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第十四話  王 都 前 夜


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        第 十 四 話

        王 都 前 夜

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 正直に言う。


 佐竹真司三等陸尉は、今この瞬間、死ぬほど眠かった。


 死ぬほど、というのは比喩だ。ただしこの状況においては比喩でない可能性も完全には排除できない。北九州フロンティアを出発してから四十三日が経過している。タルチット村での休息を挟みながら前進し続け、翼人族の老長ヴェルダを一時的に保護し、道中で三度の小競り合いを経て、現在、特殊調査部隊は〈ガレリア王国〉の王都から百五十キロ地点にある丘の上で野営していた。


 百五十キロ。


 距離にすれば近い。

 しかしここから先は、違う。


 王都周辺百キロ圏内は、ガレリア王国の本格的な防衛網が展開されているという情報を、ルナから得た。ウサギ族のネットワークは広く、情報の精度も高い。索敵魔法の塔が複数箇所に設置されており、昼間は空からも監視されている。〈炎龍〉の定期哨戒ルートも存在する。


 つまり。


 ここから先は、慎重に行かなければならない。


 慎重に、というのは真司が最も苦手なことではないのだが、慎重に進めば進むほど時間がかかり、時間がかかればかかるほど雲雀丘淳の命が危うくなるという事情があった。


 捕まった諜報員。

 あの男が生きている保証はない。

 しかし、死んでいる確証もない。


 真司は地図を広げたまま、ランタンの光の下で目を閉じた。

 考える。

 考えながら、思考が滑っていく。


 眠い。


 本当に、眠い。


 「隊長」


 声がした。


 真司はぱっと目を開けた。

 野村真奈美軍曹だった。


 「……起きてる」


 「嘘つかなくていいです」


 「起きてる」


 「目が完全に閉じてました」


 「思考中だった」


 「思考中に鼾は出ませんよ、普通」


 真司は返す言葉がなかった。鼾をかいていたのなら負けだ。認める。


 「何時だ」


 「二時十分です。隊長の当番まであと四十分あります。寝てください」


 「眠れない」


 「嘘つかなくていいです」 


 「今度は本当だ」


 野村は少し真司を見てから、地図の隣に腰を下ろした。野戦服のまま、膝を抱えるように座る。その横顔に、ランタンの光が揺れた。


 「何を考えてたんですか」


 「色々だ」


 「色々って言う時は、一個のことしか考えてない人が多いですよ」


 「……そうか」


 「何ですか、その一個って」


 真司は少し間を置いた。


 「王都に入ってからのことだ。俺たちはあの国と、どう話をすればいい」


 「国交樹立、ですよね。それが任務ですから」


 「任務はそうだ。でも任務と現実は、ぴったり重なるとは限らない」


 野村は黙って続きを待った。


 「ガレリア王国は俺たちを奴隷にするつもりで先に手を出してきた。こっちはそれを全部叩き落とした。今度は外交官を送ってくるらしいという話だが、それが本気の外交なのか、時間稼ぎなのか、俺には判断できない」


 「……確かに」


 「日本は食料が要る。エネルギーも要る。あの国は広くて、肥沃だ。こちらが必要としているものを持っている。だからといって、奴隷にしようとしてきた国と笑顔で握手できるか、という話だ」


 「できるかどうかじゃなくて、しなければならない、じゃないですか」


 真司は野村を見た。


 「……言うな」


 「でも本当のことです」


 「そうだな」


 「私は」


 野村は膝の上の手を、少し強く握った。


 「私は、隊長が握手したくないというなら、しなくていいと思います。でも、隊長が国のために握手が必要だと判断したなら、私は横に立ちます。それだけです」


 真司はしばらく黙った。


 「……お前は、こういう時だけまともなことを言うな」


 「こういう時だけって、どういう意味ですか」


 「普段はうるさい」


 「うるさくないです!!」


 「声を下げろ、夜だ」


 「……うるさくないです」


 野村はぼそりと言った。


 真司は苦笑した。


 「わかった。ありがとう」


 「いえ」


 「休んでいいぞ。俺が起きてる」


 「……一緒にいてもいいですか」


 「なんでだ」


 「その、一人だと、少し、怖いので」


 真司は野村の横顔を見た。

 百五十五センチの体。可愛らしい顔。その目の奥に、今夜は違う色がある。


 そうか、と真司は思った。


 このまじめで有能な副隊長も、怖いのだ。

 当然だ。

 怖くない人間がいたとすれば、そいつは何も理解していないか、あるいは何かを壊してしまっているかのどちらかだ。


 「いいぞ」


 「ありがとうございます」


 「でも喋るな。俺は考える」


 「……はい」


 野村は黙った。

 ランタンが揺れる。

 テントの外で風が鳴る。


 真司は地図を見た。


 百五十キロ。


 (亜希。さくら)


