第21話:『言葉の生贄』
音楽室の重厚な防音扉が、血と錆の匂いを孕んだ不快な軋み音を立てて閉ざされた。
背後で聞こえていた、何百もの肉片へ切り刻まれた松本と、首を失った木村の鮮血が床へ叩きつけられるドシャリという不快な液音も、分厚い扉の向こう側へと沈んでいく。
地下廊下に残されたのは、圧倒的な静寂と、冷え切った湿気だけだった。
「はぁ……はぁ……っ」
神谷創太は、背中の刺創から溢れ出る血の熱さを感じながら、血塗られた壁に肩を深く預けた。膝がガクガクと震え、吐き気が喉元まで込み上げてくる。自らの制服は、これまでに死んでいったクラスメイトたちの返り血と脂で黒ずみ、固まった血液が鎧のように重く皮膚に張り付いていた。
隣に寄り添う白石葵もまた、壁に背を預けて荒い息を吐いていた。
彼女の首筋は、怪異の『不整の代行』として注ぎ込まれた熱い黒蝋によって、不気味な黒紫色の塊となって固まっている。声を失い、言葉を一切吐き出せない彼女は、左肩の痛みに耐えながら、血のついたノートを両手で強く抱きしめていた。
二人は、生存者(生き残り)の全てだった。
2年B組の生徒、総勢三十余名。かつて同じ教室で過ごし、くだらない雑談をし、文化祭の準備で喧嘩をし、テストの点数を競い合っていた同級生たちは、もう一人としてこの世に存在しない。
長谷川さくら、近藤、武田、工藤、井口、小林、渡辺、水野結衣、菅原、太田、西条拓海、加藤、佐々木、谷口、山田、松本、木村――。
全員が、自らの暴言の対比として肉体をグロテスクに解体され、血の泥となって校舎の床に撒き散らされた。
「……葵」
創太の声は、ガラガラに枯れていた。
葵がハッと顔を上げ、涙に濡れた瞳で創太を見つめた。彼女は震える指先でノートに鉛筆を走らせ、創太へ突き出した。
『みんな……死んじゃったね。本当に……私たちだけになっちゃった』
創太は葵の文字を静かに見つめ、深く、冷たい息を吐き出した。
「ああ。全員死んだ」
その声には、クラスメイトを失った悲しみや悼みの色は一切混ざっていなかった。創太の瞳の奥で揺らめいていたのは、氷のように冷徹で、研ぎ澄まされた計算の光だった。
(全員が死んだ。……いや、違う。『全員を死なせるように、最初から設計されていた』んだ)
創太の脳内で、これまでの殺戮の全プロセスが高速で再構築されていく。
なぜ怪異は「なぞかけ」という形態をとったのか?
なぜ一度に一人、あるいは少人数を指名して制限時間を設けたのか?
なぜ「答え」に失敗した者の死に様は、あれほどまでに誇張され、残された生徒たちの恐怖と狂気を煽る形で行われたのか?
答えは、明白だった。
怪異の真の狙い。それは、単なる腹いせの連続殺人でも、鳴海詩織の個人の復讐劇でもない。
『2年B組という集団を、心理的に崩壊させ、物理的に完全消滅(全滅)させること』。
「なぞかけ」は、救済の機会を与えるためのゲームなどではなかった。
あらかじめ用意された極限状態の籠城戦。水と食料を断ち、死臭を充満させ、生き残りたいという人間の醜い自保心を刺激することで、生徒同士に「生贄の奪い合い」をさせ、人間性を完膚なきまでに破壊した上で、一人残らず屠殺するための「システム」だったのだ。
「葵……よく聞け」
創太は葵の肩を力強く掴み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「この怪異は、最初から俺たち全員を殺すつもりだった。誰一人として生かして帰す気なんてなかったんだ。正解を出せば助かるというのは嘘だ。正解は『死の延期』に過ぎず、残された人数が減れば減るほど、次の問いの殺意と難易度は跳ね上がるように組まれていた」
葵の身体が、ピクリと跳ねた。彼女の瞳に、新たな種類の恐怖が走る。
葵はノートに速い筆致で書き込んだ。
『じゃあ……私たちがどんなに正解を出しても、いつかは死ぬの? 怪異の目的が「全滅」なら、生存者がゼロになるまで問いは終わらないの……?』
「そうだ」
創太は躊躇なく肯いた。希望を持たせる甘い嘘は、この土壇場では死に直結する。
「怪異のゴールは『2年B組の全員の死亡』だ。そして現在、生存者は俺とお前の『二人』。怪異にとって、目的達成までの最後の障害が俺たちだ」
創太は自らの過剰な聴覚に意識を集中させた。
旧校舎の地下へ続く黒い廊下。その壁の内部を通る「黒い血管状の根」から、ドクドクと重重しく脈打つ音が響いている。それは、二十以上の生命を吸い上げ、熟成され、肥大化した「呪いの心臓」の鼓動だった。
(なら、どうする? 相手の勝利条件が『全員の死』である以上、俺たちが生き残るための条件は一つしかない)
創太の思考は、人間の倫理や道徳を完全に切り捨て、冷酷なロジックの深淵へと潜り込んでいった。
怪異というプログラムを打ち破るための、冷徹な計算。
怪異は言葉のロジックに従って現象を出力する。ならば、怪異が提示する「2年B組の全滅」という大前提に対し、言葉の定義を狂わせる論理のバグ(穴)を突き刺さなければならない。
