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言葉に喰われた街の、逃げられない問い  作者: solune


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第23話:『血濡れの過去』

地下図書室の湿った紙の死臭を背に受けながら、創太と葵はさらに深い闇の中へと進んでいた。


旧校舎の地下最深部へ至る通路は、もはや人間が足を踏み入れるべき場所ではなかった。足下のコンクリートは粘り気のある肉の粘膜へと変わり、一歩踏み出すたびにズズッ、ズズッと足首まで血と脂の混ざった泥沼へ沈み込む。壁一面を埋め尽くした黒い血管状の根は、まるで巨大な心臓の拍動に同調するように、ドク、ドク、ドク、と重低音の地鳴りを打ち続けていた。


「ハぁ……ハぁ……ッ」


創太は自らの背中に手を回し、制服の破れ目から溢れ出る熱い血液を力任せに押さえた。背中に刺さったステンドグラスの刃が、歩くたびに肉を抉り、骨を削る。だが、その激痛以上に創太の正気を削り取っていたのは、耳奥で突如として爆発し始めた「過去の音」の洪水だった。


キィィィィィン……ポタ、ポタ、ポタ……。


過剰な聴覚が、怪異の不快な高周波ノイズを通り抜け、1年前の「あの音」を、狂おしいほどの立体感をもって脳内へ直接再生し始めていた。


「くっ……あぁぁぁっ……!」


創太は思わず立ち止まり、頭を抱え込んだ。


「創太……!?」


声を失った白石葵が、驚いて創太の腕を支えた。彼女の首筋は熱い黒蝋で硬化し、言葉を一切吐き出せない。だが、葵は創太の瞳が恐怖と後悔で激しく揺れ、目角から血の混ざった涙がポタリ、ポタリと溢れ出しているのを見て、力任せにノートを抱きしめた。


創太の耳奥で、1年前の雨の音が増幅されていく。


ザザザザザザザザザ……。


それは、1年前の6月、葛葉市を濡らしていた冷たい梅雨の雨音だった。


(違う……俺は……俺はただ……関わりたくなかっただけだ……)


創太の視界が歪み、地下廊下の肉壁の影に、1年前の2年B組(当時は1年B組)の教室の風景が鮮明な残像となって浮かび上がった。


雨の日の放課後。


教室の隅で、小さく身を縮めていた少女――鳴海詩織(なるみしおり)。


彼女の周りを囲んでいたのは、死んでいった同級生たちだった。


長谷川さくらが嘲笑しながら詩織のハサミを隠し、近藤が詩織のノートをビリビリと細かく引き裂き、渡辺が大声で『頭が爆発しそうだな!』と笑い、西条が詩織の机を蹴飛ばしていた。


そして、その惨劇の音を、教室の最前列で誰よりも鮮明に聴いていた男がいた。


神谷創太自身だ。


創太には、生まれつき「過剰な聴覚」があった。他人の小さな囁き声、心拍数の変化、衣服が擦れ合う音まで拾ってしまう異能。だからこそ、創太はクラスの中で起きていた詩織への陰湿で苛烈ないじめのすべてを、誰よりも初期の段階から、誰よりも詳細に「聴いて」いたのだ。


詩織が下駄箱の前で、靴の中に仕込まれた画鋲を踏んで小さく漏らした『痛い……』という吐息。

図書室の陰で、水野結衣に向かって『私、何も悪いことしてないよ……』と泣きじゃくった声。

放課後の廊下で、太田や西条に教科書を破られ、地面に散らばった用紙を拾い集めながら上げていた、引きつった喘鳴。


創太はそのすべてを、1本1本の音の糸として完璧に識別し、理解していた。


だが――創太は何もしなかった。


創太はポケットから大型のノイズキャンセリングヘッドホンを取り出し、それを耳に深く装着し、大音量で無機質な音楽を流して、自らの意識を「遮断」したのだ。


(関われば、俺のこの耳が余計な苦痛を受ける。俺の平穏が乱される。いじめられているのは彼女であって、俺ではない。俺には関係ない……)


