第14話:『闇の中の再会』
放送室を埋め尽くす死臭と、肉吊りフックで天井から吊り下げられた西条拓海たちの死体から滴り落ちる血の滴り音。
静寂が、まるで重い泥のように部屋へ沈殿していた。
大型アンプの真空管が不気味な余熱を吐き出し、壁を這う黒い血管のような根が、収縮を繰り返しながら脈打っている。
「葵……大丈夫か……」
神谷創太は、血の海の上に膝をつき、自らの腕の中で横たわる白石葵の頭を優しく抱え直した。
葵の首筋は、怪異の不整の代行として注ぎ込まれた黒い熱蝋によってカチカチに硬化していた。彼女の薄い皮膚の下で、声帯のあった場所が不気味な黒紫色の塊となって固まっている。彼女は命こそ繋ぎ止めたものの、言葉を紡ぐためのすべての器官を物理的に塗殺され、完全な無声の世界へ引きずり降ろされていた。
葵はゆっくりと瞼を開いた。その瞳には、かつてないほどの激痛とショックの色彩が宿っていたが、創太の無事な姿を目に留めると、かすかな安堵の光が差した。
彼女は自らの首に手をやり、音を出そうと口を動かした。
「……」
何も出ない。息の漏れる音すら、固まった蝋の塊に阻まれて唇の外へ出てこない。葵の瞳から、ツッと一筋の涙が溢れ、血で汚れた創太の手のひらへ落ちた。
「喋ろうとするな、葵」
創太の声は震えていた。創太はポケットから、奇跡的に無傷で残っていた血濡れのノートとシャープペンシルを取り出し、葵の震える指先へそっと握らせた。
「これを使え。お前の声は……俺が全部、この目と耳で拾うから」
葵は涙を拭い、創太の顔をじっと見つめた。そして、痛む身体を起こし、創太の膝の上にノートを広げると、カチカチと手を振るわせながらペンを走らせ始めた。
カリカリ、カリカリ……。
静まり返った密室に、紙と芯が擦れ合う音が響く。
創太の過剰な聴覚は、その擦れ合う音の裏側にある「音」を拾い上げていた。葵の途切れ途切れの浅い呼吸音。指先の骨が軋む音。そして、彼女の胸の奥で早鐘のように打つ、温かくも強い心臓の鼓動。
葵がノートを創太へ向けた。
そこには、歪みながらも、力強い筆致でこう刻まれていた。
『創太、泣かないで。私、生きているよ。声を失ったけれど……創太の声を聴く耳と、創太の姿を見る目は、まだ残っているから』
文字を見つめた瞬間、創太の胸の奥が激しく締め付けられた。
自分の傍観の罪。自分の過剰な耳を守ろうとした弱さ。そのすべてを身代わりとなって引き受け、二度と話せぬ身体にされたというのに、この少女は自らの不幸を一切恨むことなく、創太の生存を心から喜んでいるのだ。
創太はノートの余白に、自らの血のついた指で素早くペンを走らせた。
『ごめん……俺のせいで……俺がお前の声を……』
葵は首を激しく振った。彼女は創太の手からペンを奪い取るようにして、続きを書き殴った。
『違う! 創太のせいじゃない! 一年前、私たちが逃げた罪を、私がここで少しだけ払っただけ。……創太、私を置いて行かないで。私を……最後まで一緒に連れて行って』
葵の瞳が、創太を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、死への恐怖を凌駕する、創太に対する絶対の信頼と強い絆の光が宿っていた。
「置いていくわけがないだろ……!」
創太は葵の小さな肩を引き寄せ、力強く抱きしめた。背中に刺さったステンドグラスのガラス片が肉を抉り、激痛が走ったが、創太はその痛みを噛み締めながら、葵の頭を包み込んだ。
「約束する。お前の声を奪った怪異の根源を俺が必ず叩き潰す。そして……二人で絶対にここから脱出する。お前が話せなくなった分は、俺が一生分、お前の言葉を聞き続けて補ってみせる」
葵は創太の胸に顔を埋め、声をあげずに肩を大きく震わせた。言葉は途絶えた。しかし、血と死臭が充満する暗闇の中で、二人の魂は今、かつてないほど強固に結びついていた。
葵は涙を拭うと、再びノートにペンを走らせた。
『これから、どこへ行くの? 廊下も階下も、血の海で埋まっているよ』
創太は放送室の壁から這い出ている黒い血管状の根を見つめた。
「怪異の『増幅器』であるこの放送機器は壊せなかったが、この黒い根がどこから伸びてきているのか、俺の耳には聴こえている」
創太は耳を澄ませた。
壁の内部を通る根の振動。それは、三階の廊下を通り、中央階段を抜け、旧校舎へと続く「地下室」の深淵から地鳴りのように響いてきていた。
「学校の地下……旧校舎の底だ。そこに鳴海詩織の怨念と、俺たちの罪を吸い上げて膨らんだ怪異の本尊がいる」
葵は力強く首を頷かせ、立ち上がろうとした。創太は葵の身体を抱え上げ、彼女が歩きやすいように肩を貸した。
二人は放送室の重厚な防音扉へと向かった。
だが――。
扉の取っ手に創太が手をかけた、その瞬間。
創太の過剰な聴覚が、ドアのすぐ向こう側から聞こえる「あり得ない音」を捉えた。
ギチ……ギチギチギチ……。
それは、人間の関節が逆方向に無理やり折れ曲がる音。そして、肉が千切れ、腐敗した血液が床にポタリポタリと落ちる音だった。
(なにかが……ドアの前に立ち塞がっている……!?)
