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第十六話  水の怪物と、怒れる男


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        第 十 六 話

    水の怪物と、怒れる男

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 橋本ハヤト軍曹について、少し説明しておく必要がある。


 身長百八十五センチ。屈強な肉体。爽やかな笑顔。飄々とした言動。誰とでもすぐ打ち解ける社交性。自衛隊という組織の中では少し異質な、陽気さを全面に押し出したタイプの人間だ。


 橋本ハヤトは、めったに怒らない。


 めったに、というのは語弊があるかもしれない。正確に言えば、怒っているように見えない。野村軍曹にしょっちゅう怒鳴られても、どこ吹く風で笑っている。任務中に無茶な命令が来ても、「まあ何とかなりますよ」と言って笑っている。四十三日間の行軍で体がぼろぼろになっても、「腹は減ってないっすか隊長」と言いながら笑っている。


 この男が笑っていない時というのを、真司はほとんど見たことがなかった。


 ほとんど、だ。


 だから、橋本ハヤト軍曹が怒る時というのは、本当に怒っている時だ。


 そしてその夜、橋本ハヤト軍曹は、初めて本気で怒った。



 *



 ドーソン外交官との交渉を終えて、特殊調査部隊が野営地に戻ったのは夕方のことだった。


 ドーソンは王都へ向かって引き返した。諜報員・雲雀丘の解放交渉を最優先で行うこと、〈水龍〉部隊の動きを可能な限り抑止すること、この二点を約束して。


 約束が守られるかどうかは、わからない。


 ドーソン自身の意志は本物だと、真司は見た。しかしドーソンの意志と王国の動きは、必ずしも一致しない。ドーソン本人が言っていた通りだ。外交官の本音と建前は別物で、王の命令がある以上、どこかで歪む。


