第25話:『体育館の罠』
炭化した西条拓海の残骸から立ち上る焦煙を背に、創太と葵は重厚な黒い扉の向こう側へと足を踏み入れた。
地下廃倉庫の最奥にあると思われたその扉の先――そこは、学校の「地下」であるはずの物理法則が完全に歪められた空間だった。
「これは……体育館……!?」
創太の口から、驚愕の声が漏れた。
眼前に広がっていたのは、本来ならば校舎の別棟一階に存在するはずの、巨大な『旧体育館』だった。
しかし、かつてバスケットボールのバウンド音や生徒たちの歓声が響いていたその場所は、もはや建造物の体を留めていなかった。床を覆っていたフローリングの木板はすべてメリメリと剥がれ落ち、その下から露出したのは、ドロドロに溶けた生肉と脂が肉厚な層をなす、巨大な『赤黒い食道(胃袋)』だった。
壁や天井、そしてかつてギャラリー(キャットウォーク)と呼ばれた高い吹き抜けに至るまで、体育館の全内壁が、波打つ巨大な肉の粘膜で隙間なく覆い尽くされている。天井から吊り下げられた無数の水銀灯の傘からは、光ではなく、赤黒い血液と黒い粘液が滝のようにドクドクと垂れ落ち、床の肉の海へ波紋を広げていた。
体育館全体が、一頭の巨大な怪物の『開かれた口』そのものへと変貌を遂げていたのだ。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
創太は背中の刺創からの劇痛に膝を折られそうになりながらも、葵の手を握りしめてその異様な広大さを見渡した。
出口(非常口)の位置にあったはずの鉄の扉は、粘膜の肉ひだが幾重にも折り重なって完全に塞がれ、二人が入ってきた扉すらも、足を踏み入れた瞬間にバリバリと肉の網が張られて二度と開かないよう固着していた。
完全な密室。そして逃げ場のない、広大すぎる「屠殺のリング」。
声を失った白石葵が、左肩の激痛に顔を歪めながら創太の服を強く引き寄せた。首筋を黒い熱蝋で固められた彼女は、吐息すら漏らせない。しかし、彼女の瞳は過剰な警戒を孕み、血のついたノートを胸に抱きしめながら、体育館の「中央」を指差した。
体育館のコートの中央。
そこには、これまでに死んでいったクラスメイトたちの無数の体の一部(切り落とされた腕、引き裂かれた脚、粉砕されたガラスの骨、肉吊りフックに引っかかった内臓の残骸)が、巨大な円陣を描くように集積され、山をなしていた。
そして、その肉片の山のてっぺんに――。
黒い血管状の根が何十本も絡みつき、心臓のようにドクドクと収縮を繰り返す、大型の『全校集会用マイクスタンド』が一本、ポツンと直立していた。
ジ……ジジジジジジジジジジジジジジッ!!!!
体育館全体の肉壁から、直接コンクリートと肉を揺らすような、爆音の高周波ノイズが炸裂した。
音波の波が体腔を直接揺さぶり、創太と葵は激しい耳鳴りに膝をついた。創太の過剰な聴覚は、この体育館の肉壁全体が、巨大なスピーカーのアンプ振動板として機能していることを瞬時に察知した。
マイクスタンドの集音部から、あの濡れた女の声が、体育館全体を揺るがす地鳴りのような大音量となって降り注ぐ。
『――ふふ。ようこそ、最後の舞台へ』
声は、体育館の肉壁を伝って全方位から叩きつけてくる。
『学校の中で最も広く、最も多くの言葉が交わされた場所……体育館です。全校集会、卒業式、そして……あなたたちが詩織さんを大勢で囲み、冷たい嘲笑を浴びせた場所です』
「詩織……っ!」創太が血の混ざった唾液を吐き出しながら叫ぶ。
『もう、時間の猶予(余談)はいりませんね』
マイクスタンドの周りに積まれたクラスメイトたちの肉片が一斉に蠢き、目球のない顔面が創太たちへ向けられた。
『これまでの「問い」は、すべてこの最後の宴のための準備運動に過ぎません。……生き残った二匹の羊に、終わりのない【連続・超高速問答】を贈りましょう』
カチカチカチカチカチカチカチカチッ!!!!
体育館全体の肉壁の内部から、数十、数百の死の歯車が一斉に超高速回転を始めた。その音はまるで、何千羽もの猛禽類が一斉に羽ばたくかのような、凶悪な金属摩擦音となって二人の脳髄を切り刻む。
『――第一問!』
制限時間を示す表示などどこにもない。だが、創太の耳には、自分たちの鼓動の十倍以上の速さで刻まれる「死のカウントダウン」が聴こえていた。
『体育館の肉の床と掛けまして、あなたたちの過去の罪と解く! その心は!?』
『制限時間は、十秒!』
「十秒……!? 冗談じゃない!」
あまりの速度。思考を構築する時間すら与えない、超高速の連打殺戮。
創太の脳内で、思考のギアが焼き切れるほどの高熱を発し始めた。
(十秒……!? 考えるな、直感で概念の核を引っ張り出せ!)
