第27話:『耳の焦燥』
膝まで届く血の海が、体育館の肉の床をドロドロと波打っていた。
裏返った石井の残骸から吹き出した高熱の血液と体液が、体育館全体に赤黒い湯気を立ち上らせ、生の脂が焼け焦げたような耐え難い臭気を充満させている。天井の無数の水銀灯の傘からは、いまなお太い血の糸がポタリ、ポタリと落ち、波紋を広げ続けていた。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
神谷創太は、血の海の中に両手をつき、荒い吐息とともに血の混ざった唾液を噴き出した。
背中に刺さったステンドグラスの破片が肉の奥深くへと沈み込み、呼吸をするたびに肋骨を削るような激痛が走る。隣で創太を支える白石葵もまた、左肩の激痛と全血の消耗により、その華奢な身体を小刻みに震わせていた。声を奪われた彼女の首筋にこびりついた黒い熱蝋の塊が、濡れた血液を弾いて不気味に黒く光っている。
だが、創太を襲った真の恐怖は、身体の肉体的な損傷ではなかった。
キィィィィィィィィィィィィン――……!
創太の頭骨の内部で、鋭利なガラスで脳のシワを直接削り取るような、超高圧の金属摩擦音が炸裂した。
「ぐぁぁぁぁぁぁっ……!?」
創太は自らの両手で頭を抱え込み、血の海へ顔を突っ込むようにして絶叫した。
これまで何度も訪れていた「過剰な聴覚のオーバーヒート」とは、次元が異なっていた。鼓膜が破れる音ではない。耳孔を通じて入る外音ではない。
怪異の放つ高周波ノイズと「あの濡れた女の声」が、創太の鼓膜という物理的なフィルターを完全に跳び越え、彼の脳内の聴覚野(言葉を司る神経細胞群)へ直接、物理的に焼き付いて(アタッチして)侵入してきたのだ。
ジジジ……ジジジジジジジジッ!
(脳が……脳の奥が焦げている……!?)
創太の視界が、真っ白な閃光と真っ赤な血の斑点で明滅した。
脳髄に直接流し込まれてくるのは、単なるノイズではなかった。
『――ふふ……ふふふふ……』
『――痛いでしょう、神谷創太くん。その過剰な耳が、あなたの最大の罪であり、最大の呪いなのですよ』
耳の奥ではなく、自らの「思考の根底」から、鳴海詩織の怨念の声が直接響き渡る。
さらに、これまで死んでいった2年B組のクラスメイト全員の殺戮の瞬間の絶叫が、創太の脳内で何千回、何万回と超高速でフラッシュバック再生を開始した。
さくらの骨がハサミで突き破られる音。
近藤の肉がシュレッダーで削ぎ落とされる音。
武田たちの肉が潰れる音。
小林の骨格がガラスとなって砕け散る音。
渡辺の血液が沸騰して爆発する音。
水野結衣の体内でステンドグラスが弾ける音。
菅原の喉から針が噴き出す音。
太田の皮膚が紙切れとなって剥がれ落ちる音。
西条拓海が肉吊りフックで吊り上げられる音――。
それら数千の死の不協和音が、創太の脳の神経回路をズタズタに引き裂きながらグルグルと旋回する。
「やめろ……! 出ていけ! 俺の頭から出ていけぇぇぇっ!」
創太は両手で自らの頭を殴りつけた。ガツン! ガツン! と頭骨が軋むほど拳を叩きつけるが、脳内に寄生した声は消えるどころか、さらに深く、太く、神経の奥へと根を伸ばしていく。
そして、そのノイズの奥から、抗いがたい「狂気の洗脳的衝動(自傷欲求)」が、創太の意志を塗り潰すように湧き上がり始めた。
『――壊しなさい』
脳内の声が、甘く、絶対的な命令として創太の運動神経へ指令を下す。
『その不快な音を拾う耳を、自らの手で潰しなさい。指を耳の穴へ突っ込み、鼓膜を破り、耳骨を噛み砕きなさい。……さすれば、あなたの苦しみは終わり、真の静寂が得られますよ』
(あ……あ……っ!?)
創太の体が、自分の意志とは無関係に動き始めた。
創太の右手の指先が、鉤爪のように鋭く曲がり、自らの右耳の穴へ向かってゆっくりと伸ばされていく。指先には、自らの耳孔を物理的に引き裂き、鼓膜を突き破らんとする強烈な力が込められていた。
自傷行為への強烈な欲求。
耳を潰せば楽になれる。自分のこの不快な過剰な耳を破壊し、脳を掻き出せば、死者たちの絶叫から解放される――。
怪異の狙いは、物理的な攻撃ではなかった。創太の「過剰な聴覚」という最大の特性を逆手に取り、脳内への直接侵入によって精神を毒し、自らの手で己を破壊(自害)させる精神汚染(洗脳)だったのだ。
「ダメだ……! 逆らうんだ……! 俺の……手……動くなぁぁぁっ!」
創太の右手が、自らの右耳の開口部へ強く押し付けられた。
ズスッ……!
指先が耳孔の内部の粘膜を強引に引き裂き、生温かい血がドバッと創太の首筋へ吹き出した。自らの爪が自らの耳の内部を削る凄惨な感覚と激痛。
「あガぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
創太の口から、血の泡とともに凄惨な悲鳴が上がった。
脳内の声が、創太の自傷を嘲笑うように、さらに大音量で旋律を鳴らし始める。
『――そう、もっと深く。指を脳まで押し込みなさい。あなたの冷酷な耳など、最初から存在してはならなかったのですよ……!』
自らの意思が、怪異の洗脳の波に呑み込まれて消失していく。
指がさらに耳の奥深くへ突っこまれ、鼓膜が破れる寸前のその瞬間――。
バシィィィンッ!!
