第28話:『鏡の中の顔』
体育館での破滅的な超高速問答、そして創太の脳髄を直接切り刻むような洗脳の嵐を突破した二人は、重く引きずられるような足取りで、地下のさらに奥深き通路へと逃げ延びていた。
足元を埋め尽くしていた血の海は、ここへ至ってドロドロとした黒い泥状の粘液へと変わり、踏み出すたびにズズズ、ズズズと嫌な吸引音を立てて上履きの底を呑み込もうとする。壁一面に張り巡らされた黒い血管状の根は、もはや建物の構造を完全に侵食し、まるで生き物の胎内の壁のようにヌラヌラとした赤黒い光沢を放ちながら、重低音の脈動を繰り返していた。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
神谷創太は、背中の刺創からの耐え難い痛みに絶え間なく襲われ、血塗られた壁に右肩を強く打ち付けた。
破れた制服の隙間からは、絶えず温かい血が伝い落ち、すでに皮膚と生地が固まった血液によって不気味に固着している。両耳の穴からは今なお細い血の筋が顎を濡らし、過剰な聴覚は覚醒を遂げたものの、過負荷による激しい耳鳴りと高熱が創太の意識を激しく揺さぶっていた。
隣で創太の腰を支える白石葵の容態も、極限に達していた。
怪異の不整の代行としてその喉に注ぎ込まれた熱い黒蝋。硬化したその黒紫色の塊は、彼女の首筋全体を覆うまでに不気味に隆起し、彼女からあらゆる息の音や声帯の微動を奪い去っていた。自らの爪を剥がしながらノートに血の文字を叩きつけ、創太の洗脳を打ち破った彼女の右手の指先は、痛々しく腫れ上がり、だらりと力なく垂れ下がっている。
「葵……少し……身を隠そう……」
創太は枯れ果てた声で呟き、通路の脇にぽっかりと開いた古い扉へ視線を向けた。
プレートの文字は削れ落ちていたが、湿ったアンモニアの臭いと、錆びついた鉄パイプの臭気から、そこが旧校舎地下の『男子トイレおよび洗面所』であることが窺えた。
体育館の巨大な腫瘍から一時的に距離を置き、体勢を立て直すためのわずかな猶予。二人は傾いた扉をすり抜け、滑り込むようにしてその狭い空間へと逃げ込んだ。
ギシ……と嫌な音を立てて扉が閉まり、外部の重苦しい脈動音が、薄皮を隔てたかのようにわずかにくぐもる。
室内は、不快な湿気とカビ、そして何年もの間密閉されていた排水溝の悪臭で満ちていた。月光すら届かない完全な漆黒の中、非常灯の消えかかった赤光だけが、壁に並んだ古びた陶器製の小便器や、手洗いの洗面台を赤黒く浮かび上がらせている。
「ふぅ……っ……!」
創太は葵を洗面台の横にあるコンクリートの段差へそっと座らせ、自らも膝を折り、血の混ざった唾液を吐き捨てた。
葵は血塗られたノートを抱え、震える指先で鉛筆を握り直そうとしたが、剥がれた爪の激痛に顔を歪め、鉛筆を床へ落としてしまった。カラン……と静かな音が洗面所に響く。
葵の瞳から、悔しさと申し訳なさの混ざった大粒の涙が零れ落ちた。
創太はすぐにその落ちた鉛筆を拾い上げ、葵の手へ優しく戻した。
「無理に書かなくていい、葵。お前が俺に伝えてくれた言葉は……全部、俺のこの耳と心に刻まれている」
創太は自らの手のひらで葵の冷たい頬を包み込んだ。葵は愛おしそうに創太の手のひらに自分の顔を寄せ、声の出ない口元でかすかに呼吸を整えた。声を失ったことで、かえって二人の間の言葉を超えた絆は、研ぎ澄まされた光となって静かに暗闇を照らしていた。
創太は立ち上がり、目の前にある古びた陶器製の洗面台へと向き直った。
