第20話:『音楽室の悲鳴』
肉壁がドロドロの血の濁流となって崩れ去り、歪んだ地下廊下には、刺すような酸と腐肉の匂いが立ち込めていた。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
神谷創太は背中の刺創からの痛みに耐えかね、崩れかけた壁に肩を打ち付けた。自らの制服は血で濡れ、冷たく重く肌に張り付いている。隣に寄り添う白石葵もまた、失血と激痛に全身を震わせていた。声を完全に失った彼女の首筋は、黒い熱蝋によってカチカチに固まり、その不気味な黒紫色の質感が非常灯の赤光を吸って怪しく鈍く光っている。
二人は、旧校舎の地下深くへ至る横穴の廊下を進んでいた。
だが、創太の過剰な聴覚は、自分たちの荒い呼吸音と、壁の内部を通る「黒い血管状の根」の拍動の裏側で、背後から近づいてくる「あり得ない足音」を拾い上げていた。
ペタ、ペタ、ペタ……。
血で滑る床を踏みしめる、乱れた靴底の音。それは黒い根に吊り下げられた死体の傀儡の引きずり音ではない。生きている人間の、死の恐怖に狂った浅く激しい呼吸と、がたがたと震える膝が擦れ合う生身の音だった。
「誰だ……!?」
創太が血塗られた鉄パイプを構え直し、葵を庇うように振り返る。
暗闇の廊下の奥から姿を現したのは、死んだと思われていた2年B組の同級生――男子生徒の松本と、女子生徒の木村だった。
二人は、第12話の『血の選別』や第15話の脱出劇の際、パニックの混乱の中で崩れた教卓の陰や用具入れの奥へ死に物狂いで隠れ潜み、奇跡的に怪異の殺戮孔から漏れ出て生き延びていた生存者だった。
だが、二人の正気は完全に壊れていた。
松本の顔面は自らの恐怖で引っ掻いた爪傷で血みどろになっており、木村の瞳は焦点を結ばず、口からダラダラと泡の混ざった唾液を垂らしている。彼らの手には、壊れたパイプ椅子の脚や、血の付いたガラス片が握られていた。
「はぁ……はぁ……神谷……白石ぃっ……!」
松本が血走った目で創太を凝視し、掠れた叫びを上げた。
「やっぱり生きてやがった……! お前たちだけ……正解を知って逃げやがったんだろ! 俺たちを……俺たちを置き去りにしてぇぇっ!」
「神谷くん……助けてよぉ……!」木村が狂ったように笑いながら、涙と血で汚れた顔を歪めた。「ねえ、答えを頂戴? 私に答えをくれたら、なんでもするから……! 私を置いていかないでぇっ!」
「松本、木村……! 生きていたのか……!」
創太が声を詰まらせた。しかし、二人の発する不穏な心拍数と、殺気立った気配に、創太は即座に警戒を最大限まで引き上げた。
彼らはもう、まともな意思疎通ができる状態ではない。極限の絶望と恐怖によって精神が破綻し、「神谷創太に縋り付くか、あるいは彼を刺してでも答えを奪い取る」という狂信的な自保心だけに駆動されている。
「来るな! ふたりとも落ち着け!」創太は叫んだ。「ここに立ち止まっていれば、また怪異の問いが来る! 旧校舎の深淵へ向かうんだ!」
「嘘つけぇぇぇっ!」
松本が手に持ったパイプ椅子の脚を振りかざし、創太に向かって突進してきた。
「お前はまた俺たちを実験台にする気だ! お前を殺して、お前のノートを奪えば俺たちは助かるんだよぉっ!」
「創太……っ!」
声を奪われた葵が、創太の服を引っ張り、脇にあった重い旧式の防音ドアの取っ手へと手を伸ばした。
「くそっ、入れ!」
創太は松本の振るった鉄パイプを間一髪でかわし、葵とともに脇の部屋へ飛び込んで内側から強固な鉄の閂を叩き落とした。
ガシャンッ!!
