第13話:『失われた声』
天井から吊るされた西条拓海と加藤の死体から、ポタリ、ポタリと重い血液が床の血の海へ垂れ落ちていた。
放送室の狭い防音空間は、全滅したクラスメイトたちの内臓と脂が焦げた悪臭で満たされ、息を吸うたびに生温かい鉄分が創太の鼻腔と気道を刺した。
「葵……葵、しっかりしろ……!」
創太は膝を床につき、抱きかかえた白石葵の左肩を強く押さえた。西条の放ったガラスの槍によって深々と抉られた肩口からは、赤黒い血が溢れ出し、彼女の制服のブラウスを重く濡らしている。葵の瞳は激痛と失血によって焦点を結べず、唇は真っ白に乾ききっていた。声を奪われている彼女は、絶叫することすらできず、ただ胸を激しく上下させて喉の奥で「ヒュー、ヒュー」と痛々しい空気を漏らすだけだった。
「待ってろ、今止血する……!」
創太は自らの制服のシャツの裾を力任せに引き裂き、葵の肩の傷口に固く巻きつけた。だが、創太自身の背中にも、水野結衣の体内で弾けたステンドグラスのガラス片が突き刺さったままだ。動くたびに背中の肉が切り裂かれるような激痛が走り、創太の視界もまた血の混ざった冷汗で歪んでいた。
2年B組の生徒は、全員死んだ。
暴力を振るっていた西条も、保身に走った太田も、怯えていた女子生徒たちも、全員が「先着三人」という悪魔の競り市に狂わされ、怪異の『不整』を受けて肉体を変貌させられ、死体となった。
残されたのは、創太と葵の二人だけ。
その時だった。
コンセントの抜かれた大型アンプの真空管が、まるで最期の叫びを上げる心臓のように、ドクドクと異常な高熱を放ちながら発光した。壁から這い出た黒い血管のような根が、狂ったように収縮し、床の絨毯をバリバリと引き裂いていく。
ジ……ジジジジジジジジジジジジジジッ!!!!
室内を圧迫する高周波のノイズが爆発した。耳膜を直接削り取るような音波に、創太は思わず歯を食いしばり、葵を庇うように体させ倒した。
スピーカーの奥から、あの湿った女の声が、二人だけの生存者を慈しむように、甘く、酷薄に響き渡る。
『――ふふ。ついに、たった二人になってしまいましたね』
声は、死体で埋め尽くされた放送室の壁に反響し、創太の耳奥へと直接滑り込んでくる。
『クラス全員を見殺しにし、自分たちだけが正解の枠にしがみついた気分は、いかがですか? 神谷創太くん、そして……言葉を失った白石葵さん』
「黙れ……」
創太は血塗られた床を睨みつけ、低く吐き捨てた。
「俺たちは見殺しにしたんじゃない。お前が……お前たちの異常な呪いが彼らを殺したんだ!」
『いいえ。彼らを殺したのは、あなたたちの『保身』ですよ』
スピーカーの向こうの女は、クスクスと愉悦に満ちた笑いを漏らした。
『詩織さんが助けを求めた時、あなたは過剰な耳を塞ぎ、白石さんはマイクを置いた。あなたたちは一年前に彼らを見殺しにし、そして今日もまた、彼らが死んでいくのを観察し続けた……。だからこそ、この特別な問いを授けましょう』
ガチリ……と、アンプの奥で次の殺戮を刻む歯車が噛み合った。
『八つ目の「整い」です。……指名しましょう』
スピーカーから放たれた言葉が、創太の心臓を直接掴み上げた。
『神谷創太くんと掛けまして』
ターゲットは、創太自身。
『言葉を塗り潰す黒い蝋と解く。……その心は?』
カチ、カチ、カチ、カチ――。
死の歯車が、狂ったような速度で回転を開始した。
『制限時間は三分。……神谷くん、あなたのその過剰な耳と、命を整えて差し上げます』
「創太と……黒い蝋……!?」
創太の脳内で、血が逆流するような衝撃が走った。
(黒い蝋……言葉を塗り潰す……耳を塞ぐ……!)
創太は自らの頭を抱え込んだ。背中の激痛、大量の出血による失血性ショック、そして目の前に転がる仲間たちの肉塊の死臭が、彼の思考力を容赦なく削ぎ落としていく。視界が急速に狭まり、思考のギアが空回りする。
神谷創太の本質。
過剰な聴覚を持ちながら、他人の絶叫を『雑音』として排話し、見て見ぬふりをした傍観者。
そして、黒い蝋。
溶けて固まり、穴を隙間なく埋め尽くす粘質物。音を遮断し、言葉を封じ込め、表面を塗り潰して無効化する物質。
(重なり合う概念……! どちらも……どちらも……!)