 だから真司は、楽観しなかった。


 「水龍が来る可能性がある。夜間警戒を強化する。当番を倍にして、ルナには常に耳を使ってもらう」


 野営地に戻ってすぐ、真司は全隊員に指示を出した。


 「了解!」


 隊員たちが動く。テントの配置を見直し、車両を防護壁代わりに並べ、機銃の角度を調整する。手慣れた動きだった。四十三日間、何度も繰り返してきたことだ。


 「隊長」


 ルナが来た。


 「わかってる。頼む」


 「うん」


 ルナはその場にしゃがんで、目を閉じた。うさ耳が、ゆっくりと四方へ向く。風を読むように、あるいは水を感じるように。


 「今は、何も聞こえない」


 「そうか」


 「でも、水龍ってどんな音がするか知らない。炎龍は翼の音で分かったけど」


 「翼人族の爺さんに聞けるか」


 「聞いてみる」


 ルナが走っていく。


 野村軍曹が隣に立った。


 「今夜、来ると思いますか」


 「わからない。でも、来るとしたら夜だ。昼間に動けば航空偵察に引っかかる。向こうもそれはわかっているはずだ」


 「〈水龍〉というのは」


 「ドーソンの話では、炎龍と同じく龍の一種だが、水属性の魔法を扱うらしい。炎龍の反省から、火に強い俺たちには水をぶつけてくる、ということだろう」


 「水が武器になるんですか」


 「圧力次第では何でも武器になる。それに、夜間に大量の水をぶつけられれば、視界が奪われる。照明も消える。そこに地上部隊が突っ込んでくる、という戦術が考えられる」


 野村は少し黙ってから言った。


 「隊長は、よくそういうことを思いつきますね」


 「嬉しくない褒め方だな」


 「褒めてます」


 「そうか」


 「本当に褒めてます」


 「ありがとう」


 真司は空を見た。


 夕暮れが終わりかけていた。

 空の端に、最後の橙色。

 その色が消えれば、夜になる。


 「野村」


 「はい」


 「今夜、何かあっても、お前は生きて帰れ」


 「……隊長も、でしょう」


 「もちろんそうだ。ただ、副隊長として言っておく。隊長が倒れた時は、橋本と二人で帰れ。それが命令だ」


 野村軍曹は真司を見た。


 その目に、色々なものが混じっていた。

 不服と、心配と、それから何か別の、言葉にならないものと。


 「……はい」


 「よし」


 「でも」


 「でも?」


 「倒れないでください」


 真司は少し笑った。


 「努力する」



  *



 夜の八時を過ぎた頃、ルナが立ち上がった。


 「聞こえる」


 その一言で、野営地全体の空気が変わった。


 「翼人族の爺さんに聞いたんだけど、水龍は普通の龍より鳴き声が低い。水の中に潜れるから、音も抑えるって言ってた。でも」


 ルナはうさ耳を北西に向けた。


 「水龍って、翼を動かす時に独特の音がするらしい。羽が濡れてるから、乾いた音じゃなくて、ぬめった感じの音がする」


 「聞こえるか」


 「……聞こえる。北西から。遠い。でも確かに、変な音」


 「数は」


 「十以上。多分、十五か二十」


 真司は即座に動いた。


 「全員戦闘配置! 照明は最小限に! ルナは俺の隣から離れるな! 橋本、一班を北西の斜面に! 野村、二班は南を守れ、挟み撃ちに備える! 三班は車両を守りながら難民の方々を中央に集めろ! 急げ!!」


