第15話:『決別と逃走』
かつて私立稜ヶ丘高校の校舎は、光と笑い声で満ちていた。
朝の登校風景、昇降口で響く靴底の軽い音、放課後の部活動に励む運動部の叫び声、そして2年B組の教室で交わされていた他愛もない噂話。それらすべては、ほんの数時間前まで確かに存在していた「日常」だった。
だが、今やこの校舎は完全に終わりを告げていた。
廊下の壁は生き物の粘膜のように赤黒い脂を噴き出し、天井からは千切れた制服の切れ端と、硬化した血液の滴がポタリ、ポタリと不気味なリズムで垂れ落ちている。足元を埋め尽くすのは、最初の被害者である長谷川さくらの体内から吹き出した無数の錆びたハサミ、近藤の縦に細かく裁断された肉のフリンジ、水野結衣の体内で弾けた色鮮やかなステンドグラスの破片、そして壁に刺さった菅原の何千本もの畳針――。
学校は、もはや学びの場などではなかった。2年B組の全生徒が惨殺され、解体され、肉片となって放置された、巨大な「死体安置所」であり「屠殺場」だった。
「ハぁ……ハぁ……ッ!」
神谷創太は、背中に刺さったガラス片の刺痛に耐えながら、右肩に白石葵を抱えるようにして暗闇の廊下を駆け抜けていた。
創太の制服は、死んでいった者たちの返り血で固まり、重く皮膚に張り付いている。葵の肩口からも未だに赤い血が滲み続けていたが、声を完全に失った彼女は、痛みに声を上げることもできず、ただ必死に創太の腰にしがみつき、己の足を交互に前へと出していた。
背後から、地獄の底から這い上がってきたような「肉の摩擦音」が追ってくる。
ズズズ……ズズズズズズッ!
「逃ゲ……ルな……神谷ぁぁぁっ……!」
「白石ぃぃぃっ……お前モ……肉ノ……一部に……なれぇぇぇっ!」
歪んだ声が、廊下の防音壁を激しく揺らしていた。
振り返らずとも、創太の過剰な聴覚にはその惨状が完璧に視覚化されていた。
黒い血管のような根によって操られた西条拓海の破裂した死体を先頭に、骨格を砕かれた加藤、佐々木、谷口、そして二階廊下で紙切れとなって皮膚を剥ぎ取られた太田の残骸までもが、天井や壁の配線から蜘蛛の糸のように伸びる黒い根に吊り下げられ、蜘蛛のような異常な関節の動きで壁や床を這い回って追ってきているのだ。
かつてクラスのスポーツマンだった西条。
静かに図書室にいた水野結衣を騙した太田。
騒がしかった加藤や女子生徒たち。
彼らはもう人間ではない。過去の罪と怪異の殺意を動力源として動かされる、ただの「肉の傀儡」だ。
(決別しなければ……)
創太の胸の奥で、冷たく暗い感情が固まっていく。
彼らは仲間だった。同じ教室で一年以上を過ごし、同じテストを受け、同じ時間を共有した同級生たちだった。だが、彼らが他人の痛みに目を背け、自らの保身のために仲間を実験台にし、怪異に魂を売り渡した瞬間から、この惨劇は避けられない帰結として転がり始めたのだ。
「葵、前を見ろ! 過去を振り返るな!」
創太はそう叫ぶと同時に、渡り廊下の角を曲がった。
その先にあるのは、旧校舎へとつながる重厚な防火扉と、その奥に伸びる「地下室への階段」だった。
だが、怪異は創太たちの逃走を簡単に許しはしなかった。
渡り廊下の天井が、メリメリと嫌な音を立てて大きく膨れ上がった。
ドスッ! ガシャアアンッ!