創太は自らの頭を両手で叩き、耳奥のノイズを無理やり打ち消した。
体育館の肉の床。ドロドロに溶けた生肉と脂の層。足を踏み入れれば引きずり込まれ、二度と出られない底なしの沼。
そして、自分たちの過去の罪。鳴海詩織を見捨て、嘲笑し、あるいは手を振り払って死へ追いやった傍観と加害の罪。
(共通点……! どちらも……どちらも!)
制限時間、あと三秒。
体育館の肉壁が一斉に収縮し、床の肉泥が創太と葵の足首へと牙を剥いて伸びてくる。
「正解は! 『どちらも、一度足を踏み入れれば二度と抜け出せず、深く沈み込んで自らの身を滅ぼす底なしの沼』だぁぁぁっ!」
創太の叫びが体育館に響き渡った。
静寂。一秒。
マイクスタンドの奥で、歯車音がガギィン! と歪んで停止した。
『――正解!』
女の声が狂気を含んで叫ぶ。だが、安息の時間など一秒たりとも与えられなかった。
『――間髪入れず、第二問!』
カチカチカチカチカチカチッ!
『天井から滴る赤黒い血の雨と掛けまして、あなたたちが詩織さんに放った【黙殺の視線】と解く! その心は!?』
『制限時間、八秒!』
「ぐぁっ……!? 連続で来るか!」
創太は口から血を吹き出した。過剰な聴覚が限界を超え、目角と耳穴から赤黒い血液が流れ出している。
八秒。思考の猶予は絶望的だ。
(天井の血の雨……! 黙殺の視線……!)
血の雨。上から容赦なく降り注ぎ、避けることもできず、身体を冷たく濡らし、汚していく。
黙殺の視線。上から見下ろし、彼女の尊厳を冷たく濡らし、心を殺していった。
(概念の重ね合わせ……!)
残り、あと二秒。
葵が創太の服を掴み、自分の血の手でノートの余白へ力任せに【冷たく】という文字を叩きつけた。
「正解は! 『どちらも、上から容赦なく降り注ぎ、相手の身も心も冷たく濡らして痛めつける』だぁぁぁっ!」
『――正解!』
『――第三問! 制限時間、六秒!』
カチカチカチカチッ!
容赦のない超高速問答の連打。
怪異の狙いは明白だ。正解を出させないことではない。超高速で問いを連打することで、創太の「過剰な聴覚」と脳神経を物理的にオーバーヒートさせ、思考回路を焼き切って『不整』へ引きずり込むことだ!
『中央に積まれた同級生たちの肉片と掛けまして、あなたたちの崩壊した絆と解く! その心は!? 制限時間、六秒!』
「がっ……あ……っ!」
創太の視界が真っ赤に染まった。脳の血管が何本も切れ、意識が遠のきかける。創太は自らの膝を鉄パイプで力任せに打ちつけ、激痛で意識を強引に繋ぎ止めた。
「六秒……! 正解は……正解は『どちらも、一度バラバラに破砕されれば二度と元の美しい形には戻らない』だぁぁぁっ!」
『――正解!』
『――第四問! 制限時間、四秒!』
死の歯車音が、もはや悲鳴のような高音となって回転する。
『詩織さんの奪われた声と掛けまして、白石葵の失われた声と解く! その心は!? 制限時間、四秒! 四、三――』
四秒。もはや言葉を構築する時間すら存在しない限界の速度。
創太の口から血の泡が吹き出し、膝が床の肉泥へ落ちた。
「あ……が……っ……言葉が……出ない……っ!」
極限のオーバーヒート。創太の喉が痙攣し、声が出なくなろうとしていた。
その時だった。
声を奪われていたはずの白石葵が、創太の前に立ちはだかった。
葵は自分の血塗られたノートを開き、創太の顔面へと叩きつけるように提示した。
そこには、葵が自らの爪を剥がしながら、命の全血を使って書き殴った、たった一行の【答え】が刻まれていた。
葵は言葉を発することができない。だが、彼女の瞳は創太を見つめ、血のついた指でその文字を強く指し示した。
創太は掠れた声で、葵の提示した文字を全力で読み上げた。
「正解は……っ! 『どちらも、あなたたち罪深き者どもの【冷酷な拒絶】によって理不尽に奪われ、二度と戻らない永遠の静寂の中に閉じ込められている』だぁぁぁぁぁっ!」
静寂。
制限時間、最後の一秒。
超高速で回転していた全歯車が、ガギガギガギィィィィンッ!!!! という凄絶な破壊音を立てて、一斉に砕け散った。
体育館全体を揺るがしていた超高速の問答連打が、ピタリと停止したのだ。
マイクスタンドの奥から、女のギャアァァァッ! という凄惨な悲鳴が漏れ出た。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は血の海の上で吐血し、葵の身体を強く抱きしめた。
極限の超高速問答。
葵の血の文字と、二人の土壇場の絆によって、怪異の怒涛の連打攻撃を全問正解で完璧に削り切ったのだ!
体育館の肉壁が苦悶するように大きくうねり、中央のマイクスタンドに巻きついていた黒い根が、次々と千切れ飛んでいく。
超高速の罠を打ち破った二人。
しかし、体育館の肉の床の底から、さらに巨大で、すべての元凶である「真の本尊」が、そのおぞましい全貌を現そうとしていた。




