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第十三話 タルチットを越えて、あるいは世界の果ての優しさについて

 ***


 話は少し遡る。


 遡ると言ってもたかだか一日前のことで、しかも別に歴史が変わるほどの出来事でもないのだが、とはいえこの瞬間がなければ後に起こることの九割は発生しなかったと断言できるので、あえてそこから語らせていただく。


 語る、というのは便宜上の表現である。

 誰かが語っているわけではない。

 語り手は存在しない。

 いや、存在するのだが、それはまだ後の話だ。


 ――あ、うさ耳の少女のことだ。


 名前はルナ。

 ルナ=クロスヴィアと言う。

 うさ耳の生えた少女の名が「ルナ」、つまり月という名前なのは出来すぎな気もするが、この世界では別に珍しいことでもない。人間に似た外見を持ちながら動物の特徴を併せ持つ者たちを、この世界では亜人と呼ぶ。ウサギ族はその中でも俊足と鋭い聴覚を持つことで知られており、だからこそタルチットの食料を盗んだ際に三秒もかからず捕まったのは、ある意味でルナが特別に間抜けであることの証明でもあった。


 本人に言わせれば「あれはわざと捕まったんだもん」ということになるのだが、それを信じるかどうかは読者の判断に委ねる。


 ルナは十四歳だった。

 十四歳にしては気が強く、十四歳にしては世界を知りすぎており、十四歳にしては目に宿る光が薄かった。

 それは飢えと疲弊がもたらすものだったかもしれないし、もっと別の何かがもたらすものだったかもしれない。


 とにかく。


 ルナ=クロスヴィアという少女は、佐竹真司という男の前に現れた。


 そして佐竹真司という男は、放っておけなかった。


 これは別に彼が聖人君子だからではない。

 むしろ彼はいたって普通の人間で、めんどくさがりで、できれば何事もなく任務を終えて帰りたいと日々願っており、妻の亜希の作る肉じゃがと娘のさくらの笑顔だけが生きがいという、どこにでもいる三十二歳の男だ。


 しかし。


 放っておけなかった。


 正義感、と呼んでもいい。

 損得勘定、と呼んでもいい。

 あるいは単純に、腹が減った子どもを見て何もできない人間には俺はなれない、という話だ。


 それで十分だと、真司は思う。

 ヒーローである必要は、どこにもない。



 ***



 タルチット<親睦パーティ二日後>


 ルナ=クロスヴィアが目を覚ますと、知らない天井があった。


 「知らない天井」というのはそれだけで相当の情報量を含んでいる。知らない、ということは見たことがない、ということだ。見たことがない天井ということは、見たことがない場所にいる、ということだ。見たことがない場所にいる、ということは――


 「あ。起きた?」


 声がした。


 ルナは跳ね起き、次の瞬間には壁際まで後退して、そこにあった木製の棚にしたたかに後頭部を打ちつけた。


 「いったぁ…!」


 「だいじょうぶ?」


 声の主を確認して、ルナは少し警戒を解いた。

 少し、だけ。


 金茶色の短い髪の、大柄な男だった。

 人間の男だ。だが、ルナが今まで見てきた人間の兵士たちとは、どこか違う。纏っている雰囲気が、まず違う。王国軍の騎士たちが放つ、底冷えするような殺気がない。かといって無防備なわけでもなく、むしろ安心感すら覚えるほどの落ち着きがある。