冷酷な保身。


創太は「過剰な耳」という自分の特性を守るため、そしてクラスの多数派である西条たちの標的にならないために、冷淡な傍観者であり続けることを自ら選択したのだ。


いや、それだけではなかった。


創太の記憶の底から、最も深く、最も血塗られた「決定的な記憶」が蘇ってきた。


1年前の10月。雨が激しく校舎を叩いていた放課後。


詩織がクラス全員から無視され、教科書を全て破られ、絶望の淵に立たされていた日。


創太が一人で階段を下りようとしていた時、踊り場の影から、泣き濡れた詩織が創太の前に姿を現したのだ。


詩織は、創太が「クラスの誰の悪口も言わず、誰のグループにも属していない静かな人間」であることを知っていた。だからこそ、彼女は最後の希望を懸けて、震える手で創太の制服の袖を掴んだのだ。


『神谷くん……お願い……助けて……』


詩織の声は、破れかけた鈴のように震えていた。


『神谷くんは知ってるでしょ……私、何もしてないの……西条くんたちが私に嘘をついて、みんなに悪口を言いふらしてるの……先生に、神谷くんからも本当のことを言って……おねがい……私、もう耐えられない……!』


詩織の指先が、創太の制服の袖を必死に握りしめていた。彼女の冷たい涙が、創太の腕にポタリと落ちた。


だが――当時の創太はどうしたか。


創太は、その詩織の手を、嫌悪感を露わにして力任せに振り払ったのだ。


ザッ!!


『触るな』


当時の創太の声が、脳内で冷酷に再生される。


『お前の声は、俺の耳にとって不快な雑音だ。自分たちのトラブルに俺を巻き込むな。失せろ』


詩織の目から、最後の光が消え去った瞬間。


創太の放ったそのたった一言――『お前の声は不快な雑音だ』という冷絶な排除の言葉が、詩織の胸を深々と穿ち、彼女の踏みとどまっていた最後の精神の糸を、物理的にブツリと切り裂いたのだ。


詩織は言葉を失い、血の出た唇を噛み締めながら、雨の降る校庭へと走り去っていった。


そしてその数日後――彼女は二階の窓から身を投げた。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」


創太は床に膝をつき、両手で自らの顔を覆って激しい咆哮を上げた。


目から、鼻から、耳から、赤黒い血がポタリ、ポタリと床の肉泥へ垂れ落ちる。


伏線は回収された。


怪異がなぜ神谷創太を「最後のターゲット」として残したのか。


創太は単なる「運良く生き残った賢者」などではなかった。


創太こそが、詩織に最後の引導を渡し、彼女の助けを求める声を『不快な雑音』と切り捨てて死へ押しやった、最も冷酷で、最も重い罪を背負った『真の加害者』だったのだ!


「がっ……あ……っ! ぐあぁぁぁぁぁぁぁっ!」


創太は自らの頭を床の肉泥に叩きつけた。


過去の記憶の扉が開かれたことで、彼の体内で「自らの罪」が黒い毒となって暴れ始めていた。


創太の耳、鼻、口、そして眼角から、ドロドロとした黒い粘液が溢れ出し、彼の制服を内側から濡らしていく。それは、一年前、詩織の助けを求める声を『雑音』として排話し、彼女の手を振り払った創太自身の「冷酷な心」そのものが、物理的な毒となって自らの肉体を侵食し始めた証拠だった。


(俺だ……俺が彼女を殺したんだ……! 西条たちが物理的な暴力を振るったなら、俺は言葉で、冷絶で、彼女の最後の魂を殺したんだ……!)


創太の背中に刺さったステンドグラスの傷口が、激しい不快感とともにジュウジュウと蒸気を上げ始めた。


通路の壁一面を埋め尽くした黒い根が、創太の罪の自覚に反応して狂ったように収縮し、壁から無数の「死んだクラスメイトたちの顔」を浮き上がらせた。


長谷川さくら、近藤、武田、小林、渡辺、水野結衣、菅原、太田、西条拓海――。


彼らの破壊された顔面が一斉に創太を覗き込み、嘲笑に満ちたハモり声を地下通路全体に木霊させた。


『――ふふ……ふふふふ……』


『――気づいたね……神谷創太……』


『――お前は……俺たちを冷酷に見下していたが……お前こそが……最も冷たく……最も汚い……傍観者だったのだ……』


カチ、カチ、カチ、カチ――!