「あ……くっ……!」
創太の口から、掠れた喘鳴が漏れた。思考をまとめようとすればするほど、耳の奥でこれまで死んでいった生徒たちの絶叫――さくらのハサミの開閉音、近藤の肉のちぎれる音、小林の骨の砕ける音、渡辺の破裂音、結衣のガラスの割れる音、西条の肉吊りフフックの突き刺さる音が、猛烈な大音量となって鼓膜を叩きつけてくる。
「うるさい……! 静かにしろ……! 思考が……まとまらない……!」
創太の耳から、赤黒い血がポタリと床へ垂れ落ちた。過剰な聴覚が限界を迎え、怪異のノイズによって脳神経が焼き切れようとしていたのだ。
残り時間、一分三十秒。
カチ、カチ、カチ、カチ――。
「創太……っ! 創太……っ!」
創太の服を掴む手が、激しく揺れた。
膝の上で横たわっていた葵が、血の吐くような想いで目を支え、創太の顔を見つめていた。彼女の目には、自分の肩の激痛など忘れたかのような、創太を死なせまいとする狂おしいほどの意志が宿っていた。
葵は震える手で血塗られたノートを掴み、ペンを走らせようとした。だが、彼女の指先は激痛で痙攣し、ペンが手から滑り落ちて血の海へと沈んでしまった。
(ペンが……書けない……!)
葵の瞳に絶望が走る。創太の耳からは血が溢れ出し、目球は血走り、自らの頭を床に叩きつけながら苦しんでいた。このままでは、あと数十秒で制限時間が切れ、創太の過剰な耳と頭脳が内側から黒い蝋で埋め尽くされて死ぬ。
葵は知っていた。創太が苦しんでいるのは、自らの『傍観の罪』と、過剰すぎる耳が拾い続ける死者のノイズのせいだということを。
一年前、自分も同じだった。詩織の声を聞きながら、保身のために黙殺した。その罪を、創太だけに背負わせて死なせるわけにはいかない。
葵は血の海の中で、ゆっくりと身を起こした。
彼女の肩から、再び熱い血がドバッと吹き出す。葵は激痛に歯を食いしばり、創太の血塗られた顔を両手で包み込んだ。
「あ……が……っ」
声帯が潰れ掛かっている彼女の喉から、空気の漏れる音が聞こえる。
葵の瞳が、静かな決意に満ちて輝いていた。
彼女は創太の前に立ち塞がるように膝立ちになり、不気味に脈動する大型アンプとスピーカーに向かって、自らの喉を突き出した。
(創太の代わりに……私が受け止める……!)
葵は、まだかすかに残っていた自らの「声帯の振動」を、命を削って絞り出そうとした。
創太の問いを、自らの肉体で引き受けるための「身代わりの拒絶」――。
「葵……やめろ……! 何をする気だ……葵ぃぃぃっ!」
創太が血みどろの手を伸ばした、まさにその瞬間。
スピーカーから、地獄の底からの咆哮が放たれた。
『――不整の代行者を検知。……白石葵の喉を『ととのえ』ます』
ズガアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!!!
放送室内を揺るがした音は、爆発音ではなかった。
それは、灼熱の鉄鍋に大量の冷水を一気に流し込んだような、そして人間の生肉を苛性ソーダに浸して骨まで融解させるような、凄惨極まりない「蒸発と収縮」の破壊音だった。
「あ……っ!? ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
白石葵の口から、人生で最後に漏れ出た、声にならない叫びが吹き出した。
彼女の喉元――華奢な首筋の皮膚が、内側から不気味な黒紫色の発光を始めた。皮膚の表面が目に見える速さで乾燥し、まるで何百年も前に焼き固められた黒い粘土のように、ひび割れ、縮んでいく。
「葵ーッ! 葵ーッ!!」
創太は叫び、血の海を這って葵の身体を抱きしめようとした。
だが、怪異の侵食は容赦なかった。
アンプの配線から壁を這って伸びていた黒い毛細血管のような根が、生き物のように跳ね上がり、葵の開いた口と鼻穴から体内へドスドスと直接穿孔して侵入したのだ。
「ごふっ……! ぐ……ッ! ぶ、あぁぁぁっ!」
葵の目球が激しいショックで裏返り、彼女の体全体が弓なりに反り返った。
創太の過剰な聴覚は、葵の喉の内部で起きている最悪の肉体破壊を、狂おしいほど鮮明に拾い上げてしまった。
チチチチチ……ジュウウウウウウウウウウウッ!