 「なんか食べられる?準備してあるけど」


 男は少し離れたテーブルを指さした。

 確かに、なにか食べ物のようなものが置いてある。


 「…毒は、入ってない?」


 ルナはできるだけ凄んで見せた。

 凄んだつもりだった。

 うさ耳がぴんと立っていたのが台無しにしたかもしれない。


 「入ってない。食べてみて判断してほしいんだけど、まあ俺も食べるよ」


 そう言って男は気軽に椅子に座り、同じ食べ物を口に運んだ。


 缶詰だった。ルナが見たことのない容器だったが、中身は豆と肉が混ざったもので、香りは悪くなかった。


 「…」


 ルナは十秒ほど逡巡してから、テーブルに近づいた。

 食べた。


 うまかった。


 「おいしい…」


 思わず声に出てしまった。


 「よかった。追加あるよ」


 男が答える。ルナは今度は警戒する前に「ほんとに?」と言ってしまった。


 「ほんとに」


 「…なんで、こんなにしてくれるの」


 ルナは改めて男を見た。


 「俺が聞きたいくらい」


 男が苦笑する。


 「隊長だから?」


 「まあそれもある。でも本当のことを言うと、うちに娘がいてさ。ちょっと思い出しちゃっただけだよ」


 娘。


 ルナはその言葉を耳の中で転がした。

 温度のある言葉だった。


 「娘、何歳?」


 「七歳」


 「じゃあ私よりずっと小さいじゃない」


 「そう。でも、ね」


 男は懐中時計を開いた。

 小さな写真。

 笑っている女の子と、その隣に寄り添う女性。


 「会いたいなあ」


 ぽつり、と言った。


 それはとても小さな声で、独り言みたいで、聞こえなかったふりをする選択肢もルナにはあったのだが、


 「…会えるよ、きっと」


 気がついたら言っていた。


 男は少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。


 「そうだな。ありがとう」


 ルナ=クロスヴィアはこの時初めて、人間に感謝されたような気がした。

 本当に初めてかどうかは確かめようがないのだが、少なくともこの男に感謝されたことは初めてで、だからなんとなく印象に残った。


 それだけだ。

 それ以上のことは、この段階では起きていない。


 だがこの「それだけ」が、後に非常に大きな意味を持つことになる。


 世界というのはだいたいそういうふうにできている。



 ***



 佐竹真司三等陸尉は自分を「隊長」と呼ぶことにまだ慣れていなかった。


 慣れていないというか、違和感を覚えるというか、正確に言えば「こんな俺が隊長でいいのか」という根本的な疑問が解決されていない状態のまま、時間だけが経過しているという状況だ。


 そして世の中のほとんどのことは、その疑問が解決されないまま時間だけが経過することで、いつの間にか既成事実として定着する。


 「隊長」


 野村軍曹が来た。


 野村真奈美軍曹、真司の直属の副隊長。身長百五十五センチで、見た目の可愛らしさとは裏腹に毒舌で、まじめで、能力が高くて、真司にデレデレしている。


 最後の一点については真司はまったく気づいていないので今は置いておく。


 「なんだ」


 「ルナを保護することについて、本部から許可が下りました」


 「そうか」


 「ついでに言うと、ルナの話によればこのあたりに他の亜人の集落があるらしいです。小規模ですが、ウサギ族だけで十七名。食料難で苦しんでいるとのこと」


 「……」


 「隊長」


 「わかってる。この任務の目的は〈ガレリア王国〉との国交樹立だ。立ち止まっている余裕はない」


 真司は自分でそう言いながら、ひどく後味の悪い思いをした。


 わかっている。

 それでも。


 「ルナに、その集落の場所を教えてもらえるか確認してくれ。本部に連絡して、タルチット防衛圏の範囲を拡大できないか打診する。少なくとも、食料の補給線だけでも引けないか」


 「…はい」


 野村軍曹は珍しく、少し柔らかい顔で返事をした。


 「ありがとうございます、隊長」


 「お礼を言うな。俺はまだ、この世界の人たちを助けるためにここに来たわけじゃない。任務があって、その上で、できることをやっているだけだ」


 「それでも、ありがとうございます」


 「……うるさい」


 真司はそう言って、地図を広げた。


 地図、と言っても航空写真に手書きで書き込んだ簡易版だ。タルチットから王都までの推定距離、千五百キロ。残り半分。


 「橋本はどこだ」


 「戦車にペインティングを施していました」


 「なんの」


 「疾風マーク、だそうです」


 「……呼んでこい」


 「はい」



 ***



〈ガレリア王国〉第一高等学校、屋上


 アル=ドーソンは昼食を一人で食べていた。


 正確には一人ではなかった。隣にはローズがいた。ローズが当然のように弁当を持ってきて、当然のように隣に座ったので、「一人で食べていた」という表現は不正確かもしれない。


