第三章 第一話 ―――また会えるだろう、と彼は笑った―――
マリーが姿を消したのは、よく晴れた朝のことだった。
誰にも告げず、別れの言葉も交わさず。荷物をまとめ、四年間世話になった研究院に、一通の手紙だけを残して。
手紙の宛先は、リオネルだった。
『リオへ。何も言わずに発つことを、許してください。あなたは、この世界で初めてできた、私の大切な仲間でした。一緒に過ごした四年を、私は一生、忘れません。どうか、お元気で。あなたの研究が、いつか必ず、たくさんの人を救いますように。 マリー』
短い手紙だった。
書きたいことは、山ほどあった。でも、書けば書くほど、決意が鈍る気がした。だから、マリーは、最小限の言葉だけを残して、夜明け前の街道へと、足を踏み出した。
後ろ髪は、引かれた。
四年間、隣にいてくれた相棒。知識を分かち合い、共に幾つもの命を救った、かけがえのない人。「ずっと一緒に研究しよう」と言ってくれた、あの言葉。
それを、裏切る形になる。
でも、とマリーは思った。
これでいい。自分がいなくなれば、物語は正しい流れに戻る。リオにも、いつか本当に大切な人が現れる。ヒロインか、あるいは別の誰かか。自分がいなくなった方が、きっと、みんなのためになる。
マリーは、一度だけ振り返り、朝靄の中に沈む研究院を見つめた。
「……ありがとう、リオ」
そう呟いて、マリーは歩き出した。
二度と振り返らない、と決めて。
その日の昼。
リオネルは、マリーの手紙を握りしめたまま、調合室で立ち尽くしていた。
何度も、何度も、読み返した。文字が、滲んで見えた。
いなくなった。
あいつが、いなくなった。
何も言わずに。一言の相談もなく。「ずっと一緒に」と、あんなに——あんなに、伝えたつもりだったのに。
リオは、ずるずるとその場に座り込んだ。手紙が、指の間から、はらりと床に落ちた。
胸に、ぽっかりと、穴が空いたようだった。
四年間、当たり前にそこにあったものが、ある朝、忽然と消えた。マリーのいない調合室は、こんなにも広く、こんなにも静かだったのか。彼女の声が、彼女の手つきが、彼女の水色の瞳が——もう、ここにはない。
その事実が、じわじわと、リオの身体を蝕んでいった。
それからの数日、リオは、まるで魂が抜けたようだった。
食事も喉を通らず、研究にも手がつかず、ただ、マリーのいた場所を、ぼんやりと眺めて過ごした。いつも飄々として、何事にも動じなかった男が、見る影もなかった。
研究院の者たちは、本気で彼を案じた。
「リオネル様、少しは召し上がらないと」
「あの調子では、身体を壊してしまう。誰か、付いていてやってくれ」
憔悴しきった彼を、一人にしてはいけない。仲間たちは交代で彼に寄り添い、声をかけ続けた。それほどまでに、リオの落ち込みようは、見ていられないものだった。
でも。
ある朝、リオは、ふと顔を上げた。
窓の外。昇り始めた朝日が、調合室を、淡く照らしていた。
マリーが、いつも一番に来て、薬草の世話をしていた、あの時間の光だ。
リオは、床に落ちたままの手紙を、そっと拾い上げた。皺だらけになったそれを、もう一度、開く。
『どうか、お元気で』
その一文を、リオは、じっと見つめた。
——ふざけるな。
胸の奥から、熱いものが、こみ上げてきた。
元気で、だと? お前がいなくなって、どうやって元気でいろと言うんだ。こんな手紙一枚で、はい分かりました、と納得できるわけが、ないだろう。
リオは、立ち上がった。
数日ぶりに、その赤い瞳に、光が戻っていた。
「……探す」
掠れた声で、リオは呟いた。
「探し出して、問い詰めてやる。なんで、何も言わずに消えたのか。なんで、俺を置いていったのか」
言いながら、リオは、ようやく気づいた。