 心の中で呼んだ。

 返事はない。

 返事がないのはわかっている。

 それでも呼ぶ。


 生きて帰る、と誓ったから。


 その誓いが、今夜の真司を眠らせなかった。



 ***



〈ガレリア王国〉 ドーソン家屋敷


 同じ夜、アル=ドーソンも眠れなかった。


 父が出発してから、三週間が経っていた。


 定期的に伝書鳥で便りは届いている。無事だ、という短い言葉と、現地の状況の概要。父の字は几帳面で、書く内容も簡潔で、アルはその便りを読むたびに、父が生きているという事実を確認して、それから折りたたんで机の引き出しにしまった。


 三通ある。

 三週間で三通。


 今日は届かなかった。


 別に届かない日があっても不思議ではない。伝書鳥の移動に日数がかかることもある。天候が悪ければ遅れる。それだけのことだ。


 それだけのことだと、アルは知っている。


 それでも、今夜の引き出しは空のままだ。


 アルは制服を着たまま、窓の外を見ていた。


 王都の夜景。

 石畳の上に、街灯の光が溜まっている。遠くの鐘楼で、時を告げる鐘が二度鳴った。夜中の二時だ。


 父はどこにいるのだろう。


 父が向かった先は、日本と呼ばれる国の軍隊が今いる場所だという。辺境から四十日ほど馬で進んだところ。既に偵察により、彼らの車列の位置は把握しているという話を、アルはある筋から聞いていた。


 ある筋、というのはローズの父親だ。ローズの父は王国軍の情報参謀を務めており、ローズ経由でアルに情報が流れてくる。これは厳密に言えば情報漏洩に当たるのだが、王国内にはそれを取り締まる法律が整備されていないので黙認されている。そういうゆるやかさが〈ガレリア王国〉の良いところでもあり、悪いところでもある。


 日本の軍隊は、今、王都から百五十キロ地点にいる。


 父も、そこから四十キロほど手前にいるはずだ。


 (父さん)


 アルは窓ガラスに額を押し当てた。


 冷たい。


 石造りの窓枠は夜になると冷えて、ガラスもひんやりとする。子どもの頃、眠れない夜にこうやって額を当てると、熱が取れる気がして好きだった。父がそれを見て、「行儀が悪い」と言った。アルはやめた。


