第二章 第三話 ―――銀の瞳、夜の髪―――
あれから四年が過ぎた。
ラーテンに来たばかりの十四の少女は、十八になっていた。
この四年でマリーを取り巻く景色はすっかり変わっていた。
来た当初、平民だと、魔力がないと、子供だと、田舎者だと侮られたマリーはもうどこにもいなかった。数えきれないほどの患者を診て、幾多の難症例を救い、幾度も死の淵から人を引き戻してきた。高熱に痙攣する子ども、出産で命を落としかけた母親、流行り病に倒れた村ごとの人々——マリーの手はそのすべてに迷いなく差し伸べられた。
いつしか研究院の中で、マリーの言葉に異を唱える者はいなくなっていた。かつて彼女を嘲笑った貴族の子弟たちでさえ、今では難しい症例にぶつかると、こっそりマリーに助言を求めにくるほどだった。年若い身でありながら、マリーは事実上、研究院の医術部門を導く立場になっていた。
リオとの共同研究も実を結んでいた。
毒と解毒。二人が積み上げた研究は、これまで「治療不能」とされてきたいくつもの中毒症状に道を切り開いた。リオの毒への深い造詣と、マリーの臨床の知見が組み合わさったとき、そこには誰も見たことのない医術が生まれた。二人の名は医術を志す者たちの間で、静かに、しかし確かに知られるようになっていた。
そして——『水色の瞳の癒し手』。
その呼び名はもはやラーテンの内だけのものではなかった。近隣の町々はもちろん、商人の口を伝って遠くの土地にまで広がっていた。魔法も使わず、ただその手と知識だけで、貴賤の別なく人を救う娘。その噂は半ば伝説めいた響きすら帯び始めていた。
マリー自身はそうした評判を相変わらず気恥ずかしく思っていた。
自分はただ、目の前の命に向き合っているだけだ。前世で果たせなかった願いを、この世界で一つひとつ叶えているだけ。
けれど、その評判が思わぬ人々を自分のもとへ運んでくることになるとは——このときのマリーはまだ知らなかった。
その日、ラーテンの研究院にけたたましい蹄の音が響いた。
数頭の馬が土埃を上げて中庭に駆け込んでくる。物々しい武装の騎士たちだった。その中央、一頭の馬上で大柄な男が脇腹を押さえ、苦しげに身を傾けていた。
「医者を! 医者はどこだ! 団長が、団長が斬られた!」
騎士の一人が叫んだ。
マリーはちょうど中庭に面した調合室にいた。その声を聞くなり、迷わず飛び出していた。
「こっちへ! 運んでください、平らな場所に!」
騎士たちが大柄な男を抱え下ろした。
燃えるような赤毛の男だった。陽に焼けた肌、長身。鎧の脇腹のあたりが赤黒く濡れている。意識はあるが、顔は脂汗にまみれていた。それでも男は痛みをこらえながら、豪快に笑ってみせた。
「はっ、たかが脇腹をかすられた程度だ。騒ぐな騒ぐな……っつ、いてて」
「かすられた程度の人はそんなに血を流しません。喋らないで」
マリーは即座に鎧を外させ、傷を検めた。脇腹に深い裂傷。賊の刃によるものだろう。幸い、内臓には達していない。だが出血が多く、このまま放置すれば危うい。
「縫合します。リオ、止血と消毒の準備を!」
「もう持ってきてる」
いつの間にかリオが隣にいた。二人はもはや阿吽の呼吸だった。
マリーの手が迷いなく動いた。傷を洗浄し、止血し、清潔な針と糸で丁寧に縫い合わせていく。前世の外科の技術と、この世界で磨いた手技が完璧に噛み合っていた。
赤毛の男——騎士団長はその間、目を見開いてマリーの手元を見ていた。
「あんた……すげえな。痛みがどんどん引いていく。こんな手際のいい治療は、王都の典医でも見たことがねえ」
「黙ってと言いました」
「はは、悪い悪い」
男は痛みの中でも陽気だった。
縫合を終え、薬を塗り、包帯を巻く。一連の処置が終わる頃には、男の顔色はずいぶんと良くなっていた。
「もう大丈夫です。でも数日は安静に。傷が開きます」
「恩に着る! 俺はガウェイン。王国騎士団の団長だ。あんた、名は?」
「マリーです」
「マリー、か。覚えたぞ。命の恩人だ」
ガウェインは白い歯を見せて笑った。屈託のない、太陽のような笑みだった。
マリーもつられて少し微笑んだ。
——この人も攻略対象なのだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。騎士団長。明るい熱血漢。きっとそうだ。でも今は、それを確かめている場合ではなかった。