「葵。お前は声を失った」
創太は葵の冷たい首筋にそっと触れた。硬化した黒い蝋の感触。
「お前の『声帯』は、すでに怪異によって塗殺され、一度死亡したとみなされている。そしてお前は言葉を奪われ、社会的な意味での『言葉を発する人間』ではなくなった」
葵が息を呑み、創太の言葉の意味を探るように目を見開いた。
「怪異の認識において、お前はすでに『半ば死者(言葉を奪われた生贄)』としてカウントされている可能性がある。……これが、俺たちに残された唯一の隙(計算の余地)だ」
創太の言葉は、まるで外科医が死肉を執刀するかのように冷ややかで、透き通っていた。
自らの背中に刺さったガラス片の激痛も、足元に漂う生血の臭いも、創太の計算を揺るがすことはできなかった。
「怪異が次に狙ってくるのは、間違いなく俺だ」
創太は自らの胸に手を当てた。
「俺は過剰な耳を持ちながら、鳴海詩織の助けを求める声を聴き捨てた『最大の傍観者』だ。怪異にとって、神谷創太という存在を最も凄惨に解体し、言葉の生贄として捧げることが、この殺戮儀式の最後のフィナーレ(完成)になる」
葵は首を激しく振り、創太の服を破らんばかりの力で掴んだ。
涙が彼女の瞳から溢れ出し、血で汚れたノートの紙面へポタリと落ちる。葵はノートを開き、必死の手つきで書き殴った。
『嫌だ! 創太が身代わりになるなんて絶対に嫌! 私が……私がもう一度身代わりになる! 創太は生きて外へ出て!』
「馬鹿言え」
創太は葵の手を優しく、しかし絶対に拒絶できない強さで包み込んだ。
「お前にこれ以上の代償を払わせるわけがないだろ。お前はもう声を差し出したんだ。これ以上お前が傷つけば、俺の計算はすべて崩壊する」
創太の目の奥に宿っていたのは、自己犠牲の美徳などではなかった。
それは、自分と葵の二人で生きてこの地獄を脱出するための、最も効率的で、最も血生臭い「コスト計算」だった。
(怪異が求める『生贄の価格(対価)』……)
これまでの犠牲者たちは、全員が自らの命と肉体そのものを100%奪われて死亡した。それは彼らが自らの罪を認めず、保身に走り、偽りの回答を叫んで『不整』となったからだ。
だが、もし指名された者が、自らの罪を完璧に認め、怪異が求める対価(肉体や機能の破壊)を、『死に至らないギリギリの自傷』として自ら先払いしたらどうなる?
問いを解くだけではない。
正解の回答とともに、怪異が要求する「身体の解体」を自らの手で小規模に実行し、怪異の殺意を「満額回答」として強制終了させる。
(命を捨てるんじゃない。『身体の一部(代償)』を生贄として捧げることで、全体の全滅(死)という結末を買い叩くんだ)
これが、創太の導き出した冷酷な結論だった。
「葵、よく聞け」
創太は葵の耳元へ顔を寄せ、極小の声で告げた。
「この先、地下最深部で怪異の本尊と対峙した時、俺は自らの身体の一部を捨てる。過剰な耳か、あるいはそれに代わる身体の機能をだ。俺がその代償を支払っている隙に、お前は俺の手を引いて、崩壊する空間から外へ逃げるんだ」
葵は涙を流しながら創太を見つめ、声の出ない喉で小さく「嫌だ」と首を振った。
だが、創太は葵の頭を抱き寄せ、自らの額を彼女の額へ強く押し当てた。
「これは取引だ。怪異との取引であり、お前との約束だ。俺たちは二人で生きて帰る。そのために必要な『言葉の生贄』を、俺が支払うだけの話だ」
二人の鼓膜に、静寂を切り裂いて不気味な低音が届いた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
旧校舎の地下最深部――『死儀の奉納室』へと続く重い鉄の扉が、誰も触れていないにもかかわらず、地鳴りのような音を立ててゆっくりと開かれ始めた。
扉の向こうから溢れ出てきたのは、これまでの何倍もの濃密な血と腐肉の匂い、そして――黒い血管状の根が幾重にも脈動し、巨大な心臓のように蠢く「怪異の本尊」の気配だった。
『――ふふ。冷酷な計算ですね、神谷創太くん』
スピーカーを介さない。地下の空間そのものが肉壁を震わせて吐き出す、あの鳴海詩織の怨念の本尊の声が、二人の脳髄へ直接響き渡った。
『クラスメイトたちの命を『コスト』と呼び、自らの身体の切り売りで命を買おうとは……。あなたこそ、最も冷酷で、最も恐ろしい悪魔だ』
声は嘲笑っていた。しかし、その嘲笑の中には、創太の冷徹な決意に対する、かすかな警戒の不協和音が混ざっていた。
「悪魔で結構だ」
創太は血塗られた鉄パイプを握り直し、葵の手を力強く握った。
「俺たちを殺したければ、お前たちの用意した生贄の価格を、俺が自ら叩き割って支払ってやる」
創太の瞳に揺らぎはなかった。
クラスメイトの全滅。少女の失声。そして自らに課せられた最後の生贄。
冷酷な計算を胸に秘め、創太と葵は、すべての因果が交錯する最恐の深淵――地下最深部へ向かって、最後の一歩を踏み出した。




