第18話:『過去の影』
理科室の床を溶かした強酸の肉泥が、グツグツと泡を立てながら下の階へと流れ落ちていく。
腐蝕された人工大理石の焦げつく匂いと、人間の脂が熱で分解された強烈な異臭が、充満する白煙とともに二人の喉を鋭く刺した。創太は背中の刺創に走る激痛に歯を食いしばりながら、葵の身体をしっかりと抱え直し、間一髪で崩落を免れた旧校舎の奥へと続く通路へ滑り込んだ。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
膝を折って床へ倒れ込みそうになる身体を、自らの脚に力を込めて耐える。創太の制服は、これまでの犠牲者たちの返り血と、自らの傷口から出た血で赤黒く塗れ、濡れた雑巾のように重く皮膚へまとわりついていた。
隣に並ぶ白石葵もまた、限界を迎えていた。左肩を抉られた傷からの出血は、創太が破いて巻きつけた布地を朱に染め上げ、彼女の顔からはあらゆる生気が失われていた。怪異の不整の代行として、その喉の奥に注ぎ込まれた熱い黒蝋。いまや石膏のように冷たく固まった首筋を押さえながら、声を奪われた少女は、創太の手を破らんばかりの力で握りしめていた。
「大丈夫だ……葵。ここで止まったら、奴らに追いつかれる」
創太の声は枯れ果て、掠れていた。自らの過剰な聴覚が拾い上げるのは、自分と葵の爆発しそうな心拍数、そして通路の壁の内部を通る「黒い血管状の根」が、ドクドクと重低音を響かせて脈打つ音だ。
二人が辿り着いたのは、旧校舎の一角に位置する、扉の半ば壊れた「生徒指導室」だった。
外の廊下は、強酸で溶けた理科室の床から這い上がる死体たちの怨念が渦巻いている。この部屋の頑丈なスチール製の保管庫の陰であれば、束の間の身を潜める時間が作れるはずだった。
創太は壊れかけた木製の扉をそっと押し開け、葵を室内へと引き入れた。
ギシ……と静かな悲鳴を上げて閉まる扉。
生徒指導室の中は、湿ったカビの臭いと、長年放置された古い紙の臭気が重く沈殿していた。月光すら届かない完全な暗闇。部屋の壁際には、かつて生徒から没収された物品や、過去の指導記録が詰め込まれた鋼鉄製の大型ファイルキャビネットが所狭しと立ち並んでいる。
創太は葵をキャビネットの隙間の床へそっと座らせ、自らも隣へ崩れ落ちた。
「ふぅ……っ……!」
創太は自らの手のひらで葵の冷たい頬を包み込んだ。葵は静かに涙を零しながら、創太の手のひらに自分の頬を擦り寄せた。声を失い、言葉を吐き出すことのできない彼女の瞳には、言葉以上の絆と、死線を超えてきた者同士の深い信頼が宿っていた。
葵は震える手で、血のついたノートを開き、小さくなった鉛筆の芯を走らせた。
『創太、背中の傷、見せて。血が止まっていないよ』
創太は葵の手をそっと制し、首を横に振った。
「俺の傷は後だ。それよりも……この部屋の空気、何かがおかしい」
創太の過剰な聴覚が、この生徒指導室の奥――一番古い鋼鉄製キャビネットの内部から響く「音」を捉えていた。
それは、風の音でも、怪異の配線音でもない。
サワ……サワサワ……。
まるで、誰も触れていないはずの紙の束が、暗闇の中で自ら湿気を吸って摩擦しているような、微かな「紙の軋み音」だった。
創太はスマートフォンを取り出し、画面の僅かな液晶の光をかざした。画面のバッテリー残量は数パーセントを示し、いつ消えてもおかしくない。その淡い青白く光る境界線の中に、鍵の破られた古いキャビネットが浮かび上がった。
ラベルには、赤いペンでこう書かれていた。
『平成・令和年度 生徒指導・特別観察記録』
創太の指先が、錆びついた取っ手に触れた。
キギギ……と鋭い金属音を立てて引き出しが開く。中には、埃を被った厚手のファイルや、バインダーに閉じられた学級日誌がびっしりと詰め込まれていた。
その一番手前、黒い粘液の染みが表紙に大きくこびりついた冊子に、創太の視線が釘付けになった。
金文字で刻まれたタイトル――『1年度(昨年度) 1年B組 学級日誌』。
「1年B組……」
創太の息が止まった。
今の自分たち――2年B組の生徒たちが、一年前、まだ「1年生」だった頃の学級日誌だ。
創太がその日誌を取り出すと、隣にいた葵の身体がピクリと跳ねた。葵の瞳が激しく見開かれ、彼女は創太の袖を強く引っ張った。
葵はノートに殴り書きのような素早さで文字を刻んだ。
『それ……! 詩織さんが死んだ年の、私たちのクラスの日誌だ……!』
創太は震える手で、血と油膜で汚れた学級日誌の表紙をめくった。
そこに書かれていたのは、一人の少女が命を奪われていくプロセスを、学校という組織が冷淡に記録し、隠蔽しようとした「罪の足跡」そのものだった。
カビ臭い紙の臭いとともに、一年前の「日付」が液晶の光の中に浮かび上がる。
四月、五月。日誌のページには、新入学の希望に満ちた言葉が並んでいた。日直の欄には、死んでいったクラスメイトたちの生前の名前が交互に記されている。長谷川さくら、近藤、武田、西条拓海、渡辺大樹、水野結衣――。
だが、六月を境に、日誌の「空気」が一変していた。
『6月12日(月) 日直:長谷川さくら』
『記事:今日も暑かった。班行動で、鳴海さんが指示に従わず雰囲気を悪くした。みんな迷惑している。担任の先生にも注意してほしい』
