第24話:『拓海の狩人』
旧校舎の地下最深部へ繋がる鉄の扉を押し開けた瞬間、創太と葵を襲ったのは、呼吸を拒絶するほどの濃密な死臭と、耳を刺すような高周波のうなり声だった。
そこはかつて、学校の旧備品や廃棄された教材が乱雑に積み上げられていた地下廃倉庫群だった。だが今や、天井も壁も床も、ドロドロに溶けた生肉のような赤黒い粘膜に覆われ、巨大な肉の胎内へと姿を変えていた。壁一面にびっしりと張り巡らされた黒い血管状の根が、ドク、ドク、と重低音を響かせて拍動し、床の血の海から怪しい蒸気が立ち上っている。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
創太は背中の刺創に走る激痛に歯を食いしばりながら、血塗られた葵の手を力任せに握りしめた。
背中の傷口からは依然として生温かい血液が伝い落ち、自らの制服の生地を肌へ重く張り付かせていた。過剰な聴覚は限界を通り越し、耳奥でキィィィンと高圧の電子音が鳴り響き続けている。しかし、自らの「傍観の罪」を自覚し、詩織の手を振り払った過去と向き合った創太の瞳には、かつてのような迷いや怯えはなかった。
隣に寄り添う白石葵もまた、左肩の激痛に耐えながら、血のついたノートを胸に強く抱きしめていた。
首筋を黒い熱蝋で固められ、声を完全に奪われた少女。彼女の口から言葉が紡がれることは二度とない。しかし、創太の手を握り返す彼女の指先には、どんな言葉よりも強く熱い、生き残るための決意が込められていた。
「行くぞ、葵……この奥に、すべてを操る本尊がいる」
創太が足を踏み出そうとした、その時だった。
ドス……ッ!!
廃倉庫の暗闇の奥から、重く嫌な肉の足音が響いた。
ズズ……ペタ、ズズ……ペタ……。
それは、ただの歩行音ではなかった。何かが引きずられ、骨が砕け、肉が床の血泥にへばりつく嫌な摩擦音。
過剰な聴覚を研ぎ澄ませた創太の表情が、一瞬にして硬直した。
(この音……まさか……!?)
暗闇のひだを切り裂いて現れたのは――かつて2年B組の支配者であり、第12話の集団問答で『不整』判定を受けて肉吊りフックで内臓を散らし、死亡したはずの男、西条拓海だった。
「な……んだと……!?」
創太の口から、驚愕の声が漏れた。
目の前に立つ西条の姿は、第14話や第16話で襲ってきた単なる「不完全な死体傀儡」とは一線を画していた。
彼の垂直に引き裂かれた腹部と飛び出た内臓は、何十本もの太い黒い根によって巨大な縫い目のように強引に縛り上げられ、潰れた胸郭は黒い粘液で補強されていた。そして何より異様だったのは、彼の右手だった。
彼の右手には、壊れた長机の脚である太い角材に、何十本もの鋭利な大鉄釘やガラス片がびっしりと打ち込まれた、凶悪極まりない『釘バット』が、肉と血の帯によって右腕の骨へ直接固定されていたのだ。
死んでいるはずの西条の瞳。
その眼球の奥には、黒い根が蠢くだけでなく、彼が生前に抱いていた「最も醜悪な執着」――自分だけが生き残るために他人を生贄に捧げるという、狂気の光が不気味に燃え上がっていた。
「ア……あガガガガッ……!」
西条の死体の喉から、破れた声帯を無理やり震わせるような、凄惨な不協和音が吐き出された。
『カ……み……ヤぁぁぁぁぁっ……!』
それは、単なる怪異の操り人形の言葉ではなかった。西条拓海という男の怨念と狂気が、怪異の黒い根と完全に融合し、より暴力的で凶悪な「狂気の狩人」へと再構築されていたのだ。
「西条……お前はもう死んだはずだ!」創太が叫ぶ。
『俺ハ……死んデ……ナぃ……!』
西条の死体が、釘バットを床の血泥へ叩きつけた。
バガァンッ!!
床の肉泥が跳ね上がり、壁の黒い根が激しく震える。
『神谷ぁ……お前らだ……! お前ら二人を……詩織に『供物(生贄)』として捧げれば……俺は……俺の命は……お返ししてもらえるんだぁぁぁっ!』
生前の西条が叫んでいた「生贄の論理」の暴走。
自分だけが助かるために他人を差し出す。その醜悪な自保心が、死してもなお彼の腐った脳髄を支配し、創太と葵を「怪異への供物」として狩るための動機となって牙を剥いていたのだ。
「正気を失ってまで、まだ他人を生贄にする気か……!」
創太は鉄パイプを構え直し、葵を自らの背後に庇った。
西条の死体は、釘バットを両手で構え、見開かれた血の目球で創太たちを睨みつけた。
『肉を……捧げろ……神谷ぁぁぁぁぁっ!!』
咆哮とともに、釘バットを手にした狂気の狩人が、重い肉の足音を響かせて創太たちへと襲いかかってきた。
ズバァァァアンッ!!
凶悪な釘バットが暗闇を切り裂き、創太の頭上へと振り下ろされた。
「くっ……!」
創太は間一髪で葵を抱えて横へ飛び退いた。
西条の振り下ろした釘バットが、床に打ち捨てられていた鋼鉄製の事務机を直撃した。バゴォン! と凄まじい破壊音が響き、厚い鉄板が紙くずのように大きく凹み、打ち込まれていた大鉄釘とガラス片が火花を散らした。人間が直撃を受ければ、一撃で頭骨が砕かれ、肉片となって即死する破壊力。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
創太は床の血泥を滑りながら体勢を立て直した。背中の刺創が激しく痛み、視界が真っ赤に染まりかける。
(速い……! さっきまでの死体傀儡とは動きのキレが違う!)
