第16話:『立ち並ぶ骸』
鉄格子扉の重いカンヌキが落ちる音が、旧校舎の階段に空しく反響した。
鉄格子の向こう側では、黒い根に操られた西条たちの死体が、爪で鉄柵を引っ掻き、血の手形を無数に擦り付けていた。だが、頑丈な錆びた鉄は彼らの爪を弾き返し、やがてその濁った怒号も、階段を下りるにつれて遠ざかっていった。
地下へと続く石造りの階段は、まるで巨大な化物の食道を下っていくかのようだった。
一段下りるごとに、気温が急速に下がっていく。肌を刺すのは単なる冷気ではない。湿り気を帯びた生の肉が腐敗し、熟成し、粘液となって凝固したような、吐き気を催すほどの死臭だった。壁は湿った苔と赤黒い脂で覆われ、天井からは細い血の糸のような粘液がポタリ、ポタリと滴り落ちていた。
「大丈夫か、葵」
創太は階段の途中で立ち止まり、背中に背負っていた葵を優しく床へ降ろした。
葵の肩口の傷からは依然として血が滲み、彼女の制服を濡らしていた。創太は自らの破いたシャツの布地をきつく結び直し、傷口を圧迫止血した。創太自身の背中にも、水野結衣の体内で爆発したステンドグラスの刃が突き刺さったままであり、呼吸をするたびに背筋を鋭い激痛が走り抜ける。
葵は創太の手を固く握り返した。彼女の首筋は、怪異の『不整の代行』として注入された熱い黒蝋によって、カチカチに硬化している。声を完全に奪われた彼女は、苦しそうな表情を見せながらも、血塗られたノートを開き、震える指先で鉛筆を走らせた。
『創太、背中の傷が酷いよ。無理をしないで』
創太は葵の文字を見つめ、静かに首を振った。
「痛みのことなら心配いらない。お前が命を懸けて俺を守ってくれたんだ。この程度の傷で倒れるわけにはいかない」
創太は自らの手のひらで葵の冷たい頬を優しく包み込んだ。葵は愛おしそうに創太の手のひらに頬を寄せ、声の出ない口元でかすかに微笑んだ。言葉を失ったことで、かえって二人の魂の結びつきは深く、純粋なものへと研ぎ澄まされていた。
葵は続けてノートに書き走らせた。
『ここは……旧校舎の地下資料室へ続く廊下だね。一年前、詩織さんが事件を起こす前にも、ここに怪しい噂があったの。『地下室には、言葉の墓場がある』って』
「言葉の墓場……」
創太の過剰な聴覚が、階段の底――暗闇の奥から響いてくる不気味な音を捉えた。
それは、風の音ではなかった。
ギチ……ギチギチギチ……。
サワサワサワ……。
それは、何百、何千という乾燥した骨と、濡れた肉の帯が擦れ合う微細な摩擦音だった。さらには、複数の人間の喉の奥から漏れる、途切れ途切れの浅い息遣い。
「行くぞ。手を開かすなよ」
創太は葵の手をしっかりと握り直し、スマホの僅かな液晶の光を頼りに、地下階段の最後の段を降り立った。
地下廊下は、幅約二メートルほどの狭く重苦しい石造りの通路だった。両脇には古びた書類棚や破棄された木箱が打ち捨てられ、壁にはびっしりと黒い血管状の根が這い回っている。
創太が光を前方へ向けた、その瞬間だった。
「っ……!?」
創太の足が凍りついた。隣にいた葵もまた、創太の腕に爪を立てるほどの力でしがみつき、目球が零れ落ちんばかりに開かれた。
懐中電灯の細い光の先に浮かび上がったのは、常軌を逸した「絶望の光景」だった。
狭い地下廊下の奥に向かって、整然と――まるで兵隊の列のように、無数の人体が立ち並んでいた。
それらは生きている人間ではなかった。
これまで2年B組で惨殺され、解体され、肉片となったはずのクラスメイトたち全員の「死体」だった。
「な……んだ……これは……!?」
創太の声が震えた。
先頭に立っていたのは、最初の犠牲者である長谷川さくらだった。彼女の全身からは、今なお数百本もの錆びついたハサミが突き出し、目球のくぼみから飛び出しているハサミの刃先が、ジャキ、ジャキと不規則に開閉している。本来なら床に転がっていたはずの彼女の肉体は、砕けた大腿骨を鋭いハサミの刃で補強するようにして、直立不動の姿勢で立っていた。
そのすぐ後ろには、太ももの肉をシュレッダーのように縦に切り刻まれた近藤。彼の脚は千切れた肉のフリンジと化しているはずだったが、その肉の帯が不気味に捻じれ合って太い一本の足のようになり、直立していた。
さらにその奥には、昇降口で不可視の重圧によって厚さ三センチメートルの肉餅と化していた武田、工藤、井口。彼らの平たくすり潰された肉のシートは、折り紙のように折り畳まれ、不自然な立体となって廊下に立ち尽くしていた。
全骨格がガラス化して粉砕された小林。彼の体内からは、いまなお数千本のガラスの針が突き出し、薄暗い赤光を浴びてキラキラと不気味に反射している。
体内の血液が沸騰して爆破した渡辺大樹。彼の弾けた肉片と溶けた脂は、壁の黒い根によって無理やり集積され、巨大な赤い肉のダルマのような形で直立していた。
体内で無数のステンドグラスが弾けた水野結衣。彼女の身体は、色彩豊かなガラス片の山から肉の芽が伸び、人型を模して立ち上がっている。
何千本もの畳針で喉を縫い合わされた菅原。
全皮膚を紙切れのように剥ぎ取られた太田。
