第26話:『歪んだ回答』
全問正解の果て、死の歯車が破砕される凶悪な金属音が体育館の肉壁を激しく揺らした。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
神谷創太は、床を覆う生肉と血の粘液の上に両手を突き、血の混ざった激しい吐息を撒き散らしていた。過剰な聴覚は完全に悲鳴を上げ、両耳の穴からは赤黒い血液が顎を伝って床へポタリ、ポタリと落ちている。背中に刺さったステンドグラスの破片が深く肉を抉り、呼吸をするたびに肺の奥を削られるような激痛が走った。
創太の胸の中では、白石葵が自らの血で染まった手を震わせながら、荒い息を吐いていた。
声を失った少女。左肩を抉られ、爪を剥がしながらもノートに血の文字を叩きつけ、創太の命を救った葵。彼女の首筋にこびりついた黒い熱蝋の固まりが、不気味な黒紫色の鈍光を放っている。二人は、地獄のような超高速問答の連打を、土判場の絆と圧倒的なロジックで凌ぎ切ったのだ。
だが、安息など、この体育館のどこにも存在しなかった。
「グ……ギギギ……ッ」
体育館全体の肉壁が、苦悶と激怒に狂った巨大な胃袋のように大きくうねり始めた。天井の水銀灯の傘から垂れる赤黒い血の滝が太さを増し、床の肉泥をバシャバシャと激しく跳ね上げる。
その時だった。
創太の傷ついた耳が、体育館の隅――巨大なマットと跳び箱が崩れ落ちた暗闇の奥から響く「異様な音」を捉えた。
ガタガタガタガタ……ッ!
それは、怪異の動かす機械音でも、黒い根の拍動でもなかった。死の恐怖に極限まで追いつめられた人間が、ガチガチと歯を鳴らし、膝を打ち鳴らす生の動悸音だった。
「誰だ……!?」
創太が血塗られた鉄パイプを構え直し、かすむ視界をその暗闇へ向けた。
崩れたマットの隙間から、這い出してきたのは――生き残っていた西条拓海の部下の一人、男子生徒の石井だった。
「ひ……ひぃぁぁぁぁぁぁっ……!」
石井の全身は自らの汗と他人から浴びた返り血でドロドロに汚れ、その顔面は恐怖のために自らの爪でかきむしられ、無数の血の筋が走っていた。
彼は第12話の『血の選別』や第15話の脱出劇の際、西条の命令で「体育館の用具入れ」に密かに潜伏し、息を潜めて生き延びていた最後の残党だった。彼はこの体育館の陰で、仲間たちが次々と肉片に変えられていく惨劇を、そして創太たちが超高速問答を突破する光景を、用具入れの隙間から死に体で目撃し続けていたのだ。
だが、彼の正気は完全に崩壊していた。
石井は手に持っていた割れたガラス瓶の破片をガタガタと震わせながら、創太と葵に向かって血走った目を剥け、引きつった悲鳴を上げた。
「神谷ぁぁぁっ! お前ら……お前らだけずるいぞ! お前らだけ正解を知ってやがったんだ! 西条さんも、渡辺も、太田も……みんな死んだのに! なんでお前らだけ生きてるんだよぉっ!」
「石井……! 生きていたのか!」
創太が叫んだ。「動くな石井! ここは体育館全体が怪異の罠だ! 迂闊に声を出すな!」
「ウルッセえよ! 賢者ぶるんじゃねえ!」
石井は自らの髪をかきむしりながら、狂ったように床の肉泥を蹴り飛ばした。
「俺は全部見てたぞ! お前らが何か唱えるたびに、怪異が攻撃をやめてたのをな! お前らは答えを独占して、俺たちを見殺しにしたんだ! 許さねえ……許さねえぞぉっ!」
石井の支離滅裂な叫び。
極限の恐怖に呑み込まれた人間は、自らの命を守るための正当なロジックすら受け入れられなくなる。彼にとって創太は救害者ではなく、自分たちを置き去りにした「悪魔」にしか見えていなかった。
その時、体育館の中央が、地鳴りのような重低音とともに豪快に裂けた。
ズババババババババッ!!