葵の首の内部。
声帯を形作る甲状軟骨、輪状軟骨、そして繊細な声帯粘膜。それらが、侵入した黒い根から噴き出した「沸騰した黒い石油状の蝋」によって、一瞬にして直接注ぎ込まれ、焼かれ、埋め尽くされていく音。
ジュクジュク、ミチミチミチミチッ。
熱い黒蝋が彼女の気管と声帯の隙間を完璧に満たし、冷えて固まるにつれて、彼女の喉の筋肉と血管を巻き込んでカチカチの死の塊へと変貌させていく。
声帯が、灼ける。
軟骨が、黒い蝋と一体化して押し潰される。
彼女の「声」を生み出すためのすべての器官が、物理的に塗殺され、消滅していく。
「やめろ……やめてくれぇぇぇぇぇっ! 葵の声を……葵の声を奪わないでくれぇぇぇっ!」
創太は涙と血を流しながら、葵の口から飛び出している黒い根を素手で掴み、狂ったように引っ張り剥がそうとした。
刺すような高熱。創太の手のひらの皮膚がジュッと音を立てて焼け焦げ、激痛が走る。それでも創太は爪を立て、根を引きちぎろうと血を流して暴れた。
「俺だ! 指名されたのは俺だろ! 俺の耳を潰せ! 俺の喉を潰せよぉぉぉっ!」
創太の慟哭が放送室に空しく響き渡る。
ガガガガガッ!
ついに黒い根が葵の口から引き抜かれ、血と黒い粘液の混ざった塊が床へ叩きつけられた。
葵の身体が、力を失った人形のように創太の胸の中へと崩れ落ちた。
「葵……! 葵……っ!」
創太は葵をしっかりと抱きかかえ、彼女の顔を覗き込んだ。
葵の首筋は、黒く固まった蝋の硬度によって、まるで石膏像のようにカチカチに硬化していた。彼女の口からは、黒い蝋の破片と、焦げた血の泡がぽたり、ぽたりと溢れ出ている。
葵の胸は、かすかに脈打っていた。
一命は、取り留めていた。
創太の「身代わり」として怪異の侵食を全身で引き受けた葵は、死の淵を踏み留まったのだ。
だが――。
葵はゆっくりと薄目を開け、涙に濡れた瞳で創太を見つめた。彼女は自らの首元へ手を伸ばし、何かを創太に伝えようと、必死に唇を動かした。
「……あ」
音が出なかった。
息が漏れる音すら出なかった。
彼女の喉の奥は、完璧に黒い蝋で塗潰され、声帯という存在そのものが消失していた。今後どんなに叫ぼうと、どんなに泣こうと、彼女の口から言葉が紡がれることは二度とない。
彼女は「声を完全に奪われた」のだ。二度と話すことのできない、永遠の静寂の中へ閉じ込められてしまった。
『――ふふ。素晴らしい身代わりの美徳ですね』
スピーカーから、満足げな女の声が降り注ぐ。
『自らの声を永久に差し出すことで、神谷創太くんの過剰な耳と命を買い取ったというわけですか。……これで、問いは『収束』としましょう』
アンプの真空管の赤光が、少しずつ弱まり、ノイズの周波数が低くなっていく。
創太は胸の中で、声を失い、二度と話せなくなった葵をきつく抱きしめた。
自らの過剰な耳を守るために。自らの傍観の罪の代償として。
この少女は、自らの『声』という人間の尊厳そのものを犠牲にして、創太を生かしたのだ。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!」
創太は天を仰ぎ、声をあげて泣いた。
血の海と化し、死体で埋め尽くされた放送室の中で、創太の慟哭だけが空しく防音壁に反響していた。
葵の冷たい手が、創太の血塗られた頬にそっと触れた。声を失った彼女の瞳には、責める色などどこにもなく、ただ創太が生きていてくれたことへの深い安堵と、静かな絆の光だけが宿っていた。
創太は涙を拭い、葵の手を自分の両手で包み込んだ。
言葉は失われた。
声は消えた。
しかし、二人の間に残された絆と、怪異に対する殺意のような執念は、この最悪の絶望の中で、より深く、より強固に結びつけられた。
『……ですが、これで終わったと思わないことです』
静まりかけたスピーカーから、最後の冷酷な宣告が落ちた。
『あなたたちの罪は、まだ半分も清算されていません。……階段を下りなさい。学校の深淵で、詩織さんが待っていますよ』
静寂が、再び放送室を呑み込んだ。
血の海の中で、創太は立ち上がった。声を失った葵をしっかりと抱え直し、彼女の体を背負う。
残された生存者は、創太と、声を失った葵の二人だけ。
2年B組の全滅という最悪の犠牲を払い、少女の声という代償を奪われながらも、ふたりは真の決着をつけるため、暗闇の校舎の深淵へと足を踏み出していくのだった。