そして、放送室で肉吊りフックによって内臓を破裂させられた加藤、佐々木、谷口、西条拓海――。
2年B組の全滅した犠牲者たちが、破壊されたそのままの凄惨な姿で、地下廊下の暗闇の中に「立ち姿の骸」としてずらりと立ち並んでいたのだ。
彼らの顔面は、潰れ、裂け、骨が露出し、目球が存在しない者も多かった。しかし、その全員の顔が、ゆっくりと――ギチギチと首の骨を鳴らしながら、一斉に創太と葵の方へと向けられた。
「ひ……っ」
声を奪われているはずの葵の喉から、極小の息の漏れが聞こえた。
創太は葵を自らの身体の後ろへ押し込み、血塗られた鉄製パイプを構え直した。背中の刺創から、冷や汗とともに新たな血が滴り落ちる。
立ち並ぶ骸たちの数は、二十を超えていた。狭い地下廊下の全域を埋め尽くし、奥へと続く通路を完璧に遮断している。
(死体が……立ち上がっている……!? だが、これはさっきの西条たちのように黒い根で操られている動きじゃない……)
創太は過剰な聴覚に意識を集中させた。
さっきの西条たちの死体は、黒い根の物理的な牽引によって無理やり動かされていた。だが、いま目の前に立ち並ぶ骸たちは違った。
彼らの体内から、黒い根は生えていない。
彼らは、死んで肉体を破壊されたその形態のまま、怪異の「言語の呪い」そのものによって骨格と肉を物理的に固定され、そこに存在させられていたのだ。まるで、美術館に展示されたグロテスクな「肉体解体の標本」のように。
静寂。
地下廊下を支配したのは、死体たちの傷口から血が床へ滴る音だけだった。
ぽたり。ぽたり。ぽたり。
その静寂を破ったのは、死体たちの口だった。
ガバリ。
長谷川さくらのハサミで切り裂かれた口が開き、近藤の縦に割れた顎が外れ、小林のガラス片で砕けた口内が広がり、西条の破裂した顔面が歪んだ。
立ち並ぶ二十以上の死体たちの口が、同時に、一斉に押し開かれたのだ。
そして――。
『――あ……あー……』
『――あ……ああ……あー……』
死体たちの喉の奥から、音が漏れ出た。
それは一人の声ではなかった。
長谷川さくらの甲高い声、近藤の低音、小林の重厚な声、渡辺の掠れ声、結衣の弱々しい声、西条の濁った叫び声――これまで死んでいった生徒たちの生前の「声色」が、何重にも重なり合い、不気味な不協和音となって地下廊下に重々しく木霊し始めたのだ。
『――神谷……創太……』
『――白石……葵……』
ハモり声。
複数の死体たちの口から同時に紡がれるその言葉は、まるで何百人もの聖歌隊が地獄の底から不吉な賛美歌を合唱しているかのようだった。音が廊下の石壁に反響し、重低音の振動となって創太の鼓膜を直接揺さぶる。
「う……あぐ……っ!」
創太は自らの頭を押さえた。過剰な聴覚が、死者たちの声の波形を過密な精度で拾い上げてしまう。死者たちの声の中には、彼らが生前抱いていた恐怖、苦痛、自保心、そして創太と葵に対する強烈な怨嗟が、ドロドロに溶け合って混ざり込んでいた。
『――なぜ……お前たちだけが……生きている……』
『――なぜ……お前たちだけが……肉体を保っている……』
合唱が、次第に大きくなっていく。
立ち並ぶ骸たちが、一歩、前へ踏み出した。
ズズッ……!
ハサミの脚が床を削り、ガラスの骨が擦れ合い、潰れた肉餅のシートが引きずられる嫌な音が重なる。
葵が創太の服の裾を強く掴んだ。葵は震える手でノートを開き、創太の視界へ文字を突き出した。
『創太、気をつけて! 問いが来る!』
葵の察知通りだった。
死体たちの合唱のテンポが速くなり、不協和音の波調が、あの「なぞかけ」の律動へと変化し始めたのだ。
『――問題を……授けよう……』
『――言葉を失い……血を流す……哀れな……二匹の羊に……』
地下廊下の天井から、赤黒い血液が滝のように滴り落ち、死体たちの足元を濡らした。
アンプもスピーカーもないはずのこの地下室で、死体たちの肉体そのものが「スピーカー(発声体)」となって、最悪の問答を響かせ始める。
『――九つ目の……「整い」です……』
カチ、カチ、カチ、カチ――!
死体たちの体内で、同時に骨と肉が噛み合う「死の歯車音」が鳴り響き始めた。
『――神谷創太……および……白石葵と……掛けまして……』
死体たちの見開かれた(あるいは潰れた)眼球が一斉に創太と葵を捉える。
『――立ち並ぶ……骸の廊下と……解く……。……その心は?』
ハモり声が、地鳴りのように廊下に充満した。
『――制限時間は……二分……。……答えを……整えなさい……。さもなければ……あなたたちも……この列に……並びなさい……』
カチカチカチカチカチカチ――!
爆速で回転する歯車音。
全滅したクラスメイトたちの死体が立ち並ぶ、逃げ場のない地下廊下。
創太と葵の前に、死者たちの合唱による、最も酷薄で逃げ場のない「九つ目の問い」が突きつけられた。
創太は背中の刺痛に耐え、葵の手を握りしめながら、死者たちの歪んだ顔面を見据えた。
(立ち並ぶ骸……! 俺たち二人と、この死体たちの列……! 重なり合う概念……!)
制限時間のカウントダウンが、二人の残された命を猛烈な勢いで削り取り始めていた。