 しかしアルの思考は今、ローズの存在をほぼ完全に無視するほど別のところに向かっていたので、精神的には「一人で食べていた」に近かった。


 「ねえ、アル」


 「…うん」


 「ぜんぜん聞いてないでしょ」


 「聞いてるよ」


 「じゃあ私、いま何て言った」


 「……ねえ、アル」


 「それだけ?」


 「それだけ」


 ローズは呆れて、しかし笑った。


 「お父さんのこと、考えてるの」


 「まあ」


 「いつ出発するの」


 「明後日」


 「そう」


 しばらく沈黙があった。

 風が吹いて、ローズの金髪がなびいた。春の陽光が王都の石畳を照らしている。遠くで鐘の音がする。ガレリア王国の昼は、美しい。


 アルはその美しさをたまに憎むことがあった。

 父が行ってしまうというのに、世界は何も変わらない。


 「ねえ」


 ローズが言った。


 「なに」


 「アルは、怖くないの」


 「なにが」


 「外の国のこと。なんか、すごく強い軍隊らしいじゃない。王国軍が全滅したって話。奴隷にするつもりで行ったのに、逆にやられたって」


 「……そうらしいな」


 「お父さんが行く先って、そこでしょ」


 「そうだ」


 「怖くないの、と聞いてる」


 アルはパンをかじった。ガレリア王国の黒パンは少し固くて、噛むのに力が要る。


 「怖い」


 素直に言った。


 「でも、父さんは怖くても行くんだ。それが仕事だから。俺には止める権限がないし、それに」


 少し間が開いた。


 「父さんが交渉できなかったら、次は本格的な戦争になる。そっちのほうが怖い」


 「……そうだね」


 「お前はどうなんだ」


 「え?」


 「怖いか、って聞いてる」


 ローズは少し考えてから言った。


 「うん、怖い。でも、アルが怖いって言ってくれたから、少しましになった」


 「なんでだ」


 「だって、アルが怖くないって言ったら、私が臆病みたいじゃない」


 アルは笑った。


 久しぶりに笑った気がした。


 「…俺はお前みたいな女が友達でよかったよ」


 「友達」


 ローズが繰り返した。少し変な間があった。


 「……うん、友達!私もよかった!!」


 元気よく言った。

 少しだけ、瞳に変なものが混じっていたが、アルはそれに気づかなかった。


 アルは王都の空を見上げた。

 どこまでも青い空。

 その向こうに、父がいる。

 そのさらに向こうに、見たこともない国がある。


 (絶対に強くなる)


 誓いは言葉にすると軽くなる気がして、アルはいつも心の中だけで言う。


 (この国も、俺自身も)



 ***



〈ガレリア王国〉王の間


 アリアン国王は機嫌が悪かった。


 これは特筆することではない。アリアン国王は常に機嫌が悪い。機嫌がよくなるのは侵略が成功した時か、酒を飲んでいる時か、あるいは夢の中で世界を支配している時だけだ。


 「で、制圧軍はどうなった」


 「申し上げにくいのですが」


 執事が答えた。

 白髪頭の執事。長年王に仕えるこの男の名は、ガルタム=ノックス。年齢は六十を超えているが、その頭の回転は宮廷随一だと多くの者が認める。


 「申し上げにくいということは悪い知らせということだな。申し上げろ」


 「はい。先遣隊三百騎、炎龍三十頭、砲兵五十門をもって奇襲を仕掛けた結果、先遣隊はほぼ全滅。捕虜十三名が拘束されたとの報告が入っています」


 「なぜだ」


 「奴らの武器は我々のものとは根本的に原理が異なります。炎も魔法も通じない。どうやら火薬と金属を組み合わせた、我々の砲撃よりも遥かに精度の高い攻撃手段を持っているようです」


