第22話:『暗闇の執着』
地下最深部へと続く暗闇は、重く湿った「紙」と「古墨」、そして耐え難い生の肉の腐敗臭によって淀んでいた。
階段を下りきった創太と葵の前に広がっていたのは、旧校舎の底に打ち捨てられた『旧地下図書室』だった。
かつて数千冊の書籍が収められていたであろう大型の木製書架は、壁の内部から這い出た無数の黒い血管状の根によって押し潰され、グニャりと無残に歪んでいた。床には、湿気を吸ってカビた百科事典や古い文学書、破り取られたページが散乱し、赤黒い粘液の海の上に浮かんでいる。その破れた紙の表面には、まるで生き物のように『死ね』『嘘つき』『消えろ』といった、かつて鳴海詩織へ浴びせられた言葉が血文字となって滲み出していた。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
創太は背中の刺創からの痛みに耐えかね、崩れかけた書架に肩を深く打ち付けた。自らの制服は血で濡れ、冷たく重く肌に張り付いている。
過剰な聴覚が、激しい「異常」を悲鳴のように訴えていた。
(耳が……耳が、狂い始めている……!)
前話までの死者たちの合唱、金属打撃音、そして幾度もの極限状態により、創太の過剰な聴覚は完全に限界を迎えていた。耳奥でキン、キンと甲高い金属音が鳴り響き、高周波の雑音が思考を激しく乱す。本来なら些細な空気の動きすら捉えられるはずの「耳」が、過負荷によって重要な音の予兆を拾い損ね始めていたのだ。
隣に寄り添う白石葵が、不安そうに創太の顔を覗き込んだ。
彼女の首筋は、怪異の『不整の代行』として注入された熱い黒蝋によって不気味な黒紫色の塊となって固まっている。声を失った彼女は、言葉を一切吐き出せない。だが、彼女は創太の呼吸の乱れと耳から溢れ出る血に気づき、痛む左肩を押さえながら、血のついたノートを強く抱きしめた。
その時だった。
書架の影から、静寂を破って「音」が立ち上った。
パラパラパラパラパラパラ……ッ!
誰も触れていないはずの散乱した書籍が一斉に跳ね起き、自律的にページをめくり始めたのだ。湿った紙が擦れ合う音が図書室全体に不気味に木霊する。
そして、それらの本から滲み出た赤黒い粘液が、床を這って創太の足元へと向かって集まり始めた。
「創太……っ!」
葵が創太の服の裾を強く引いた。葵は創太の背後を指差し、目球が破れんばかりに見開かれていた。
創太は振り返ろうとしたが、自らの耳奥の狂った雑音のせいで、背後に忍び寄る「無音の侵食」に気づくのが遅れた。
チチチチチ……ジュウウウウッ!
「ぐあぁぁぁぁぁぁっ!?」
創太の口から、凄惨な悲鳴が吹き出した。
創太の背中――さっきから刺さっていたステンドグラスの傷口を中心に、彼の皮膚が内側から急速に膨れ上がり始めたのだ。
床を這う黒い粘液と紙の成分が、創太の背中の傷口から体内に直接侵入し、彼の血液と混ざり合って体圧を狂暴に高めていた。制服の生地がメリメリと引き裂かれ、創太の背中の肉が、巨大な水風船のように直径五十センチ以上も丸く隆起していく。半透明に引き伸ばされた背中の皮膚の下で、煮え滾る赤黒い血液と破れた紙のパルプが激しく対流しているのが透けて見えた。
「がっ……あ……っ!? 熱い……背中が……破裂する……っ!」
創太は血の泡を吐きながら床へ倒れ込んだ。体内の圧力が上がりすぎ、脳に血が通わなくなっていく。耳奥の雑音がさらに激しくなり、視界が真っ白に染まっていく。
(くそっ……! いつ『問い』が……いつ侵食が始まった……!? 耳が死んでいて……聴こえなかった……!)