天井の石膏ボードを突き破り、上階から一足先に「先回り」していた死体傀儡――首を何千本もの針で壁に縫い付けられていたはずの菅原の死体が、天井から豪快に落下してきた。
「がっ……! あ……が……っ!」
菅原の首元からは、今なお何百本もの錆びた畳針がウニのように飛び出している。彼の目が血走り、縫い合わされた口の隙間から赤黒い粘液を撒き散らしながら、創太たちの進路を塞ぐように両腕を広げた。
「邪魔だぁぁぁっ!」
創太は手にしていた鉄製マイクスタンドを振り上げ、菅原の首元――針の乱立する肉の塊へと力任せに叩きつけた。
ガキィィィンッ!
金属針が火花を散らして弾け飛ぶ。菅原の死体はのけぞったが、黒い根の力によって即座に体勢を立て直し、針の生えた両手で創太の腕を掴みかかってきた。
「創太……っ!」
声を奪われた葵が、創太の服を引っ張り、脇に転がっていた割れた清掃用パイプを拾い上げると、無言の凄まじい気迫で菅原の顔面へと突き立てた。
パイプが菅原の眼のくぼみへ深々と刺さり、死体がくぐもった悲鳴を上げて後退する。
「よし! 突破するぞ!」
創太と葵は菅原の横をすり抜け、旧校舎への防火扉へと飛び込んだ。
だが、背後からは西条たちの死体大群が、津波のような肉の濁流となって渡り廊下を埋め尽くしながら迫っていた。
旧校舎の廊下は、新校舎以上に老朽化が進み、湿ったカビの匂いと腐敗臭が濃密に沈殿していた。
木の床が踏み込むたびにギシギシと悲鳴を上げ、壁のペンキは黒い粘液に冒されてベロベロと剥がれ落ちている。非常灯の光すら届かない完全な漆黒。
創太たちの目指す場所は、旧校舎の最奥――かつて資料室として使われ、現在は閉鎖されている「地下室への鉄格子扉」だった。
そこに、校舎全体へ伸びる黒い根の「主脈」が集結していることを、創太の過剰な聴覚は確信していた。
しかし、鉄格子扉の手前、わずか十メートルの開けたホールで、ついに追撃の死体大群に挟み撃ちされた。
ズバババババッ!
頭上、左右の壁、そして背後の廊下から、黒い根に吊り下げられた西条、加藤、太田、佐々木、谷口、菅原の死体たちが一斉に降り立ち、創太と葵を取り囲んだ。
『逃ゲ……バは……ナぃ……』
『神谷……白石……一緒に……肉に……なれ……』
不揃いな不快音が、全方位から創太の鼓膜を叩きつける。
死体たちの肉の破れ目からは、鋭利なガラス片、ハサミの刃、金属針、そして骨の刺が突き出し、月光のない暗闇の中で鈍く光っていた。彼らは一斉に自らの凶器を構え、創太と葵を肉のペーストに変えるべく、一歩ずつ間合いを詰めてくる。
絶体絶命。
葵は怪我をした肩を庇いながら、創太の背中にぴったりと身体を寄せた。彼女は手にした血濡れのノートを強く抱きしめ、創太へ向かって一瞬だけ視線を投げかけた。
(私を置いて、一人で逃げて――)
その瞳の奥にある言葉を、創太は瞬時に読み取った。
「馬鹿言え!」
創太は葵の手を握り直し、叫んだ。
「お前を置いて逃げるくらいなら、ここで一緒に肉片になった方がマシだ! 俺たちは生きてここを出るって誓ったろ!」
葵の瞳が激しく揺れ、涙が溢れ出た。彼女は創太の手を破らんばかりの力で握り返し、覚悟を固めたように力強く首を振った。
死体たちが一斉に飛びかかってきた。
西条の死体が握るガラスの槍が、創太の喉元へ迫る。
その瞬間。
創太の「過剰な聴覚」が、極限の緊張状態の中でひとつの「法則(共振周波数)」を捉えた。
(音……? 違う、振動だ……!)
創太の耳に聴こえていたのは、死体たちを操っている「黒い根」が発している微細な高周波の共鳴音だった。
怪異は、死体を力任せに動かしているのではない。放送室のアンプから流れる高周波ノイズと、この黒い根の振動波を同調させることで、死体の肉体神経を疑似的に駆動させているのだ。
つまり――この周波数の干渉波を打ち消すか、過剰な音波のショックを与えれば、死体たちを操る黒い根の結合は一瞬だけ麻痺する!