 「フン」


 アリアンは腕を組んだ。


 「つまり、正面からでは勝てないということか」


 「少なくとも今の状態では。彼らの武器の特性を把握してからでなければ、正面からの制圧は得策ではないかと」


 「ならどうする」


 「一つ提案があります」


 「言え」


 「外交です」


 アリアンの眉がぴくりと動いた。


 「外交?俺が?あの異世界人どもと?」


 「いいえ」


 ガルタムはゆっくりと言った。


 「王はいつもの通り、王であればよろしい。外交の窓口は別に設けます。――ドーソン外交官を、辺境に派遣することにしました」


 「ドーソン。ああ、あのうるさい外交官か」


 「彼は優秀です。〈カルサ〉の中でも特に言語と交渉術に長けており、なにより」


 ガルタムはわずかに間を置いた。


 「万が一交渉が失敗した際に、彼を生贄にすることができます」


 「…ククク。なるほど」


 アリアンは笑った。


 「うまいことを考えるな、お前は」


 「もったいないお言葉です」


 「しかし、それだけでいいのか。ドーソン一人で何ができる」


 「もちろんそれだけではありません。並行して、我々は彼らの武器の情報収集を行います。捕虜の尋問は続けています。また」


 ガルタムの目が、少し細くなった。


 「彼らの中に、単独で潜入していた別の工作員がいたようです。現在、拘束してあります」


 「それは」


 「拷問を続けていますが、今のところ口を割りません。しかし、人間の肉体には限界があります。時間の問題でしょう」


 「そいつから情報を引き出せれば」


 「彼らの弱点が見えてくるかもしれません」


 アリアン王は立ち上がり、大きな窓の外を見た。

 王都の全景。

 石とレンガで作られた街並み。

 何万という人々の営み。


 「俺の世界は広い」


 アリアンは言った。


 「もっと広くなる」


 ガルタムは深々と頭を下げた。


 「御意」



 ***



〈ガレリア王国〉某所 地下牢


 雲雀丘淳は意識があった。


 意識があることが奇跡だった。


 内閣秘密諜報部<NHC9>の諜報員として、雲雀丘淳は相当な訓練を受けてきた。拷問への耐性もその中に含まれる。しかし訓練と実戦は違う。


 特に魔法を使った拷問は、雲雀丘の想定の外だった。


 痛みの質が違う。

 神経を直接いじられているような、脳が自分の肉体を攻撃しているような、内側から崩されていくような感覚。外傷は最小限で、しかし苦痛は最大限。魔法というのはつくづく、残酷な技術だ。


 「まだいるか」


 声がした。


 拷問担当の男、ガロンという。がっしりとした体格で、顔に古い傷跡がある。見るからに危険な男だが、雲雀丘は七日間この男と向き合っているので、今はもう慣れた。


 慣れるというのはすごいことだ。人間の適応能力は恐ろしい。


 「まだいる」


 雲雀丘は答えた。声がかすれている。


 「頑固だな」


 「褒め言葉として受け取る」


 「褒めてない」


 ガロンは腰を下ろした。なぜかその動作はひどく人間的で、雲雀丘はこの男のことを最初よりはずっと理解してきた気がする。七日間、毎日顔を合わせれば、拷問者と被拷問者であっても最低限の人間関係は生まれる。これは別に友好的なものではないが、互いの輪郭くらいは見えてくる。


 「お前は何者だ」


 「何度も聞いてるな」


 「何度でも聞く」


 「日本という国の、政府の人間だと言った」


 「政府の人間が、なぜ一人でここにいた」


 「観光」


 「嘘をつくな」


 「本当に観光のつもりだった。素敵な景色だった。あんたたちに捕まるまでは」


 ガロンはため息をついた。


 「お前の国の軍隊は、今どこにいる」


 「……」


 「答えろ」


 「知らない」


 それは嘘ではなかった。諜報員というのは孤立して行動する。全体の作戦を知っていれば、捕まった時に致命的な情報漏洩に繋がるからだ。雲雀丘が知っているのは、自分の担当だった範囲だけだ。


 しかし当然、ガロンは信じない。


 「魔法を使う」


 「どうぞ」


 雲雀丘は目を閉じた。


 (頼む。早く来てくれ。誰でもいい。早く、来てくれ)