創太の血塗られた右腕が、力任せに横合いから叩き伏せられた。
「……ッ!!」
狂乱する創太の視界に飛び込んできたのは、自らの身体を創太の上へ投げ出してきた少女――白石葵だった。
葵は自らの左肩の傷口から激しく血を撒き散らしながら、創太の首に両腕を回し、狂ったように自傷行為を行おうとする創太の身体を全霊で抱きしめた。
「あ……が……っ……葵……!?」
創太の目が血走っていた。脳内の洗脳衝動が創太の筋肉を支配し、葵を突き飛ばして自らの耳を潰させようと、右腕がガタガタと激しく痙攣する。
『――邪魔をするな、言葉を失った人形よ』
脳内の声が、葵の介入に対して不快感を露わにして響く。
『そいつの耳は、あなたたちの見殺しの象徴だ。潰させてやりなさい。……さもなくば、あなたの目の前で、そいつの頭骨を叩き割ってあげましょう』
創太の左手が、怪異の洗脳によって勝手に床の鉄パイプを握り締め、自らの頭部へ向かって振り上げられかけた。自らの手で、己の頭を叩き割ろうとする狂気の暴走。
その時、葵が動いた。
葵は声を出すことができない。喉は黒い蝋で塗殺されている。
彼女は創太の血塗られた顔面を、自らの両手で強く挟み込み、創太の瞳を真っ直ぐに、死に物狂いの眼光で見つめ返した。
そして、彼女は右手の爪を剥がされた指先から流れる自らの生血を、創太の額、そして創太の両耳の周囲の皮膚へ、力任せに塗り擦り付けたのだ。
葵の温かい血液が、創太の冷え切った耳元へべったりと広がっていく。
同時に、葵は血の海の上へ、自らの血塗られたノートを創太の目線の真前へと叩きつけた。
そこには、葵が自らの命の全血を使って書き殴った、狂おしいまでの執着と愛情が込められた【魂の叫び】が刻まれていた。
『創太!! 自分の耳を傷つけないで!!』
『創太の耳は、罪の耳なんかじゃない!!』
『私の声を……私が声を失っても、私の心(言葉)を一番近くで聴いてくれたのは、創太のその耳だった!!』
『創太の耳があったから、私は一人にならなかった!!』
『創太の耳は、人を殺すための耳じゃない! 私と生きるための耳なの!!』
『私を置いて死なないでぇぇぇぇぇっ!!』
破れかけたノートのページに血の文字で叩きつけられた、圧倒的な真実。
その文字を見た瞬間――。
創太の脳内で狂暴に渦巻いていた自傷行為の洗脳波形に、強烈な「不協和音(亀裂)」が走った。
(俺の……耳……)
創太の視界に、これまでの光景が疾風のように駆け巡った。
声を失った葵が、言葉を吐き出せない中で提示してくれたノート。
葵の指の動き、心拍数の変化、呼吸の破片。
創太の「過剰な聴覚」があったからこそ、声を奪われた葵の微細な感情や、命の訴えを、誰よりも深く、完璧に汲み上げることができたのだ。
この耳は、単なる傍観の罪の象徴ではない。
声を失ったこの少女の「言葉」を世界で唯一拾い上げ、彼女と共に生き抜くための、【唯一の架け橋】だったのだ!
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
創太は叫んだ。
脳内の洗脳衝動を、自らの魂の叫びによって内側から完璧に叩き潰したのだ!
創太の右腕が力を取り戻し、自らの耳孔から指を引き抜いた。左手の鉄パイプが床の血の海へガシャーン! と叩き落とされる。
「消えろぉぉぉっ! 俺の頭から出ていけぇぇぇっ!」
創太は自らの脳神経に寄生していた怪異の声を、絶対的な自我の力によって拒絶・遮断した。
脳内の激しい焦燥感が一気に吹き飛び、脳髄に深く食い込んでいた黒い根が、悲鳴を上げて創太の意識から弾き飛ばされていった。
『――ガああぁぁぁっ!?』
体育館全体を覆う本尊の肉壁が、創太の完璧な洗脳打破に対して、苦悶の叫びを上げて激しく波打った。
創太の「過剰な聴覚」は、怪異の精神汚染を克服したことで、さらなる高み(覚醒)へと昇華された。
外音の過負荷に苦しむ脆弱な耳ではない。
葵の命の音と、怪異の真の発信源の周波数をピンポイントで識別し、撃ち抜くための【研ぎ澄まされた真眼の耳】へ。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は胸の中で泣いている葵の身体を、折れんばかりの力で強く抱きしめた。
「葵……ありがとう……! お前が……俺の耳の意味を……俺の命を救ってくれたんだ……!」
葵は創太の胸に顔を埋め、声の出ない安堵の涙を流しながら、創太の背中に回した腕を強く握りしめた。
洗脳の焦燥を打ち破った二人。
伏線は提示された。創太の過剰な耳が最後に果たすべき役割――葵の言葉を世界へ繋ぎ、怪異の本尊の「核心の周波数」を解体する最後の鍵が、ここに完成したのだ。
体育館の中央、血の海から立ち上る巨大な腫瘍の口が、二人に向かって猛烈な殺意の蒸気を噴き出した。
すべての決着の時が、ついに訪れようとしていた。