 父がいないから、やった。


 馬鹿みたいだと思う。

 でも誰も見ていないから、いい。


 「絶対に帰ってこい」


 声に出した。


 声に出すと、言葉が軽くなる気がして嫌いなのだが、今夜だけは許してほしかった。


 「俺がちゃんと卒業するから。強くなるから。この国を変えるから」


 交換条件のように言った。


 父が聞いたら笑うだろう。「何と取引しているんだ」と言って、「生きて帰るかどうかは俺が決める」と言うだろう。


 父はそういう人間だ。


 だからこそアルは、父を尊敬している。


 コンコン。


 ノックの音がした。


 アルは慌てて窓から離れ、姿勢を正した。


 「……入れ」


 「夜分に失礼します」


 執事の老人、ガルタムだった。


 いや、違う。ガルタムはアリアン王の執事だ。アル家の執事は別にいる。老齢の男で、名をロバという。


 ロバは銀のトレイを持って立っていた。


 「坊ちゃま。夜食はいかがですか」


 「……いらない」


 「スープだけでもいかがでしょう」


 「いらない」


 「……旦那様が出発される前に、私へこう仰っていました。アルが眠れない夜はスープを持っていってやれ、と」


 アルは返す言葉をなくした。


 父め。


 「……じゃあ、もらう」


 「はい」


 ロバはテーブルにスープを置いた。白いスープだった。ガレリア王国でよく作られる、乳と根菜を煮込んだもの。子どもの頃から好きだった。


 「父さんは、大丈夫だと思うか」


 アルは椅子に座りながら、ロバに聞いた。


 「私にはわかりかねますが」


 「お前の感覚でいい」


 ロバは少し考えた。


 「旦那様は、私が長年見てきた中で、最も生きることに執着している方です」


 「……生きることに、執着」


 「はい。それも、ご自身のためではなく、坊ちゃまのために。その執着は、並大抵のことでは折れません」


 アルはスープを一口飲んだ。


 温かかった。


 「……そうか」


 「はい」


 「ありがとう、ロバ」


 「お休みなさいませ、坊ちゃま」


 ロバが去った。


 アルはもう一口、スープを飲んだ。


 父が出発する前の夜も、このスープを飲んだ気がする。

 その夜、父は言っていた。


 「アル、俺がいない間、お前には自由にやってほしい」


 「自由に?」


 「何でもいい。勉強でも、遊びでも。ただ一つだけ頼む」


 「何」


 「ローズとリリーを笑わせてやれ。あの子たちはお前が笑顔でいると安心するから」


 アルはその言葉の意味を、今夜初めて理解した気がした。


 父は心配していたのだ。

 アルが一人で抱え込むことを。

 笑えなくなることを。


 「……わかった」


 アルは呟いた。


 スープを飲み干して、机に向かった。


 法学の教材を開く。


 眠れないなら、勉強する。それがアル=ドーソンというやつだ。



 ***



翌朝 特殊調査部隊 王都百五十キロ地点


 夜明けと同時に、ルナが真司のテントに飛び込んできた。


 文字通り、飛び込んできた。


 テントの入り口を全力で開けて、息を切らして、うさ耳を全開に立てて、顔を真っ青にして。


 「隊長!」


 「……何だ」


 真司は結局ほとんど眠れないまま夜を越していた。当然、機嫌はよくない。しかしルナの顔を見た瞬間、眠気は吹き飛んだ。これだけの形相で飛び込んでくる時は、本当にまずいことが起きている。