 日本語で祈った。

 この世界に日本語がわかる者はいないはずだから、祈りはこの石の壁に吸い込まれていくだけだ。


 「あーあー。早くしてくれないかな、本当に」


 雲雀丘は天井を見上げながら、もう少しだけ耐えることにした。



 ***



タルチット 出発前夜


 「隊長」


 橋本ハヤト軍曹が来た。


 珍しく神妙な顔をしていた。真司はその表情を見て、橋本が真剣な時は本当に真剣なのだということを改めて認識した。


 「なんだ」


 「ルナが、話したいことがあると。隊長に」


 「わかった。通せ」


 少しして、ルナが来た。


 うさ耳がやや垂れ下がっている。緊張しているのか、それとも何か重いものを抱えているのか。


 ルナは真司の前に立ち、しばらく黙ってから、言った。


 「一つ、お願いがある」


 「聞こう」


 「私を、連れて行って」


 真司は答えなかった。答えを探していた。


 「私はウサギ族で、耳がいい。普通の人間より三倍は広い範囲の音が聞こえる。夜でも昼でも関係なく。足も速い。役に立てる」


 「……」


 「それだけじゃない。私の兄が、ガレリア王国に連れて行かれた。もう半年前のことだけど。兄を取り戻したい。お前たちが王国に向かうなら、私も行く」


 「危険だ」


 「知ってる」


 「子どもだ」


 「知ってる」


 「お前が怪我をしても、俺には責任が取れない」


 「知ってる!」


 ルナは声を荒げた。うさ耳がぴんと立つ。


 「知ってる!全部知ってる!それでも行きたいの!だって、兄ちゃんが、――」


 声が詰まった。


 「兄ちゃんが、どこにいるかもわからないまま、ここで待ってるなんて、私には無理。できない。できないんだ」


 真司は沈黙した。


 長い沈黙だった。


 「俺が言えることは一つだけだ」


 やがて真司は口を開いた。


 「命令には従え。危険だと判断した時には下がれ。それができるか」


 ルナは目を見開いた。


 「……うん」


 「もう一つ。俺には家族がいる。妻と、娘。俺はその二人のために生きて帰る。だからお前も死ぬな。そういう条件だ」


 「……うん」


 「よし」


 真司は地図に視線を戻した。


 「明日の夜明けに出発する。装備を確認しておけ」


 「……ありがとう」


 「礼は言うな。俺はお前に頼まれたから連れて行くわけじゃない。耳が三倍聞こえるなら、確かに役に立つ。それだけだ」


 ルナは一瞬だけ、真司が嘘をついていることに気づいた。


 ウサギ族の耳は嘘を聞き分けることができる。

 心拍数の微細な変化を、ウサギ族の耳は捉える。


 真司の心拍数は、「役に立つから連れて行く」と言った瞬間、かすかに乱れた。


 「……わかった」


 ルナはうさ耳を伏せて、部屋を出た。


 廊下に出たところで、橋本に出くわした。


 「決まった?」


 「うん」


 「よかった」


 橋本は笑った。あの太陽みたいな笑顔。


 「正直に言うと、俺が隊長に頼み込もうとしてたんだ。先越されたな」


 「……あんたが頼んでたの」


 「最初にそのつもりでいたんだけど、お前が直接言った方がいいかと思って。俺が言うと煩いだけだし」


 橋本はからりと笑った。


 ルナはこの人間のことを、少し好きになった。


 「ありがとう」


 「どういたしまして。あと、野村さんもだいたい同じこと考えてたよ。あの人は素直じゃないから言わないけど」


 「……そうなの」


 「この部隊、見かけよりはまともだから。安心して」


 ルナはうなずいた。


 夜が更けていく。

 タルチットの空に、星が多い。


 この世界の星座はルナがまだ名前を知らないもので、しかしどれもきれいだ。



 ***



出発の朝


 「出発するぞ」


 真司の声に、隊員全員が動き出す。


 高機動車〔疾風〕が一列に並び、エンジンが唸り始める。タルチットの村人たちが見送りに出てきた。ベルジャが腕を組んで立っている。


 「また来い」


 「また来ます」