怪異の黒い根が、西条の死体の筋組織へ直接高圧の運動刺激を送り込んでいるのだ。死体ゆえに痛覚がなく、筋肉の限界が解除された破壊力とスピード。
西条の死体は、凹んだ事務机から力任せに釘バットを引き抜き、首をギチギチと180度回転させて創太を見据えた。
『逃ゲ……ラれ……ナぃ……! 神谷……お前の……肉と……白石の……声を……供物にするんだぁぁぁっ!』
西条が再び床を蹴り、創太へと肉薄する。
狭い地下廃倉庫。足元は血と脂の泥沼。背中には葵、創太自身の身体はボロボロ。圧倒的な不利。
(正面から打ち合えば、こちらの骨が砕ける……! だが、どうする!?)
創太の過剰な聴覚が、狂暴に迫る西条の死体の「不協和音」を捉えた。
西条が釘バットを振り上げる瞬間、彼の破裂した腹部を縛っている黒い根が、強烈な収縮音を立てている。
チチチチチ……!
(あそこだ……! あの腹部の黒い根が、彼の死体に運動エネルギーを供給している【結合結節】だ!)
だが、そこへ接近して攻撃を打ち込むには、あの凶悪な釘バットの間合いを突破しなければならない。一歩間違えれば、創太の胸が肉泥に引き裂かれる。
その時だった。
創太の背後で、声を奪われた少女・白石葵が動いた。
葵は自らの左肩の激痛に顔を歪めながらも、足元に転がっていた「古びた試薬の缶(塗料用シンナーの残量缶)」を素早く拾い上げた。葵は言葉を発することはできない。だが、彼女の瞳は創太の視線が西条の腹部へ向けられていることを正確に読み取っていた。
葵は創太へ力強い目配せを送ると、自らの血の手でシンナー缶を握り締め、西条の死体の足元へ向かって力任せに投げつけた。
ガシャンッ!!
缶が西条の脛に激突して破裂し、中に残っていた揮発性の高い液体が、西条の足元と、彼の破裂した腹部の黒い根へバシャッと大量に浴びせかけられた。
『ガっ……!? ナにを……っ!?』
西条の死体が一瞬、強い溶剤の異臭に体勢を狂わせた。
「今だ……葵ッ!」
創太は一瞬の隙を見逃さなかった。
創太は自らの激痛を叫びで打ち消し、手にしていた鉄パイプを、構えた釘バットの隙間を縫うようにして、西条の破裂した腹部――シンナーの浴びせられた黒い根の集中部へ向かって、全筋力を込めて突き立てた。
ドスッ!!
「がアぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
鉄パイプの先端が、黒い根の結節部へ深々と突き刺さった。
さらに創太は、ポケットに残っていたマッチ箱を取り出し、擦った一筋の火種を、シンナーの染み込んだ腹部へ向かって投げつけた。
ボォォォォォォォンッ!!!!
「ガあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
強烈な火柱が吹き上がった。
シンナーに引火した炎が、西条の腹部を縛っていた黒い根と、彼の腐肉を一瞬にして激しく包み込んだ。黒い根がギャアァァッ! と悲鳴のような高周波の摩擦音を上げて炭化し、千切れ飛んでいく。
動力を失った西条の右腕から、凶悪な釘バットがポロリと床の血泥へ落ちた。
『ア……あぁぁぁ……神谷……お前……っ! 俺ハ……俺ハ……生き……たい……のに……っ!』
炎に包まれた西条の死体が、なおも血塗られた左手を伸ばし、創太の首を掴もうとした。
だが、根を失った彼の膝がガクガクと崩れ、彼はそのまま炎の上がった床の肉泥の上へと倒れ込んだ。
バシャァッ……。
炎が血泥に包まれて消え、炭化した西条の死体は、もう動かなくなった。
生前の暴虐、自保心、そして狂気の生贄論理。そのすべてを抱えた狩人の最期だった。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は膝をつき、激しい息を吐いた。
葵がすぐに創太の元へ駆け寄り、創太の身体を強く抱きしめた。声を失った彼女は、音の出ない胸の奥から安堵の吐息を漏らし、創太の血塗られた顔を両手で包み込んだ。
「助かったな……葵……お前のおかげだ」
創太は葵の手を握りしめ、かすかに微笑んだ。
声を失いながらも、命がけで創太と連携し、死線を超えていく少女。ふたりの絆は、怪異のどんな狂気よりも強く結ばれていた。
炭化した西条の死体の奥――地下廃倉庫の最深部に、重厚な装飾が施された、巨大な黒い扉がそびえ立っていた。
壁の黒い根のすべてがその扉の隙間へと吸い込まれ、扉の向こう側から、これまでにないほど強烈な「怨念の脈動」が響いてきていた。
すべての惨劇の元凶。
鳴海詩織の怨念と、2年B組の罪が渦巻く、真の最深部――『死儀の奉納室』。
「行こう、葵。全ての因果を終わらせに」
葵は力強く頷いた。
創太と葵は手を取り合い、最悪の決戦の舞台へと、一歩を踏み出していくのだった。