 「聞こえた」


 「何が」


 「南東から、馬の足音。百以上。あと、車輪の音。大きな荷物を積んだ馬車。整然とした隊列じゃない。急いでる」


 「距離は」


 「二十キロくらい。でも速い。一時間もしないうちに来る」


 真司は立ち上がり、すぐに野村と橋本を呼んだ。


 二人は既に起きていた。野村は真司のテントから出たあとも当番で外にいたらしく、橋本は単純に朝が早いタイプだった。


 「聞いてたか」


 「だいたい」


 橋本が顔をしかめながら言った。


 「南東ってことは、王都方面じゃないですね。王都なら北です」


 「ああ」


 「じゃあどこから?」


 「ルナ」


 「南東の方角には、〈ガレリア王国〉の第三直轄領がある。王都からは少し離れた地方都市。商業が盛んな場所だって聞いてた」


 「軍隊じゃないのか」


 「わからない。でも、整然としてない。軍隊なら、もっとリズムが揃ってる。これは、バラバラ。混乱してる感じ」


 「難民か」


 ルナが頷いた。


 「多分」


 真司は三秒考えた。


 「接触する。橋本、一班を連れて来い。残りは待機、周囲を警戒。野村は俺と来い。ルナも」


 「わかった!」


 「了解です」


 「……うん」


 車両に乗り込む前に、真司は空を仰いだ。


 夜明けの空。薄い橙色が、地平線の向こうから滲んでいる。


 綺麗だと思う暇はなかった。


 「行くぞ」



  *



 彼らと出会ったのは、野営地から十二キロほど南東に下ったところだった。


 ルナの予測は正確で、三十分もしないうちに先方の集団と合流した。


 馬車が十台以上。徒歩の人々が二百人近く。老人、女性、子ども。荷物を積みすぎた馬車は車輪が軋んでいる。みな、顔色が悪い。疲労だけでなく、恐怖の色がある。


 高機動車〔疾風〕が姿を現した瞬間、集団は悲鳴を上げて散り始めた。


 「待て! 敵ではない!」


 拡声器から真司の声が轟く。


 ルナが車から飛び出して、走りながら叫んだ。


 「怖くない! この人たちは戦わない! 止まって!」


 ルナのウサギ耳は、逃げようとしている人々に視覚的な安心感を与えた。亜人と一緒にいる存在が、そう簡単に敵であるはずがない、という本能的な判断だ。


 集団が止まった。


 最前列に出てきた男は、四十代くらいの商人風だった。上等な服を着ているが、泥と埃で台無しになっている。目の下に深いくまがある。


 「……お前たちは、何者だ」


 「日本という国の軍隊です」


 真司は答えた。できる限り穏やかに。


 「日本」


 男は繰り返した。「知らない」という顔をした。


 「詳しい説明は後でできます。今は、あなたたちの話を聞かせてください。どこから来て、何から逃げているのか」


 男は後ろの群衆を見た。それから真司を見た。


 「……信じられるか」


 「信じてもらえるかどうかは俺には決められない。でも、俺はあなたたちを傷つける気はない」


 「証拠は」


 「証拠はない。でも、俺がやろうと思えば今すぐあなたたちに発砲できる立場にいる。していない、それだけです」


 男はしばらく真司を見つめた。


 それから、深く息を吐いた。


 「……〈第三直轄領〉のラクダという。商会を経営している。四日前、王国軍が突然我々の街を制圧した。財産を没収し、抵抗した者を殺した。街の若い者はすべて兵役に取られた。理由を聞いたら、こう言われた」


 ラクダは声を落とした。


 「『王の命令により、新たな奴隷を確保するための戦争に必要な兵を徴集する。協力しない者は反逆者として処刑する』と」


 真司の横で、野村軍曹の顔が強張った。


 橋本は拳を握っていた。


 「それで、逃げてきた」


 「我々には戦う力がない。だが、このまま王都に向かっても待っているのは奴隷か死か、どちらかだ。北に逃げれば、見たことのない国があると噂を聞いた」


 「噂の出所は?」


 「翼人族の老人から聞いた。白い羽の爺さんで、北から来たと言っていた。鉄の龍に乗った者たちがいると、そう」


 鉄の龍。


 高機動車〔疾風〕のことだ。


 翼人族の老長ヴェルダが、情報を広めてくれていたのだ。


 真司は少し目を閉じた。


 考えることが増えた。

 また増えた。


 しかし、それで困ったとは思わなかった。

 困ったとは、思いたくなかった。


 「一つ聞いていいか」


 「なんだ」


 「王国軍はあなたたちを追っているか」


 ラクダの顔が曇った。


 「……多分、そうだ。出てきた時から追手がいた。途中で撒いたが、長くは持たない」


 真司は野村を見た。


 野村は頷いた。


 「隊長、本部に打診が必要です。この人数を保護するとなると、補給線の再計算が必要になります」


 「わかってる。でも時間がない」


 「はい」


 「俺が判断する」


 「はい」


 真司はラクダに向き直った。


 「俺たちと一緒に来てください。王都方向に向かう組と、北の安全地帯に向かう組に分けます。体力のある成人男性は、できれば俺たちを手伝ってほしい。女性、老人、子どもは北のタルチット周辺へ向かってもらう。そこには俺たちの仲間がいる」