 真司は答えた。


 橋本が戦闘車両に施したペインティングは「疾風」という文字と稲妻のマークだった。悪くはなかった。本人が得意げにしていたので、真司は何も言わなかった。


 ルナは最後にもう一度だけ村を振り返った。

 ここにいたのは四日間だけだ。それでも、久しぶりに安心して眠ることができた場所だった。


 「行くよ」


 野村軍曹が声をかけてきた。


 「うん」


 「私、名前は野村真奈美。よろしくね」


 「ルナ。よろしく」


 「かわいい名前」


 「……ありがとう」


 「かわいい耳だし」


 「さわらないで」


 「ごめん」


 野村は笑った。かわいい顔で笑うので、ルナはなんとなく悔しかった。


 車列が動き始めた。


 タルチットが遠ざかる。


 荒野が広がる。


 その先に、千五百キロ。

 その先に、〈ガレリア王国〉。

 その先に、兄がいる。


 ルナは前を向いた。



 ***



〈ガレリア王国〉第一高等学校 法学教室


 アルが珍しくまじめに勉強していると、リリーが言った。


 「ね、聞いた?」


 「なにを」


 「日本って国のこと。外の国らしいんだけど、すごく強いって」


 「……ああ」


 「お父さん、そこに行くんでしょ?」


 「そうだな」


 「大丈夫なの?」


 アルは答えなかった。


 「…ごめん、余計なこと」


 「いや」


 アルは顎を持ち上げた。


 「大丈夫だ」


 「うん」


 「大丈夫なはずだ。父さんは、優秀だから」


 「うん」


 「俺が言い聞かせてる」


 「……自分に?」


 「そうだ」


 リリーは苦笑した。


 「正直だね」


 「そういうやつだ、俺は」


 「知ってる」


 リリーは少し間を置いて言った。


 「あのね、アル。私、あなたのことが好き」


 「……え?」


 「友達として! 友達として、ね!!」


 「そう、か」


 「うん!そういう意味で!」


 「……わかった」


 アルは頷いた。

 なぜかリリーの顔が少し赤かったが、アルは気にしないことにした。法学の勉強に戻らなければならない。


 「法学、教えてくれ」


 「えっ、なに、急に、」


 「リリー、法学得意だろ」


 「まあ、人並みには」


 「人並み以上だ。頼む」


 リリーはまた少し赤くなってから、「しょうがないな」と言って隣に座った。


 教室に夕陽が差し込んでいる。


 遠くで、鐘が鳴った。



 ***



北九州≪フロンティア≫から二千七百キロ地点


 「……隊長」


 ルナが声を出した。


 真司が反応した。


 「なんだ」


 「聞こえる。馬の足音。前方左から、多分五十くらい」


 「止まれ」


 即座に指示が出る。車列が止まる。


 「騎馬隊か」


 「たぶん。でも、変」


 「変?」


 「隊列じゃない。バラバラに走ってる。逃げてるみたい」


 真司と野村が顔を見合わせた。


 「逃げている? 何から?」


 「後ろに、もっと多い足音。二百くらい。重い。歩兵と馬が混ざってる。追ってる」


 「……戦闘中か」


 真司は考えた。


 これは任務に直接関係しない。立ち止まるべきではない。しかし逃げている側が命の危険に晒されているなら、日本人として、自衛隊員として、無視していい理由が見当たらない。


 「野村、橋本」


 「はい」


 「はいっ」


 「双方を視認できる高台に移動する。状況を確認してから判断する」


 「了解!」


 車列が動く。


 しばらく走ったあと、小高い丘の上に出た。


 眼下に、戦闘の現場が見えた。


 確かに騎馬隊が逃げていた。しかし――


 「あれ」


 橋本が目を細めた。


 「逃げてる奴ら、人間じゃないな」


 ルナが息を飲んだ。


 逃げている集団は、月明かりの下で何かが光っていた。羽、だった。背中に羽の生えた人間たちが、馬に乗りながら逃げている。追っているのは確かにガレリア王国の軍旗を掲げた騎馬隊だ。


