第19話:『暴言の代償』
生徒指導室の壁面を埋め尽くした黒い根が、まるで巨大な粘膜のように収縮と膨張を繰り返していた。舞い散る学級日誌の破片。その紙片にこびりついた血文字が、非常灯の赤光を吸って怪しく蠢いている。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
神谷創太は、背中の刺創からの出血に自らの制服の生地を固く押し当てながら、白石葵の手を握りしめて生徒指導室から飛び出した。
二人が足を踏み入れたのは、旧校舎の地下最深部へ続く「下り廊下」だった。
そこは、もはや学校の構造を留めていなかった。コンクリートの壁はドロドロに溶けた生の肉壁へと変貌し、足元の床は人間の脂肪と血液が混ざり合った赤黒い泥沼と化している。一歩踏み出すたびに、ズズズ……と脚が泥の中に呑み込まれそうになり、腐敗した生の内臓の異臭が鼻腔を激しく突いた。
声を失った葵は、自らの左肩の激痛に歯を食いしばりながら、血塗られたノートを胸に抱いて創太に追従していた。彼女の首筋は、怪異の不整の代行として注ぎ込まれた黒い熱蝋によって石膏のように硬化し、言葉を一切吐き出せない。だが、その瞳には諦めや絶望の陰はなく、創太とともにこの地獄を突破しようとする力強い意志が宿っていた。
ふたりの足元から、そして湿った肉壁の奥から、無数の「声」が湧き上がり始めた。
『――汚い』
『――空気が読めない』
『――存在価値がない』
『――喋るな、息をするな、消えてしまえ』
それは、これまでの犠牲者たち――長谷川さくら、近藤、武田、小林、渡辺、水野結衣、菅原、太田、西条拓海たちの生前の「声」だった。彼らが一年前、この学校の教室で、廊下で、下駄箱で、鳴海詩織に向かって投げつけた無数の「暴言」の残響。
それらの言葉が、地下廊下の肉壁の表面でボコボコと不気味な気泡となって弾け、粘液とともに床へ流れ落ちていく。
「くっ……!」
創太は自らの頭を押さえた。
過剰な聴覚が、壁から湧き出る何千、何万という暴言の波形を、過密な精度で拾い上げてしまう。耳奥で脳神経が焼き切れるような高熱が生じ、創太の目から血の混ざった涙がポタリと滴り落ちた。
「創太……っ!」
葵が創太の腕を強く抱きしめ、自分の身体を創太の頭に寄せた。彼女の体温と、その胸の奥で力強く打つ心音だけが、創太の崩壊しそうな正気を繋ぎ止める唯一の錨だった。
「大丈夫だ……葵……俺は屈しない……!」
創太は自らの舌を強く噛み切り、刺すような痛みのショックで意識を強引に覚醒させた。口の中に広がる熱い血の味。
その時だった。
前方の肉壁が、巨大な胃袋のひだのように大きく隆起し、二人の進路を完全に塞いだ。
隆起した肉壁の表面から、無数の「人間の口」が、キノコのように芽吹いて突出し始めたのだ。
数十、数百の口。それらは死んでいったクラスメイトたちの唇の形をしており、一斉にガパリと開き、唾液と血の泡を吹き出しながら、あの不気味なハモり声を響かせ始めた。
『――ふふ……ふふふふ……』
『――さあ……自分の吐いた毒の味を……味わいなさい……』
カチ、カチ、カチ、カチ――!
肉壁の奥から、これまでのどれよりも重く、太い死の歯車音が響き渡る。
『――十一つ目の……「整い」です……』
『――神谷創太……および……白石葵と……掛けまして……』
数百の口が一斉に歪み、問答を吐き出す。
『――一年前の雨の日に……投げつけられた……「言葉の毒」と……解く……。……その心は?』
カチカチカチカチカチカチ――!
超高速のカウントダウンが始まった。
制限時間は、わずか「一分」。
「言葉の毒……!? 一年前の雨の日に投げつけられた言葉……!?」
創太の視界が、血と汗で激しく揺れた。
肉壁の口たちが、一斉に死の歯車を回転させながら、不気味に蠢いている。足元の赤黒い肉泥が、じわじわと二人の足首を締め上げ、下半身を底なしの泥沼へと引きずり込もうとしていた。
(一年前の雨の日の言葉の毒……!)
創太の脳内で、生徒指導室で見つけた学級日誌のページと、これまで起きた惨殺の光景、そして自らの過剰な聴覚が記憶していた一年前の「音」が一気に繋がり始めた。
なぜ長谷川さくらは体内で何百本ものハサミを噴出させて肉体を切り刻まれたのか?
なぜ近藤は太ももの肉をシュレッダーにかかった紙のように縦に切り裂かれたのか?
なぜ小林は全骨格がガラス化して粉々に粉砕されたのか?
なぜ渡辺は血液が沸騰して肉体ごと爆破したのか?
なぜ水野結衣は体内でステンドグラスが弾けて微粒子となったのか?
なぜ菅原は喉から何千本もの針を噴出させて壁に縫い付けられたのか?
なぜ太田は全皮膚を破られたノートの紙切れとして剥ぎ取られたのか?
そしてなぜ西条拓海は肉吊りフックで内臓を破裂させられたのか?
それまでの創太は、これらの問いを「言葉の掛詞(トンチや連想ゲーム)」として解析していた。
だが、違ったのだ。
この怪異の問いの本質は、そんな生ぬるい言葉遊びなどではなかった。
それらはすべて、一年前、2年B組の生徒たちが鳴海詩織に対して直接投げつけた「残酷な暴言(暴言のロジック)」の、物理的な対比であり、寸分違わぬ『返り血』だったのだ!