この、胸を引き裂くような喪失感。彼女のいない世界が、色を失って見えること。もう一度、どうしても、会いたいと願うこの気持ち。
これは——ただの、仲間を失った寂しさなんかじゃ、なかった。
「……ああ、そうか」
リオは、自嘲するように、力なく笑った。
いつも、人の気持ちには敏く、自分の気持ちには疎かった。皮肉屋のくせに、肝心なことには、いつも一番最後に気づく。
「俺は、あいつを——好きだったのか」
名前のつかなかった想いに、ようやく、名前がついた。
遅すぎる、自覚だった。
でも、遅くても。
リオは、手紙を、胸ポケットに、大切にしまった。
「待ってろよ、マリー。地の果てまでも、探し出してやる」
その赤い瞳には、もう、翳りはなかった。
ただ、まっすぐな、決意だけが、燃えていた。
一方、その頃。
マリーは、街道を、一人で旅していた。
次の街を目指して。誰も自分を知らない、新しい土地を求めて。乗り合いの馬車を乗り継ぎ、時には歩き、のんびりとした旅路だった。
道中、マリーは、久しぶりに感じる解放感を、味わっていた。
ラーテンでの四年は、充実していたけれど、同時に、息が詰まることもあった。常に注目され、評判が独り歩きし、王太子にまで顔を知られて。その重圧から、今は、解き放たれていた。
平和だな、とマリーは思った。
……平和すぎて、油断していたのかもしれない。
それは、人気のない山道に差しかかった、夕暮れ時のことだった。
「よお、ねえちゃん。一人旅かい?」
道の脇から、ぬっと、数人の男が現れた。
薄汚れた身なりに、下卑た笑み。一目で、まともな連中ではないと分かった。賊だ。
マリーの心臓が、嫌な音を立てた。
「荷物と、金目のもの、全部置いていきな。そうすりゃ、命だけは助けてやる」
マリーは、後ずさった。
逃げ場を探す。だが、山道は狭く、男たちは退路を塞ぐように、じわじわと距離を詰めてくる。
「おっと、逃げようたって、無駄だぜ」
先頭の男が、にやりと笑って、手をかざした。
その手のひらに——ぼっ、と、炎が灯った。
マリーは、息を呑んだ。
魔法。
男の手の中で、オレンジ色の炎が、ゆらゆらと揺れている。それは、小さな、大した威力もなさそうな炎だった。賊が脅しに使う程度の、底の知れた力。
でも。
マリーにとっては、違った。
——理解の、できないもの。
マリーが生きてきた世界に、魔法など、なかった。前世でも、この世界でも、彼女が頼ってきたのは、知識と、技術と、論理だった。原因があり、結果がある。観察し、分析し、対処する。それが、マリーの世界の、ルールだった。
なのに、今、目の前で、何もないところから、炎が生まれている。
理屈を超えた、力。説明のつかない、現象。
その得体の知れなさが——マリーの背筋を、凍りつかせた。
病も、毒も、怪我も、怖くはなかった。それらには、必ず理由があり、対処法があったから。でも、これは違う。これは、マリーの知識が、まるで通用しない領域だった。
恐怖が、足元から、せり上がってきた。
「ひゃはは! 怖いか? 魔法が珍しいか、田舎娘!」
男が、炎を、マリーの方へ、近づけてくる。
怖い。
心臓が、激しく打っていた。手が、震えていた。膝が、笑いそうだった。
でも——マリーは。
悲鳴を、上げなかった。
歯を食いしばり、震える足を踏ん張って、まっすぐに、その炎を、睨み返した。
ここで取り乱しても、何にもならない。隙を見せれば、それこそ命が危ない。冷静に。落ち着いて。逃げる隙を、うかがうんだ。
三十五年と、この世界の十年。命の現場で培ってきた胆力が、暴れ回る恐怖を、辛うじて、押さえつけていた。
その、気丈な姿が——。
「——おい、そこで何をしている」
よく通る、低い声が、響いた。