「葵! 耳を塞げ! 強く塞ぐんだ!」
創太は叫び、床に転がっていた大型の鉄製消火器を引き寄せた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
創太は持っていた鉄製マイクスタンドの先端を、消火器の金属製ボンベの胴体へ向かって、全身の全筋力を込めて叩きつけた。
ガギイィィィィィィィィィンッ!!!!
旧校舎の密閉されたホールに、極限の金属打撃音が爆発した。
キィィィィィィィィィィィィン……ッ!
音波の衝撃波が、空気の壁となって全方位へ拡散する。
「ガアぁぁぁぁぁっ!?」
効果は劇的だった。
消火器の放った強烈な高周波の金属音が、黒い根が死体を操っていた振動波と激しく干渉・不協和音を引き起こしたのだ。
死体たちを吊り下げ、体内に穿孔していた無数の黒い根が、一斉にバチバチバチッ! と激しい火花を散らして収縮を起こし、千切れ飛んだ。
『ガあ……っ!? ぐ、あぁぁぁっ!』
西条たちの死体が、糸の切れた人形のように一斉に崩れ落ち、床の血の海の上へののしり転がった。黒い根は苦悶するようにのたうち回り、一時的に死体への命令系統を喪失して麻痺状態に陥った。
「今だぁぁぁっ!」
創太は消火器を投げ捨て、葵の手を引っ張って死体たちの間を駆け抜けた。
ホールの奥。
重厚なアイアンの「地下室への鉄格子扉」。
創太は鉄格子のカンヌキに手をかけ、全体重をかけて押し開けた。
ギギギギギ……ッ!
錆びついた鉄格子が悲鳴を上げ、地下へと続く漆黒の暗闇が開かれた。
「葵、入れ!」
創太が葵を鉄格子の奥へ滑り込ませ、自らも飛び込む。
背後で、麻痺から立ち直りかけた西条の死体が、破裂した腹から血を吹き出しながら這い寄ってきた。
『カみ……ヤぁぁぁぁぁぁっ!』
西条の血塗られた手が鉄格子の隙間から伸びてきたが、創太は間一髪で重い鉄格子の扉を叩き閉め、内側から太い鉄のカンヌキをガチャンッ! と叩き落とした。
バンッ!!
西条の手が鉄格子に激しくぶつかり、血の手形を残して弾き返された。
鉄格子の向こう側で、黒い根に吊り上げられたクラスメイトたちの死体群が、憎悪の叫びを上げながら鉄格子をドンドンと叩き続けている。だが、太い鉄の柵は彼らの進入を完璧に拒絶していた。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
創太は鉄格子に背中を預け、血の海の中にへたり込んだ。
葵も創太の隣に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返しながら、創太の手を固く握りしめた。
鉄格子の向こうにあるのは、もう過去の2年B組ではない。
自分たちが過ごした日常、クラスメイトたちとの関係、そして学校という安全な箱庭への、完全なる「決別」だった。
生き残ったのは、創太と、声を失った葵の二人だけ。
二人の目の前に広がっていたのは、旧校舎の底へと続く、果てしない地下階段の闇だった。
階下の深淵から、湿った冷気と、生の肉が腐敗する禍々しい匂い、そして――
『――ふふ。よくぞ、ここまで辿り着きましたね』
スピーカーを介さない、地下室の空間そのものが直接振動して聞こえる、あの鳴海詩織の怨念の本尊の声が、暗闇の奥から響いてきた。
創太は背中の痛みに耐えて立ち上がり、葵をしっかりと抱き起こした。
「行こう、葵。真の決着をつけに」
葵は声を出さず、力強く頷いた。
二人は手を取り合い、すべての悲劇と罪が眠る、最恐の深淵――地下室へ向かって、ゆっくりと足を踏み出していった。