蛇口は錆びつき、緑青がびっしりと浮き出ていた。創太が握りを力任せに捻ると、ギギギ……と不気味な金属音が響き、管の奥から濁った水がドバッと吐き出された。出てきた水は澄んだ水ではない。赤錆と、どろりとした固まりかけの血液が混ざり合った、生温かい赤黒い液体だった。
それでも創太は、手のひらにその濁った水を溜め、自らの血と汗で汚れた顔面へ乱暴に叩きつけた。
冷たさと生臭さが同時に皮膚を刺し、激痛とともに麻痺しかけていた意識が無理やり覚醒させられる。
創太が濡れた顔を上げ、洗面台の正面に置かれた「大きな一枚鏡」を見上げた、その瞬間だった。
鏡は長年の湿気で端が黒く変色し、斜めに大きな亀裂が走っていた。
だが、非常灯の赤光を浴びて鏡に映し出された自らの顔を見つめた創太の全身の血が、一瞬にして凍りついた。
「な……んだ……これは……!?」
創太の喉から、声にならない戦慄の呻きが漏れ出た。
鏡の表面の奥――亀裂の入ったガラスの向こう側に、自らの反射光に重なるようにして、一人の少女の姿が、ぬうっと浮かび上がっていたのだ。
ボサボサの黒髪、切り裂かれた制服、そして……顔面全体に無数のハサミや針、破れた紙切れが突き刺さり、両目のくぼみから赤黒い血の涙をダラダラと流している少女。
一年前、この学校の二階の窓から校庭へ身を投げ、命を絶った少女――鳴海詩織。
彼女の怨念の顔が、鏡の奥から静かに、そして狂おしいほどの憎悪を込めて、創太を凝視していた。
鏡の中の詩織の口が、裂けた傷口から血の泡を吹き出しながら、静かに開き始めた。
ジジ……ジジジ……。
スピーカーもない古い洗面所の空気が直接振動し、詩織の死んだ声が、創太の耳元で直接囁くように響き渡る。
『――ふふ。自分の『本当の顔』が見えますか……神谷創太くん』
『――自分だけは清らかな傍観者だと思っていたのですか?』
鏡の奥の鳴海詩織の顔が、歪んだ嘲笑を浮かべた。
「詩織……っ!」
創太は思わず一歩後退り、洗面台のフチを強く握りしめた。
だが、詩織の言葉の意味は、直後に訪れた真の戦慄によって証明された。
創太は自らの顔を、洗面台の鏡へと再び恐る恐る近づけた。鏡の亀裂を越えて、そこに映し出されている自らの「現在の顔面」を、凝視したのだ。
「ひ……っ!?」
創太の口から、引きつった悲鳴が漏れた。
鏡に映っていたのは、かつての神谷創太の顔ではなかった。
創太の右頬の皮膚の下が、不味い生き物のように蠢き、その内側から無数のハサミの刃先のような突起が、皮膚を突き破らんばかりに鋭く隆起していた。それは第4話で長谷川さくらの体内から噴出したあのハサミと同じ質感だった。
さらに、彼の額の皮膚は薄く引き伸ばされ、第5話で渡辺大樹が爆破した時のように、皮膚の下で血液と脂が沸騰して赤黒く泡立っている。
左目の周囲の骨は、第7話の水野結衣のように色彩豊かなステンドグラスの破片へと変質し、瞬きをするたびにチリチリと不気味なガラスの摩擦音を立てていた。
そして、彼の首筋から胸元にかけては、第9話の菅原のように何百本もの細い金属針が皮下で逆立ち、皮膚を突き刺して血の斑点を作っていたのだ。
「俺の……俺の顔が……!?」
創太は自らの両手で顔を触った。
指先に触れるのは、人間の柔らかい皮膚の手触りではない。突起したハサミの冷たい金属、ガラスの硬質感、沸騰する肉の熱さ、そして刺さる針の刺痛。
創太の顔面は、これまで死んでいった2年B組の犠牲者たちの「凄惨な解体部位のパーツ」が継ぎ接ぎされた、おぞましい怪物へと物理的に変貌し始めていたのだ!