なぜなら。
中庭の方から新たな足音が近づいてきていたから。
その足音は静かだった。
けれど不思議と、空気を変える足音だった。
ざわついていた騎士たちが、はっと姿勢を正す。誰もが道を空ける。その中央を、一人の人物がゆっくりと歩いてきた。
マリーは顔を上げた。
そして——時間が止まった。
夜のような漆黒の髪。
そして、銀。
冴え冴えとした銀の瞳。
まるで凍った湖の底のような、冷たく、美しく、底知れない色。すっと通った鼻筋、彫りの深い端正な顔立ち。感情の読めない、けれど圧倒的な存在感。漆黒の上質な装いに身を包んだその青年は、まだ二十歳を少し過ぎたほどに見えた。
マリーの心臓が跳ねた。
いや——跳ねた、なんてものではなかった。
全身が凍りついた。呼吸が止まった。指先が震え出した。
その顔をマリーは知っていた。
誰よりも知っていた。
前世で夜ごと画面越しに見つめた顔。何度もルートを繰り返し、その一言一言に泣き、その微笑みに焦がれた、たった一人の——。
アルフレード。
第一王子。王太子。
……マリーの推し。
本物がそこにいた。
二次元の画面の中ではない。手の届かないゲームのキャラクターではない。生きて、呼吸して、地を踏みしめて、今、マリーのすぐ目の前に立っていた。
「殿下!」
ガウェインが起き上がろうとした。
「動くな、ガウェイン」
低い声だった。
その声がマリーの鼓膜をまっすぐに震わせた。
ああ、と思った。
声まで同じだ。あのとき、画面越しに聞いた、低く、静かで、けれど決して冷たいだけではない、あの声と。
「シリルから報告は受けている。賊の討伐の最中、お前が深手を負ったと。——様子を見に来た。それと」
アルフレードの銀の瞳がゆっくりと動いた。
そしてマリーを捉えた。
「お前が噂の『癒し手』か」
マリーの心臓が口から飛び出そうだった。
見られている。あの人に。あのアルフレードに、今、自分が見つめられている。
全身の血が沸騰しそうだった。叫び出したい。泣き出したい。その場に崩れ落ちそうだった。
でも。
マリーは——医師だった。
三十五年分の命の現場で培った理性が、暴れ回る感情を辛うじて押さえ込んだ。今、自分の目の前には治療したばかりの患者がいる。そして、その患者の主君がいる。取り乱すわけにはいかなかった。
マリーは深く息を吸った。
そして震える膝に力を込め、静かに頭を垂れた。
「……はい。マリーと申します。ガウェイン団長の治療をいたしました」
驚くほど落ち着いた声が出た。自分でも信じられないくらいに。
アルフレードはしばらく無言でマリーを見ていた。
その銀の瞳は何の感情も映していないように見えた。冷たく、静かで、ただ観察するように。
マリーは知る由もなかった。
その無表情の下で、アルフレードの心が激しく揺れていたことを。
――シリルからは聞いていた。
ラーテンに奇妙な平民の娘がいる、と。魔力も持たず、後ろ盾もなく、それでいて次々と人を救い、不気味なほど持ち上げられている娘。野心家かもしれない。警戒すべきかもしれない、と。
だからアルフレードは警戒していた。
どうせ、よくいる手合いだろう、と。腕を鼻にかけ、いずれ権力に擦り寄ってくる欲深い人間。そういう者をアルフレードは飽きるほど見てきた。王太子という立場は、人の欲望を嫌というほど引き寄せる。
だから心を閉ざした。
誰も信じない。誰にも心を開かない。それがアルフレードの生き方だった。
なのに。
その娘を一目見た瞬間。
アルフレードの中で何かが音もなく崩れた。
澄んだ水色の瞳。
恐れも、媚びも、欲もない。ただ、まっすぐな瞳。治療を終えたばかりのその横顔。患者を案じる、静かで揺るぎない眼差し。
美しい、と思った。
顔立ちのことではなかった。いや、確かにその娘は息を呑むほど美しかった。けれどアルフレードの心を捉えたのは、そんな表層ではなかった。
その娘の佇まいだった。命に向き合うその姿だった。
王太子の前で誰もが媚びへつらう。あるいは恐れて萎縮する。なのにこの娘は、頭こそ垂れているが、その本質は一歩も引いていない。ただ静かに、自分の為すべきことを為した、その誇りだけがそこにあった。