 『はいっ!!』


 隊員たちが散る。


 暗闇の中で、特殊調査部隊が動く。


 訓練の成果が出るのは、こういう時だ。真司がいなくても動ける。命令がなくても役割を知っている。それが、四十三日間で積み上げてきたものだ。


 ルナが真司の隣に立った。うさ耳は常に北西を向いている。


 「近づいてる。早い」


 「どのくらいで来る」


 「……五分もない」


 「わかった」


 真司は無線を取った。


 「橋本、聞こえるか」


 「聞こえます!」


 「五分以内に来る。北西の斜面を守れ。ただし最初の攻撃が来るまで撃つな。向こうの戦法を見てから判断する」


 「了解っす。隊長、あと一個いいですか」


 「何だ」


 「難民の皆さん、特に子どもたちが怖がってます。声かけてやってもらえますか。俺が行ってもいいんですけど、俺より隊長の方が落ち着かせる顔してるんで」


 真司は一瞬だけ、橋本の顔を思い浮かべた。


 あいつの顔の方がよっぽど安心感があるだろう、と思ったが、それを言う時間はなかった。


 「わかった」


 真司は車列の中央へ向かった。


 難民の人々が輪になっていた。老人、女性、子ども。怯えた目で真司を見る。


 真司は膝を折った。


 一番前にいた、五歳か六歳くらいの女の子と、目の高さを合わせた。


 「大丈夫だ」


 日本語で言った。

 伝わらないかもしれない。それでも言った。


 「俺たちがいるから、大丈夫だ」


 女の子は真司を見た。

 それから、ルナを見た。


 ルナがしゃがんで、女の子の言葉で言った。


 何を言ったのか、真司にはわからなかった。

 でも女の子は少しだけ、肩の力を抜いた。


 それで十分だった。



  *



 〈水龍〉は、音もなく現れた。


 いや、正確には音があった。ルナが言っていた、ぬめった翼の音。しかし人間の耳では限界まで近づかないと聞こえない音だった。


 北西の空に、黒い影が現れた。


 月のない夜だった。星明かりだけの闇に、さらに黒い塊が浮かぶ。翼を広げた龍が、二十頭。


 「……でかい」


 誰かが呟いた。


 炎龍を見た者は隊員の中に何人かいたが、水龍は初めてだ。炎龍より一回り大きく、鱗の色が暗い青だった。翼は半透明で、光の加減では水の膜が張っているように見える。


 先頭の一頭が、口を開けた。


 轟音とともに、大量の水が放射された。


 「散れ!!」


 真司が叫ぶ前に、隊員たちは動いていた。


 水の柱が地面を叩く。高圧の水は土を抉り、車両の側面を叩いてへこませた。水圧ではなく、水の中に混じった岩石が弾丸のように飛んでくる。これが、水龍の戦い方だった。


 「くそ、水じゃなくて礫弾か!!」


 橋本の声が無線から飛んでくる。


 「水を貯めて一気に放出する時に、川底や地面の石を巻き込む仕組みだろう。射撃開始していいぞ!」


 「了解っす!! 一班、撃て!!」


 機銃の音が響く。


 水龍の鱗は硬い。通常の銃弾では傷がつかない、という情報はタルチット村のベルジャから得ていた。しかし目は別だ。あるいは翼の付け根の薄い部分。弱点は必ずある。


 「ルナ、水龍の弱点を知っているか!」


 「翼人族の爺さんが言ってた。あごの下。首と胸の間の鱗が薄いって」


 「橋本! あごの下を狙え! 首元だ!」


 「難しいっす! 暗くて見えない!」


 「照明弾を使え!」


 「了解!!」


 橋本が動く。


 パン、と軽い音がして、空に白い光が咲いた。


 照明弾の光の下に、水龍の姿が浮かぶ。


 「いた! 頭上!」


 橋本の声。


 ダダダダダッ!