床の肉の層が左右に観音開きとなり、その裂け目の底から、ドロドロの粘液を纏った『真の本尊の核』の一部がズルズルと這い上がってきた。
それは、無数の人間の舌と指が複雑に絡み合い、中央に巨大な「人間の開いた口」が爛々と粘膜を蠢かせる、おぞましい肉の腫瘍だった。
腫瘍の口がガパリと開くと同時に、体育館全体の肉壁から、これまでのどれよりも生々しく、湿り切った女の声が降り注いだ。
『――ふふ。まだ一匹、物陰に哀れな豚が隠れていましたね』
声は、狂乱する石井を嘲笑うように、甘く、酷薄に紡がれる。
『神谷くんたちの正解にタダ乗りしようとした愚者よ……あなたにも、特別な問いを授けましょう』
腫瘍の口の奥で、カチ、カチ、カチと、死の歯車音が回り始める。
『石井くんと掛けまして』
『裏返された古びた革靴と解く。……その心は?』
「石井! 喋るな!」創太が喉を引き裂くような声で叫んだ。「その問いには罠がある! 過去の言葉の因果を分析しないと死ぬぞ!」
だが、創太の制止は届かなかった。
自分だけが助かりたいという執着、創太への逆恨み、そして目の前に突きつけられた死の恐怖によって、石井の脳髄は完全に焼き切れていたのだ。
石井は割れたガラス瓶を抱え込み、創太を見下すような醜悪な笑みを浮かべて大声を張り上げた。
「分かった……! 分かったぞ! 答えはこうだ!」
石井はスピーカーの腫瘍に向かって、自らの保身と身勝手な願望が混ざり合った、『歪んだ回答』を絶叫してしまった。
「答えはっ……! 『どちらも、外側からは見えない汚い内面を隠していて、最後は脱ぎ捨てられてポイされる』だぁぁぁぁぁっ!!」
「石井―――っ! やめろ―――っ!」
創太の制止が空しく反響した。
石井の叫びが体育館の肉壁に吸い込まれた、次の瞬間。
スピーカーの腫瘍から、地獄の最底から放たれたような、冷酷極まりない判定が下された。
『――不整』
『――不整』
その二文字が宣告された瞬間、石井の絶叫がピタリと途絶えた。
「え……? あ……?」
石井が呆然とした表情で自らの両手を見つめた。自らが叫んだ「歪んだ回答」が正解となり、自分だけが助かるという狂った妄想は、一瞬にして砕け散った。
次の瞬間、石井の肉体に訪れたのは、これまでのいかなる解体をも上回る、極限の『内側からの裏返し(インバージョン)』だった。
チチチチチ……メリメリメリメリメリッ!
「あ……が……っ!? ああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
石井の口から、人間が出せる限界を超えた高音の悲鳴が吹き出した。
彼の全身の皮膚の表面――額、頬、首、胸、腹、両腕、両脚の皮に、一斉に縦方向の細かな裂け目が数千本、走った。
そして、その裂け目の内側から、彼の赤い生肉、黄色い皮下脂肪、紫色の内臓、そして白々とした骨格が、まるで脱ぎ捨てる服のように、ものすごい圧力をもって外側へと一気に飛び出してきたのだ。
「ひ……っ!? ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
肉体が、内側から外側へ向かって「裏返って」いく。
彼の皮膚と毛髪が、自らの肉体の「内側(腹腔)」へと強引に押し込まれて呑み込まれ、本来なら体内に隠されているはずの生の内臓――胃、腸、肺、心臓、そして生々しい赤肉の層が、全身の「外側」へと完全に露出して剥き出しになった。
ズシャァッ! グシャァッ!
内側と外側が完全に反転した彼の肉体。
外側に露出した彼の心臓が、ドクドクと生のまま脈打ち、外に飛び出した腸が彼の胴体にグロテスクに巻き付く。そして、内側へ押し込まれた彼の皮膚と顔面のパーツが、喉の奥へと逆流し、自らの皮で己の気管を窒息させていく。
「ごふっ……! ぶぼぼぼぼぼぼッ!?」
裏返った石井の肉体から、一気に数十リットルにおよぶ血液と体液が、圧力鍋の蓋が吹き飛んだかのような勢いで全方位へと噴出した。
ドバシャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
「目を閉じろ! 葵っ!」
創太は咄嗟に葵の身体を抱き寄せ、自らの背中で血の豪雨を受け止めた。
ジュウウウウウッ!
噴出した石井の血液は、彼の内側が裏返ったことによる高熱と強酸を帯びており、体育館の空気を一瞬で真っ赤な血の蒸気で満たした。
裏返った石井の肉体の残骸は、生肉と内臓が外側に露出したまま、ビチビチと床の肉泥の上で魚のように跳ね回り、やがて大量の血を撒き散らして静絶した。
そして、彼から噴出した凄まじい量の血液が、体育館の巨大な肉のコート全体へ一気に広がっていった。
バシャアアアアアッ……。
赤黒い血の波が、コートの端から端までを呑み込み、創太と葵の足首、そして膝の高さまで一気に跳ね上がった。
体育館全体が、完全に『血の海』によって埋め尽くされたのだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は血の海の中で膝をつき、葵を強く抱きしめた。
自らの背中にも、葵の制服にも、石井の熱い血と生の肉片がべったりとこびりつき、生温かい脂の臭いが鼻腔を麻痺させる。
声を失った葵は、創太の胸の中で目をつぶり、身体を激しく震わせていた。
石井が叫んだ「歪んだ回答」。
それは、自らの過去の罪(一年前、詩織の隠された秘密や噂を『内面が汚い』と嘲笑し、彼女を陰で脱ぎ捨てるように排除したこと)を認めず、他人に罪を擦り付けようとした醜悪な保身の言葉だった。
その言葉の返り血として、石井は自らの内面(内臓)を強制的に外側へ裏返され、惨死したのだ。
『――ふふ。裏返された靴のように、内側を全て撒き散らしましたね』
体育館の中央にそびえる腫瘍の口が、石井の流した大量の血をゴクゴクと飲み干しながら、凶悪な歓喜の声を上げた。
『さあ……歪んだ回答者は消えました。血の海に沈む、最後の二匹の羊よ……』
石井の惨死によって流された大量の血液を吸い上げ、真の本尊の核が巨大に肥大化し、その全貌を完全に現そうとしていた。
血の海と化した体育館で、創太と葵は互いの手を強く握り締め、最後の死闘へと向かって立ち上がるのだった。