声の主は、馬上にいた。
夕日を背に、長身の男が、こちらへ駆けてくる。燃えるような、赤い髪。陽に焼けた肌。腰には、立派な剣。
ガウェインだった。
「て、てめえ……っ、騎士か!?」
賊たちが、慌てて身構えた。
でも、遅かった。
ガウェインは、馬から飛び降りるなり、抜刀し、賊たちへと躍りかかった。その動きは、嵐のようだった。炎を放とうとした男の手を、剣の腹で叩き、鳩尾に拳を叩き込む。残りの賊も、瞬く間に地に伏せた。
あっという間の、出来事だった。
ガウェインは、賊たちを縛り上げると、ようやく、マリーの方を振り返った。
そして——目を、見開いた。
「……あんた、マリーじゃねえか!?」
「ガウェイン、団長……」
マリーは、安堵のあまり、その場にへたり込みそうになった。
ガウェインが、駆け寄ってくる。
「なんでこんなところに!? いや、それより、無事か!? 怪我は——」
言いかけて、ガウェインは、はたと気づいた。
マリーの手が、震えていることに。顔が、青ざめていることに。
それでも彼女は、悲鳴ひとつ上げず、泣きもせず、ただ、気丈に立っていた。
ガウェインは、しばし、言葉を失った。
——こいつ。
炎の魔法を向けられて、恐ろしくないはずがない。実際、こんなに震えている。なのに、声ひとつ上げなかった。取り乱しもしなかった。最後まで、まっすぐ、相手を睨み返していた。
ガウェインは、これまで数えきれないほどの戦場を見てきた。屈強な兵士でさえ、魔法を前に、腰を抜かす者は珍しくない。
なのに、この娘は。
ただの、医者の娘が。
「……っ、すげえな、あんた」
ガウェインの口から、思わず、声が漏れた。
「怖かっただろうに。手も、こんなに震えてるのによ。なんで……なんで、声も上げねえんだ。普通、無理だぜ、そんなの」
マリーは、震える声で、それでも、しっかりと答えた。
「……取り乱したら、隙ができます。それに、悲鳴を上げても、誰も助けに来てくれるとは、限りませんから。だったら、自分で、なんとかするしか」
ガウェインは、ぽかんと、口を開けた。
それから——破顔した。
太陽のような、豪快な笑みだった。
「ガハハ! なんてこったい! かっけぇな、あんた!」
ガウェインは、自分の膝を、ばしんと叩いた。
「いやー、まいった! 戦場の兵士でも、魔法にゃ腰を抜かすってのに! あんた、ただの医者だろ? なのに、その肝の据わりよう! 俺ぁ、そういうの、大好きだぜ!」
マリーは、毒気を抜かれて、目を瞬かせた。
この人は、本当に、単純で、まっすぐな人だ。さっきまでの恐怖が、その明るさに、少しずつ、溶かされていく気がした。
賊を近くの町の衛兵に引き渡したあと、二人は、街道沿いの茶屋で、一息ついていた。
「しかし、なんでまた、あんたが一人で旅なんか」
ガウェインに問われ、マリーは、言葉を選びながら答えた。
「……ラーテンを、出たんです。新しい土地で、もう一度、一から始めようと思って」
「ほう。あんたほどの腕なら、ラーテンでも引く手あまただったろうに。もったいねえ」
「目立ちすぎるのも、考えものなんです」
マリーが苦笑すると、ガウェインは、何かを察したように、それ以上は聞かなかった。
代わりに、彼は、遠くを見るような目で、ぽつりと言った。
「俺はさ、騎士になったとき、誓ったんだ」
「?」
「弱い奴を、守るってな」
ガウェインの横顔は、いつもの豪快さとは、少し違っていた。静かで、芯の通った、騎士の顔だった。
「身分とか、そんなのは関係ねえ。金を持ってようが、持ってまいが。貴族だろうが、平民だろうが。困ってる奴、痛がってる奴、泣いてる奴がいたら、俺は剣を抜く。それが、俺の騎士道だ」
マリーは、その言葉に、はっとした。