 「亜人だ」


 ルナが言った。声が震えている。


 「翼人族。ガレリア王国に捕まったら、奴隷にされる。逃げてるんだ、あの人たち」


 真司は見た。


 逃げている側は四十名ほど。追っている側は二百を超えている。追い詰められれば、勝負にならない。


 「隊長」


 野村軍曹が言った。


 真司はすでに判断を下していた。


 「一班は前方から追っている騎馬隊の進路を塞ぐ。威嚇射撃を最小限に。二班は逃げている集団の進路を確保する。三班は待機、周囲を警戒。ルナ」


 「なに」


 「翼人族の言語はわかるか」


 「……少しなら」


 「伝えてくれ。私たちは敵ではない。逃げる必要はないと。できるか」


 ルナは一秒だけ考えて、答えた。


 「できる」


 「よし。行くぞ」


 エンジンが唸る。


 夜の荒野に、疾風の車列が駆け出した。


 この瞬間から、特殊調査部隊は任務の範囲を一つ超えた。


 真司はそれを知っていた。

 後で本部に怒られるかもしれないことも、知っていた。


 それでも。


 「だいたい、命令書には書いてないことだらけなんだ、この任務は」


 独り言は、エンジン音に消えた。



 ***



 戦闘は短かった。


 正確に言えば、戦闘にすらならなかった。


 高機動車〔疾風〕が猛スピードで追撃騎馬隊の前方に展開し、機銃を空へ向けて威嚇射撃した瞬間、王国軍の馬が一斉に暴れ出した。馬というのは爆発音が苦手だ。それは地球の馬も異世界の馬も変わらないようで、騎馬隊は瞬時に隊列を崩した。


 「止まれ! これ以上進む場合は攻撃する!」


 拡声器から真司の声が轟く。


 王国軍の騎馬隊は止まった。止まって、この怪物のような鉄の箱を見た。そして、全力で逃げ出した。


 「……思ったより早かったですね」


 橋本が呟く。


 「相手にしてみれば、銃声も車両も見たことがないものだからな。当然だ」


 翼人族の集団は丘の上で呆然と見ていた。ルナが声を張り上げて翼人語で何かを叫んでいた。


 やがて、翼人族の中から一人が降りてきた。


 老人だった。背中の羽は白く、顔に深い皺が刻まれている。


 「……お前たちは、どこから来た」


 ルナが通訳した。


 「日本という国から来ました。あなたたちを助けることが目的ではありませんでしたが、見過ごすことができませんでした」


 真司は答えた。


 老人は真司をしばらく見つめてから、言った。


 「お前たちは、鉄の龍に乗っている」


 「そう見えますか」


 「我々の伝説に、鉄の龍に乗った者が天から降りてくるという話がある」


 「天から降りてきたわけではありませんが」


 「同じことだ」


 老人は深々と頭を下げた。


 「礼を言う」


 真司は困った。


 こういう時、なんと答えればいいのかわからない。


 「……また困ってる」


 ルナが小声で言った。


 「うるさい」


 「だって」


 「わかった。じゃあ俺の代わりに言ってくれ。こちらこそよろしくお願いします、と」


 ルナは笑った。


 うさ耳がぴんと立った。



 **:



 その夜、真司は本部への報告書を書いた。


 書きながら、ふと妻の亜希のことを考えた。


 今頃どうしているだろう。さくらの世話を一人でしているのだろうか。食料は足りているか。体は元気か。


 聞きたいことは山ほどあった。

 伝えたいことも山ほどあった。


 しかし通信手段はない。


 「……元気でいろよ」


 真司は報告書に向かいながら、声に出さず言った。


 テントの外で、橋本と野村が口論している声がする。

 翼人族の老人がルナに何かを話している声がする。

 隊員たちが笑い合っている声がする。


 世界は今日も騒がしく、そしてどこか温かい。


 真司は報告書を書き終えて、笑った。


 「はあ。まったく、面倒ばかりだ」


 そして、眠った。


 明日も、また先へ進む。


 〈ガレリア王国〉まで、あと千五百キロ。



 ―― 了 ――



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

次回予告


 ドーソン外交官が辺境に向かう。

 特殊調査部隊と翼人族が行動を共にし始める。

 そして、地下牢の雲雀丘淳に、ある変化が起きる。


 「外交官と天の使者」


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