なんだ、これは。
アルフレードの胸の奥で長い間凍りついていた何かが、ぴしりと音を立てた。
心臓が痛いほど脈打っていた。
こんな感覚は生まれて初めてだった。
——だが。
アルフレードは王太子だった。
二十年あまり感情を隠して生きてきた男だった。その動揺をおくびにも出さなかった。表情ひとつ変えなかった。
「……そうか」
アルフレードはただ、それだけ言った。
ひどく素っ気なく。
「礼を言う。ガウェインは得難い男だ。お前のおかげで助かった」
「いえ。医療従事者として、当然のことをしたまでです」
マリーの返答にアルフレードの銀の瞳が、ほんのわずか——本当にわずかに揺れた。
誰も気づかなかった。
マリーですら気づかなかった。
ただアルフレードだけが、自分の心臓がまた一つ大きく跳ねたことを知っていた。
アルフレードたちが去ったあと。
マリーは自室に戻り、ベッドに突っ伏した。
心臓がまだ痛いくらいに鳴っていた。
会えた。
会えてしまった。
アルフレードに。前世からずっと、ずっと恋していた、あの人に。
マリーは枕に顔を埋めたまま、声にならない声を漏らした。嬉しさと信じられなさと、夢のような心地がぐちゃぐちゃに混ざり合って、胸を締めつけた。
あの銀の瞳。あの黒髪。あの声。
全部、本物だった。全部、あのままだった。
一目見られただけで。
ただ、一目。
それだけでマリーは、泣きたくなるほど幸せだった。
前世で叶わなかった恋。手の届かない画面の向こうの人。それが今、同じ世界で、同じ空気を吸って、同じ地面に立っていた。
「……ばか、みたい」
マリーは自分の頬が熱くなっているのを感じた。十八を過ぎたばかりの少女の身体は、三十五年分の理性ごといとも簡単に恋に染まろうとしていた。
でも。
マリーはゆっくりと身体を起こした。
熱に浮かされた頬を両手でぴしゃりと叩いた。
——だめだ。
マリーは自分に言い聞かせた。
忘れてはいけない。ここはRCFの世界。そして自分は——ヒロインではない。
アルフレードには本来、結ばれるべき相手がいる。ゲームのヒロイン。これから現れるはずの本物の主人公。アルフレードが心を開き、その固く凍った心を溶かし、共に幸せになるべき運命の相手が。
それが物語の正しい筋書きだ。
なのに自分は。
ただの平民で、ヒロインでもないのに攻略対象たちに次々と出会えている。テオに、リオに、シリルに。そして今日、アルフレードにまで。
これはまずい。
マリーの背筋にひやりとしたものが走った。
恋心とは別の不安だった。
——物語がずれ始めている。
本来、ヒロインでもない自分がこんなにも攻略対象たちと関わるはずがなかった。彼らにはそれぞれ、ゲームの中で出会うべき相手がいて、進むべき道があった。なのに自分という「いるはずのなかった存在」が、彼らの近くをうろついている。
もし自分がここにいることで、彼らの運命が少しでもずれてしまったら。
ヒロインと攻略対象が出会うべきときに出会えなかったら。結ばれるべき二人がすれ違ってしまったら。
——自分の知っている、あの幸せな結末が変わってしまうかもしれない。
マリーが愛したのは彼らが幸せになる物語だった。アルフレードがヒロインと結ばれ、凍った心を溶かし、笑顔を取り戻す——あの結末をマリーは心から愛していた。
それを自分が壊してしまうかもしれない。
ただ、そこにいるだけで。
そんなことには耐えられなかった。
マリーはぎゅっと唇を噛んだ。
目立ちすぎた。
この街で自分は有名になりすぎた。「水色の瞳の癒し手」などと呼ばれ、王太子にまで顔を知られて。このままではますます物語の中心に近づいてしまう。
だから——離れよう。
この街を出よう。誰も自分を知らない別の地方へ。そこでひっそりと医療を続けよう。人を救うという自分の願いだけは手放さずに。でも物語の流れからは静かに身を引こう。
それがマリーにできるせめてものことだった。
愛した物語の結末を守るための。
窓の外に夕日が沈んでいく。
茜色の光がマリーの水色の瞳を滲ませた。
「……さよなら」
まだ出会ったばかりの人に、マリーは小さく呟いた。
会えただけで幸せだった。
その思い出をそっと胸の奥にしまって——マリーは次の街へ発つことを静かに決意した。