「創太……!?」
異変に気づいた葵が、コンクリートの段差から立ち上がり、創太の元へ駆け寄ってきた。
葵が洗面台の前に立ち、鏡の中の自分たちの姿を目にしたその瞬間、葵の身体もまた激しく硬直した。
鏡に映る葵の姿もまた、無傷ではなかった。
葵の首筋を覆う黒い熱蝋から、黒い血管のような紋様が、まるで植物の根のように彼女の顎、頬、そして目元へと向かって皮膚の下をジワジワと這い上がり、彼女の整った顔立ちを黒い網目模様で侵食していたのだ。彼女の左目の瞳孔はすでに不気味な黒紫色の濁りに呑み込まれ、人間としての生気が失われつつあった。
「葵……お前まで……」
創太の声が絶望に震えた。
伏線は、ここに極まっていた。
なぜ自分たちは、クラスメイトたちが全員絶命するような凄惨な「問い」を何度も潜り抜け、生き残ることができたのか?
正解を出せば助かる――それは完全な幻想だったのだ。
怪異の問いを解き、死を回避するたびに、彼らは怪異の「言語の毒」を体内に蓄積させ、死者たちの肉体破壊の因子を自らの身に宿していたのだ!
生き残れば生き残るほど、彼らの肉体と精神は怪異(鳴海詩織の怨念)そのものへと同化し、最終的には自らもまた「言葉の怪物」となってこの校舎の一部へと組み込まれていくという、逃げ場のないタイムリミット(期限)。
自分たちは、最初から「助かる」ことなど許可されていなかった。
ただ、人間としての形を失い、怪異と同化しながら死んでいく過程を延長させられていただけだったのだ!
鏡の奥の鳴海詩織が、声を立てて笑った。
『――ふふ……あはははははっ!』
詩織の笑い声が、洗面所の古い鏡を激しく振動させ、鏡の亀裂がさらに深く広がっていく。
『あなたたちは、もう人間ではありませんよ。生き残ったのではない……私の一部へと、綺麗に変貌しているのです』
『さあ……顔も、声も、心もすべて失って、私と一緒にこの学校の闇に沈みなさい……!』
パリンッ!
鏡の中の詩織の顔が歪み、大きな亀裂から赤黒い血が溢れ出て洗面台へ垂れ落ちた。
創太は自らの歪んだ顔を見つめ、激しい吐き気と絶望に襲われ、洗面台に突っ伏した。
自分はもう怪物になりかけている。葵もまた、顔を黒い根に侵食され、人間性を失おうとしている。
あと少し……あとわずかな時間で、二人の肉体は完全に崩壊し、人間の形を失ってしまう。
その時――。
創太の首元に、葵の温かい両手が回された。
葵は声を出すことができない。顔の半分を黒い根の紋様に侵食され、恐怖に震えながらも、彼女は創太の歪んだ頬に自らの顔をそっと寄せ、創太の目を鏡越しに真っ直ぐに見つめ返した。
葵の瞳には、怪物化していく恐怖を超えた、絶対の意志が宿っていた。
彼女は震える左手でノートを開き、剥がれた爪の痛みに耐えながら、鏡の中の二人の姿の下に、血の文字でこう叩きつけた。
『顔が歪んでも、姿が変わっても……創太は創太だよ! 私は私だよ!』
『怪物になってもいい! 最後まで……詩織さんの怨念を止めて、一緒に外へ出よう!』
『私を……私を最後まで見捨てないでっ!!』
血の文字が、暗闇の中で激しく生きていた。
姿が歪み、怪物化が進もうとも、二人の間に通い合う心と絆は、何一つ変わっていなかった。
創太は自らの歪んだ右手で、葵の血塗られた手を強く握り返した。
「そうだな……葵」
創太の声に、冷徹で力強い覚悟が戻った。
「姿なんてどうでもいい。怪物になろうが何だろうが……俺はお前を連れて、この地怪を終わらせる」
創太は鏡の中の歪んだ自らの顔を、力強く見据えた。
タイムリミットは刻一刻と迫っている。完全に怪物と化す前に、すべての元凶である地下最深部の『死儀の奉納室』へ乗り込み、鳴海詩織の怨念の本尊を打ち砕かなければならない。
創太と葵は洗面所を後にし、血と黒い根がのたうち回る最底の廊下へと踏み出した。
二人を待つのは、人間の形を懸けた、最悪で最後の決戦だった。