「……それって、もしかして、王太子殿下も?」
「ん? おう、もちろんさ」
ガウェインは、当然のように頷いた。
「殿下はな、ああ見えて、誰よりも国のことを考えてる、立派なお方だ。でも、いつも一人で、全部背負い込んじまう。誰にも、本音を見せねえ。あの方こそ、本当は、一番、守ってやらなきゃいけねえ人なのかもしれねえな」
マリーの胸が、ぎゅっと、締めつけられた。
本音を隠して、一人で背負い込む、孤独な王子。それを「守ってやりたい」と言う、この騎士。
ガウェインの「弱き者を守る」という信念は、身分も、立場も、何もかも飛び越えて、本当に困っている者すべてに、向けられていた。たとえそれが、一国の王太子であっても。
それは——マリーの、「貴賤なく、すべての命を救いたい」という願いと、どこかで、深く、響き合っていた。
「……素敵な、騎士道ですね」
マリーが、心からそう言うと、ガウェインは、照れたように、がしがしと頭を掻いた。
「へへ、そうかい? いやあ、あんたにそう言われると、悪い気はしねえな」
日が暮れ、二人は、街道の分かれ道で、別れることになった。
ガウェインは騎士団の任務へ。マリーは、次の街へ。
「あんた、本当に一人で大丈夫か? なんなら、途中まで送るぜ」
「大丈夫です。もう、油断はしませんから。それに、団長にはお務めがあるでしょう」
「違いねえ」
ガウェインは、豪快に笑った。それから、ふと、真面目な顔になって、マリーを見た。
「なあ、マリー。俺は、あんたみたいな女、初めて会った。腕が立って、肝が据わってて、それでいて、命を何より大事にする。——いや、うまく言えねえけどよ。あんたのこと、もっと知りてえって、思っちまった」
マリーは、きょとんとした。
ガウェインの言葉の意味を、深くは考えなかった。きっと、仲間として気に入ってくれたのだろう、くらいに受け取った。
「ありがとうございます。私も、団長とお話しできて、楽しかったです」
その、まるで響いていない返事に、ガウェインは、一瞬、ぽかんとして——それから、また、ガハハと笑った。
「ま、いいや! どうせまた、どっかで会えるだろ! 世間は狭いからな!」
根拠のない、けれど、妙に明るい確信だった。
「縁があれば、また会おうぜ、マリー! そんときゃ、また、あんたの話を聞かせてくれ!」
ガウェインは、ひらひらと手を振って、馬にまたがり、土埃を上げて去っていった。
その背中を見送りながら、マリーは、小さく笑った。
不思議な人だった。でも、嫌な気はしなかった。むしろ、あの太陽のような明るさに、ずいぶんと、救われた気がした。
一人になって、マリーは、再び、街道を歩き出した。
夕暮れの道を、一歩、また一歩。
さっきの、炎の恐怖が、まだ、胸の奥に残っていた。
——この世界は、危険だ。
マリーは、改めて、それを思い知った。ラーテンの、守られた研究院の中にいたから、忘れていた。けれど、一歩外に出れば、そこには、魔法という、自分の理解を超えた力が、当たり前に存在している。賊でさえ、それを使う。
怖い、と思った。
でも。
マリーは、前を向いた。
どこへ行っても、同じだ。この街道だけじゃない。次の街にも、その次の街にも、魔法はある。危険は、どこにでもある。それなら、ラーテンに留まろうが、新天地へ行こうが、結局は、同じこと。
だったら、怯えていても、仕方がない。
気を、引き締めよう。
自分にできることを、できる場所で、続けるだけだ。人を救うという、ただ一つの願いを、抱えて。
マリーは、ぐっと、荷物を背負い直した。
まだ、ここは、通過点。
自分の居場所を見つけるまでの、長い旅の、ほんの途中。
水色の瞳に、夕日が、静かに映り込んでいた。