創太は息を殺し、ドアの覗き窓(耐熱強化ガラス)へそっと目を向けた。
そこにあったのは、言葉を失うほどの、狂気の惨劇の再構築だった。
非常灯の赤黒い光が妖しく明滅する三階の廊下。
ドアの覗き窓の向こう側に立っていたのは――死者たちだった。
第12話の集団問答において、肉吊りフックによって腹部を垂直に破裂させられ、絶命したはずの西条拓海。
そして、同じく骨格を粉々に砕かれて即死した加藤、佐々木、谷口の無惨な屍たち。
「っ……!?」
創太の息が吐き出せなくなった。
彼らは生き返ったのではなかった。
西条の破裂した腹部、加藤の貫通した首、佐々木のへし折れた背骨の隙間から、何本もの太い「黒い血管状の根」が生き物のように飛び出し、彼らの死体を天井のアンプ配線から蜘蛛の糸のように吊り下げ、肉の傀儡として操っていたのだ。
西条の死体は、顔半分が壊れ、見開かれた眼球の奥から黒い根が毛虫のようにウネウネと這い出ていた。彼の右腕には、生前握っていたガラス片付きの木棒が、肉とテープによって不可逆的に固着されている。
死体たちの口が、ガバリと無理やり押し開かれた。
アグ……あぐ……ガチガチガチガチッ!
顎の骨が外れた嫌な音が廊下に反響する。彼らの喉の奥に穿孔した黒い根が、人間の声帯の代わりに音波を震わせ、肉の管から直接、ノイズ混じりの言葉を吐き出し始めた。
『――カみ……ヤ……そウ……た……』
それは、西条の生前の声を切り貼りして作ったかのような、高低差の狂った不気味な合唱音だった。
『逃ゲ……ラれ……ナぃ……。お前モ……肉ノ……一部に……ナれ……』
「創太……っ!」
葵が創太の服を掴み、恐怖で目を見開いた。葵もまた、ガラス越しに死体たちの異形を目撃したのだ。
怪異は、命を奪うだけでは満足しなかった。死んだクラスメイトたちの肉体すらも「言葉の尖兵(肉人形)」として再構築し、生き残った創太と葵を完全に絶望へ叩き落とすための障害として配置したのだ。
ガシャンッ!!
西条の死体が構えた木棒が、放送室の防音扉のガラスを強打した。ヒビが蜘蛛の巣状に広がり、血の滴る木棒の先端が室内へ突き出してくる。
「くそっ! 扉を開けさせて、突破するぞ!」
創太はマイクスタンドを構え直し、扉を力任せに蹴り開いた。
バガァン!
重厚な防音扉が外側へ跳ね返り、立っていた加藤の死体を押し飛ばした。
「走れ葵!」
創太は葵の手を強く引き、血の海と化した廊下へ踊り出た。
だが、西条の死体は肉体を操る黒い根の力によって、驚異的な速度で体制を立て直し、首を180度逆方向に回転させながら創太たちへ向かって襲いかかってきた。
『カみ……ヤぁぁぁぁぁぁっ!』
西条の死体の破裂した腹部から、何十本もの黒い根が鞭のようにしなり、創太の足首へ向かって伸ばされる。
「させるか!」
創太はマイクスタンドを横一文字に振り抜き、伸ばされた黒い根を力任せに叩き切った。ジュウッ! と脂の焦げる臭いとともに黒い汁が弾け飛ぶ。
死体たちは悲鳴すら上げず、関節をガチガチと鳴らしながら、ハサミやガラス片を手に創太たちの周囲を囲い込もうと群がってきた。かつて同じ教室で過ごしたクラスメイトたちが、今や自我を奪われ、創太たちの肉を切り刻むためだけの「動く肉塊」と化して立ちはだかる。
(囲まれたら終わりだ……! 狭い廊下で死体どもと戦う余裕はない!)
創太は葵を抱え上げるようにして庇い、死体たちの隙間――階段へ続くわずかな通路へ向かって体当たりをかました。
ドスンッ!
佐々木と谷口の死体がもつれ合い、廊下の血の海の上へ転がった。その隙を突き、創太と葵は死体たちの爪と刃先を間一髪でかわし、階段のステップへと躍り出た。
「ハぁ……ハぁ……っ!」
背後で、死体たちが階段のすり鉢状の壁を這い上がり、爪でコンクリートを削る嫌な音が響いている。
『逃ゲ……ルな……詩織サんが……待っ……テい……る……』
死体たちの合唱が、不気味に階段を木霊していた。
創太は葵をしっかりと背負い直し、暗闇の階段を一段飛ばしで駆け下りた。
二階、一階、そして――通常なら生徒の立ち入りが禁止されている、旧校舎へと続く「地下階段」の重い鉄格子へ。
逃げ場のない学校。
死体すらも利用する理不尽な怪異。
そして、過剰な耳と無声の少女を待つ、最悪の深淵。
創太と葵は、死者たちの追撃を振り切り、すべての絶望の元凶が眠る地下の闇へと、決死の覚悟で降り立っていった。