創太の記憶の扉が、激しい音を立てて開いた。
一年前の雨の日。雨音が校舎の窓を叩く放課後。
創太の過剰な聴覚は、教室や廊下、階段で繰り広げられていた惨劇の音を、正確に拾い上げていた。
長谷川さくらが詩織に吐き捨てた言葉。
『あんたの言い方って、言葉で人を切り刻んでるみたいで胸くそ悪いんだよ!』
⇒ だから、さくらは自らの体内から噴出したハサミで切り刻まれた。
近藤が詩織のノートを破り捨てながら言った言葉。
『こんなノート、シュレッダーにかけて細かく千切って捨ててやるよ!』
⇒ だから、近藤は自らの肉体をシュレッダーの細切れの紙のように千切られた。
小林が詩織の泣き顔を嘲笑して言った言葉。
『あいつの心はガラスみたいに脆いな。ちょっと怒られただけで全身粉々に砕け散りそうだな!』
⇒ だから、小林は自らの全骨格がガラス化して粉々に砕け散った。
渡辺が詩織の怒り顔を見て嘲笑した言葉。
『顔真っ赤にして怒ってやんの。今にも頭に血が上って爆発しそうだな!』
⇒ だから、渡辺は体内の血液が沸騰して肉体ごと爆発した。
水野結衣が詩織の差し伸べた手を拒絶して言った言葉。
『私に近寄らないで。私は綺麗でいたいの。あんたみたいな割れた破片と関わりたくないの!』
⇒ だから、結衣は体内で割れたステンドグラスの破片を弾けさせて自壊した。
菅原が階段で詩織へ向かって陰口を言っていた言葉。
『あいつの口、針で縫い付けて静かにさせてやりたいよ。チクチクとうっとうしいんだよ!』
⇒ だから、菅原は喉から出た針で口を縫い合わされ、壁に縫い付けられた。
太田と西条が詩織の教科書を破り捨てて笑った言葉。
『お前なんてただの破られた紙切れと同じだ。ゴミ箱にポイだよ!』
⇒ だから、太田は全皮膚を破られた紙切れとして剥ぎ取られて自滅した。
そして、西条拓海が放送室で詩織を拘束して吐き捨てた言葉。
『お前は肉市場の豚と同じだ。フックに吊るされて処理されるのがお似合いなんだよ!』
⇒ だから、西条は肉吊りフックで吊るされて内臓を破裂させた。
「そうか……! そうだったのか……!」
創太の全身に、雷に打たれたような衝撃と、身の毛もよだつ恐怖が駆け抜けた。
すべての「問い」と「死に様」は、怪異が気まぐれで作った謎解きではない。
自分たちが詩織を傷つけるために放った「言葉の刃」が、そのままの形で自分たちの肉体を解体する刃となって返ってきていたのだ!
生徒たちは、自らが過去に吐き捨てた暴言の通りに、自らの肉体を破壊されていたのだ!
「葵……見たか! これが……これが問いの真実だ!」
創太の叫びに、声を失った葵の瞳が激しく見開かれた。葵もまた、創太の提示した真実に気づき、激しいショックで身体を震わせた。自分たちが「軽い気持ち」「ノリ」「保身」で放っていた一つ一つの言葉が、どれほど残酷な死の設計図となっていたかという恐ろしい事実に。
残り時間、わずか十五秒。
肉壁の無数の口が、歯車音を極限まで加速させ、泡を吹いて叫ぶ。
『――答えを……示せ……! さもなければ……お前たちも……己の言葉で……解体されよ……!』
肉泥が創太たちの膝まで跳ね上がり、強烈な酸性と腐敗臭で肉を焦がし始める。
「答えを提示する!」
創太は自らの背中の痛みを叫びで打ち消し、肉壁の無数の口に向かって咆哮した。
「神谷創太、および白石葵。正解は――『どちらも、一年前、俺たちが他人を傷つけるために放った【暴言の刃】であり、今度は自分たちの肉体を解体する【返り血】となって、寸分狂わず自分自身へと突き刺さっている』だぁぁぁぁぁっ!」
静寂。
制限時間、あと三秒。
爆速で回転していた死の歯車音が、ピタリと動きを止めた。
肉壁の無数の口が一斉に硬直する。
『――正解』
数百の口から、血の泡とともに、絶望と怨念が混ざり合った吐息が吐き出された。
正解の判定。
次の瞬間――!
二人の進路を塞いでいた隆起した肉壁が、ドロドロの血の濁流となって一気に破裂・融解し、床の肉泥の中へと崩れ落ちていった。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は葵を抱きしめたまま、肉泥の上へ膝をついた。
間一髪。
怪異の「言葉のカラクリ」の全貌を解明したことで、創太たちはまた一つ、最悪の死を回避した。
しかし、その正解の味は、ああまりにも苦く、血生臭かった。
自分たちが過去に放ってきた暴言の数々。それが巡り巡ってクラス全員を最悪の肉体破壊へ追いやり、葵から声を奪い、今なお二人を殺そうと追い詰めているのだ。
「行くぞ……葵」
創太は血濡れた葵の手をしっかりと握りしめ、立ち上がった。
肉壁が崩れ去ったその先――旧校舎の地下最深部。
そこには、黒い根のすべてが収束する、巨大な空間が開かれていた。
一年前の雨の日に命を絶った少女・鳴海詩織の怨念と、この「なぞかけの呪い」の真の発信源(本尊)が待つ、最終の地獄へと、ふたりはついに足を踏み入れるのだった。