『担任所見欄:学級の輪を乱す行動には指導が必要です。鳴海さんには個別に話をします』
創太の目が細くなった。
文字の端々に滲む、集団による露骨な「異物排除」の空気。
ページを繰るごとに、書き込みはエスカレートしていった。
『7月3日(月) 日直:西条拓海』
『記事:鳴海が掃除当番をサボって帰った。みんな怒っている。あいつの教科書が破れていたけど、自作自演だと思う。関わりたくない』
『担任所見欄:物全の管理は自己責任です。クラス内での無用なトラブルは避けるように』
『9月15日(金) 日直:渡辺大樹』
『記事:鳴海が学校に来ない。来なくても誰も困らないし、クラスが明るくなっていいと思う。このまま来なければいい』
『担任所見欄:出席日数について保護者と相談中。他の生徒は気にせず行事に集中すること』
「な……んだ、これは……」
創太の声が震えた。
日誌に記されていたのは、生徒たちの悪意だけではない。それを「学級の輪を乱す者の自己責任」として処理し、いじめの事実を隠蔽し続けた大人(担任教師)の冷酷極まりない事無主義だったのだ。
葵が身を乗り出し、日誌のページを指差した。
葵の手が激しく震えている。彼女は日誌の「10月24日」のページを指で力任せに叩いた。
そのページの余白――黒いインクの印刷の隙間に、鉛筆で何度も擦り付けられたような、薄く鋭い「書き跡(圧痕)」が残されていた。
筆圧があまりにも強く、紙が破れかけるほど深く刻まれた、少女自身の手書きの筆跡。
『誰も信じてくれない。先生も、西条くんたちも、さくらさんも。私が何を言っても、「お前が悪い」「空気が読めない」って笑う。私の教科書を破ったのは太田くんだし、私のハサミを隠したのはさくらさんなのに。私は……生きているだけで罪なの? 私の声は、誰にも届かないの?』
創太の胸の奥で、激しい衝動が突き上げた。
鳴海詩織。
彼女は、クラス全員の集団暴力と、大人の冷酷な黙殺によって、一歩一歩「死」へ向かって追いつめられていったのだ。
創太の過剰な聴覚の奥底に、一年前の記憶の断片が蘇る。
雨の日。職員室の前の廊下で、涙を流しながら担任にしがみついていた詩織の泣き声。
『先生、お願いです……私、やっていません……靴箱に汚い落書きをしたのも、私じゃないんです……話を聞いてください……!』
そして、担任の冷たい声。
『鳴海さん、大声を出すのはやめなさい。他のクラスの迷惑でしょう。君がもっとクラスに馴染む努力をしないから、そういう摩擦が起きるんだよ。自分を省みちなさい』
創太は当時、その会話をすぐ隣の階段で聴いていたのだ。
聴いていながら――自らの耳を守るため、関わり合いになるのを恐れて、黙って立ち去ったのだ。
「俺も……」
創太の口から、血の味のする吐息が漏れた。
「俺も……西条たちと同罪だ。俺は知っていたのに……彼女が助けを求めていた声の形を、全部聴いていたのに……何も聞こえないフリをしたんだ」
葵が創太の腕を強く抱きしめた。
葵は首を振り、筆談ノートに涙を落としながら書き走らせた。
『私も同じだよ、創太。私は詩織さんが放送室に駆け込んだ日、詩織さんが「お願い、放送を流させて」って泣いていたのを、扉の陰で見ていたの。でも私は、上級生や西条くんに怒られるのが怖くて、鍵をかけられる詩織さんを見捨てて逃げたの』
学級日誌の最後のページ。
11月2日。鳴海詩織が二階の窓から校庭へ身を投げた日の記録。
そのページは、何者かの手によって丸ごと一枚、ビリビリに破り取られていた。
破れ残った根元の用紙には、赤黒い血の手形がべったりとへばりついていた。
(日誌のページが……破り取られている……!?)
創太は破れ目を見つめた。
誰がこのページを破り取ったのか? 担任か、西条か、それとも学校側か。自分たちの罪を証拠隠滅するために破り捨てられた「最期の記録」。
その時だった。
ジ……ジジジ……ジジジジジジジジッ!
生徒指導室の天井から、あのアンプを通さない、直接コンクリートを震わせる高周波のノイズが炸裂した。
キャビネットの中の学級日誌が一斉にバタバタと自律的にめくれ上がり、古びた用紙が狂ったように舞い散る。
壁の内部から、大量の黒い血管状の根がミシミシと音を立てて噴出し、生徒指導室の壁面を覆い尽くしていった。
ノイズの中から、あの鳴海詩織の怨念の本尊の声が、地獄の底から響いてくる。
『――ふふ。自分たちの罪の記録を、熟読できましたか?』
声は、生徒指導室の暗闇全体から降ってきた。
『あなたたちは、言葉で私を殺しました。悪意の言葉、嘲笑の言葉、偽りの言葉……そして、最も残酷な『黙殺の言葉』によって』
黒い根が、創太と葵の足元へ向かって蛇のようにのたうち回りながら迫ってくる。
『学級日誌は、あなたたちの罪の目録です。さあ……日誌に名前を刻まれた者たちよ。最後のページへ、あなたたちの死を記しなさい』
破り取られた日誌の空白のページが、血の文字で怪しく発光し始めた。
学校の罪、大人の隠蔽、そして生徒たちの悪意。
すべての伏線が、この地下の深淵で一本の太い呪いの糸となって結びつこうとしていた。
創太と葵は、立ち上がり、互いの手を強く握りしめた。
過去の罪から逃げることはできない。
ふたりは決着をつけるため、黒い根が蠢く地下の最深部――『言葉の墓場』へと、最後の足踏みを進めるのだった。