 「……お前たちは、王都に行くのか」


 「行く」


 「なぜだ。王国軍と戦うのか」


 「戦いに行くわけじゃない。話をしに行く」


 「話を? あの王に?」


 ラクダは驚いた顔をした。信じられない、というより、理解できないという表情だった。


 「……正気か」


 「聞かれたら、いつも正気だと答えることにしてる」


 「しかし」


 「あの王に直接話すわけじゃない。まず窓口を見つける。それだけです」


 ラクダはしばらく真司を見つめた。


 「……お前は、面白い男だな」


 「よく言われる」


 「嘘だ」


 「本当に嘘だ」


 ラクダは笑った。疲弊しきった顔の中に、一瞬だけ人間らしい光が戻った。


 「わかった。信じよう。人を見る目は、商人の命だ。お前は嘘をついていない」


 「ありがとう」


 「礼はいい。ただ」


 ラクダは真剣な顔で言った。


 「生きて帰れ。話が終わったら、また会おう。俺はまだ、色々聞きたいことがある」


 「約束する」


 「よし」


 それだけで、話はまとまった。


 商人という生き物は、信頼と速度で動く。

 長い説明より、短い約束の方が通じることを、ラクダという男はよく知っていた。


 そしてたぶん、真司も同じタイプだった。



  *



 難民集団の整理と北への誘導に二時間かかった。


 男性の志願者が七名いた。戦えるわけではないが、荷物の運搬や情報提供に徹してもらう。彼らの中に、王都の地図を頭に入れている者が二名いた。これは大きい。


 車列が再び動き始めた。


 北への組と別れる際、一人の老婆が真司に近づいてきた。小柄で、腰が少し曲がっていた。しわだらけの手で真司の手を取って、何かを握らせた。


 「……これは」


 小さな石だった。深い青色の、親指ほどの石。表面に細かい模様が刻まれている。


 「〈守護の石〉です」


 老婆は言った。ルナが通訳する。


 「この世界に伝わる、旅人を守る石。私の夫が、若い頃に遠い国から持ち帰りました。今まで大切にしてきましたが、あなたに持っていてほしい」


 「俺には受け取れない。大切なものなんでしょう」


 「だから、あなたに渡すのです」


 老婆は真司の手を、両手で包んだ。


 「あなたのような人が生きて帰ってこなければ、この世界に希望がなくなる気がします。おかしなことを言うのはわかっています。でも、そう感じました」


 真司は何も言えなかった。


 老婆は手を離して、列の中に戻っていった。


 ルナが真司を見た。


 「……どうしたの」


 「何でもない」


 「嘘だ。心拍が上がってる」


 「うるさい」


 「私の耳は正直だもん」


 真司は青い石を、胸ポケットにしまった。


 懐中時計と同じ場所に。


 「行くぞ」


 「うん」


 車列が動く。


 王都まで、百五十キロ。


 空は今日も青い。


 地球の青とは少し違う、この世界だけの色。


 だが、空というのはどこでも同じで、見上げれば必ず頭上にある。


 それだけで、何故か、少し力が出た。


 佐竹真司三等陸尉は、今日も前を向く。


 妻と娘が待っている場所へ。


 帰るために、まず行く。


 ――それが、この男の戦い方だ。



 ***



〈ガレリア王国〉 地下牢


 雲雀丘淳は生きていた。


 それだけで、奇跡だった。


 今日の拷問は、昨日より短かった。

 理由はわからない。

 ガロンが来て、いつもより少ない時間で去っていった。


 何かが変わっている、と雲雀丘は感じた。


 外の気配が、少し違う。

 足音が多い。

 慌ただしい。


 耳を澄ます。

 扉の向こうで、誰かが話している。


 「……日本の軍が王都百五十キロ圏に入ったようです」


 「確かか」


 「索敵魔法の塔が反応しました。鉄の車列と、複数の人間の気配。数は小規模ですが」


 「王は」


 「ドーソン外交官を前線に送ることを再確認されました。外交ルートを維持しつつ、裏で兵を動かす手はずです」


 「その兵は」


 「第七騎馬連隊と、〈水龍〉隊二十頭を動員します。炎龍は前回やられているため、水龍で新たな戦術を試みます」


 「……この捕虜はどうする」


 「まだ使えます。彼らが王都に近づいた段階で、交渉の道具として使います」


 「なるほど」


 足音が遠ざかる。


 雲雀丘はゆっくりと息を吐いた。


 (来た)


 確信があった。


 誰かが来ている。

 この世界で日本人が動いているのなら、〈NHC9〉ではない。自衛隊だ。


 (たのむ。もう少し、もたせてくれ、この体)


 雲雀丘淳は目を閉じた。


 意識を保つことに、全力を注いだ。


 諜報員の最後の仕事は、生きていることだ。


 死んだら、情報は消える。

 生きていれば、伝えられる。


 何があっても、生きろ。


 それが、〈NHC9〉の鉄則だった。


 「……来い」


 石の天井に向かって、声に出さず言った。


 「来い。待ってる」


 王都の地下で、一人の日本人が、まだ、生きていた。



 ―― 了 ――



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次話予告


 ドーソン外交官と特殊調査部隊が、ついに対峙する。

 外交か、それとも罠か。

 真司の「正気」が、試される。


 第十五話「外交官は嘘をつかない、たぶん」


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