」
創太は葵を抱え上げるようにして庇い、一段目の刃の立ち立つステップの前へと踏み出した。
死のカウントダウンが、第一段の踏み面からドクドクと血を吹き出しながら始まった。
『――第一段!』
『一段目の鋭い刃と掛けまして、あなたたちが詩織さんに放った【冷たい言葉】と解く! その心は!? 制限時間、三秒! 三、二――』
「正解は! 『どちらも、触れた者の肉(心)を容赦なく切り裂き、血を流させる』だぁぁぁっ!」
ガギィンッ!
第一段のギロチン刃が、正解の判定とともに一瞬だけ刃を引っ込めた。
「次だぁぁぁっ!」
創太は激痛の走る脚で第二段へ跳び移った。
ッッバシャアアンッ!!
第二段へ足を着降させた瞬間、即座に次の問いが頭上から叩きつけられた。
『――第二段!』
カチカチカチッ!
『二段目の階段のグラグラした不安定さと掛けまして、詩織さんの奪われた居場所と解く! その心は!? 制限時間、三秒! 三、二――』
「正解は! 『どちらも、いつ崩れ落ちて奈落へ落ちるか分からない恐怖に晒されている』だぁぁぁっ!」
ガギィンッ!
第二段の刃が引っ込み、創太は間一髪で第三段へ跳び移る。
三秒の狂気。
一歩でも躊躇えば、三段目の脇から飛び出した大型ノコギリが創太の太ももを骨まで引き裂く。創太は目角から血を流し、脳の血管を破裂させながら、過剰な聴覚で怪異の提示する概念の核(重なり)をコンマ一秒の速度で読み解き、叫び続けた。
『――第三段! 制限時間、三秒!』
「正解は! 『どちらも、相手の存在を根底から否定し、跡形もなく消し去ろうとする』だぁぁぁっ!」
ガギィンッ!
『――第四段! 制限時間、三秒!』
「正解は! 『どちらも、一度放たれれば二度と取り消すことができず、相手を死へ追いやる』だぁぁぁっ!」
ガギィンッ!
第五段、第六段、第七段、第八段――!
階段を一段上るごとに、左右の壁から突き出た肉切り包丁の振り子刃が、創太の髪や制服の生地をミリ単位の掠れでかすめて通り抜ける。創太の脚はすでに限界を超えていた。背中の刺創からの出血と、顔面の怪物化による激痛で視界が真っ赤に染まり、一歩足を踏み出すたびに膝の皿が割れるような激痛が走る。
背中にしがみつく葵もまた、全血の消耗と首筋の黒蝋の圧迫で、創太の肩で荒い吐息を漏らしていた。
だが、葵は声を出す代わりに、自らの血の手で創太の首をしっかりと抱き締め、創太が正解を叫ぶたびに、その小さな頭を創太の頬へ強く押し当てて「創太、いけるよ!」という魂の振動を創太の耳へ直接伝え続けた。
葵の体温と鼓動。それが、創太の崩壊しそうな正気を繋ぎ止める唯一の燃料だった。
『――第九段! 制限時間、三秒!』
「正解は! 『どちらも、多数派の暴力によって弱者を一方的に踏みにじる』だぁぁぁっ!」
ガギィンッ!
第十段、第十一段、第十二段、第十三段――!
ついに残り、あと二段。
創太の口から大量の血が吹き出し、脚の筋肉が引きちぎれるような悲鳴を上げた。過剰な聴覚が脳内でキィィィンと高圧の悲鳴を上げ、視界の半分が黒い斑点で覆われていく。
階段の最上階、第十四段へ足を着けたその時だった。
怪異の殺意が、これまでのルールすら無視して狂暴に跳ね上がった。
『――第十四段!』
カチカチカチカチカチカチッ!
最上階の死の時計の振り子刃が、凶悪な旋風を巻き起こしながら創太の首元目掛けて振り下ろされてくる。
同時に、第十四段の左右の壁から、これまでで最も巨大なダブルの回転ノコギリ刃が、ギュイィィィン! と凄絶な高回転音を上げて突出してきた。
『第十四段のノコギリ刃と掛けまして、【白石葵が詩織さんの声を黙殺した罪】と解く! その心は!? 制限時間、一秒! 一――』
「一秒……!? 思考時間が……存在しない……っ!」
創太の叫びが喉で詰まった。一秒。言葉を構築する時間など物理的に存在しない。
ダブルの回転ノコギリ刃が、創太の背中に背負われた葵の脚目掛けて、一気に迫る。このままでは葵の脚が膝から丸ごと叩き切られる!
その瞬間――!
創太の背中で、声を奪われていたはずの白石葵が、自らの命のすべてを賭して動いた。
葵は自分の爪の剥がれた血の手を、回転するノコギリ刃の隙間へと自ら力任せに突っ込んだのだ!
ガコォォォンッ!!
「あ……が……っ!?」
葵の痛々しい悲鳴すら出ない口から、激しい血の泡が飛び散った。
葵の右手の骨と肉が、ノコギリ刃の歯車を物理的に噛み合わせ、刃の回転を命がけで一瞬だけ「ロック(停止)」させたのだ! 噴き出す彼女の赤黒い鮮血が、第十四段のステップを激しく濡らす。
葵は自らの腕を犠牲にして、創太に「一秒の思考時間」を稼ぎ出したのだ!
「葵ーーーッ!!」
創太の瞳から、血の涙が噴き出した。
葵の命懸けの犠牲。その血の叫びを、創太の過剰な耳が完璧に拾い上げた。
「正解はぁぁぁっ! 『どちらも、声(存在)を物理的に切り裂き、二度と響かないように永久に沈黙させる』だぁぁぁぁぁっ!」
静寂。
ガギギギギギィィィンッ!!!!
第十四段のダブルノコギリ刃と、死の時計の振り子刃が一斉に狂ったように粉砕され、金属の破片となって階段全体へ爆発的に弾け飛んだ。
「最終第十五段ぇぇぇぇぇっ!」
創太は葵の傷ついた身体をしっかりと抱き抱え、最後の十五段目の刃のステップを跳び越え、屋上の大扉へと体当たりをかました。
バガアアアアアアアンッ!!!!
重厚な屋上扉が外側へ豪快に蹴破られた。
突風。
二人の全身を包み込んだのは、地下の死臭と腐肉の匂いを一瞬で吹き飛ばす、冷たく、澄み切った「外の夜風」だった。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は屋上のコンクリートの上へ倒れ込み、血塗れの葵を抱きしめた。
全十五段の死の連続問答階段。
葵の腕の犠牲と、二人の狂おしいほどの絆によって、ついに完全突破を果たしたのだ!
しかし、二人が辿り着いた屋上に広がっていたのは、救いなどではなかった。
葛葉市の街全体を覆い尽くす、巨大な黒い膜。
そして、屋上の中央で、夜空に向かって無数の黒い根を蠢かせ、世界を侵食しようとしている『鳴海詩織の怨念の真の本尊』が、その全貌を二人に見せつけようとしていた。