 機銃弾が首元に集中する。水龍が苦しそうに鳴き声を上げた。甲高い、破裂するような音だ。一頭が体勢を崩して、高度が下がる。


 「もう一発!」


 追加の機銃掃射。


 水龍が地面に落ちた。轟音が響く。地面が揺れた。


 「一頭墜とした!!」


 橋本の声に、隊員たちから短い歓声が上がった。


 しかし、残りはまだ十九頭いる。


 「喜ぶのは後だ! 散開! 固まるな!!」


 真司が叫ぶ。


 戦闘は十五分続いた。


 十五分というのは長い。

 本当に、長い。


 地上からの攻撃で水龍は五頭を失った。残りは距離を取り始めた。水龍の弱点が割れたことで、正面からの突撃は無謀だと判断したのだろう。


 しかし退かなかった。


 距離を取りながら、散発的に水を放ち続ける。消耗戦だ。

 弾薬を使わせて、疲弊させる。そこに地上部隊を突っ込ませる。


 真司はその意図を読んだ。


 「野村! 南に動きはあるか!」


 「今のところ静かです! でも、おかしい」


 「何が」


 「静かすぎます。来るとしたら、もう来てもいいはずなんですけど」


 「……待っているのかもしれない。こちらが弾薬を使い切るのを」


 「どうしますか」


 真司は考えた。


 消耗戦には乗らない。しかし、水龍を放置もできない。このまま散発的に攻撃され続ければ、難民の人々に被害が出る可能性がある。


 「ルナ」


 「なに」


 「対戦車ミサイルは今どこにある」


 「二班の車両に積んでたと思う」


 「野村に連絡してとってくる」


 「何するの」


 「水龍を一気に減らす。長距離から叩けば、地上部隊が来るより先に終わらせられる」


 「でも、夜で見えない」


 「照明弾を連続で上げる。ルナ、お前に音で位置を教えてもらいながらやる」


 ルナは少し考えた。


 「できる」


 「確かか」


 「私の耳を信じて」


 「信じる」


 ルナがうさ耳をぴんと立てた。


 真司は無線を取った。


 「野村、対戦車ミサイルを俺の位置に持ってきてくれ。あと、照明弾を二十発。急いでくれ」


 「……了解です。一人で持てないので誰か連れていきます」


 「わかった」


 「隊長」


 「なんだ」


 「危ないことをするつもりですか」


 「危なくなるように考えてる」


 「相変わらずそういうところが好きです、隊長の」


 「うるさい、早く来い」


 「はい!!」


 通信が切れた。


 ルナが真司を見た。


 「野村さん、隊長のことが好きなんだね」


 「知ってる」


 「知ってるの?!」


 「知っていれば対処できるとは思っていない。そういう話だ、今は」


 「……複雑ね」


 「世の中は複雑だ。さあ、耳を使ってくれ」


 ルナはうさ耳を空へ向けた。


 頭上では水龍がまだ旋回している。


 夜は深く、戦闘はまだ終わっていない。



  *



 対戦車ミサイル〔九一式〕を持ってきたのは、野村と、もう一人だった。


 橋本だった。


 「なんでお前がいる」


 「一班は任せてきました。次の照明弾が上がるまで膠着してるんで、大丈夫っす」


 「一班が心配だ」


 「副隊長代理に任せてあります。あいつは優秀っすよ」


 真司は一秒考えて、「わかった」と言った。


 時間をかけている余裕はない。


 「聞けルナ、水龍の今の位置を北から順番に教えてくれ。照明弾が上がる前に、大体の方角だけでいい」


 ルナが目を閉じた。


 「北北西に三頭。北に五頭。北東に四頭。西に二頭。あと五頭は少し遠い、北の空の高い場所」


 「わかった。橋本、聞いたか」


 「はい」


 「照明弾を連続で上げながら、ミサイルの誘導を手伝え。俺が撃つ」


 「了解っす。ただ隊長」


 橋本が、少し声のトーンを落とした。


 「なんだ」


 「ミサイルを使い切ると、この先の戦闘に響きます。ドーソンさんと話し合いを続けるにしても、王国が裏でなにかやってきた時の抑止力がなくなる」


 「わかってる」


 「わかってて使うんですか」


 「全部使うわけじゃない。半分残す。それでも、今夜を乗り越えなければ話し合いも何もない」


 橋本は少し黙った。


 「……了解っす」


 「いい判断だと思うか」


 「わからないっす。でも、隊長が決めたなら、俺は動きます」


 「そういう答えが聞きたかったわけじゃない」


 「じゃあどんな答えが?」


 「間違ってると思ったら言え。俺はお前に言える奴でいてほしい」


 橋本は少し驚いた顔をした。


 それから、笑った。いつもの太陽みたいな笑顔じゃなく、もう少し細かい、複雑な笑い方だった。


 「……正直に言います。俺は今夜、怖いです」


 「そうか」


 「水龍が来た時、足が動かなかった。一瞬だけど、足が止まった。隊長に報告しなきゃいけないことがあって」


 「言え」


 「隊員の一人が、水龍の攻撃の時に伏せるのが遅れた。俺が怒鳴って、なんとかなったけど。あいつは今、震えてる」


 「名前は」


 「三班の川上二士です。まだ二十歳です」


 真司は頷いた。


 「戦闘後に俺が話す。お前は何か言ったか」


 「俺は、怒鳴っただけです。だから」


 橋本がわずかに顔を歪めた。


 「だから、あとで謝ろうと思ってます。震えてるのは当たり前なのに、怒鳴って悪かった。そう言おうと思って」


 「……橋本」


 「はい」


 「お前は今夜、よくやってる」


 橋本は返事をしなかった。


 珍しかった。

 この男が黙るのは、珍しかった。


 「照明弾、上げてくれ」


 「……はい」


 ドン、と音がして、空に白い光が咲いた。


 光の中に、水龍の影が浮かぶ。


 真司はミサイルを構えた。


 「ルナ、北北西の三頭を先に狙う。一番手前の一頭、場所を言ってくれ」


 「少し右。もう少し。そこ」


 「了解」


 発射。


 ミサイルが光の尾を引いて飛ぶ。


 命中。


 水龍が鳴き声を上げながら落ちる。


 「次、上げてくれ!」


 「はい!!」


 ドン。


 「二頭目、もう少し左」


 「了解」


 発射。命中。


 「三頭目、真上からちょっと右」


 発射。命中。


 「北の五頭、一番大きい奴がいる。真ん中より少し左」


 「よし」


 発射。


 命中しなかった。


 水龍が回避した。学習している。


 「くそ、次!」


 「もう少し待って。動き読む」


 ルナがうさ耳を全開にした。


 「今」


 発射。


 命中。


 「見事だ」


 「褒めるなら後で」


 「そうだな」


 戦闘は、そこから二十分続いた。


 ミサイル七発。水龍の撃墜数、九頭。


 残りは撤退した。


 南からの地上部隊は、結局来なかった。


 水龍が大きく削られたことで、挟み撃ちの計画が崩れたのだろうと、真司は読んだ。


 野営地に静寂が戻った。


 静寂が、やけに重かった。



  *



 戦闘処理が終わったのは、深夜十一時を過ぎた頃だった。


 負傷者は四名、軽傷。死者なし。


 難民の方々への被害はなかった。


 真司が安堵する暇もなく動き回っていると、橋本が川上二士を連れてきた。


 二十歳の隊員は、まだ少し顔が青かった。


 「川上二士、隊長に報告があります」


 川上は姿勢を正して言った。声が少し震えている。


 「水龍が来た時、私は一瞬、体が止まりました。副隊長の橋本軍曹に叱咤していただいて、正常に動くことができました。しかし、あの一瞬が隊全体に影響を与えた可能性があります。申し訳ありませんでした」