地下通路の空間そのものが、死の歯車音を鳴り響かせる。


『――十四つ目の……「整い」です……』


『――神谷創太と……掛けまして……』


『――助けを求める声を切り捨てた……冷酷な耳と解く。……その心は?』


『――制限時間は……二十秒……。……自らの耳を削ぎ落とし……血の海に沈みなさい……』


「創太ーーーッ!」


声を失っているはずの白石葵が、喉から空気の漏れる切迫した音を上げ、床に倒れ込む創太の身体を強く抱きしめた。


葵は知っていた。創太が自らの過去の罪に打ちのめされ、自責の念によって自ら死を受け入れようとしていることを。


葵は手にした血塗られたノートを創太の目前へ突き叩いた。


そこには、葵の血の指と鉛筆で、大きく、紙が破れるほどの強さでこう書き殴られていた。


『創太、諦めないで! 創太が冷たかったのは事実かもしれない! でも、創太は今、私を命がけで守ってくれている! 私の声を奪われた時も、創太は私と一緒に泣いてくれた!』


『過去の罪からは逃げられない! でも、今ここで死んだら、詩織さんの怨念に飲み込まれて、誰も救われないままで終わっちゃうよ!』


『生きて! 創太! 生きて罪を背負って! 私と一緒に外へ出ようよぉっ!』


葵の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、創太の血塗られた顔を濡らした。


声を奪われ、二度と話せなくなった少女。彼女もまた一年前、詩織を見捨てた傍観者だった。だが、葵は自らの声を代償として差し出し、今、創太の命を繋ぎ止めるために全力で創太の胸を叩いていた。


(葵……)


創太の瞳に、途切れかけていた正気の光が再び宿った。


(そうだ……俺は罪人だ。冷酷な傍観者であり、詩織の手を振り払った悪魔だ。……だが、だからこそ! この命をここで無残に捨てて終わるわけにはいかない!)


創太は自らの舌を強く噛み切り、激痛のショックで意識を強引に引き戻した。


過剰な耳が、壁の黒い根の振動と、怪異の提示した「問いの核」を捉える。


(神谷創太と、冷酷な耳……! 重なり合う概念……!)


「答えを……提示するぅぁぁぁぁっ!」


創太は口から血を吹き出しながら、地下通路の暗闇に向かって叫んだ。


「神谷創太、および冷酷な耳! 正解は――『どちらも、他人の悲鳴を【雑音】として拒絶し、自らの安全を守るために心を閉ざしたが、最後はその拒絶した言葉(罪)によって自らの肉体を苛まれている』だぁぁぁぁぁっ!」


静寂。


制限時間、あと二秒。


爆速で回転していた死の歯車音が、ガギィン! と嫌な音を立てて停止した。


壁から浮き出ていたクラスメイトたちの顔面が一斉に苦悶の表情を浮かべ、黒い汁を吐き出しながら壁の中へと沈んでいった。


『――正解(……ととのいました……)』


地下空間全体から、呪詛と吐息が混ざり合った呻き声が漏れる。


創太の体内で暴れていた黒い粘液の侵食が止まり、耳からの出血がわずかに引いていった。


「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」


創太は葵の身体を強く抱きしめ返し、血の海の中で激しい息を吐いた。


伏線はすべて回収された。


自らが加害者であったという最悪の真実を受け入れた創太は、もはや自分の保身のために戦うのではない。自らの背負った「血濡れの過去」と向き合い、声を失った葵を連れてこの地獄を終わらせるために、完全に覚醒したのだ。


二人の前方に、ついに最後の扉が現れた。


旧校舎の地下最深部――『死儀の奉納室』。


壁の黒い根のすべてが集中し、巨大な肉の心臓のように脈動する、鳴海詩織の怨念の本尊が待つ部屋。


「行くぞ、葵」


創太は葵をしっかりと背負い直し、血塗られた手で重い鉄の扉を押し開けた。


二人を待つのは、すべての因果が交錯する、最終決戦の幕開けだった。

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