図書室の闇の奥から、破れたページの群れが空中に舞い上がり、あの濡れた女の声が嘲笑うように響き渡った。
『――ふふ。過剰な耳も、壊れてしまえばただの無力な穴ですね』
本が一斉に羽ばたき、死の歯車音が回り始める。
『十三つ目の「整い」です。……指名しましょう』
『神谷創太くんと掛けまして』
『旧地下図書室の、湿って膨れ上がった本と解く。……その心は?』
『制限時間は、あなたの背中が弾け飛ぶまでの三十秒。……答えなさい、神谷くん。さもなければ、渡辺くんのように体ごと弾けて肉片になりなさい』
「あ……が……っ!」
創太は自らの頭を床に叩きつけた。
背中の肉はさらに膨張し、皮膚が薄い膜となってミシミシと千切れかかっていた。あと数秒で、背中から体内の内臓と血液が爆発的に噴出し、創太は肉塊となって即死する。
しかし、過負荷を起こした創太の脳は、激痛とノイズによって正解のロジック(重なり合う概念)を構築することができなかった。
「分からない……! 思考が……まとまらない……っ!」
極限の絶望が、創太を呑み込もうとしていた。
その時だった。
創太の胸元に、一冊の血塗られたノートが力任せに叩きつけられた。
身を投げ出してきたのは――声を奪われた少女、白石葵だった。
「あ……が……っ……葵……!?」
膨れ上がる背中の激痛に悶絶しながら、創太はかすむ視界を必死でノートへ向けた。
葵は自分の左肩の傷口から吹き出る血を手で直接掴み、鉛筆の代わりに自らの「血の指」を使って、ノートのページへ狂おしいほどの速さで文字を書き殴っていた。
彼女の瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。あるのは、自らの声を奪われてなお、創太を絶対に死なせまいとする「暗闇の執着」――恐ろしいほどの強い絆の光だった。
葵は喋ることができない。だが、彼女の目は死んでいなかった。過剰な耳に頼りすぎて思考が止まった創太とは違い、葵は持ち前の観察力で、この図書室の異変と「問いの真実」を誰よりも早く見抜いていたのだ。
葵が創太の眼前へ突き突き出したノート。そこには、彼女の赤黒い血でこう叩きつけられていた。
『創太、聴くのをやめて! 私の文字を見て!』
『湿った本は【過去の言の葉(言葉)を抱え込みすぎて、外の圧力で破れかけている】!』
『創太も同じ! 【みんなの死の言葉(罪)を過剰な耳で抱え込みすぎて、体内でパンパンになって破裂しそうになっている】!』
『共通点は【言葉を溜め込みすぎて、自らの皮(肉体)を破裂させそうになっていること】!』
『叫んで! 創太、今すぐ叫んでぇぇぇっ!』
文字を見た瞬間、創太の麻痺していた脳内に、雷光のような閃光が走り抜けた。
(そうか……! 湿った本と、過剰な耳を持つ俺……! どちらも他人から吐き捨てられた【言葉】を無差別に吸い込み、溜め込みすぎて、限界を超えて破裂しそうになっているんだ……!)
葵が命がけで文字で提示してくれた、完璧な「言葉の重なり(正解)」。
制限時間、あと三秒。
創太の背中の皮膚が、プチ、プチと千切れ、熱い血液が外へ噴き出し始めたその瞬間――。
「答えを……提示するぅぁぁぁぁっ!」
創太は口から血を撒き散らしながら、図書室の暗闇に向かって叫んだ。
「神谷創太、および湿った本! 正解は――『どちらも、他人から放たれた【言葉(罪)】を体内に溜め込みすぎた結果、限界を超えて皮(肉体・表紙)を破裂させそうになっている』だぁぁぁぁぁっ!」
静寂。
背中の爆発的な膨張が、ピタリと止まった。
カチ、カチと鳴っていた死の歯車音が、狂ったように逆回転を始めた。
『――正解』
スピーカーの向こうから、悲鳴のような不快な吐息が漏れた。
次の瞬間――!
創太の背中で直径五十センチ以上に丸く膨れ上がっていた肉と血液が、まるで風船から空気が抜けるように、シュウウウウウウッ! という音とともに急速に収縮していった。
侵入していた黒い粘液と紙のパルプが体外へ吐き出され、創太は床へ倒れ込んで激しい咳き込みを起こした。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ! 助かった……っ!」
創太は血の海の中で、荒い息を吐いた。
背中の肉体破裂は、間一髪で回避されたのだ。
「葵……葵……!」
創太はすぐに体を起こし、自らの横で力尽きるように倒れていた葵を強く抱きしめた。
葵の右手は、自らの血で真っ赤に染まっていた。血の指でノートに文字を書き殴ったことで、指先の爪が剥がれかけ、痛みに身体を小さく丸めていた。
葵は声を出すことができない。だが、彼女は創太の胸の中で、声の出ない安堵の息を漏らし、創太の服を固く握り返した。
「お前が……お前が俺を救ってくれたんだな……」
創太は涙を流し、葵の血塗られた手を自分の両手で包み込んだ。
過剰な耳が潰れかけ、思考が停止した創太を救ったのは、声を失った少女の「目」と「血の文字」だった。
二人は言葉(声)を交わすことはできない。しかし、この暗闇の中で、二人の意志と執着はどんな音よりも雄弁に響き合い、死のトラップを打ち破ったのだ。
散乱していた本が力を失って床へ落ち、図書室の黒い根が苦悶するように壁の中へ引き込んでいった。
創太は葵をしっかりと背負い直した。
「行こう、葵。お前が繋いでくれたこの命で……絶対に本尊を倒す」
葵は創太の背中で小さく首を頷かせた。
ふたりは血の深淵を乗り越え、すべての怨念と殺戮の元凶が待つ、地下最深部の『死儀の奉納室』へと、再び強く足を踏み出していくのだった。