「開けろ! 開けろ神谷ぁぁぁっ!」
外から松本と木村が狂ったように扉を叩き、体当たりをかましてくる。
創太たちが飛び込んだその場所は、かつて旧校舎で使われていた『旧第一音楽室』だった。
室内は、不気味な静寂と、長年密閉された乾燥した木と金属の臭いに満ちていた。月光すら届かない暗闇の中、棚に並べられたバイオリンやチェロ、壁に飾られた大作曲家たちの肖像画が、非常灯の赤光を浴びて不気味なシルエットを浮かび上がらせている。
そして、音楽室の中央には――一台の巨大な、黒塗りのグランドピアノが、まるで黒い棺桶のように鎮座していた。
「ふぅ……ハぁ……ッ!」
創太は扉に背中を預け、荒い息を吐いた。
だが、創太の過剰な聴覚は、この音楽室の内部を満たす「致命的な異変」を瞬時に察知した。
室内を流れる空気の微振動。
グランドピアノの蓋の奥、そして壁や天井の音響板の隙間から、無数の「細い金属の糸」が、生き物のように蠢きながら引き出されていたのだ。
ピアノ線。
鋼鉄で作られた、極めて細く、そしてカミソリのように鋭利な無限の鋼線群が、音楽室の空間全体に目に見えない蜘蛛の巣のように張り巡らされていたのだ。
「葵……動くな……!」
創太が極小の囁き声で警告を発した、その瞬間だった。
バギャァンッ!!
外の松本と木村が、扉の破れ目から木枠を叩き割り、狂乱のまま音楽室の室内へと雪崩れ込んできた。
「見つけたぞ神谷ぁぁぁっ!」
松本と木村が、足元や空間に張り巡らされた「死の仕掛け」に気づくはずもなかった。
彼らが一歩、音楽室の床を踏みしめた、その時――。
ポロン……。
暗闇の音楽室に、誰も触れていないはずのグランドピアノから、低く濁った鍵盤の音が響いた。
その不気味な一音が鳴り響いた瞬間、音楽室の空間全体を満たしていた無数の「ピアノ線」が、一斉にピンと過剰な緊張を孕んで突っ張った。
「え……?」
狂乱して創太へ襲いかかろうとしていた松本の足が、ピタリと止まった。
彼の首筋、両腕、胴体、そして太ももに、暗闇の中で光る数十本の細い鋼線が、すでに目に見えない速さで複雑に巻き付き、皮膚へ深く食い込んでいたのだ。
隣にいた木村も同様だった。彼女の豊満な胸元、細い首、手首、足首に、何十本ものピアノ線が蜘蛛の巣のように絡みつき、彼女の身体を空中へ僅かに吊り上げるように固定していた。
「な……なにこれ……? 動けない……っ!」
木村が引きつった声を上げた。彼女が身寄りを解こうと腕をわずかに動かした瞬間――。
ブスッ……!
「あ……が……っ!?」
鋼線が彼女の皮膚を容易く切り裂き、赤黒い血がツッと糸を伝って床へ垂れ落ちた。
「動くな木村! 動いたら切れるぞ!」
創太が叫んだが、もう遅かった。
グランドピアノの鍵盤が、まるで目に見えない演奏者の指によって叩かれるように、自律的に沈み込み始めたのだ。
ターン、ターン、タン、タン、タターン――。
流れてきたのは、歪んだ不協和音で奏でられる、狂気の『死の旋律』だった。
その旋律に合わせて、二人の身体に巻きついたピアノ線が、グランドピアノ内部のフレームと連動し、ギチギチと音を立てて凶悪な力で引き絞られ始めた。
『――ふふ。音楽室へようこそ』
ピアノの響板の奥から、あの湿った女の声が、旋律の不協和音に混ざり合って響き渡る。
『美しく調律えられた弦の響きは、お好きですか?』
カチ、カチ、カチ、カチ――!