 頭を下げた。


 真司は川上を見た。


 二十歳。

 日本を離れて四十三日。

 今夜、水龍に初めて出くわした。


 「川上」


 「はい」


 「足が止まったか」


 「はい」


 「一瞬だったか」


 「……はい」


 「それでいい」


 川上が顔を上げた。


 「怖くないやつが戦場にいたら、そいつは壊れてる。一瞬足が止まるのは普通だ。問題は、その後だ。お前はその後、動いた」


 「でも、橋本軍曹に怒鳴っていただかなければ」


 「橋本がいたからよかった。それが部隊だ。一人で完璧にやろうとするな」


 川上は黙った。


 「今夜はよくやった。以上だ。休め」


 「……はい。失礼します」


 川上が去った。


 橋本が真司の隣に立った。


 「隊長」


 「なんだ」


 「俺、怒鳴って悪かったって謝りに行ったんですけど」


 「そうか」


 「川上に泣かれました」


 「……そうか」


 「なんで泣くんですかね」


 真司は橋本を見た。


 「怒鳴られたのが怖かったわけじゃなくて、謝られたのが嬉しかったんだろう」


 「えっ」


 「二十歳だぞ。しかも今夜みたいな経験の後に、上官に謝ってもらったら、そりゃ泣く」


 橋本は少し黙った。


 「……俺、泣かせるつもりなかったんですけど」


 「いいじゃないか」


 「えー」


 「お前が謝ったことは正しかった。川上も、それをちゃんと受け取った。それでいい」


 橋本はまた黙った。


 今夜二度目の沈黙だった。


 「……隊長は、優しいっすね」


 「俺は別に優しくない」


 「優しいと思います」


 「そういうことにしておけ」


 「はい」


 橋本は笑った。


 今度はいつもの笑顔に戻っていた。

 太陽みたいな、あの笑顔に。


 「橋本」


 「はい」


 「今夜、よくやった」


 「……ありがとうございます」


 今夜三度目の沈黙。


 しかしこの沈黙は、最初の二つとは違う種類のものだった。


 重さがなかった。

 むしろ、少し軽かった。


 「野村はどこだ」


 「雲雀丘さんの解放に向けて、本部と無線やってます。止まりません、あの人」


 「そうか」


 「隊長、今夜は休んでください。俺が見張ります」


 「お前も休め」


 「俺は大丈夫っす。体力だけは自信があります」


 「……二時間だけ休む。三時間後に起こせ」


 「了解っす」


 「水龍が来たらすぐ起こせ」


 「当然です」


 真司はテントに向かった。


 入り口のところで、ルナがしゃがんで耳を澄ましていた。


 「今は何も聞こえない」


 「そうか。ありがとう」


 「今夜の私、役に立てた?」


 「十分すぎるくらい役に立った」


 「ほんとに?」


 「ほんとに」


 ルナは少しだけ、笑った。


 うさ耳がぴんと立った。


 「……ならよかった」


 真司はテントに入った。


 横になった。


 目を閉じた。


 今夜、死者が出なかった。

 それだけで、十分だ。


 胸ポケットの懐中時計と青い石が、体の温度で温かくなっていた。


 亜希。さくら。


 今夜も、生きている。


 王都まで、百三十キロ。


 朝が来たら、また歩く。



 ―― 了 ――



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次話予告


 雲雀丘淳、解放。

 しかし、彼が地下牢で聞いたものは、

 特殊調査部隊の命運を左右する情報だった。


 第十七話「諜報員が最後に守るもの」


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