ピアノの打弦機構の奥で、死の歯車音が旋律のリズムに合わせて回転し始める。
『十二つ目の「整い」です。……問いかけましょう』
『ピアノ線に絡め取られた、二人の愚者と掛けまして』
『かつてあなたたちが詩織さんに浴びせた、「不快な不協和音」と解く。……その心は?』
『制限時間は、この曲が終わるまで。……さあ、演奏に合わせて踊りなさい』
「ひ……ひぃぁぁぁぁぁっ! 嫌だ! 助けて! 神谷ぁぁぁっ!」
松本が狂ったように暴れた。だが、彼が暴れれば暴れるほど、体に巻きついたピアノ線はさらに深く肉へ食い込み、彼の骨まで達しようとした。
「松本! 動くなと言ってるだろ!」創太が叫ぶ。
だが、パニックに囚われた松本と木村に、創太の声は届かない。
旋律が、曲のクライマックスに向かってテンポを速め始めた。
タタタタタタタタタタタタッ!
ギギギギギギギギギギギギッ!!!!
「あがががががががががっ! 痛い! 切れる! 体が切れるぅぅぅっ!」
ピアノの鍵盤が連打されるたびに、鋼線が二人の肉体をミリ単位で力任せに引き絞っていった。
ズバババババババババッ!!!!
「ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
木村の悲鳴が、絶叫から血の気泡音へと変わった。
彼女の右腕の手首、肘、肩の肉が、ピアノ線によって一瞬にして三つの肉のリングとなって綺麗に切り落とされ、床の血の海へポトポトと落ちた。切り口から鮮血が噴水のように吹き出す。
さらに、彼女の首に巻きついていた鋼線が、旋律の重低音に合わせてギチッと一気に引き絞られた。
ゴチュッ!
木村の首の皮膚、気管、頸動脈、そして首の骨(頸椎)が、チーズを針金でスライスするように綺麗に切断された。彼女の生首が、胴体から滑り落ち、血を撒き散らしながら床を転がった。首を失った胴体は、ピアノ線に吊り下げられたまま、ピクピクと体内の血を天井へ吹き上げている。
「木村ぁぁぁぁぁぁっ!」
松本が狂乱し、絶叫しながら自らの身体を強引に引きちぎろうとした。
その瞬間、ピアノの旋律が最後の和音を叩きつけた。
ジャアアアアアンッ!!!!
ズザザザザザザザザザザザザッ!!!!
松本の全身に巻きついていた数百本のピアノ線が一斉に極限まで引き絞られた。
松本の頭部、胸、腹、両腕、両脚が、格子状に細かく切り刻まれ、何百もの肉のサイコロとなって一瞬にして崩れ落ちた。
バラバラバサバサッ!
肉と骨のサイコロが、大量の温かい血とともに理科室の床へ崩れ落ち、赤黒い山を作った。彼の着ていた制服の布地だけが、細かく切断されて血の海の上にひらひらと舞い落ちる。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は葵を自らの身体で覆い隠し、舞い散る血のスコールに耐えていた。
旋律が、静かに止んだ。
音楽室の中央には、何百もの肉のサイコロとなった松本の残骸と、首を切断された木村の死体が、血の海の中で静かに煙を上げていた。
グランドピアノの黒いボディが、二人の流した大量の血液を吸って、不気味に赤黒く光り輝いている。
『――ふふ。美しい演奏会でしたね』
スピーカーから、女の声が満足げに降ってきた。
『詩織さんの声を「不協和音だ」「下手くそだ」と笑った者たちが、最後は自らの肉体を弦で弾かれて不協和音となりました』
静寂。
生存者、再び創太と葵の二人。
追ってきた同級生二人の凄惨な自壊劇を経て、旧校舎の音楽室は、完全な沈黙を取り戻した。
創太は葵の手をしっかりと握り直し、血塗られた床を踏みしめて立ち上がった。
過剰な耳が捉える。グランドピアノの底から、旧校舎の地下最深部へと伸びる、黒い根の最後の誘いを。
「行くぞ、葵」
葵は声を出さず、力強く首を頷かせた。
ふたりは血と肉の散らばる音楽室を後にし、すべての決着が待つ、地下深淵の最底へと足を踏み出していくのだった。




